トンデモ団体・エセ科学団体のスピーディーな見分け方を教えてくれ
http://anond.hatelabo.jp/20140105170210
これは意外と複雑な問題かもしれない。ブックマークコメントに「トンデモとは言え法に触れるわけでもない団体に会議室を貸さないというのはいかがなものか」といった意見が散見される。私も同意見である。しかしながら、実際には、「都内で複数の会議室・イベントホールを運営している会社の社員」さんが危惧しているように、被害者から責められかねないというのも事実である。
いつだったか、どこぞの市民センターがホメオパシー講座を開いていることに対して、かなり批判が集中した事例があったように記憶している。講座を主催しているのはホメオパシー団体で市民センターは場所を貸しているだけであったが、「それでも公的な性格を持つ市民センターが安易にインチキ治療団体に会議室を貸すのはけしからん」という意見が主であった(と思う)。一見しただけでは市民センターがホメオパシーを公認しているように見えるので、こうした批判的な意見には一理ある。
市民センターという公的な施設と(一部上場とは言え)民間企業の違いはあるものの、共通する問題点はある。どこから線を引くのか?誰が線を引いたとしても異論は生じるだろう。厳しく線を引いたときにマイノリティの団体が差別的な扱いをされないと言えようか?(あるいは「差別的な扱いをされた」と責められないと言えようか?)それとも緩く線を引いてホメオパシー団体に会議室を貸すのを容認するか?
「都内で複数の会議室・イベントホールを運営している会社の社員」さんが直面している問題は複雑である。「素早く、とある団体が、トンデモ団体なのか、否か、を判別する」方法は残念ながら存在しないという結論になりそうであるが、社員さんの問題提起に感謝するとともに、社員さんの問題が(素早く簡潔にとはいかないまでも)解決に向かうことを願うものである。少なくとも会議室を貸す側の立場も配慮して、「トンデモ団体を見抜けなかった」「トンデモ団体に会議室を貸しやがって」という批判をしないように、自戒したい。
いつも彼女がどんなネックレスをしていたか全く覚えていない。。
彼女がいつもつけてるやつと俺の選んだプレゼントが万一丸かぶりしたら
気まずさマックスだな。。
数値とか求めて納得しようというのがわからん。
ここで執拗に聞くのがわからん。同じような質問は増田をみてれば
日に一度は出てくるし、それを見れば十分わかるだろ・・・
アスペかよ
昔、欧州では強者も弱者も同じキリスト教徒でありながら、行使できる権利権限に差があった。
なんやかんやあって弱者たる自分と強者たる宗教的権威との差分、強者が多く持っていたものを否定するという世俗化が行なわれる。
結果、欧州での世俗化した社会=他者に宗教的権威を行使しない"キリスト教徒たちの社会"となる。
でも、非キリスト教との差分をとると、宗教的権威のみならず宗教の世界観に基づいてもたらされる倫理や道徳まで差分として現れる。
もともと自分のコントロールが甘かったので環境によって鍛えられた印象がある。
この頃はもう運とかタイミングとか不確定要素が多すぎて
年収250万程度の職なら選ばなきゃあるだろ、いくらでも。
そんな羨ましいならお前も起業すりゃいいだろ。
子供もいるし、育休もとった。
世帯年収は育休の間だけは下がったが、
その世帯年収なら全く問題ないと思われるのだが。
小学校に入った頃からよく死にたいと思っていた。中学校、高校、大学、社会人になっても同じだった。どこかで聞いた「人生は辛いもの」という言葉を反芻しながら生きてきた。特に誰かにいじめられたこともなく、誰かをいじめたこともない。誰かが求めることをこなし、誰かが求める関係を維持し、それだけで生きてきた。ずっと疲れていて、ずっと眠いと思っていた。眠ること以外は何も求めずに生きてきた。幸せを感じたことはなかった。
好きな人と一緒にいるときは幸せだったかもしれない。でもそれは距離があるときだけだった。仲良くなり、長く一緒にいたいと言われると体中が拒否した。心の中の何かが強烈に拒否した。好きな人と長く一緒にいることは幸せなことではない。徐々にそう思うようになった。だから、仲良くなろうとしてきた相手を全て拒否して生きてきた。友達も好きな人も。
理由があるとすれば両親だろう。物心ついた頃から仲が悪かった。ずっと喧嘩をしていた。毎日のように横暴な父親と戦う母親を見て育った。父親と普通に話しているように見えたその直後に、裏で父親をボロクソに言う母親。酒を飲んで子供を聞き役にして支離滅裂な会話を楽しむ父親。突然理不尽なことでキレる父親。常に不安定だった。それが普通の家族だと思っていた。普通の人間だと思っていた。ずっと見てきたその光景が、心の中に刻み込まれているのだと思う。そうじゃない人もいるはずだと分かっていても、刻み込まれたそれは消えない。
おそらく幸せとは、人から受け取るものなのだと思う。好きな人と一緒にいるとき、短時間でも感じられた幸せは、確かに幸せだった。あれを素直に受け取れたらいいが、心の中の何かが拒否する。だからそれ以上は近付けない。何度か近付こうとしてみたが、嫌いな食べ物を美味しいと思えないように、それを幸せと思うことはできなかった。
眠ることだけを求めて生きてきた。何も考えたくない、何もしたくない。それだけが望みだった。今も変わらない。変えたいけど、変わらない。