基本データ | |
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正式名称 | インド共和国 भारत गणराज्य Republic of India |
国旗 | |
国歌 | ジャナ・ガナ・マナ(人民の意志) |
国花 | ハス |
国鳥 | インドクジャク |
公用語 | ヒンディー語 英語(準公用語) および各州の公用語 |
首都 | デリー(Delhi) ※New Delhi地区 |
面積 | 3,287,590km²(世界第7位) |
人口(’22) | 約14億1千万人(世界第2位) |
通貨 | インド・ルピー(Rs, INR) |
政治体制 | 共和制 |
時間帯 | UTC +5:30(IST) |
漢字では「印度」と書かれる。略称は印。面積は日本の9倍弱、人口は10倍強。
日本でのイメージは「カレー」「カースト制度」「ターバンを巻いた男性」「サリーを着た女性」「人口多すぎ」「ダルシム」「インド象」「踊る国」「映画大国」など様々だが、1990年代以降情報産業で著しい成長を遂げるIT大国としても知られる。
国民の約8割がヒンドゥー教徒で、今もカースト制度の思想が残るなどその影響は大きい。但し、イスラム教(約13%=約1億5千万人)、シク教(約2%)、キリスト教(約2%)なども主な宗教としてあげられる。
仏教発祥の地として知られるが、4世紀頃からヒンドゥー教に押され、現在仏教徒の割合は国民の0.8%程度と少ない。
ちなみに、インド人のステレオタイプとしてよく見かける「ターバンを巻いた男性」はシク教徒であり、ヒンドゥー教やイスラム教などを信仰するインド人はターバンを巻いていない。インドの元首相であるマンモーハン・シンや、ニコニコ動画において「トゥルトゥルダダダ」で有名なダレル・メヘンディはシク教徒であり、ターバンを巻いている。
仏教発祥の地とされ、中国経由でもたらされた日本仏教の原点である。仏教は12世紀にイスラームの進出で弾圧され、現在はヒンドゥー教に勢力を取って変わられている。ヒンドゥー教やシク教のイメージが強い国だが、インド人口の14%、約1億7500万人はムスリムである。よく絨毯と一緒に登場する白大理石の建造物、タージ・マハールはイスラム王朝時代に建設された。1億7500万人のマイノリティが、ヒンディー至上主義政党のインド人民党と対立する原因となっている。人口構成上、どうしてもヒンドゥー教が多数派になる。その中で不満を持つムスリムもおり、何度か過激派がテロを起こしている。
パキスタン・中国とは主に国境紛争を原因として関係が悪い。1974年、インドは核兵器を保有した。これは中国やパキスタンに対抗する目的があったとされる。それが原因で、1998年にパキスタンも核兵器を保有する。なおインド・パキスタンは核拡散防止条約(NPT)にも署名していない。
逆にロシアは戦略的パートナーとされており、戦闘機や航空母艦等、最新鋭の兵器を(中国よりも)優先的に入手できる関係にある。
スバス・チャンドラ・ボース、マハトマ・ガンジー、初代首相ネルーの三人はインド独立・建国の父として、絶大な国民人気を誇る。戦時中、ボースの活動を日本が支援していた事もあり、インドの対日感情は良好なものとなっている。2007年には安倍総理が訪印し、チャンドラ・ボース記念館に来訪。ボースの遺族とも面会している。
韓国との関係はある事件をきっかけに急速に冷え込んだ(#後述)。
その代わり、と言っては何だが日本との関係は良好で、2008年10月22日に麻生太郎首相とシン首相によって「日本国とインドとの間の安全保障協力に関する共同宣言(日印安全保障宣言)」が締結された。これは日本にとって米豪に続く3例目の安全保障協力である。2014年5月、新たに首相となったモディ氏はチャンドラ・ボース復権を掲げ、経済的な関係だけでなく地理的・精神的にも日本との関係を強める方針を立てた。
言語別の正式国名 | |
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en | Republic of India |
hi | भारत गणराज्य |
as | ভাৰত গণৰাজ্য |
bn | ভারতীয় প্রজাতন্ত্র |
gu | ભારતીય ગણરાજ્ય |
kn | ಭಾರತ ಗಣರಾಜ್ಯ |
ks | جمہوٗرِیت بًارت |
ml | ഭാരത ഗണരാജ്യം |
mr | भारतीय प्रजासत्ताक |
or | ଭାରତ ଗଣରାଜ୍ୟ |
pa | ਭਾਰਤ ਗਣਰਾਜ |
sa | भारतमहाराज्यम् |
ta | இந்தியக் குடியரசு |
te | భారత గణతంత్ర రాజ్యము |
ur | جمہوریہ بھارت |
公用語であるヒンディー語と準公用語の英語のほかに22の言語が「公的に認定された言語」として憲法で指定されている。
旧宗主国言語である英語は準公用語扱いである。ただし実際は、公用語として差し支えない。連結言語の役割はヒンディー語以上に果たしている。ただインド英語は訛りが強く、英語ネイティブでも聞き取りにくい場合もあるようだ。
インド国内の公共交通機関(駅や空港)では、英語・ヒンディー語・現地の言葉で案内されている場合が多い。
当初はヒンディー語への統一を目指していた。しかし、ヒンドゥー第一主義への反発や多種多様な言語/文化がある中で、計画は頓挫。建国後15年で、英語を準公用語から除外するとしていた。それも公用語法を成立/施行し、停止されている。現在憲法には「公的に認定された言語」として22言語が指定されている。
東部のベンガル語・アッサム語、西部のマラーティー語・グジャラート語、
南部(ドラヴィダ系)のカンナダ語・テルグ語・タミル語が比較的知られている。
方言を一言語とすると、1683言語ある。そのうち850言語が日常的に使用されている。サンスクリットは、歴史経緯から重要な古典言語とされ、公認22公用語の一つに指定されている。ただし死語ではなく、話者も1万4000人ほど存在する。梵字ではなく、 デーヴァナーガリーを中心に表記されている。
ベンガル語やパンジャブ語、ウルドゥー語、タミル語など、話者が隣国に跨る言語も多い。
インドの紙幣にはヒンディー語と英語の他に、15語が併記されている(22言語すべてが使われていないのは、ルピーが通貨として制定されたときに指定言語として認められていたのがこの15種類だったため)。[1]
右表は紙幣表記に使用されている言語による「インド共和国」である。
インドのGDPは購買力平価換算では、2012年に日本を微妙に追い越し、世界3位・シェア5%以上を占める。
金額にすると4兆ドルを超えることになる。
かつてのインドは閉鎖的な経済運営の下で長期経済停滞に甘んじていた貧困大国であった。未だに3億人近い多数の絶対的貧困を抱えてはいるが、21世紀の世界経済を牽引する勢力として中国、ロシア、ブラジルと共にBRICsの有力な一角を形成している。インド経済は既に1980年代より拡大基調を示していたが、1991年に経済改革が導入され、経済自由化と対外指向型の政策がしめされるようになった。とりわけ2003~04年度以降、平均年率9%近い世界有数の高レベルの経済成長を実現させてきた。
※絶対的貧困=年間所得370ドル以下、1日1ドル以下で暮らす人々。現在およそ12億人がこれに当てはまると見られている。
1947年にイギリスから独立を果たした後、貧困の除去と経済自立の達成が目標とされた。
17世紀初めに東インド会社が進出して以来、インドは長期にわたる植民地支配のもとにあったが、独立以前の段階から民族資本の台頭、国産品愛用運動(スワーデシ運動)等、経済自立志向が強かった。
独立後自立色の強い経済開発が進んだが、ネルー首相時代の混合経済体制がその内容を決めた。
インドの経済開発の前提条件として、言語・宗教・カーストなど文化の多岐に渡る相違があるため、国家的統合維持が至上命題であり、ターゲットが多元的にならざるを得ない。その為に雇用確保、小規模単位の保護、地域間の均衡的発展という政策目標に高い重要性があった。
※小規模単位=固定資産(プラント、機械類)が一定規模以下の小規模企業の事。手工業、カーディ(手紡・手織物部門)、手織機械部門等農村家内工業と異なる。小規模単位では租税面、融資面で優遇措置が講じられる。また留保措置が適用される事で中小企業との競争から保護されてきた。
さらに連邦制のインドでは、言語等地域的特性を持った28州(また州とは別に連邦直轄地がある)の州政府は州内の経済活動に対して広範な管轄権があり、中央政府同様、果たす役割が重要であった。
混合経済体制を構成した政策的枠組みとして3つ重要なものがある。
※産業許可証=特定産業での生産開始の許可を得られるもの、と同時に希少原材料の割当、土地取得、機械類・原材料輸入時の各種認可の面で特典が得られる。有効期限は2年。
ネルー時代は産業基盤の育成に注力し、工業部門の順調さと裏腹に農業部門の脆弱性が顕になり、65年の印パ戦争、および同年から翌年にかけての旱魃が原因となり1980年まで停滞期に突入した。この時期は工業成長が減速を余儀なくされ、インディラ・ガンディー政権の下で統制主義的な経済運営がなされた。
1960年代後半、小規模単位を保護する留保政策が施行され、800を超える品目で大企業の参入が厳しく制限された。従業員100人以上の企業に対しては、容易に解雇・倒産を認めない立法上措置が講じられた。競争原理が封じ込まれた中で、やがて企業は現状維持経営姿勢に甘んじ、産業活動は停滞、経済全体の効率性が低下した。同期間中、世界経済におけるインドのウェイトは下降の一途を辿った。
だが、農業重視の姿勢が打ち出されたところもあり、緑の革命が進展、80年代を迎える頃には、コメ・小麦等の穀物自給が事実上達成された。1950年代初めから1970年代末までの期間は年平均3.5%とやや低めの「ヒンドゥー成長率」となった。
1980年代になり、第二次インディラ・ガンディー政権(1980~84年)、ラジーヴ・ガンディー政権(1984~89年)の下で生産性向上や生産拡大が強調され、規制緩和が導入されるようになった。そのため穀物自給の達成と同時に経済成長率は5%へ上昇した。がしかし混合経済体制の枠組みは残ったため、経済自由化はアドホック的にしかなされず、財政支出の拡大、汚職の蔓延等で経済運営規律も緩みを見せた。
さらに主要貿易相手国であったソ連崩壊、湾岸危機の勃発に伴なう中東からの海外送金の激減等国内外の要因が重なり、財政・経常収支赤字拡大のマクロ経済不均衡が先鋭化した。
1991年4月の総選挙で、国民会議派のナラシンハ・ラオ政権が成立、同7月に経済改革が導入された。マクロ経済不均衡の是正を図り、既存の混合経済体制の政策的枠組みから大胆な経済自由化を実施するところとなった。
公共部門のみに留保されていた分野への民間部門参入がほぼ全面的に認可、公共部門優位政策は撤回され、民間企業活動を束縛していた産業許認可制度が事実上撤廃された。また閉鎖的、内向的だった対外政策は対外指向型に転換され、貿易、外貨流入面で漸進的自由化が図られた。平均関税率は1991/92年の77.2%から1997/98年には30.6%、2007/08年には9.2%に低下、輸入数量制限も事実上撤廃された。
競争原理導入は、価格低下、品質向上となり国内市場の拡大、インド産業の競争力強化に大きく寄与した。
成長率はかつての3.5%程度から80年代、90年代には5%台、2000/01年から2007/08年にかけては7%台の成長となった。特にサービス部門は目覚ましい成長を遂げた。
1960/61~70/71 | 70/71~80/81 | 80/81~90/91 | 90/91~2000/01 | 00/01~07/08 | |
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農業 | 2.5 | 1.8 | 3.5 | 2.8 | 3.3 |
工業 | 5.4 | 4.4 | 6.7 | 5.7 | 7.2 |
サービス | 4.8 | 4.4 | 6.6 | 7.3 | 9.2 |
GDP | 3.8 | 3.2 | 5.4 | 5.6 | 7.7 |
中央統計局 |
1990年代を通じて、インド経済はサービス部門に牽引され、工業部門はあくまで脇役的存在であった。その成長が比較的高くなったのは21世紀を迎えてからである。
サービス業の中でもとりわけ目覚ましい成長を遂げたのは、通信、保険、ビジネス・サービス(ITサービス)、ホテル・レストランである。GDP部門別構成でも、1990/91年の43.8%から2000/01年には50.6%、2007/08年には52.4%に増加している。工業部門のシェアは逆に90年代を通じて減少傾向を示した。その後若干拡大しているが、製造業を見る限りシェアは1980/81年以降16%前後の水準から変化は無い。
1980/81 | 1990/91 | 2000/01 | 2007/08 | |
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農業 | 35.7 | 29.3 | 23.2 | 18.1 |
工業 | 24.7 | 26.9 | 26.2 | 29.5 |
製造業 | 16.7 | 16.7 | 15.6 | 16.3 |
建設 | 4.6 | 5.4 | 5.8 | 8.7 |
サービス | 39.6 | 43.8 | 50.6 | 52.4 |
中央統計局 |
雇用面でも工業部門での雇用拡大は極めて限定的なものでしかなかった。組織部門における製造業雇用数は、1997年の673万人をピークに、その後やや減少傾向にある。組織製造業は、企業倒産、労働者解雇を阻む労働法が温存され、それが新規雇用拡大の足枷になっている。経済自由化の下でコスト削減や競争力強化に向けて努力が迫られ、製造業における労働集約的性格の薄まりがあるのも事実である。公企業、民間企業を問わず、製造業では合理化が進められる一方、希望退職に基づいた人員削減が図られており、雇用減に繋がる結果となっている。
その後BJP連立政権、ヴァジパイ首相首班の中で通信部門・電力部門改革改革が進められる事になった(1999年:新通信政策、2003年:電力法)。また財政健全化に向け、「財政責任・予算管理法」制定、中央・州政府の財政赤字対GDP比率は2001/02年の9.9%から2004/05年以降確実に減少傾向、2007/08年には5.3%にまで削減され経済成長への大きな後押しとなった。
(単位:%、外貨準備のみ億ドル) | ||||||||
90/91 | 01/02 | 02/03 | 03/04 | 04/05 | 05/06 | 06/07 | 07/08 | |
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貯蓄/GDP | 25.6 | 25.5 | 26.9 | 29.8 | 31.8 | 34.2 | 35.7 | 37.7 |
投資/GDP | 26.3 | 22.8 | 25.2 | 27.6 | 32.1 | 35.5 | 35.9 | 39.1 |
財政赤字/GDP | 9.4 | 9.9 | 9.6 | 8.5 | 7.5 | 6.7 | 5.6 | 5.3 |
輸出/GDP | 5.8 | 9.4 | 10.6 | 11.0 | 12.1 | 13.0 | 14.0 | 13.6 |
輸入/GDP | 8.8 | 11.8 | 12.7 | 13.3 | 16.9 | 19.4 | 20.9 | 21.2 |
貿易収支/GDP | -3.0 | -2.4 | -2.1 | -2.3 | -4.8 | -6.4 | -6.9 | -7.7 |
貿易外収支/GDP | -0.1 | 3.1 | 3.4 | 4.6 | 4.4 | 5.2 | 5.8 | 6.2 |
経常収支/GDP | -3.1 | 0.7 | 1.2 | 2.3 | -0.4 | -1.2 | -1.1 | -1.5 |
外貨準備 | 58 | 547 | 781 | 1,130 | 1,415 | 1,516 | 1,991 | 2,992 |
インド連邦準備銀行 |
サービス部門、中でもIT産業はインド経済台頭の中でも秀でた結果となった。それも高等教育人口の数が世界でも屈指の人材大国だからである。ネルー時代に世界的にも引けを取らないインド工科大学(IITs)が創設され、また混合経済体制時恵まれなかった若者が1980年代以降、才能を発揮出来る雇用機会の場を求めて多数米国に留学、それらは1990年代の米国におけるIT革命を間近で体験し、インド人IT技術者への信頼はいわゆる2000年問題(Y2K問題)で高まる事となった。2004年時点では米国在住インド系住民は230万人を超え、多くがプロとして活躍、米国企業の対印ITアウトソーシングにおいて人的パイプとなった。
2007/08年、インドのIT産業は716億ドル、売上はGDP比で5.8%にもなる。インドIT産業はソフトウェア(ITサービス)に強く傾斜、ソフトウェア売上が全体の8割強を占め、輸出が全体の64%のシェアを持つ典型的輸出主導型、輸出先の大半は英語圏で、米国が全体の60%、第二の英国が19%である(日本のシェアは1.5%)。
1990年代を通じ、インドのITサービスの輸出は、年率50%、21世紀にはいってから07/08年まで年間30%とインドで最大の輸出品目へと成長している。
世界のIT産業に占めるインドのシェアは、依然として4%、ハードウェアを含めると3%弱と低いが、海外アウトソーシング(オフショアリング)に関する限り、世界の最右翼である。2005年、オフショアリング先に占めるインドのシェアはITサービスでは65%、IT活用サービス(ITES)-ビジネス・プロセス・アウトソーシング(BPO)では46%で、2位以下に水を開けている。このままのペースでいけば、2010年までに世界のITサービスに占めるインドのシェアは約15%となり、名実ともにIT大国となる。
※海外アウトソーシング=コスト削減、開発期間短縮等の理由で生産工程を国外の第三者に業務委託する事。コア・コンピタンス分野に経営資源を集中させる事が可能となり、オフショアリングは特にサービス業務を国外委託する事をいう。これは国外の第三者への業務委託、国外自社拠点への業務移管の二つがある。
インドのIT産業は、ITサービス、BPO、ソフトウェア製品&エンジニアリング・サービス、ハードウェアの4つから成る 。特にそれぞれの分野で、年々より付加価値の高い分野へ移行している。
BPOがインドIT産業の主要項目の一つとなったのは、90年代後半以降である。当時、顧客対応サービス(コール センター)など低スキルサービスが大半であったが、財務会計、人事管理、調達サービス等バックオフィスがBPOの主要項目として登場した。近年は新たな項目として、金融サービス調査、データ解析、モデリング・予測等高度なドメイン知識を必要とするハイエンドな知識サービスも登場している。さらに21世紀には、ソフトウェア・製品&エンジニアリング・サービスがインドIT産業の新たな項目となった。これにはソフトウェア製品開発、半導体デザイン・開発、製造業向けCAD/CAM(コンピュータ支援デザイン/コンピュータ支援製造)、組み込みソフトウェア等が含まれ急速に拡大をしている。
※組み込みソフトウェア=ハードとソフトの融合が進み、家電、自動車等、多くの分野でソフトウェア制御が活用されている。デジタル民生機器に内蔵されるチップの複雑度が急速に増すにつれ、プログラプサイズが巨大化、 欧米や日本ではチップ設計者や組込みソフトウェア・エンジニアの不足が問題として浮上している。その面では インドは需要を満たすだけの人材が居るといえる。
IT産業 (716億ドル) |
ITサービス (352億ドル/49%) |
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BPO (147億ドル/21%) |
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ソフトウェア製品&エンジニアリング・サービス (96億ドル/13%) |
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ハードウェア (121億ドル/17%) |
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インド・ソフトウェア・サービス協会 |
近年は特に、多国籍企業がインドIT企業との提携、あるいは自社内センターの設置等によってインドを重要なR&D(研究開発)拠点として位置づけている。インドにハイエンドな仕事を求める欧米企業は、世界のITトップ10社の場合、本国以外でのR&Dセンターの立地を求める傾向にある。マイクロソフトの場合、ハイデラバードとバンガロールに設置している。ハイデラバードはレッドモンドのR&Dセンターと連携した最重要の海外研究拠点である。
IT産業はその特徴、技能集約的、高生産性活動で、労働生産性を製造業の2倍としている。IT技術者の雇用数は224万人に拡大、年間30万人の増加となっている。輸送、ケータリング、建設、警備、雑務等の間接雇用を含めれば、直接雇用の4倍と推計されている。その高所得層を多く抱えるIT産業の拡大は、購買力の拡大、ひいては第二次、第三次産業にまたがる各種財・サービスに対する需要拡大に繋がる。
以前は脇役であった工業部門も、2002/03年以降新たな拡大をみせ、2004/05年~2007/08年の4年間で、年平均8.8%の高レベルで成長。2006/07年には11%の成長率を記録し、ここにきてサービス部門と並んでの牽引役となった。特に経済全体への波及効果の大きい自動車、鉄鋼業分野での拡大が著しい。
インドにおける自動車生産が拡大基調になったのは80年代、インド政府の肝入りのもと、スズキがインド進出を果たし、1983年にマルチ・ウドヨク(現マルチ・スズキ)が乗用車生産を開始するようになってからである。これは日本的経営や生産方式をインドにもたらし、 インド自動車産業に新風を巻き起こした。1991年以降、経済自由化がインドで進む中で、自動車産業も産業許認可制度適用対象から外された。これを受けて、国内市場の潜在的大きさに目を付けた日米欧韓の大手自動車メーカー、大手部品メーカーが、インド進出を活発化させた。また1998年には商用車メーカーとしての豊富な経験を活かして、タタ・モーターズが新たに乗用車部門に進出、インド自動車史上での企業間競争が激しさを増していった。現在インドは、小型車生産の国際拠点、自動車部品輸出国として地位を固めている。インドの自動車生産は2ケタ成長、四輪車の生産台数は2003/04年に126万5000台と初めて100万台を突破し、その後2007/08年には230万7000台に達した。
鉄鋼業はというと、90年代以降民間部門を中心に鉄鋼生産拡大に励み、生産性向上、品質向上を成し遂げた。粗鋼生産に占める民間部門のシェアは1992/93年には30%程度であったのが、2003年/04年には51%、さらに2006/07年には67%へと増加している。粗鋼生産は2002/03年の3471万トンから2006/07年には5082万トンに増加した。 これには生産管理面でのベストプラクティス、ITツールの活用を通じて効率性向上が図られ、功を奏した事による。
2009年3月に発売が開始された、世界の自動車業界に衝撃を与えたタタ・モーターズの10万ルピー車(ナノ)に象徴される ように、低コストで製造出来る、倹約型製造方法の分野ではインドは既に注目されるべきレベルに達している。2001~08年の期間中、総合的品質管理(TQM)について認められているデミング賞(日本科学技術連盟)の企業対象の「実施賞」を受賞した29社のうち、14社がインド企業(うち2社は日系)であり、その多くが自動車部品関連であった。
また一定の購買力を持った中間層が台頭、消費財市場の拡大に弾みをつけたのも工業部門拡大を加速させた。これら中間層は家電、自動二輪、また自動車も射程に収めている。中間層は2001/02年価格で年収20万~100万ルピー(約2円/ルピー)の所得階層にあり、富裕層を含むと2001/02年の6200万人(全人口6.1%)から2009/10年には1億7300万人(全人口の14.5%)に拡大すると見込まれている。
所得階層 | 年間世帯所得 (2001/02年価格) |
階層別世帯数(100万) | 階層別人数(100万) | 年間成長率 (%) |
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2001/02年 | 2009/10年 | 2001/02年 | 2009/10年 | |||
貧困層 | 9万ルピー以下 | 135.4(71.9) | 114.4(51.6) | 731 | 618 | -1.8 |
新中間層 | 9万~20万ルピー | 41.3(21.9) | 75.3(33.9) | 221 | 405 | 7.9 |
中間層 | 20万~100万ルピー | 10.7(5.7) | 28.4(12.8) | 58 | 153 | 12.9 |
富裕層 | 100万ルピー以上 | 0.8(0.4) | 3.8(1.7) | 4 | 20 | 22.3 |
合計 | 188.2(100.0) | 221.9(100.0) | 1014 | 1195 | 2.1 | |
インド応用経済研究協議会(NCAER) |
ここ数年、経済成長を押し上げるモメンタムになっているのが貯蓄率、投資率である。90年代以降、インドの貯蓄率、投資率はいずれも25~26%の水準で推移、頭打ちであった。しかしその後好調なファンダメンタルズを反映、2003/04年頃より急速に上昇し始め、いずれも2004/05年には30%の大台を超えた。
貯蓄の担い手である家計部門、民間法人部門、公共部門のうち、インドでは家計部門の貯蓄が他の二つを圧倒している。だが近年は民間法人部門、公共部門が貯蓄率上昇に大きく寄与している。 民間法人部門貯蓄の対GDP比率は2002/03年には4%、2003/04年には4.6%、2005/06年には7.7%、2007/08年には8.8%に上昇した。これには収益性の改善が背景にあり、税引き後利益の対売上高比率は、2002/03年に は4.2%であったのがその後上昇の一途となり、2007/08年には11.8%にまで高まった。公共部門貯蓄の場合、深刻な財政状況を反映して、長らくマイナスの値であったが、財政健全化に向けて進み出したのをきっかけに、2003/04年からはプラスに転じ、逆に貯蓄率上昇の一端を担っている。
元来自給色の強かった国内市場志向型の経済体制は、貿易依存度の14.6%(1990/91年)の数字に表れていた。だが、2002/03年には23.3%に急増、2007/08年には34.7%となっている。
国際競争力の強化に伴い、商品輸出額は、2002/03年の527億ドルから07/08年には1629億ドルと、5年間で3.1倍に急拡大した。90年代には1990/91年当時の輸出額が倍増するのに9年要したのにも関わらずである。
対内直接投資の面でもインドは他の東アジア諸国の後塵を拝していた。しかしその後、巨大な国内市場の形成 、生産拠点としてのインドの重要性の高まりから、インドへの外資参入が顕著に拡大していった。インドの対内直接投資額は2002/03年の50億 ドルから2005/06年には90億ドルに拡大、2007/08年には344億ドルになった。ポートフォリオ投資も03/04年には114億ドルを記録、その後も高水準である。
対内直接投資の拡大と並び、昨今インドの対外直接投資が活発化している。インドの対外直接投資は2004/05年には16億ドルだったのが、2005/06年には45億ドル、2006/07年には110億ドルに拡大している。従来のインド企業による海外投資は、政府・RBI(連邦準備銀行)規則で規制されていたが、2003年12月事実上自由化された。それを受けてインド企業の海外進出も急拡大しており、東アジア・オセアニア向け投資にもそれは反映されている。特にIT産業、鉄鋼業、エネルギー分野の進出は目覚しい。
インド企業海外進出の代表例は、インド最大企業グループ、タタ財閥に見てとれる。タタはグローバル事業の拡大を成長戦略の重要な柱の一つと位置付け、2000年のタタ・ティーによる英テトリー買収を皮切りに海外事業展開を本格化、2008年4月にはタタ・モーターズによる英高級車ブランド「ジャガー」「ランドローバー」の買収が発表された。
グループ企業の中で最もグローバル化しているのが、インド最大のIT企業であるタタ・コンサルタンシー・サービシズ(TSC)である。インフォシス、ウィプロ等の他の大手IT企業と同様、TSCはグローバル・デリバリー・モデルに基づいてインド一極集中のオフショアリングから世界の複数主要地域からのITサービス同時提供という多極化の方向にシフト、グローバルネットワークの拠点形成として東アジアに対する進出も広げている。ITサービス輸出が年々約30%の割合で拡大する中、インド国内でのIT技術者の需要が逼迫しているため、グローバル事業展開に必要なIT技術者を中国で確保すると共に、中国市場に進出する狙いがある。このため北京・上海・杭州に拠点を設けている。
また鉄鋼業分野では、07年1月にはタタ・スチールが欧州第二位の英蘭鉄鋼メーカー「コーラス」を129億ドルで買収し、一躍世界第六位鉄鋼メーカーに躍り出た。同社は2003年の段階で①自社鉱山に拠る豊富な鉄鉱石、②低コスト鉄鋼メーカー、③優れた人的資源という強みを活かして、グローバル事業展開を打ち出すと決めていた。 コーラス買収に先立って2005年には、シンガポール、タイに進出、国内大手プレーヤーから東・東南アジア市場の主要地域プレーヤーへと大転換する動きを示していた。
2003/04年現在で、インドには3億2000万人の絶対的貧困がある。特に福利厚生においては、隣国スリランカや東アジア諸国に比べても遅れをとっている。初等学校の就学率は統計上100%だが、30%は途中で辞めている。 家庭の70%は改良型トイレを設置しておらず、電気を引いている家庭は全体の55%でしかない。それでも、徐々にだが貧困線以下の比率は1993/94年の36%から2004/05年には28%に低下した(計画委員会発表)。
これらの問題を現在のインドでは経済成長により解決しようとしてきた。1991年に経済改革が導入されて以降、雇用確保、小規模単位の保護、地域間の均衡的発展などが尊重されつつも、高レベルの経済成長が国民的合意が確実に形成されつつあった。だがしかしインドには議会制民主主義が定着しているため、社会的弱者の経済的底上げを伴うものでなければ選挙民からの支持は得られないのは当然であり、2004年4~5月の第14回下院選挙では、経済改革の実績を訴えて選挙戦に臨んだインド人民党連立政権(国民民主同盟)が敗北、社会的調和の維持を掲げて雇用や農業を重視し、社会的弱者に強く配慮した政策を公約として打ち出した国民会議派連立政権(統一進歩同盟)が勝利した。そのもとで導入されたのは、社会的セーフティーネットとして意味合いを持った農村雇用保障計画である。これは貧困線以下の農村家計を対象に、1人1あたり100ルピー(2円/ルピー)のコスト負担に基づき、年間100日分の雇用提供を保証するものである。
※貧困線=1日あたり必要カロリーを農村で2400カロリー、都市で2100カロリーと定め、それを充たす消費支出を「貧困線」のボーダーラインとしている。2004/05年の場合、貧困線は農村部では1人当たり月額365.75ルピー、都市では578.60ルピーとなっている。
同時に今、経済改革、特に雇用拡大と貧困削減の為に問題になっているのは、規制緩和とガバナンス面での改善、そしてその影響もあっての電力不足である。未だに規制緩和の徹底が図られていない分野は多数存在しており、それが農業、工業、サービスなど部門別成長にとって大きな足枷になっている。
産業許認可制度は事実上撤廃されてはいるが、製糖、石油精製、肥料、製薬の分野は未だに経済統制の対象から外れていない。1973年に石炭工業が国有化されて以来、石炭産業では未だに民間部門の自由参入が認められておらず、エネルギー供給面で支障をきたしている。農業部門では、農産物の加工・流通を規制する法律が温存されていて、農業多様化やアグロビジネスの発展を阻害している。
また労使紛争法を主とした労働関係法のせいで、企業閉鎖や労働者解雇が州政府の許可対象となっており、企業側として雇用調整に柔軟に対応しづらくなっており、従業員雇用拡大が進んでいない。これは工業部門で生産拡大が雇用拡大に結びつかない事となっている。
ガバナンスについてはとりわけ州政府レベルで問題になっている。インドは憲法上、農業、教育、保健衛生、通信、鉄道を除くインフラ等の分野では、州政府の専管事項、あるいは中央政府との共同専管事項とされており、州政府は経済開発面で極めて強い権限を付与されている。州によって大きな違いがあれこそ、政治腐敗、レッドテープ等、概して州政府はガバナンス面で課題を残している。貧困線以下の家計を対象にした食糧配給制度もビハール州などの貧困州ほど十分には機能していない。
インドの電力供給は劣悪であり、産業活動に対する重大な制約となっている。電力供給を担っているのは、州電力庁(SEB)だが、SEBは慢性的な経営赤字で、健全な電力供給が出来ずにいる。その根本的要因は、盗電が蔓延しているせいで、電力供給の約40%が送配電ロスとして計上されているほどである。
※食糧配給制度=公的配給制度(PDS)と呼ばれるもの。貧困線(BPL)の世帯(2009年3月時点で約6000万世帯)を対象に実施されている。BPLカードを所持する世帯ならば公正価格店で毎月、1kg当り現行6ルピーで合計25kgの穀物(コメ、小麦)が支給される制度である。ちなみに穀物1kg当たりの本来の値段は15ルピーとされている。
現状、民間部門の参入に基づいて通信部門は急速に発展してきているが、電力部門や鉄道・道路・港湾といった物流部門には大きな課題を残している。第11次五ヵ年計画(2007~13年)では、GDP成長率目標9%を達成するうえで、インフラ投資の対GDP比率を5.4%から9.3%にまで引き上げる事が必要であり、その為のインフラ投資総額は5000億ドルにのぼると推計されている。
インドの道路は鉄道に変わって既に輸送面での主役であるが、道路事情は劣悪である。都市部では道路混雑、農村部では全天候型の道路が整備されていない為、雨期には外部との物流面で支障をきたす事がままある。
現在、総額2兆2000億ルピーの大規模な全国ハイウェー開発計画が進行中で、その象徴的なものが「黄金の四辺形」(デリー、ムンバイ、チェンナイ、コルカタを結ぶ総延長距離5540kmの道路)、「東西南北回廊」(東西南北の両端を貫く総延長7300kmの道路)である。2009年3月末現在、前者は98%、後者は76%完了しており、一部はBOT方式に 基づいて、シンガポール、マレーシア等外資を含めた民間部門の参入がなされている。
インドの鉄道は以前から飽和状態に達し、安全性や輸送能力面で多くの問題を抱えていた。しかし近年はコンテナ輸送の民間参入が認められ、急ピッチで効率性向上が図られている。第11次五カ年計画中には、本邦技術活用条件方式に基づいて、デリー~ムンバイ、エリー~ハウラー(コルカタ)間で高速貨物専用鉄道の建設が進め られる予定である。
インドの港湾は外国貿易に伴う物流コストを高め、産業全般の国際競争力を以前は損ねていた。だが現在、中央政府管轄下、12のメジャー港、その他マイナー湾を含め、PPP(官民パートナーシップ)方式に基づいて、専用湾建設、港湾施設の増強や取り扱い処理能力の向上が図られている。
また需要増大に対応出来ず、施設増強が急務とされている空港についても、バンガロール、ハイデラバードでは新空港が建設されるとともに、 デリー、ムンバイ両空港ではPPP方式に基づく改良工事が進行中であり、コルカタ、チュンナイ始め他の空港でもPPP方式を取り入れた形での近代化が予定されている。
※PPP方式=インフラ投資への民間部門の参入拡大を奨励するもの。BOT方式、特別目的会社(STP)メカ ニズムが活用おされている。2005/06年には民間部門主導型インフラ・プロジェクトにおける採算性向上を担って、 プロジェクト費用の20%を上限に、補助金を提供する保証制度が打ち出された。
インフラ分野で改革が最も立ち遅れて、工業成長に対する最大の制約要因になっているのが電力部門である。2007/08年現在、ピーク時の電力不足は16.6%に達している。日常的に停電、不安定な電力供給に見舞われ、その為工場・事業所の多くは自家発電・UPS(無停電電源装置)の設置を余儀なくされている。またインドの電力部門は民生の向上という面からも問題である。2008年現在、各家計への電気普及を示す電化率は未だに60%、農村に至っては45%と低水準である。電気が普及すれば、冷蔵庫やコールドチェーンが可能となり、農業部門の活動も多様化、より付加価値の高い活動が展開される事になり、所得向上や雇用拡大に繋がる。目下、電力不足解消のため、2012年までに10万MW追加発電設備の設置を目指し、石炭火力での4000MW級の9件のウルトラメガ・パワー・プロジェクト(入札に基づいて既に4件成立)を含め、民間部門による発電所建設が奨励されている。また2008年秋には原子力供給グループの了承を経て、米印民生用原子力競艇が公式に成立した事に伴い、ウラン燃料や技術支援の供与を認められる事になり、原子力発電能力拡大に繋がる予定である。だがインドの電力部門は単に発電所増設では事足りず、2001年のエンロン・プロジェクト破綻で見て取れるように、 独立発電事業者が発電プロジェクトを立ち上げても、電力供給先であるSEBは軒並み深刻な経営赤字であり、そこを改善しなければ本格的解決にはならない。
※エンロン・プロジェクト=八大「優先事業」電力プロジェクトの一つとして、米エンロンが80%を出資、1999年に立ち上がった2184MW級のナフサ火力発電所(マハラシュトラ州)。州議会選挙の結果、前政権との間で取り交わされた電力購入協定が見直され、工事の大幅な遅延を余儀なくされ、工事完成後、州政府による電力料金支払を渋ったため、2001年にプロジェクトは破綻した。その後2006年5月に新たに操業が開始された。
2003年に既存の電力関連法を統合、電力改革の道筋を示した「電力法」が新たに成立した。SEB改革の最大の眼目は、配電ネットワークへのオープンアクセスや配電部門の民営化を含む配電部門改革にある。しかし、電力部門は中央、州政府との共同専管事項であるため、最終的な実施上の権限は州政府に委ねられている。最大のポイントは、利用者負担の原則を徹底し、SEB配電部門改革を軌道に乗せるうえで、どこまで強力な政治的リーダーシップを発揮出来るかである。
インフラ分野の整備で、唯一急速に進展しているのは通信分野である。通信は中央政府の管轄下にあり、州政府の権限が及ばないため、改革のテンポが早い。改革に向けて大きな流れを形成したのは、「1999年国家通信 政策」が発表され、通信分野での公企業独占体制が終わった事にある。2003年より携帯電話を中心としたインドでの急速な電話普及には目覚しいものがある。 現在携帯電話サービスは、10社を超える企業の間で厳しい料金値下げ競争が繰り広げられている。2009年3月現在、固定電話の加入者総数は3790万人と減少傾向なのに対し、携帯電話の加入者総数は前年同月比1億3069万人増の3億9176万人へと驚異的拡大となっている。2009年3月末現在、インドでの電話普及率は、2003年3月末に比べて、都市では12%から89%、農村では2%弱から15%に拡大するまでになっている。携帯電話の普及拡大に伴ない、既にノキア、モトローラ、サムスン等、世界の主要メーカーはインド国内での携帯電話の生産を拡大している。
インフラ整備を伴うプロジェクトとして注目されているのが、SEZ(経済特区)である。SEZが実際に動き始めたのが2006年2月、既に稼働しているのは旧来のEPZ(輸出加工区)を含めた28件のSEZである。これはEPZと比べ、用地規模が格段に大きく、対象業種が製造業に限らず、IT、バイオテクノロジー等を含み多種多様な産業に及んでおり、各種行政手続を単一窓口で済ます事ができ、関税を払えば国内市場にもアクセス出来る。だがしかし、SEZ建設には、資金調達、用地確保、特に農地転用の面で障害がある事が多い。
2008年9月時、既にインドでは経済成長は減速していた。四半期ベースで見た2008年インドGDP成長率は、1~3月 期には8.8%であったのが、4~6月期には7.9%、7~9月期には7.6%、10~12月期には5.3%へと徐々に下降線をたどっていった。
経済成長の減速は、インフレ抑制を最優先する立場から、金融引き締め措置が発動されたのがきっかけである。新興国での需要拡大や投機マネーの動きを背景としてエネルギー・原材料価格が高騰する中、インドのインフレ率(卸売物価上昇率)は2007年11月には3%台だったのが、2008年4月には8%台、同年6~10月には10%を超える水準に達した。その沈静化を図るべく、連邦準備銀行(RBI)はレポ金利(公定歩合)を2008年6月に7.8%から8.5%、翌7月に9.0%に引き上げた。預金準備率についても同年4月に7.5%から7.8%、その後も段階的に引き上げて8月には9%になった。
こうした金融引き締めが銀行の貸し渋りとなり、企業の資金調達にマイナス、消費者金利を押し上げ、自動車など高級耐久消費財の消費を手控えさせた。また、サブプライムローン問題での信用不安で、2008年1月よりの資金回収を目指した海外機関投資家によるポートフォリオ投資の引き揚げ活発化、株式市況の悪化も経済成長減速に拍車を掛けた。インドポートフォリオ投資は、2007/08年にはネットで158億ドルの流入があったが、2008年4月から2009年1月までに一転してネットで109億ドルの流出となった。それに伴い、ムンバイ証券取引所のSENSEX指数は2008年1月の2万ポイントを ピークにその後は下降、同年10月にはピーク時の半値以下の9000ポイントを割る水準にまで落ち込んだ。
株式市況の悪化は資金調達を含め企業活動を沈滞化させた。金融引き締めが強化されるにつれ、インフレ率は2009年1月には5%に低下し、物価問題は終息していった。しかし月間工業生産が2008年末には15年ぶりにマイナス成長になり、雇用問題への影響が懸念されるようになった。経済政策の最優先課題はこうしてインフレ抑制から不況克服となった。金融措置として2008年10月よりレポ金利や預金準備率の段階的引き下げが実施され、企業向け融資の拡大、消費ローン金利の引き下げとなった。財政措置として2008年12月以降、物品税・サービス税の段階的引き下げが実施される一方、農村雇用保障スキームの増額、農民対象の債務取り消し、第六次給与委員会報告に基づいた公務員給与引き上げなど、ケインズ的政策が採用されるようになった。財政出動による景気刺激策の導入は、財政赤字削減に向けての営みを一時中断せざるを得なくなった。これまで政府は「財政責任・予算管理法」に基づいて財政赤字削減に努め、中央政府財政赤字の対GDP比率は、2007/08年に2.5%にまで低下していたが、2008/09年には6%にまで跳ね上がり、同法の財政赤字削減スケジュールに基づいた目標達成が危ぶまれる。インドは中国に比べて輸出依存度は比較的低いレベルにあるが、1990年代以降インド経済の牽引役となったIT産業は典型的輸出産業である。IT産業の成長率はそれまでの約30%から2008/09年には15~16%に低下していて今後もその傾向が続くと予想されている。世界市場の成長が見込めない以上、インドでも鍵を握るのは国内市場となる。
インドでは経済成長の減速は当面避けられないものの、人口の年齢構成が若く、35~40年頃まで人口ボーナスを享受出来ると見込まれており、長期的展望においてグローバル競走の時代はインドにとって長期的な追い風として作用する可能性が大きい。農業多様化やアグロビジネスの推進、工業部門での労働集約型雇用を阻んできた労働関係法の改正、雇用機会拡大に向けての課題が多い。
※人口ボーナス=生産年齢人口(15~64歳)が従属人口(14歳以下、65歳以上)の成長率を上回り、人口に占める生産年齢人口の比率が上昇する現象のこと。当初人口ピラミッドを形成していた国において出生率の低下が生じると、14歳以下の従属人口の比率が低下し、人口ボーナスが生じることに成る。しかしやがて65歳以上の従属人口の比率が上昇する時期を迎えるに伴い、人口ボーナスは消滅する。
2008年12月、韓国で発生した原油流出事故の裁判(事故そのものは2007年12月に発生)で、『突っ込んできたクレーン船』の乗員ではなく、『突っ込まれたタンカー』のインド人船長乗員が実刑判決を受けるという事態が発生した。 『タンカー専用水路の指定位置に停泊していたタンカーが有罪』と言う2審判決(実はサムスンが圧力を掛けて証拠をでっち上げていた;賠償金を払わされると会社の経営が苦しくなる為)だ。
世界的な判例ではありえない判決だったため、船員組合などが猛反発し、インド支部が2月1日からボイコット宣言。加えて船主と世界運送労働者連がボイコットを支持した(この件ではさらにインド人の乗組員に対して宗教上禁止されている肉を出したりする不当な扱いを行っていた事が問題になり、重要な国際問題に発展)。
インドでは「サムスンはインドから出て行け」「粗悪な韓国製品は買うな」などと書かれたプラカードを持って嫌韓デモが勃発。インド人の韓国に対する感情は急速に冷え込んでいる。インド人船長らは2009年6月に釈放され帰国したが、罪が撤回された訳ではない為、未だにボイコットの恐れは否定できない。
かつてイギリス領であったためか、イギリス発祥のスポーツが盛んでクリケットやテニスが挙げられる。
特に最もメジャーなスポーツはクリケットである。
日本など馴染みの薄い国も多いクリケットだが、世界の競技人口数をサッカーに次いで2位とする説があるのは、約12億の人口を抱えるインドの影響が強いと思われる。
クリケットのワールドカップでは常に優勝候補に名の挙がる国で、オリンピックの競技であったら金メダル数も増えていただろうという見解も少なくない。
なお、クリケットの前はホッケーが絶対的な人気を博し、パキスタンとともにオリンピックの金メダル常連であり、2国の争いは代理戦争とまで言われるほどだった。しかし、後にルールが改正されると代表が勝てなくなり、それに従い人気も落ちていくが、それでも世界から見たら根強い人気を持っている。
サッカーも一部では人気があるが、FIFAランキングも常に100位以下とまだまだ弱小国である。ただし、著しい経済発展やアジアカップ出場など、インドサッカー界にも明るい兆しは徐々にだが見え始めている。
主な山脈
インドには人口100万以上の都市がおよそ60近くあり、人口1000万人以上の都市圏は7か所存在する。
しかしそのほとんどが、急激な人口増に対応できていないと言われる。同じように大都市を多く抱える中国と違い、インフラ整備があまり進んでおらず、大都市(笑)となっているような都市も多いのが現状である(インド人が中国を引き合いにしてよく嘆いているのがわかるほど)。どこも大気汚染が深刻であり、その汚染具合は中国の比ではない。
他の国の大都市と比較しても高層ビルは少なく、東京や上海、ソウルのようなアジアの大都市に比肩する摩天楼が並ぶのはムンバイぐらいである。
首都機能を持つニューデリーと、それ以外のオールドデリーに分けられる。
スルタン王朝からムガル帝国の首都を経て、イギリス領時代には一度コルカタにその座を奪われたものの、鉄道敷設を皮切りにコルカタから再び首都の座を奪回し繁栄を取り戻す。
現在も政治・経済の中枢としてモリモリ成長中で、長らくムンバイ・コルカタに次いで第3位だった都市圏人口も最近第1位になったと言われる。
インド最大の港町で、世界有数の貿易港。経済、金融の中心地でもあり、その巨大な市街地にはペンシルビルが無数にそびえる(しかし、一部は欠陥建築であり、しょっちゅう倒壊事故が起きている)。
映画産業も盛んで、世に名高い「ボリウッド」はここの映画業界のこと。ただし「インド映画」ではなくあくまで「ヒンディー語映画」の中心地である。
15世紀にポルトガル人の手が入った時に「ボンベイ」と名称変更され、以降長らくその名で呼ばれたが、1995年になって従来の名称に戻った。しかし今やインド人も大半がボンベイで覚えてしまっており、ムンバイムンバイ言うのは主に極右ぐらいなもののため、再度市名をボンベイに戻すような噂が毎年のように流れている。
インド東部、西ベンガル地方最大の都市で、国内第三位の規模を誇る都市。旧称はカルカッタ。
イギリスの東インド会社が商館を築いたことによって発展の礎が築かれ、モウラの炭田やオリッサの鉄鉱石などで鉄鋼業も興り、19世紀には事実上の首都となった。
しかしその後、産業構造上の問題や市街地の老朽化によって人や金が西部へと流出してしまい、首都機能もデリーに戻されたため大きく地位を下げてしまった。長らく国内第二位だった人口もデリーに抜かれたが、最近になってIT産業を軸に復活している。
イギリス人の文化的な影響が強いことから、演劇が盛ん。かつては映画産業も盛んで「トリウッド」と呼ばれたのだが、ボリウッドや後述の南インド映画産業の台頭によってめっきり影が薄くなってしまった。
また、特徴的な公共交通としてリクシャー(人力車)が知られたが、やがて消えようとしている。
旧称はマドラス。インド洋、ベンガル湾側に面したコロマンデル海岸沿い最大の都市。
ベンガルールとともに、最も先進的な工業が進んだ都市としてフォーブスの評価を受けており、特に自動車産業で名高く、インドのデトロイトと呼ばれた。遠距離バス、鉄道、航空など交通の拠点としても重要な機能を持つ。
タミル語映画の中心地で、映画スタジオが集積しているコダンバッカムという街の頭文字から「コリウッド」と呼ばれている。かつて日本でもブームとなった『ムトゥ 踊るマハラジャ』が代表的なコリウッド映画である。
インド南部、マイソール高原に位置する都市。ベンガルールともいい、そっちが正式な市名のはずである。
インド独立後は航空宇宙産業の拠点として重要視され、更にそこから発展したIC産業、そしてIT関連産業で世界的に知られるようになり、「インドのシリコンバレー」と呼ばれるようになった。
教育水準の高さでも知られ、インドのエリートが集まる都市の一つにもなっているほか、海外からの留学先としても人気。
ハイダラーバードともいう。パキスタンにも全く同じ市名の大都市があり、紛らわしい。古くより近くでダイヤモンドが採掘されていたことから、宝石加工の産地として有名である。また、経済特区(ハイテクシティー)が設けられ、国内外の大規模なIT企業が林立している。
テルグ語映画産業の中心地であり「トリウッド」の異名をとるが、先述の通りコルカタの方も「トリウッド」なのでややこしい。日本をはじめとする海外で大ヒットを収めた『バーフバリ』や『RRR』はこのトリウッドが生んだ映画である。
かつてはアーメダバードと呼ばれることが多かった。インド西部の大都市の一つで、農業や綿織物業などが伝統的に盛ん。
インドでも特にイスラム教徒が多い地であり、数多くのモスクがある。
かつてはプーナとも呼ばれた。ムンバイの郊外にあり、富裕層の別荘地として発展した工業都市。
インドの頭脳、東のオックスフォードともいわれるほど数多くの教育、学術研究機関が存在し、ベンガルールと並びIT産業が盛んな都市。
インドの学術都市。国内屈指の難関校、インド工科大学カーンプル校がある。
インドの中心に位置する都市。比較的仏教が盛んな都市であり、ここより南が南天竺と言われたデカン高原にあたる。
オレンジの名産地としても知られ、オレンジ・シティの異名も持つ。
東海岸にある有数のリゾート、港湾都市。鉄鋼、造船、石油化学などが盛んなほか、インド最大の海軍基地でもある。
ニコニコ動画では「トゥルトゥルダダダ」と呼ばれる曲が、その高いテンションと空耳で人気を博した。詳しくは「トゥルトゥルダダダ」ならびに「ベリーナイスジャンキー組合」を参照。また、インド映画も地味に人気がある。
独創的な文化及び風俗から、様々な動画が投稿されている。今後の動向が非常に期待される国の一つである。
掲示板
1237 ななしのよっしん
2024/12/22(日) 20:37:03 ID: lsljmgQnQ/
1238 ななしのよっしん
2024/12/23(月) 00:11:36 ID: uW54xBlygK
>今時インド以外だと北朝鮮ぐらいしかないカースト制度
カーストに由来する差別は存在するけどカースト「制度」は禁止されて存在しない
1239 ななしのよっしん
2024/12/25(水) 10:30:16 ID: 2s7nDyfPv/
ちなみにインドの出生率も公式にはもう2.1を切ってるし日本の生き残りのために移民が必要だと民族主義的なインド人が説教してくるのはちゃんちゃらおかしな話
彼らは欧米で既に散々やってきたように単に政府や日本企業を乗っ取るために自分の仲間や家族をインドから連れてきたいだけだと思う、英語の公式化もその一環(英語はインドの公用語の一つ)
"インド出身だけど帰化したから日本人"なんてのは彼らの移住先での極めて民族主義的で縁故主義的な振る舞いを見てれば大嘘だとわかるよ
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最終更新:2024/12/25(水) 12:00
最終更新:2024/12/25(水) 12:00
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