安土桃山時代(あづちももやまじだい)とは、日本の時代区分の一つで、1573年~1603年の間を指す。
室町時代の次で、江戸時代の前。つまり室町幕府滅亡(1573年)から江戸幕府成立(1603年)までの中間の時代である。名称は織田信長の拠点・安土城と、豊臣秀吉の拠点・伏見城(別名を桃山城)から取られている。二人の姓を取って「織豊時代」(しょくほうじだい)とも呼ぶ。
「戦国時代」という区分に関しては、そのスタート地点やゴール地点の見解が様々であるが、概ねこの安土桃山時代は戦国時代の中に含まれている。前後も含めた世の流れについては戦国時代の項を参照していただきたい。ここでは特に室町時代と江戸時代との中間に位置する安土桃山時代、という視点で説明する。
信長、秀吉ともに政治体制・後継体制が整う前に死去してしまったため、政権としては短命な時代に終わってしまったが、続く江戸時代への礎になった部分も多々存在する。
尾張の戦国大名・織田信長は、室町幕府15代将軍・足利義昭を擁立し、初めはそれなりに協力しながら政治を行っていたものの次第に対立。1573年に信長により義昭は京都を追放され、室町幕府は滅亡した。義昭自身は1590年まで征夷大将軍の位を持ち続けていたが、中央政権の座は足利家から織田家へと移ったので、これをもって幕府滅亡、安土桃山時代のスタートとしている。
この時点では未だ畿内にも敵が残っている状況であり、統一政権には程遠い状況であった。
この後、敵対する戦国大名たちを次々と破り、本願寺や比叡山といった寺社勢力も屈服させ、朝廷にも積極的な献金を行うなどして影響力を高めて信長は右大臣に就任、織田家の威信は加速度的に増していった。
遂には征夷大将軍・関白・太政大臣のいずれかに任じる、というところまで来たが(三職推任問題)、1582年、明智光秀による本能寺の変に巻き込まれ織田信長とその後継者・織田信忠が共に横死する事態となる。
明智光秀を羽柴秀吉が素早く討ち、信長の孫・三法師を当主とする形で織田政権は保たれた。だが、実際には光秀討伐の功績を挙げた羽柴秀吉の影響力が日に日に増していく事となる。
織田家の重臣・柴田勝家や、同盟者・徳川家康といった勢力を撃破した秀吉は織田政権を事実上掌握する。彼は出自こそ低かったが、朝廷の支持を得て猛スピードで位階を駆け上っていった。そして朝廷内部の権力争い(関白相論)に介入した結果、1585年に関白に就任。豊臣の姓を賜る。
これと並行して四国、九州、関東の敵対勢力を打ち破り、1590年に全国の諸大名を従えたことで天下統一事業がひとまず完成した。この時には既に、織田家は秀吉配下の一大名に過ぎなくなっていた。翌1591年には奥州における反乱を諸大名に命令して鎮圧し、群雄が争う乱世の時代は終焉を迎える。
豊臣政権は刀狩、太閤検地といった政策で日本全国の統制を図る。と同時に中国・明王朝の征服を目指し、諸大名を朝鮮へと派遣する。大陸派兵は二度に渡ったが(文禄・慶長の役)、1598年に豊臣秀吉が死去した事で打ち切られる。
秀吉の遺児・豊臣秀頼は幼かった為、秀吉の遺言に従い五大老・五奉行による合議政治が行われることになった。しかし、五大老のひとり・徳川家康は独自の動きを見せ始める。唯一対抗できる存在であった前田利家も1599年に死去する。
元より豊臣政権内においては、武断派と文治派の対立が激化しており、家康はそれを利用して秀吉子飼いの大名たちを巧みに味方につけていく。これに対し石田三成・上杉景勝・直江兼続らが公然と反旗を翻し、1600年、関ヶ原の戦いが起こった。
この動乱は全国各地で発生したものの、本戦である関ヶ原の戦いは一日で決着し、徳川家康が完全に覇権を握るに至った。家康は豊臣家を無視して(名目上は代理で)独自に各大名の恩賞・処罰を行い、豊臣家は摂津周辺を領するだけの一大名に転落してしまった。
徳川家康は1603年に征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開いた。以降は江戸時代となるが、豊臣家との雌雄を決する大坂の陣が終わるまで、もうしばらく戦は続く。
「織田がつき 羽柴がこねし 天下もち 座りしままに 食うは徳川」
安土桃山時代の流れを示す歌として有名である。
豊臣秀吉が行った日本全国での大規模検地である。検地(田畑の調査)自体は織田信長も含め、多くの大名が行ってきた事ではある。太閤検地の大きな違いは、土地の持ち主ではなく、実際に田畑で耕作している農民たちを対象として税を課した事にある。それまでは荘園に代表されるように、土地を守ってもらう為に有力者に寄進、それを更に有力者に寄進、といった行為が横行しており、中間層が税を逐一とっていた。こうした構図を完全に破壊して、農民から領主(大名家など)に直接年貢を出す、という形式に改めたのである。
また、これによって土地の面積ではなく石高によって土地の価値を計算する、という江戸時代まで続く方式が確立した。全国の度量衡単位統一にも一役買っているが、実際にそのように安定した形式として機能するのは江戸時代になってからである。
検地と並んで秀吉が行った事としてテストに出るであろう単語。農民から刀を取り上げ、帯刀の権利をなくすというもの。
一揆による武装蜂起を防いでいるようなイメージがあるが、実際には兵農分離、武士と農民を区分けする目的で行われている。これによって戦国時代のような身分を超えての下克上は防がれ、また農民が戦争に駆り出される事もなくなるので農業の安定にも繋がるのである。この辺もまた江戸時代に引き継がれていく。
ちなみに同時に海賊禁止令も出されており、かつての村上水軍のような者たちは各大名家の武士として生きていく事になる。
豊臣秀吉の遺言によって構成された豊臣政権の首脳陣。初め小早川隆景も入る予定だったが秀吉に先だって亡くなった。秀吉の五カ条の御掟(+九カ条の御掟追加)に従って政治を行う……はずだったのだが。ちなみに御掟は以下の通り。
秀吉はあらかじめ家康をこのルールに組み込んだ上で、前田利家というストッパーを用意する事で家康の暴走を止めようと考えていた。が、利家が秀吉の死の翌年に亡くなってしまった事で、あっという間に五大老制度は機能しなくなってしまった。
制度が成熟化する前に政権崩壊に至ってしまったので、何とも言い難い。秀次事件とか起こしちゃうからこんな事に…。
織田信長も家臣や嫡男・信忠らに官位を授けてもらうよう朝廷に要請しているが、豊臣秀吉の時代には更に顕著になる。というか秀吉自身が関白・太政大臣と朝廷側のコントロールを握ったので、家臣や大名たちに地位保障とばかりに官位を与えまくっている。例えば先の五大老だと、家康が内大臣、利家が大納言、ほか3人が中納言である。
豊臣政権時代の関白を頂点とした政治体制を「武家関白制」と呼ぶ。詳細は個別項目を参照。
だがこの結果、本来朝廷の政事を行うべき公家たちが(武家で枠が埋まってしまい)昇進できないという本末転倒な状況に陥ってしまった。江戸時代には、武家の官位と公家の官位とは別枠扱いという事にして、この問題を解決している。
戦国時代の項に詳しい。鎌倉時代や室町時代の仏教に基づいた文化に比べると、諸大名や豪商たちがその権勢を誇る派手派手な文化となっている。一方でわび茶の文化なども発展していった。西洋文化やキリスト教も流入し、その影響も見られる。
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7 ななしのよっしん
2018/02/07(水) 09:46:34 ID: So9ZZ7OQMy
8 ななしのよっしん
2022/04/29(金) 16:28:18 ID: qq74ozheP1
9 ななしのよっしん
2023/05/08(月) 13:54:04 ID: Frxzk+h5NQ
時代区分としての安土桃山時代は政治の中心地と主権者を語っているだけ
鎌倉時代、室町時代、江戸時代と同じだな
仮に戦国時代の終わりを中央集権化の始まりに置くなら、それは北条早雲が税徴収を集権化した時に始まる
また戦国時代の終わりを中央集権化の完成に置くなら、それは大坂夏の陣まで待つことになる
どう基準を置いても、戦国時代から安土桃山時代へという分け方には無理が生じる
まあ記事の書き方はそういう趣旨だろう
戦国時代の終わりは、いわば中世と近世の境界。ある年号ですっぱりとは切れないだろう。ちょうど古代と中世の区分が曖昧なように
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最終更新:2024/12/19(木) 15:00
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