駆逐艦秋風虐殺事件とは、1943年3月17日または18日[1]に発生した、大日本帝国海軍による民間人虐殺事件である。
「秋風事件」などとも言われる。英語圏では「Akikaze Massacre」などと呼称されている。
概要
第二次世界大戦中、ドイツ人宣教師らなどを含む多数の外国籍民間人ら数十名を移送していた大日本帝国海軍の駆逐艦「秋風」上において、上層部からの命令に従って日本軍人らがその民間人ら全員を殺処分した事件。「ビハール号事件」などと並んで、大日本帝国海軍の歴史上の汚点として知られている。
事件当時秋風に乗船していた者が戦後に尋問を受けており、その供述から「殺害すべしとする命令を受け取った艦長らが顔色を悪くして不本意だと言っていたこと」「殺処分の過程について」「犠牲者中には幼い子どもも含まれていたこと」「殺害当日の夜に日本軍人らが供物を捧げて読経を行うなどの慰霊式を行っていたこと」など、当時の現場の状況に関する情報が得られている。
それらの供述書類の日本語原文やその英訳要約書類などについてオーストラリア政府が保管し、デジタル化画像を同国の国立公文書館のウェブサイトで公開しているために現在では原資料がネット上で閲覧できる(本記事「関連リンク」参照)。
だが、「なぜ民間人、しかも多くは同盟国であるドイツの国民を含む人々を虐殺するような命令が出されたのか」については、命令を受け取った秋風の艦長らが戦死してしまっていたために尋問できなかったことや、命令を出した者への責任追及が有耶無耶になってしまったことから結局不明瞭なままとなってしまっている。
殺害されたドイツ人宣教師を追悼している教会のウェブサイト(本記事「関連リンク」参照)などでは、「宣教師らが現地で負傷したアメリカ人の治療なども行っていたため、スパイとして疑われていたのではないか」という推測を述べている。
証言の例
(※以下引用部内の「●」は、元の資料から転記する際に、画質不良や手書き文字故の曖昧さ、古い表現の理解不足などで判読できなかった文字である。本記事の読者の方で、元の画像を確認して文字が判読できた方は当該部を更新頂きたい。)
甲斐彌次郎の証言
オーストラリア国立公文書館所蔵、シリーズ「MP742/1」内、コントロールシンボル「336/1/1444 PART 2」、表題『"Akikaze" Massacre - Reported killing of civilians 18.3.43 [also murder of internees at Kavieng] Akikaze massacre - sub-file to MISC 1 - Statements, interrogations, affidavits etc.』(アイテムID「30112609」)、64-68ページより転記。
宣誓書
『良心ニ従ヒ眞実ヲ述べ何事ヲモ黙秘セズ又何事ヲモ附加セザルコトヲ誓フ』
昭和十八年三月十六日頃私ハ命ニ依リ秋風ニ便乘「カイリル」発「ラバウル」ニ出張中「ロレンガウ」「キヤビエン」ニ寄港シテ三月十八日頃「ラバウル」ニ到着 約十日間滞在後駆逐艦ニ便乘シテ「ウエワク」ニ改着シマシタ其ノ間ノ出来事ヲ記憶ヲ呼起シ戸々茲ニ記述シマス
私ノ「ラバウル」出張目的ハ在「ラバウル」関係海軍各機関ニ着任挨拶、「ラバウル」方面状況視察デ序ニ「カイリル」ヨリ秋風ニ便乘シ「ラバウル」ニ輸送サレル第三國人ノ世話ヲセヨト謂フコトデアリマシタ
當時私ノ身分ハ海軍豫備大尉デ第八海軍建設部ニ●、第二特別根據地隊司令部附、「ラバウル」海軍運輸部ニ●デアリマシタ 出張命令ハ司令官鎌田少將ヨリ直接受ケマシタ 多田野主席参謀矢倉次席参謀モ勿論承知ノ筈デス 関係●●ハ「カイリル」●沖ニ碇泊中ノ秋風艦上ニ於テ便乘 第三國人ト共ニ矢倉参謀ヨリ直接艦長ニ引渡サレマシタ 第三國人ハ陸上ニ於テ人員調ベラレテ手荷物各自五個●ト共ニ「ダイハツ」ニテ秋風ニ積込マレマシタ 私ハ「ウエワク」司令部ト陸上ニ於テ人員調ベノ時ニ便乘第三國人ノ名簿ヲミマシタ 矢倉参謀ハ秋風出港直前ニ退艦サレマシタ 「カイリル」デ便乘シタ者ハ●●第三國人約二十六、七名デ男ノ數ヨリ女ノ數ガ多カツタ様ニ記憶シテオリマス 支那人ノ子供ガ二人 一人ハ漸ク歩ク位ノ程度一人ハ七歳位デ男ノ子ト女ノ子デ女ノ宣敎師ニ伴ハレテオリマシタガドチラガ男デアツタカ記憶ニ残ツテオリマセン 當時「カイリル」島ニハ第二特別根據地隊ノ派遣隊ガアリマシタガ其時ノ指揮官ノ名ハ記憶シテオリマセン 「カイリル」で乘艦シタ第三國人ノ内老齢ノ宣敎師「ビシヨツプ」𠀋デ他ノ人名ハ記憶シマセン 翌日秋風ハ「ロレンガウ」ニ入港シテ第三國人四十名餘ト日本海軍々人及軍属約十名餘ヲ搭載シマシタ 秋風ハ港内ニ錨泊シテオリマシタノデ右ノ人々ハ「ダイハツ」デ荷物ト共ニ艦ニ運バレテヰマシタ 私ハ勿論派遣隊長ノ名モ便乘シテ來タ日本海軍々属軍人及第三國人ノ名モ知リマセン第三國人ハ大部英語デ話シテヰマシタガ間ニハ独乙語、馬來語デ話シテヰル者モアリマシタ 「ロレンガウ」便乘ノ第三國人ニハ艦首ノ兵員室ヲアテ「カイリル」便乘ノ第三國人ニハ艦尾ノ兵員室ヲアテテ居住ニ供サレテヰマシタ
「ロレンガウ」便乘ノ日本海軍々属軍人ハ端艇甲板ニ起居シ私ハ食事ハ士官食堂デ執リ暑気ガ烈シイノデ起居ハ主トシテ甲板上ニ移動寝台ヲ積出シテ過シマシタ 三月十七日頃ノ夕刻秋風ハ「ロレンガウ」ヲ出港 翌日午前十時頃「カビエン」到着 間モナク出港シマシタ 陸上ヨリハ連絡艇來リ直グ●リマシタ 「カビエン」ニテハ便乘者ナシ 出港ノ時艦長ヨリ次ノコトヲ知ラサレマシタ 第八艦隊ノ命ニ依リ乘艦中ノ第三國人ヲ銃殺スルト 其ノ時司令及艦長ノ顔色ハ大変悪ルク心配シテヰル様子デアツタ 不本意ダガ命令ダカラ仕方ガナイト司令モ艦長モイツテヰマシタ 私ハ如何ナル様式デ命令ガ來タカ又如何ナル理由デ第三國人ヲ銃殺サレルカ知ルコトハ出來マセンデシタ
秋風ハ水道ヲ通過シテ南下シマシタ 其ノ途中デ艦尾兵員室ノ第三國人ハ艦首兵員室ニ移サレマシタ 続イテ日本人便乘者及ビ私モ艦首甲板ノ方ヘ移リマシタ 艦橋ノ後方デハ兵員ノ手デ準備ガ進メラレ艦尾ニ二米平方位ノ板製「プラツトホーム」ヲ設ケ支柱ト両側ニハ「ロープ」を張リテアリ艦橋ヨリ艦尾迄ノ甲板上両舷共「キヤンバススクリーン」ヲ二個所ニ張リ前方ヨリ後方ノ見透シガ出來ヌ様ニシテアリマシタ 之ハ銃殺ガ終了シテ後現場ヲ見テ知リマシタ 正午前ニ中食ヲ了シマシタ 士官食堂ハ艦橋ノ下方ニ在リマシタ 正午過ギヨリ銃殺ガ「カビエン」南方洋上約六十浬ノ地奌ニテ実施サレマシタ 司令艦長、航海長等ハ艦橋ニ居マシタ先任將校ガ艦尾デ指揮ヲシテヰルコトヲ兵員カラ聞キマシタ 艦橋ト艦尾トハ屡々連絡ヲトツテ居タ様子ガ見エテヰマシタ 前方ヨリ艦尾ノ状況ハ見エズ又機械ノ音ト風圧ニ依ツテ前方甲板ニ居タ私ニハ銃ノ音モ聞キ取ルコトハ出來マセンデシタ 第三國人ハ一人又ハ二人兵員ニヨリテ艦尾ノ方ニ連レテ行カレマシタ 私ハ前方甲板上ニ居タガ時々第三國人ノ部屋ニ入リ宣撫ヤ兵員ノ通訳ニツトメマシタ 後方ニ連レテユカレル第三國人●最初「スクリーン」ニ入ルマデ殆ンド不安ニ思ヒ動揺スル様子ハアリマセンデシタ 支那人ノ子供ハ女ノ宣敎師ガ連レテ行キマシタ 午后三時半頃銃殺ハ終了シマシタ 其ノ後私ハ艦尾ニ行ツテ状況ヲ見マシタ
「プラツトホーム」上ニ血痕ハ餘リ目ニ付キマセンデシタ 機銃ハ二挺置イテアリマシタガ重機カ軽機カハ記憶シマセン 又打殻モ気付キマセンデシタ 未ダ「スクリーン」ハ其儘ニシテアリマシタ
當日夜十時頃秋風ハ「ラバウル」ニ入港シマシタ 司令、船長ト私ハ直チニ上陸 第八艦隊司令部ニ行キマシタ 幕僚室ニ居ラレタ神首席参謀ニ艦長ヨリ報告サレマシタ 神参謀ヨリ本事件ニ●テハ決シテ他言シテハナラヌト注意ガアリ艦長ハ明日第三國人ノ手荷物ヲ陸揚ゲスル様言ツテヰマシタ 私ハ五分間バカリ居タガ神参謀ニハ只今到着シタ旨告ゲタ以外會話ヲ致シマセンデシタ 私𠀋ハ一足先ニ幕僚室ヲ出テ第八特別根據地隊司令部ニ行キ宿泊シマシタ 其ノ後ノ秋風ノ状況ハ全ク知リマセン 又秋風司令、艦長其他乗員ノ氏名ハ全ク記憶ニ残ツテ居リマセン 約十日間「ラバウル」ニ滞在シ出張ノ目的ヲ達シタノデ駆潜艇ノ便ヲ借リ「ウエワク」ニ●着シマシタ
司令官鎌田少將、首席参謀多田野大佐ニハ行動中ノ總テノコトヲ報告シマシタ 第三國人銃殺ニ関シテハ非常ニ驚駭シ痛哭サレマシタ 「ラバウル」ヨリハ司令部宛数通ノ書類ヲ●ツテ●リマシタ 内容ハ知リマセン 又調査報告書ニ稲ノ種二袋トヲ司令官ニ提出シマシタ
石神信一の証言
オーストラリア国立公文書館所蔵、シリーズ「MP742/1」内、コントロールシンボル「336/1/1444 PART 2」、表題『"Akikaze" Massacre - Reported killing of civilians 18.3.43 [also murder of internees at Kavieng] Akikaze massacre - sub-file to MISC 1 - Statements, interrogations, affidavits etc.』(アイテムID「30112609」)、42-43ページより転記。
宣誓書
「良心ニ従ヒ眞実ヲ述べ何事ヲモ黙秘セズ又何事ヲモ附加セザルコトヲ誓フ」
現住所 (省略)
石神信一
大正五年五月二十●日生(三十一才)一.石神信一ノ配置 ●●隊 機械部●●●● 機械●●總員配置ニテ機械室ニテ当直ス
艦長 海軍少佐 佐部鶴吉 福井縣出身ニテ 昭和十八年八月二日駆逐艦秋風ニテ爆撃ノ為●●ニテ戦死ス
先任将校 若イ中尉ナルモ名前記憶セズ
艦長ト同日戦死ス
其ノ他乗組●●● 名前記憶セズ駆逐艦秋風ハ昭和十八年三月(?)「ラバウル」ヲ出港シ任務ハ兵員輸送ノ爲ト思フガ途中 島(名記憶セズ)ニ●●外人約三十名乘艦サセ又途中外人約二十名ヲ乘艦サセテ「ラバウル」ニ帰航ノ途中ニテ●外人全部●殺害セリ 殺害当時自分ハ總員当直ノ爲機械室ニ居て銃声ヲ聞ク 関係者以外ハ見ルコトヲ厳禁サレテヰタ爲ニ殺害当時ノ模様ハ全然シラズ
殺害場所●●甲板ニ幕ヲ張リ見ルコトヲ禁ズ 銃声ノミ耳ニス
外人ハ男、女、子供二・三人ニシテ●●●●●●ルモ●●ハ判明セズ
銃ノ射手等ニ付テハ不明
当時ノ関係者以外ニハ口外ハ厳禁サレテヰタ爲詳細不明外人ヲ乘艦サセテカラハ後部居住甲板一室ニ入レテ「ミルク」「パン」等ヲ●●優遇スルノヲ見●ナル
殺害ノ当夜ハ●甲板ヲ清掃シ供物ヲ飾●總員参列某水兵(氏名記憶セズ)ガ入團前ニ僧侶ノ爲ニ読経シテ死没者ニ対シ懇ナル供養ヲナシ一同●冥福ヲ祈ル
誰ノ命令ニテ又如何●●●ヲ以テ殺害セルカハ知ラネドモ死者ニ対スル丁重ナル扱ハ日本ノ姿ナルコトヲ●リ印象ス石神信一
関連リンク
- Basic search | RecordSearch | National Archives of Australia (オーストラリア国立公文書館の資料検索画面。「akikaze」のキーワードで検索すると本事件の資料を確認でき、その中でも「Digitised item」が利用可能なものは資料のスキャン画像も閲覧可能)
- The Akikaze Massacre: the Japanese Navy’s Mass Murder in the Solomon Sea - History Guild
- Josef Lörks – Wikipedia (Wikipediaドイツ語版、このとき殺害された被害者内でも高位の聖職者だった人物「ヨーゼフ・ラークス司教」の記事)
- 17.03.1943: Todestag Bischof Joseph Lörks SVD - Kath. Kirche Kalkar (ドイツの都市「カルカー」にある聖ニコライ教会のウェブサイト内、ヨーゼフ・ラークス司教に関するページ。殺害理由の推測が記されている)
関連項目
- 駐蒙軍冬季衛生研究成績 (「相手を殺害しつつも慰霊祭を行い、そのことについて感動の念を表明」という、この事件での石神信一の供述書に類似した内容が含まれる。当時は一般的な感性だったのかもしれない)
脚注
- *甲斐彌次郎の証言が正しいなら、16日にカイリルを出港して翌17日にロレンガウに到着、同日夕にロレンガウを出港して翌18日午前中にカビエンに到着、すぐに出発して昼過ぎに事件が発生しているので、18日のはずである。だが他に17日だとする資料も存在するとのこと。
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