龍馬伝とは、2010年に放送された第49作目の大河ドラマである。
脚本・監督は福田靖。2004年「新選組!」以来のNHKの完全オリジナル作品である。
(翌年の「江〜姫たちの戦国〜」もオリジナル作品)
岩崎弥太郎の過去の回想という視点から、幕末に生きた坂本龍馬を描く。
そのため実質、主役は坂本龍馬と岩崎弥太郎の二人となっている。
(無論、龍馬の方が出番が多い)
主演の坂本龍馬を演じるのは、福山雅治。
なお福山はこのドラマにおいてカツラを付けておらず、地毛で出演している。
当の坂本龍馬本人も、福山の髪型同様、縮れ毛であったと言われる。
もう一人の主役ともいえる岩崎弥太郎を演じるのは、香川照之。
「春日局」(小早川秀秋役)「葵徳川三代」(宇喜多秀家役)「利家とまつ」(豊臣秀吉役)「功名が辻」(六平太役)などの大河ドラマに携わった経歴を持つ。
なお、正岡子規役で出演した「坂の上の雲」第一部が終わった翌週に、龍馬伝に出たので正岡子規と岩崎弥太郎が混同するという事態も起きた。
さらに、龍馬伝最終回の翌週には「坂の上の雲」第二部で再び子規役に戻って出演したため、またしてもごっちゃになったことは言うまでもない。
あまりに貧窮し汚れた岩崎弥太郎の容姿のために、三菱グループ各社から「汚すぎる」とNHKにクレームが来た。
明治15年(1882年)、郵便汽船三菱社長、岩崎弥太郎は、主催する宴会の席上で自らの半生を振り返るスピーチをしていた。語り終えた直後取り押さえられた暴漢を一喝し立ち去ろうとする弥太郎の前に土陽新聞の記者、坂崎紫瀾が声を掛ける。
坂崎「坂本龍馬という名前をご存知ですか?」
岩崎「・・・おんし、龍馬を調べて、どうするがぜよ」
坂崎「僕が聞いた話がほんとやったら、大変な人物やないですか。けんど、こんなひとがおったと、今は誰も知らん
がです。教えてください岩崎社長。坂本龍馬とは、いったい、どんな人物であったがですか?」
岩崎「・・・龍馬はのう、わしがこの世で一番嫌いな男だった。あんな能天気で、自分勝手で、人たらしで、女子(おなご)に好かれて、あればぁ腹の立つ男はどこにもおらんとじゃき!」
龍馬伝前半の主要舞台となる土佐藩(土佐国)は、戦国期から安土桃山時代にかけて長宗我部氏の領土であった。
しかし時の領主、長宗我部盛親は関が原の戦いにおいて西軍についたため、徳川家康により改易(全領地没収)となってしまった。
そして代わりに土佐国主となったのは、4作前(大河ドラマ「功名が辻」)の主人公である山内一豊であった。
しかし、一領具足(長宗我部氏の遺臣団)は度々反乱を起こした。山内氏はこれを鎮圧。浦戸一揆においては反乱兵を全員斬首するという強硬策に出た。
そして長宗我部遺臣団を郷士(下位の身分の者)、旧来からの山内氏家臣団を上士に区分。
これは江戸時代を通して明治維新まで受け継がれた身分制度であった。
しかし龍馬伝の作中では家格を大きく分け「上士」と「下士」と呼んでいる。
これは上士以外の身分の者は、「郷士」のほか「白札」(郷士の家系のうち功績のあった当主のみを上士待遇にする)「地下浪人」(土佐郷士の株(身分)を売却したものの、未だに藩内に居座っている浪人)など様々な身分が存在するため、その総称として「下士」という名称をつくったと思われる。
第1話において、龍馬や弥太郎が上士にぶつかったため上士やその子息により無礼打ち(殺害)にされかけるシーンが存在するが、これはオーバーな描写である。
身分差別はあったものの理由の無い、ないし軽度の理由の「切捨て」は、江戸時代中期より幕領や各藩においては御法度であった。最悪、切腹も許されず斬首刑になるケースもあった。
また坂本家は、元が豪商(屋号は才谷屋)でありながら郷士になったというとても裕福な家系だったので、相当な額の大金を上士たちに貸し付けていた。そこの次男坊を些細な理由で殺害でもしようものなら、奉行による判断では、士道倫理に背き切腹・一家お取り潰しになりかねない大沙汰であった。
なお、第11話で下士・池田寅之進が弟を上士に斬殺され、上士に対して仇討ちを行い、上士と下士が内乱状態寸前まで至ったのは事実である。(井口村刃傷事件)
若い頃絶対に会ったことがないと断定はできないが、確認できる史料がないため初対面は慶応3年(1867年)4月頃の長崎と思われる。なお、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」でも龍馬と弥太郎は若い頃から交流があるが、本作の龍馬は弥太郎を嫌悪している。
武市半平太は岡田以蔵に毒を渡して自殺をすすめたか
実際には以蔵の親族に対して服毒させるための許可を得ようとしたが拒絶されたため実行はしていない。武市から毒殺されそうになったことを悟った以蔵が自白したという話があるが、小説などの創作にしか出て来ない話(維新土佐勤王史にもあるが史料と比較した結果信憑性が低いことを郷土史家の横田達雄が指摘している)であり、実際には土佐に送還されてすぐに自白している。自白した時点で死罪は免れず、関係者に累が及ぶことを恐れた武市が自殺をすすめようとしたのが事実。また以蔵にのみ特に死を求めたわけではなく、実弟の田内衛吉に対しても毒を渡しており、拷問に耐えられず自白した田内は服毒自殺している。
坂本龍馬は武市半平太の身代わりになろうとしたのか
ドラマでは土佐に戻って後藤象二郎に啖呵を切っているが、操練所を出てからの龍馬は江戸に行って軍艦の買い付け交渉を行っている。その後京都に赴き鹿児島に渡っている。土佐に戻るのは慶応3年(1867年)8月と9月の二度。
武市半平太は自白したのか
最期まで自白はしていない。三文字の切腹は事実。なお武市の命日は慶応元年(1865年)閏5月11日で、その時期龍馬は下関に滞在して西郷の到着を待っている。
坂本龍馬と操練所のメンバーは薩摩に渡っていないのか
勝海舟の斡旋で鹿児島に渡っている(龍馬だけはひと足遅れ)。この時鹿児島に渡った人々が亀山社中結成時のメンバーになる。
長崎で高杉晋作に面会したのか
3部になってから時系列がテロップで出て来ないため何年何月なのか不明だが、伊藤俊輔と井上聞多が武器調達のため長崎に来たのは慶応元年(1865年)の7月20日頃。高杉は同行していない。
薩摩藩は幕府に追い詰められていたのか
実際には薩摩の政治工作で阿部正外・本庄宗秀の2老中が兵を率いて京都を制圧しようとしたのを阻止し、逆に将軍を再度上京させるように仕向けるなど、むしろ幕府側が苦慮している。また慶応元年(1865年)9月には長州再征が決定されたが、大久保利通は「非義の勅命は勅命ではない」と批判して協力を拒んだ。薩摩を始め全国諸藩の大半は長州再征に反対だったが、幕府は旧来のごとく強引に決定して諸藩を政治から遠ざけようとしたため、西郷隆盛ら薩摩首脳達は幕府との協調路線は不可能と判断して長州との関係修復を模索していた。
近藤長次郎の死について
近藤長次郎が死んだのは通説では慶応2年(1866年)の1月14日だったが、薩摩藩士の日記には23日死去、墓のある寺の過去帳には24日死去と記載があることが発見されており、23日説、24日説が有力。なおこの時期龍馬は京都に滞在し、鹿児島に出発するのが2月末頃のため近藤の葬儀には立ち会っていない。→関連サイト
行っていない。
ない。
お龍本人曰く元治元年(1864年)8月に金蔵寺という寺で住職を仲人に内祝言を上げている。またお龍自身は語っていないが、慶応2年(1866年)の薩摩藩邸潜伏中に式を挙げて内縁関係から正式な夫婦になったという話もあるが真偽不明。因みに寺田屋で遭難した際に逃げ込んだのは伏見の薩摩藩邸だが、1月末頃に京都の薩摩藩邸に移動している(伏見は洛中ではない)。
龍馬は内戦を起こさないために薩長同盟を締結させようとしたのか
木戸が書いた箇条書きには「内戦を起こさないため」と言った文言はなく、長州に対する支援や復権のための協力に重点が置かれている。幕府の攻撃が始まればすぐ行動を起こす事が取り決められており、国内戦を起こさない事が目的ではない。龍馬も第二次長州征伐開始後、高杉晋作の要請を受けて小倉口での海戦に参加している(参戦していないという説もある)。
大政奉還について
作中では木戸から大政奉還という策について初めて聞かされた事になっているが、史実では文久3年(1863年)の4月初め頃、幕臣の大久保一翁と面会の際に聞いた耳学問だったと思われる。記録上龍馬が最初に大政奉還について語ったのは慶応2年(1866年)8月頃の福井藩士下山尚との面会時である。
清風亭会談について
龍馬と後藤の記録上初対面となるこの会談は日時が確定されておらず、慶応3年(1867年)の1月末から2月の初め頃と推定されている。清風亭での会談というのも千頭清臣の『坂本龍馬』(大正3年)が初出で、以降定説化したが確定はしていない。作中では弥太郎が引きあわせたようになっているが、実際に引きあわせたのは溝渕広之丞である。また弥太郎が長崎に着任したのは慶応3年の3月頃のため、日時も一致しない。
高杉「不戦?ナニソレ美味しいの?(^Д^)
っていうか幕府ブッ滅ぼすぞヽ(`Д´) ノ」
なお、1977年の大河ドラマ「花神」の高杉(演:中村雅俊)はバリバリの主戦論者であった。
いろは丸事件について
作中では紀州藩側に全面的な過失があるかのように描かれているが、実は海援隊側にも過失があるのではないかとも言われている。いろは丸側の照明が点いていなかったという指摘がそれで、もし照明が点いてなかった事が事実であればいろは丸側にも本来は過失責任が問われることになる。また平成17年の海底調査では積荷として主張していた金や小銃400挺は全く見つからなかった。この事から龍馬らが紀州藩に当たり屋のようなフッカケをしたとも取られる。
船中八策について
作中では龍馬本人が書いているが、通説によると龍馬が海援隊士の長岡謙吉に起草させた事になっている。
通説では船中八策は慶応3年(1867年)6月15日、長崎から兵庫に向かう洋上で龍馬が海援隊士の長岡謙吉に起草させ、後藤に示したものとされている。だがこの船中八策は目下原本が確認されておらず、確認されている初出は『維新土佐勤王史』の元になった諸家伝の1つである毛筆本の『坂本龍馬伝』とされる。『坂本龍馬伝』の初稿は明治31年頃の事で、現時点で確認されているものとしては最も古い。これが初めて活字化されたのは大正元年の『維新土佐勤王史』で、以後千頭清臣の『坂本龍馬』(大正3年)や、岩崎鏡川編『坂本龍馬関係文書』(大正15年)などに「所謂八策なるもの」として紹介され始めた。その後年を経ていつからか「船中八策」と呼ばれるようになった。誰がいつ船中八策と言い出したのかはよく分かっていないが、おそらく郷土史家の平尾道雄ではないかと思われる。原本が見つからないため、近年では船中八策は元々存在しなかったのではないかと言う論者もいる。
お元について
お元は実在した人物で、清風亭会談の際に後藤が呼んだとされる。長崎における龍馬の現地妻のような人物だったらしいが、生没年や経歴など詳しいことは不明。長崎奉行所の密偵やキリシタンだったという設定は当然フィクション。
龍馬と容堂が対面し、龍馬の説得によって容堂が大政奉還の建白書を書いたように描かれているが、実際には会っていないと思われる。龍馬が脱藩後土佐に戻ったのはイカルス号事件の始末の時、土佐藩に小銃1000挺を売りつけた時の2回で、その頃には既に後藤ら土佐藩重臣たちによって容堂への上奏がなされていた。小銃売りつけの際に会ったとする逸話もあるが史料による確認が取れないため創作と思われる。
◯◯◯について
龍馬本人が書いた原本が二通残されている所謂『新政府綱領八策』に「◯◯◯自ら盟主と成り」と記載があり、現代でも誰が当てはまるのか議論がある。「慶喜公」とする説、特に誰を想定しているのではなく、見たものが好きに名前を入れれば良いとする説などあるが、龍馬が何を思って◯◯◯としたのか実際は不明。なお、この◯◯◯に西郷や大久保が不信感を持ち、中岡を刺客としてけしかけるような場面があったが、両者が大政奉還後に龍馬についてどう思っていたかについてははっきりした史料が存在しないため、敵意を持っていたという描写自体が彼らの政治的立場から考えられる憶測に過ぎない。そもそも西郷と大久保は10月17日に鹿児島に戻っているため京都には居ない。再び京都に入ったのは大久保が11月15日、西郷が11月23日のことである。
暗殺者について
最終回にて佐々木只三郎、今井信郎、渡辺一郎(渡辺篤)らが登場し、彼らによって暗殺されているため定説通り京都見廻組が暗殺者の正体。この事件の詳細については近江屋事件を参照。
2010年11月28日、この日は大河ドラマの「龍馬伝」の一年の締めくくりである堂々たる最終回(第48話)、「龍の魂」が放映された。その放映内に起きた見廻組による坂本龍馬・中岡慎太郎の襲撃シーンで、起きた出来事である。首謀者はNHKであり、謎につつまれている点も多い。
一年にもわたる大河ドラマは普段、12月に終わるのが定番となっていた。しかし、この昨年からスペシャルドラマである「坂の上の雲」が三年がかりで4、5回にも渡って放送されるためである。そこで今年も10ヶ月という普通の年とは1ヶ月短い放送になった。
しかし、折り悪く、この2010年11月28日は和歌山知事選と愛媛知事選という、二つの都道府県知事の選挙があった。視聴者はそのことを知ってか知らずかNHK総合にて8時から9時15分にもわたる最終回拡大枠で行われたドラマ本放送を見ていた。なのでBSで最終回を見ていた人には気づかなかった人が多い。
その後、最初は、和歌山知事選のためのテロップが表示されたがこの時は大して重要でない箇所で流れたため、視聴者は、特に何とも思っていなかった。
そして近江屋に滞在する龍馬の下に、中岡慎太郎が登場。龍馬は新政府建設のために、新政府の主導者を「○○○」と書いた、これが薩摩の反感を買った。もしも龍馬がこの「○○○」を徳川慶喜だったら中岡が龍馬を斬り殺すと誓約し、龍馬の下を訪れるシリアスなシーンであった。
そしてそのことが誤解とわかり、竜馬と中岡が二人でこれからの自分たちのこと(蝦夷地の開拓、西洋文化確認のための洋行等)といったことを語り合ってる間に、見廻組の連中が近江屋に押し入り、二人の背後に忍び寄り、中岡が「いかん!」と叫び、応戦するまもなく斬られる直前に、事件はおきた。
「愛媛県知事当選 新人の中村時広氏 当選確実」という文字が大々的に画面の上部、約5分の1程度を占める部分に表示されたのだ。この直後、龍馬が脳天を切られながら「どういてじゃ!どういて!」と大声で叫びながら剣を持って応戦し、血まみれの二人の顔を少し隠すようにして数分にもわたりこのテロップが流れた。これが最終回における最大の見所、暗殺場面でのできごとであった。この直後数時間、NHKにはクレームが殺到し、公式HPはつながらない状態となった。
当選した中村新知事はかつて三菱商事の社員であった経歴を持つ御仁である。
なお坂の上の雲の第一話冒頭(2009年12月放映)では、松山藩(当時の愛媛県松山市に本拠地を置く藩)が土佐藩に戦わず恭順し、15万両という大金を払い、藩主から藩士に至るまで経済状況が悪化し、その当時に生まれた五男の主人公(秋山真之)が寺に出されそうになるといった話が存在する。
この2つの事象は何かの縁なのだろうか。
ハゲタカのようなシリアスなドラマからプリキュアのような子供向けアニメ作品まで幅広く手がける、佐藤直紀氏が担当する。
オープニングテーマは時代という荒波に立ち向かう、龍の如く力強い曲となっている。スケールの大きさも相まって、ニコニコではOP曲をアニメやゲームの映像に合わせたMAD(大河OP×アニメMADシリーズを参照)が数多く作られている。
リサ・ジェラルドの歌唱部分は空耳で「煮込みおーでん♪」と聞こえると一部から言われている(他に「煮込み豆」「煮込みラーメン」と聞こえる人も)。また、太鼓の達人14にも収録されたおり、今ではゲームセンターでもこの曲を聴くことが出来る。もちろん、大河ドラマのOP曲が採用されたのは初めて。
本作のチーフディレクターを務めた大友啓史は、龍馬伝の制作終了に伴いNHKを退職・フリーとなった。大友監督は、かつて自身が演出を手掛けたNHKドラマ「ハゲタカ」の劇場版の監督を務めた経験もあるが、龍馬伝の次に彼が手掛けた作品が、漫画・アニメ共に大ヒット作となった「るろうに剣心」であった。近年は漫画やアニメの実写化が増え、酷評され失敗に終わる作品もまた激増する中、実写映画版「るろうに剣心」は3作品合わせて興行収入100億円を突破し、ファンからの評価も概ね好評と成功を収めた。
制作にあたり、大友監督は主人公の緋村剣心役に佐藤健を指名したが、佐藤は「龍馬伝」が時代劇初出演作ながら本作で岡田以蔵役を好演した事によるものであった。この他にも、実写版るろ剣には下記の通り龍馬伝のキャストが多数出演している。また、音楽は先述の佐藤直紀が龍馬伝に引き続き登板し、迫力ある圧倒的なサウンドで映画本編を盛り上げた。
龍馬伝 | るろうに剣心 | |
---|---|---|
福山雅治 | 坂本龍馬 | 比古清十郎 |
香川照之 | 岩崎弥太郎 | 武田観柳 |
佐藤健 | 岡田以蔵 | 緋村剣心 |
青木崇高 | 後藤象二郎 | 相楽左之助 |
田中泯 | 吉田東洋 | 柏崎念至 |
音尾琢真 | 望月亀弥太 | 呉黒星 |
土屋太鳳 | 坂本乙女(少女時代) | 巻町操 |
伊勢谷友介 | 高杉晋作 | 四乃森蒼紫 |
蒼井優 | お元 | 高荷恵 |
滝藤賢一 | 小松帯刀 | 佐渡島方治 |
斎藤洋介 | 小栗忠順 | 浦村署長 |
小市慢太郎 | 和助 | 川路利良 |
掲示板
175 ななしのよっしん
2023/06/28(水) 20:14:16 ID: 8aGzHRWFmD
まさか猿之助の影響でこっちまで飛び火するとは
>>173のレスの頃はまだ香川も炎上前だったと思うと感慨深い
176 ななしのよっしん
2023/07/09(日) 16:29:19 ID: UrBiquncBt
不祥事マン出しまくりでその点不遇な作品だが名作なのは間違いない
煮込み〜 もいいけど想望って曲が凄く良いな
177 ななしのよっしん
2024/01/28(日) 04:04:27 ID: QkbtX8puny
今「龍馬伝」の8話を見たんだが吉田東洋の「わしは殴ってもいいがじゃ。天才じゃき」と何の力もないもんは黙っちょるしか仕方ないがじゃ」というセリフは感動したな。ここまで言えるかw
急上昇ワード改
最終更新:2025/01/05(日) 00:00
最終更新:2025/01/05(日) 00:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。