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大そうじへの備え
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トルフィンの一族は祖父の代にノルウェーからオークニー諸島に渡って同地で一族支配を確立、父シグルド(Sigurd Hlodvirsson,960頃-1014)はスコットランド王マルカム2世(Malcolm II of Scotland,在位1005-34)の娘を妻に迎えオークニー伯に叙された。1014年、クロンターフの戦い(注2)で父が戦死すると、幼かったトルフィンはスコットランド宮廷に逃れて庇護下に置かれた。 成人するとマルカム2世の後見を受けてオークニー伯位を継ぎ、現地を実効支配していた二人の異母兄と争って、1020年、オークニーの有力者トルケル・アムンダソン(Thorkel Amundason)と結び長兄エイナル(Einar Sigurdsson)を滅ぼした。1030年、宗主として君臨していたノルウェー王オーラヴ2世(Olaf II Haraldsson,995頃-1030,在位101
ローマ帝国のブリテン島支配が終わった五世紀頃からアイルランド北部のスコット人がカレドニア地方(現在のスコットランド)へと移住を開始し、九世紀頃までにスコット人と原住民のケルト諸語を話すピクト人やブリトン人、ノース人、デーン人などが混住するようになった(注1)。九世紀半ば頃、スコット人の王ケニス・マカルピン(Kenneth MacAlpin,810-858)の下に統合されたと伝わるが史料が少なくこの頃の経緯は定かではない(注1) (注2)。以後ケニス・マカルピンに始まる王朝はアルバ王国と呼ばれ、後にスコットランド王国へと発展した。 アルバ王国の領土は当初、現在の首都エディンバラやスターリングなどがあるフォース湾沿岸地域を中心にその北部に広がるスペイ川の南にかけての一帯に限られていたが、十世紀から十一世紀初めにかけて徐々に南下して拡大し、マルカム2世(Malcolm II,在位1005-34)
1823年2月15日、オックスフォード大学地質学講義室でパヴィランドの赤い貴婦人等について講義をするウィリアム・バックランド(ナサニール・ウィトック画、メトロポリタン美術館収蔵、パブリックドメイン画像) 「パヴィランドの赤い貴婦人(The Red Lady of Paviland)」は1823年1月、オックスフォード大学地質学教授ウィリアム・バックランド(William Buckland,1784-1856)によって発見された。現地で「山羊の穴(Goat’s Hole)」と呼ばれるこの洞窟からは「ウマ、ウシ、シカ、サイ、さらに、象牙や骨で作られた装飾品をともなう人骨の一部が発見」(注2)され、人骨と象牙製の杖とリング、貝殻などの装飾品は埋葬地の赤土の地層により赤く染まっていた。 ウィリアム・バックランドは最初期に発見された恐竜メガロサウルスの化石の発見・命名者としても知られる考古学・古生物
分析された八~九世紀頃のアングロ・サクソン人少女の頭蓋骨。 © Garrard Cole, Antiquity Publications Ltd., 2020
このようなローマ時代への憧憬からクレティアン・ド・トロワがカムルス神あるいはカムロドゥヌムをもじってキャメロットと名付けたといわれる。ただし、コルチェスターとカムロドゥヌムとが結びつけて理解されるようになるのは十八世紀のことで(注1)、キャメロットの名が登場する十二~十三世紀にカムルス神/カムロドゥヌムがどれだけ知名度があったかは大いに疑問があり、カムルス/カムロドゥヌム語源説はあくまで説の一つに留まる。 また、キャメロットの名の初出である「ランスロまたは荷車の騎士」の著者クレティアン・ド・トロワがアーサー王最後の戦いである「カムランの戦い」の地名を改作して名付けたとする説の他、ウェールズ語の「カンボランダ(cambolanda:円形の囲い地の意)」や「カンボグランナ(camboglanna:湾曲した岸、または囲い地)」などに関連付ける説や、「カムランの戦い」の舞台となったとみられるコーン
「モスル・ダム沿岸壁画が発見された部屋の調査写真」 テュービンゲン大学プレスリリースより/© University of Tübingen
「Call of History - 歴史の呼び声 -」主宰者。世界史全般、主に中世英仏関係史や近世の欧州・日本の社会史に興味があります。
イングランド南東部バークシャーにあるテムズ川中流域の町マーロウの丘陵地で六世紀頃のアングロ・サクソン人有力者の墓が発見された。調査にあたったレディング大学がプレスリリースで発表し、The Gurdian他各紙で報じられている。 発見された墓には装飾された鞘と鉄製の剣、および青銅製のボウルやガラス製の容器、衣類の金具、槍の穂先など多くの副葬品とともに身長6フィート(約1.8メートル)の男性の遺骨が埋まっていた。Live Scienceによると、当時のイングランドの男性の平均的な身長が5.7フィート(約1.7メートル)であったといい、平均的な身長よりかなり高い。研究者はこの遺骨の人物を発見された地名にちなんで「マーロウ・ウォーロード(Marlow Warlord,注1)」と呼んでいる。
クロ・リュセ城が建つ一帯は十三世紀以降アンボワーズ家の領地となり、家臣らに与えられたのち、アンボワーズから五キロメートルほど離れたロワール川の上流の町リムレイ(Limeray)を拠点とするシトー派のモンス修道院(Abbaye de Moncé)の管理下となり、修道女たちの居館が建てられた。 1471年、モンス修道院からフランス王ルイ11世の側近を務めたアンボワーズ家の重臣エティエンヌ・ル・ルー(Étienne le Loup)に売却され、ル・ルーによって新たに城が築かれ、「クルー館(Manoir du Cloux)」と呼ばれた。1490年、フランス王シャルル8世(在位1483-98)は王家の夏の王宮とするためエティエンヌ・ル・ルーから城を買い取って増改築を行い現在の姿となる。 シャルル8世は新王妃ブルターニュ女公アンヌ(Anne de Bretagne)が王宮であるブロワ城へ行くまでの間こ
カーナーヴォン城はアングルシー島を対岸に臨むメナイ海峡に面したサイオント川河口に建てられているが、この地に最初に城が建てられたのは西暦77年または78年、北ウェールズを征服したローマの将軍グナエウス・ユリウス・アグリコラによって築かれたセゴンティウム(Segontium)要塞にさかのぼる。セゴンティウム要塞を経由してカーリオンとチェスターを繋ぐ街道(ウェールズでは「ヘレンの道」と呼ばれた、注2)も整備され、交通の要衝として発展する。 後にウェールズ語でカエル・サイオント(Cair Seiont)と呼ばれ、ラテン語” Cair Segeint”の名で830年頃成立の「ブリトン人の歴史(Historia Brittonum)」にブリタニアの主要都市の一つとして挙げられている(注3)。 1066年、イングランドを征服したウィリアム1世は北ウェールズにも進出し、ウィリアム1世死後ウィリアム2世時代
エディンバラ城(Edinburgh Castle)はスコットランドの首都エディンバラ市にある中世の城。スコットランド王歴代の居城であり天然の要害に立つ堅固な要塞である。「翼の生えた岩の城」「乙女の城」(注1)とも呼ばれ、「英国史上最も包囲を受けた城」と評される(注2)。ユネスコ世界文化遺産「エディンバラの旧市街と新市街(Old and New Towns of Edinburgh)」を構成する建造物の一つ。 城が建つ岩山「キャッスル・ロック」は古くから砦として利用されていたが、エディンバラ城の築城は十一世紀頃とみられている。1130年頃に建てられた城内の「聖マーガレット教会堂」を除くと、現存する城の古い部分は1430年頃から1588年頃にかけて築かれたものが中心である。 エディンバラ城(Edinburgh Castle) © Ronnie Macdonald from Chelmsford
十二世紀のアイルランドは諸王国がアイルランドの支配権をかけて争う戦国時代となっていた。アイルランド北西部(北イー・ネール)を支配するマク・ロフリンが宗主権を持つアイルランド上王(High King)として、アイルランド東部を支配するレンスター王ダーモット・マクマロー(英語”Dermod MacMurrough”, アイルランド語” Diarmaid mac Murchadha”)と同盟して最大勢力となっていたが、1166年、アイルランド西部を支配するコナハト王が新たにアイルランド上王に就くと諸勢力を束ねて仇敵レンスター王国へ侵攻する。1167年、王位を追われたダーモット・マクマローはイングランド王ヘンリ2世(在位1154-1189)に助力を請うた。 時のイングランド王ヘンリ2世は元々フランス中西部の有力諸侯アンジュー伯家出身で、婚姻関係や戦争を通じてノルマンディー、アンジュー、ブルターニュ
10年がかりの大規模調査で初版本が倍増今回の調査は約10年前、論文の共同執筆者でマンハイム大学(ドイツ)経済学部の博士研究員(postdoctoral researcher)であるアンドレイ・スヴォレンチーク( Andrej Svorenčík)博士がカリフォルニア工科大学でフェインゴールド博士の科学史の学生だったときの学期論文(term paper)から始まった。 スロバキア出身のスヴォレンチーク氏は当時の学期論文で、中央ヨーロッパ、特にハプスブルク帝国における『プリンシピア』の分布について書いたが、その主題は初版本が自分の出身国まで辿ることができるかどうかということだった。「1950年代の調査では、スロバキア、チェコ共和国、ポーランド、ハンガリーからの出版物は見当たらなかった」が多くの初版本を発見することになった。1950年代は冷戦期であり中東欧での調査に限界があったためだ。 そこで指
スコットランド、テヴィオット川のアンクラム古橋の遺構 © Historic Environment Scotland / Ancrum and District Heritage Society スコットランド南部スコティッシュ・ボーダーズを流れるツイード川(River Tweed)の支流テヴィオット川(River Teviot)で、歴史上戦略的・経済的要衝として知られた中世の橋「アンクラム古橋(Ancrum Old Bridge)」の遺構が初めて発見された。 スコットランド政府公共部門「スコットランド歴史環境協会(Historic Environment Scotland, HES)」からの資金提供を受けた「アンクラムおよび地区遺産協会(Ancrum and District Heritage Society, ADHS)」が、年輪年代調査コンサルティング会社「デンドロクロニクル社(De
大英図書館(British Library)は、十六世紀から1824年の間に作成された4万点におよぶ地図・図像資料コレクションのうち第一弾として18,000点をパブリックドメインとして公開したことを発表した。 “Hemisphaerium Coeli Australe (Boreale), in quo loca Stellarum fixarum secundum Æquatorem, per ascenciones ad annum 1730 completum, sistuntur, a J.G. Doppelmaiėro; operâ J.B. Homanni.” / Maps K.Top.1.62. 今回公開された資料は英国王ジョージ3世(1738-1820)治世下でまとめられた「王の地形学コレクション” The King’s Topographical Collection
「オーディンのイラスト」(ラディック・ピーチ画、”Murray, Alexander (1874). Manual of Mythology “、パブリックドメイン画像) ノルウェーで八世紀頃の北欧神話の神々を祀った神殿「神の家(ノルウェー語” gudehov ” , 英語”godhouse”)」が発見された。調査にあたったベルゲン大学博物館(ノルウェー語”Universitetsmuseet i Bergen” , 英語”University Museum of Bergen”)によると、ノルウェーで発見された同様の神殿としては最古の例となるという。 ノルウェー西部の主要都市オシュタ(Ørsta)に近いオーサ(Ose)村で宅地開発の準備のための発掘調査を行ったところ、約2000~2500年前の農村の跡と八世紀頃の神殿の遺構が発見された。遺構は、長さ約45フィート(14メートル)、幅26フ
イングランド南部ドーセット州にあるシャフツベリー修道院(Shaftesbury Abbey)跡を調査していた考古学者のチームが十四世紀頃の石像の頭部を発見した。イングランド王エドワード2世(在位1307-1327年)のものではないかと見られている。 シャフツベリー修道院は888年、アルフレッド大王の名で知られるウェセックス王アルフレッドによって女性のための修道院として創建され、王女の一人エゼルイヴが初代修道院長となった。以後、ウェストミンスター寺院と並ぶイングランド屈指のキリスト教施設として繁栄したが、1539年、宗教改革を進めるイングランド王ヘンリ8世の命で解散・破壊された。 考古学者ジュリアン・リチャーズ氏が率いる発掘チームは2019年夏からシャフツベリー修道院跡の発掘調査を行い、同修道院の構造を明らかにした他、中世の床タイルやコイン、修道女のロザリオの一部だったとみられる黒色ビーズな
イングランド南東部バークシャーにあるテムズ川中流域の町マーロウの丘陵地で六世紀頃のアングロ・サクソン人有力者の墓が発見された。調査にあたったレディング大学がプレスリリースで発表し、The Gurdian他各紙で報じられている。 発見された墓には装飾された鞘と鉄製の剣、および青銅製のボウルやガラス製の容器、衣類の金具、槍の穂先など多くの副葬品とともに身長6フィート(約1.8メートル)の男性の遺骨が埋まっていた。Live Scienceによると、当時のイングランドの男性の平均的な身長が5.7フィート(約1.7メートル)であったといい、平均的な身長よりかなり高い。研究者はこの遺骨の人物を発見された地名にちなんで「マーロウ・ウォーロード(Marlow Warlord,注1)」と呼んでいる。 調査にあたったレディング大学のガボール・トーマス博士は「この男は、当時の他の男性に比べて背が高くがっしりして
中世アイルランド文学の重要な写本の一つである「リズモアの書」が、現在の持ち主である英国の貴族デヴォンシャー公爵からアイルランドの国立大学ユニバーシティ・カレッジ・コーク(University College Cork, UCC)へ寄贈された。1640年代に戦争で持ち去られて以来、約380年ぶりの返還となる。 「リズモアの書(英語” Book of Lismore “, アイルランド語” Leabhar Leasa Móir “)」は中世のアイルランド南部マンスター地方で最大の領主であったカーベリー領主(Lord of Carbery)の第十代当主フィンギン・マッカーシー・リーク(” Finghin MacCarthy Reagh” , 1478-1505)のために編纂されたゲール(アイルランド)語写本である。 リズモアの書に収録されている物語はアイルランドの聖人たちと関連する黙示録の物語、
イングランド南東部、ロンドンとオックスフォードの間にあるバッキンガムシャー州の村ストーク・マンデヴィルの中世の教会跡で石材に刻まれた悪霊を祓うためのものとみられる「魔女の印(‘witches’ marks)」と呼ばれる文様が見つかった。 イングランドを縦断してヨーロッパ大陸と直結させる高速鉄道”High Speed 2(HS2)” 敷設計画のルートに予定されているストーク・マンデヴィル村にある中世の教会「聖メアリ教会」の跡地で考古学者らによる工事準備のための発掘調査が行われた。 ストーク・マンデヴィル村の聖メアリ教会はノルマン・コンクエスト直後の1070年頃に作られた礼拝堂に始まり、その後増築され、1340年代には回廊も追加された。初期は現地の荘園領主家のための礼拝堂だったが、後に村人のための教会として解放された。1866年、近くに新たな教会が建てられたことで、それまでの教会は取り壊された
分析された八~九世紀頃のアングロ・サクソン人少女の頭蓋骨。 © Garrard Cole, Antiquity Publications Ltd., 2020 イングランド南部で1960年代に発見された八~九世紀頃のアングロ・サクソン系の人骨を調査していた考古学者たちが、アングロ・サクソン時代の法典類に記載されている皮剥ぎ・鼻削ぎ刑の古い例となる痕跡を発見した。CNNが報じている他、詳しくは、調査にあたったユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(University College London, UCL)考古学研究所(Institute of Archaeology)のギャラード・コール(Garrard Cole)氏らがジャーナル” Antiquity”で調査結果についてサマリーを公開している。 Garrard Cole, Peter W. Ditchfield, Katharina Du
中世ヨーロッパで十字軍運動の一環として行われたと伝わる少年十字軍の逸話をモティーフにして少年たちの残酷な運命を描いた歴史漫画の傑作の一つです。 「少年十字軍」は1212年、北フランスの都市ヴァンドームに近いクロイス・シュル・ル・ロワールに住む羊飼いの少年エティエンヌが神の啓示を受けて多くの少年少女を引き連れて聖地奪還に向かったが、マルセイユで奴隷商人に売られ、ことごとく悲劇的な最期を遂げたという逸話です。同時期にドイツでニコラスという少年が率いた少年十字軍もあったがやはり同様の結末であったと言われます。 この「少年十字軍」について、現在の研究では事実であったとは考えられておらず、少年少女に留まらず老若男女多くの民衆による大規模な移住、あるいは民衆たちによる聖地エルサレムを目指した巡礼のような民衆十字軍の一種であったと見られています。語り継がれるうちに「純粋無垢な子供たちの悲劇」という伝承に
フィレンツェ、ヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサ、ミラノ――地中海貿易によって膨大な富を蓄積し、やがてルネサンス文化が花開く中世イタリアの諸都市はどのようにして生まれ、どのような政治体制を築いたのか?テーマごとにコンパクトなサイズで概説した山川出版社の世界史リブレットシリーズの一冊として、「イタリアの中世都市」について主にフィレンツェ、ヴェネツィア、ジェノヴァを中心に重要論点がわかりやすくまとまっている。 イタリア半島では西ローマ帝国の崩壊後、ゲルマン人の侵攻による諸王国の林立を経て、東ローマ(ビザンツ)帝国、フランク帝国などの強力な王権による支配体制が確立したものの、十世紀頃までにその支配も相次いで衰退していった。イタリア南部ではノルマン人による王権(ナポリ王国)が成立した一方、中北部イタリアでは上級権力の不在によって各都市が自治組織(コムーネ)を結成して自立していった。 面白いのはコムーネ
17世紀イギリス政府はスペインとの対抗上、民間船に海賊行為を許可。 その乗組員ダンピアは博識かつ好奇心旺盛!航海で出会う未知の文化、 未知の動植物、そして未知の食を好んだという。この人物は実在した… ウィリアム・ダンピアは若いころから船員としての経験を積み、1679年、ジャマイカ植民地へ渡って私掠船の船員となり、1715年に亡くなるまで生涯三度の世界周航を達成した人物です。1697年に、1679年から91年まで12年の航海記録「最新世界周航記」を出版してベストセラーになり、同書で描かれた各地の動植物や現地民の風俗と様々な発見は後世の博物学・自然科学の発展に少なからぬ影響を与えました。 ダンピアの著書「最新世界周航記」は岩波文庫から上下巻で日本語訳が出版されていて、生の体験が鮮やかに描かれているので一緒に読むとより楽しめると思います。同書の翻訳を行った平野敬一氏はダンピアの姿勢について『右す
英国史上有名な「海賊」というと誰が思い浮かぶだろうか?アルマダの海戦を戦ったジョン・ホーキンズやフランシス・ドレイク、財宝伝説で知られるキャプテン・キッドことウィリアム・キッド、大海賊バーソロミュー・ロバーツや黒髭エドワード・ティーチ、女海賊アン・ボニーとメアリ・リードなど、冒険活劇の主人公として描かれることも多い名前が挙がるかもしれない。しかし、上記で挙げた中には実は「海賊」とは呼べない人物もいる。ジョン・ホーキンズやフランシス・ドレイクなどは「私掠」船の船長であった。では「海賊」と「私掠」はどう違うのだろうか。 海上での掠奪行為を行うのが海賊だが、海上での掠奪行為を行うものがすべて海賊であったわけではない。中近世ヨーロッパでは掠奪は経済行為と結びついて商人や農民などから王侯貴族に至るまで掠奪行為は一般的に行われていた。近世になって掠奪に関する法整備が始まり、合法な掠奪と非合法な掠奪への
1419年、貧困から母を亡くして娼婦となった特徴的な赤い瞳を持った少女ヴィクトルカは、ほどなくして母の死因と同じ病に罹ったことで人生に絶望します。そのころ、プラハの街で起きたフス派の民衆がプラハ市役人を市庁舎から投げ出した「プラハ窓外放出事件」に遭遇した彼女はフス派の暴動に参加、死を恐れぬ戦いぶりで知られるようになるという内容です。 激しく教会批判を行ったプラハ大学の神学者ヤン・フスが異端判決を受けて処刑されたことを契機としてフスの処刑に反発する人々がフス派を形成し、やがて武力闘争へと至るのがフス戦争ですが、これには教会の腐敗が目に見えて明らかであったことが大きな要因としてあります。神聖ローマ皇帝カレル4世(カール4世)の教会優遇政策による特権を背景に聖職者たちが富をため込むだけでなく、人々から何かにつけて金品を奪い、互いに争う姿に対する人々の不満が限界に達したところに、フスが厳しい批判を
ジャンヌ・ダルクは世界史上屈指の有名人だ。現在、我々が知るジャンヌ・ダルクの事績は同時代の書簡や文書、関係者の日記、歴史家の記録類とジャンヌ・ダルクの異端審問記録の彼女の証言などを除くと、大半は1455~56年に行われたジャンヌ・ダルクの異端判決取り消しを目的とした復権裁判での関係者の証言に基づいている。我々が良く知るジャンヌ・ダルク像はジャンヌ・ダルクと同時代を生きた人々の、いわば「思い出」として語られた姿である。 本作「ジャンヌ」はジャンヌ・ダルクの死から9年が経った1440年初頭に物語が始まる。かつてジャンヌ・ダルクを送り出したロレーヌ地方ヴォークルール城主ロベール・ド・ボードリクールに男子エミールとして育てられた17歳の少女エミリーが、当時勃発していた諸侯反乱「プラグリーの乱」で国王シャルル7世派として参戦を決意する。エミールは幼い日、ジャンヌ・ダルクと出会った思い出を胸にシャルル
神話・伝承「アーサー王の紋章」(十六世紀)/ "Armoiries du roi Arthur. Détail du folio 3 recto du manuscrit français 5233 de la BnF. D'azur à trois couronnes d'or disposées en pal." 古くからアーサー王は青い色の衣服を身に着けて描かれることが多かった。最近でも、人気のFateシリーズでアーサー王をモチーフにしたキャラクターであるセイバーことアルトリア・ペンドラゴンが青色を基調とした衣装で描かれているため、多くの人に青色のアーサー王は馴染みが深いだろう。アーサー王と青色は伝統的な組み合わせであった。アーサー王が青色の衣装を身にまとって描かれるようになるのは十三世紀のことで、これはヨーロッパにおける青色の地位の向上と流行を背景としている。
「ロンゴミニアド(”Rhongomyniad”,またはフロンゴマニアド、ロンゴミニアト、あるいは“Rhongomiant”ロンゴミアントなど)の槍」はアーサー王の武器として知られる槍。名前はウェールズ語で”Rhon”(槍)と”gomyniad”(「なぎ倒す」または「打ち手」の意味)の複合語(注1)である。 ウェールズ伝承の槍ロンゴミニアドウェールズ伝承集「マビノギオン」に収録されている最初期のアーサー王物語「キルフーフ(キルッフ)とオルウェン」(1100年頃)で、他のアルスル(アーサー王)の宝物とともに名前が挙げられているのが初出である。 「キルフーフとオルウェン」は継母の呪いにより巨人の姫オルウェンを妻にせねばならなくなった青年キルフーフが親族であるアルスルへ助力を求め、カイやベドウィールらアルスル戦士団とともにオルウェン捜索の冒険に出る物語である。助力を請うキルフーフに対しアルスルは自
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