小山田茂誠(小山田重誠、おやまだ-しげまさ)は、郡内小山田氏の一族である小山田有誠(小山田弾正有誠)の子として1567年に生まれた。 小山田六左衛門、小山田壱岐守とも称している。 郡内領主の小山田家の一門は複数の分家が存在しており、近年発見された古文書などから、小山田茂誠(おやまだ-しげまさ)はその小山田弾正家の出身であったらしい。 そして、真田昌幸の長女・村松殿(宝寿院)を正室に迎えていたようだ。 1582年、織田信忠が甲斐へと侵攻し、武田勝頼が自刃すると、小山田信茂ら小山田家一族は打首となった。 そのため、小山田茂誠と村松殿は辛うじて甲斐から脱出し、岩櫃城の真田昌幸を頼ったものと推測される。 しかし、真田家で世話になる際、裏切り者とされた小山田信茂の一族であると都合が悪かったようで、小山田茂誠は石田・小山田家と言う、武田信玄・武田勝頼に仕えていた別系統の小山田家の出身であると「自称」し