遠藤保仁(Yasuhito Endo, 1980年1月28日 - )とは、日本の元サッカー選手である。
元サッカー日本代表。ガンバ大阪コーチ。
概要
鹿児島県鹿児島市生まれ。ニックネームはヤットであり、愛称はガチャピン。Jリーグ通算776試合出場113得点。日本代表として国際Aマッチ152試合15得点。
2010年代の日本サッカーを代表するプレーメーカーであり、長らく日本の心臓と呼ばれた日本代表の中心選手であり、日本代表の国際Aマッチ最多出場記録保持者。公式戦の出場試合数は1000試合を超えている。FIFAワールドカップには2010年大会と2014年大会の二度ピッチに立っており、2010 FIFAワールドカップのデンマーク戦では直接フリーキックでゴールを決め、日本の決勝トーナメント進出の立役者となっている。
19年間在籍していたガンバ大阪では、2度のJリーグ優勝を果たし、2014年には国内三冠を達成。この年のJリーグ最優秀選手賞を受賞している。Jリーグベストイレブンには、歴代最多の12回選出。2008年にはAFCチャンピオンズリーグ優勝。2009年アジアサッカー連盟最優秀選手を受賞。2019年には公式戦1000試合出場という記録を作り出している。
実の兄である遠藤彰弘もアトランタ五輪に出場した経歴を持つ元プロサッカー選手である。長短織り交ぜたパスで緩急をつけることができるゲームメーカーであり、ペナルティキック、フリーキックの名手としても知られる。全盛期の頃はガンバ大阪でも日本代表でも代えの効かない唯一無二の存在となっていた。
経歴
生い立ち
三兄弟の三男として桜島の麓で生まれ育つ。2人の兄がサッカーをやっていた影響で物心ついたときから毎日自宅の庭でボールを蹴り、兄たちと遊びつつ、ワールドカップのビデオを見て気に入ったプレーを真似ることで高い技術を磨いていった。二人の兄から受けた影響は大きく、プロフィール欄の好きなサッカー選手には二人の兄の名前を書いているほど。
小学生になると桜洲小学校の少年サッカーチームに入り、この頃はドリブラーであり、4年生のときには6年生主体のトップチームのFWに抜擢されていた。当時のコーチからは「頭が疲れる選手になれ」と指導されており、その教え通り、小学生にして二つ先、三つ先を考えたプレーをこなすようになっていた。
中学生になると桜島中学に入学し、この頃からボランチとしてプレーするようになり、この頃にアシストやパスの楽しさを覚え、現在のプレースタイルの原点を生み出している。
高校は2人の兄と同じ全国的にサッカーの強豪校として知られる鹿児島実業高校に進学。1年生のときに第95回全国高校サッカー選手権に出場し、優勝。2年生のときには高円宮杯優勝、高校選手権ではベスト8で敗れたものの、大会優秀選手に選出。また、2年生の頃にサッカー部のブラジル人コーチであるゼ・カルロスの勧めで1カ月間のブラジル留学を経験。高校時代に輝かしいキャリアを残し、プロの道へと進む。
クラブチームでのキャリア
1998年にJリーグの横浜フリューゲルスへ入団。後にリオネル・メッシの才能を見出したことでも知られるカルロス・レシャック監督に才能を高く評価され、1998年3月22日Jリーグ開幕戦である横浜マリノス戦にルーキーながらスタメンに抜擢される。8月1日の鹿島アントラーズ戦ではプロ初ゴールを記録。レシャックが解任されて以降は出場機会が減ったが、プロ1年目で公式戦20試合に出場し、順調なプロキャリアのスタートを切ったかに見えた。しかし、チームはマリノスとの合併により消滅してしまう。
1999年フリューゲルスに所属していた他の若手選手とともに京都パープルサンガに移籍。同じ年に移籍してきた三浦知良とチームメイトになる。所属した2年間でレギュラーを掴み、得点数も増えるが、チームは下位に沈み、度重なる監督交代で混乱が生じていた。2000年シーズンで京都はJ2降格となり、これに伴って退団を決意する。21歳にして2度の移籍を経験する波乱万丈なプロキャリアとなった。
2001年にJリーグで3チーム目となるガンバ大阪へ移籍。同世代であるシドニー五輪世代の選手が多く揃う環境の中、稲本潤一がアーセナルに移籍したこともあり、中盤の柱として期待されるようになる。2002年に西野朗監督が就任し、攻撃的なスタイルのサッカーと自身のプレースタイルが見事にマッチ。中心選手としてチームを過去最高の年間3位に押し上げる。2003年から背番号「7」を付けるようになり、この年のJリーグベストイレブンに選出され、以降2012年まで9年間連続で選出されるという偉業を成し遂げる。
2005年はガンバにとっても遠藤にとっても大きな転機のシーズンとなる。中盤戦以降、アラウージョ、大黒将志、フェルナンジーニョといった強力攻撃陣を操る司令塔として爆発的な得点力を演出。チームの初タイトルがかかったジェフユナイテッド千葉戦とのヤマザキナビスコカップ決勝では、PK戦で立石智紀に止められプロ入り初のPK失敗を経験。惜しくもタイトルを逃す。しかし、リーグ戦では終盤戦まで優勝争いを演じ、最終節の川崎フロンターレ戦ではPKで決勝ゴールを記録。チーム初タイトルとなるJリーグ優勝に貢献。総得点82を記録した攻撃陣の中、自身も初のシーズン二桁得点となる10得点を挙げた。
2006年シーズンは、1列前の攻撃的MFで起用されることが増え、二川孝広、橋本英朗、明神智和と共に「黄金の中盤」と称されたカルテットを形成。抜群のパスワークで他チームを圧倒していたが、10月の日本代表のインド遠征の際にウィルス性肝炎を発症。1か月以上の戦線離脱を余儀なくされる。Jリーグ最終節優勝のかかった浦和レッズとの直接対決で復帰するも、試合に敗れ連覇を逃す。2007年は大きな怪我や病気も無くフル稼働。リーグ戦では全34試合に出場。また、ナビスコカップは決勝まで進み、川崎フロンターレを下して優勝に貢献する。
2008年は、チームと代表での過密日程が続いたこともあり、6月末にウィルス性肝炎を再発させてしまう。結果、オーバーエイジ枠での出場が見込まれていた北京五輪に出場できず、遠藤が離脱したことでガンバも不振に陥ってしまい、優勝争いから早々と離脱してしまう。一方、復帰後のAFCチャンピオンズリーグ(AFC)ではアシストを連発し、チームを勝ち上がらせる。特に、準決勝の浦和戦では、2試合で2得点2アシストという全得点に絡む獅子奮迅の活躍を見せ、チーム初となるアジア制覇に貢献。大会のMVPも受賞する。12月には、日本で開催されたFIFAクラブワールドカップに出場。準決勝のマンチェスター・ユナイテッド戦では、得意のコロコロPKでゴールを決め、試合後アレックス・ファーガソン監督が称賛するほどの活躍を見せた。さらに、超過密日程の中で天皇杯も決勝まで勝ち上がり、延長戦の末に柏レイソルを破って優勝。これで国内3大タイトル全てを経験したことになる。この例を見ない多忙だったシーズンでの活躍が認められ、この年の日本年間最優秀選手賞を受賞。
2009年は、ポジションを代表と同じボランチに戻しながらも、自身二度目となるリーグ戦二桁得点を記録。11月には、なぜかこの年に日本人としては5人目となるアジア年間最優秀選手賞を受賞。2010年元旦の天皇杯決勝では、名古屋グランパスを相手に2ゴール1アシストの大車輪の活躍を見せ、連覇に貢献。だが、W杯イヤーとなった2010年は代表との過密日程でコンディションが安定せず、不調に陥る。遠藤の調子が落ちるとチームの調子も落ち、開幕から5試合未勝利が続く。後半戦に宇佐美貴史の台頭もあってチームは立ち直り、自身もW杯後は例年通りの水準のプレーを見せていた。しかし、過密日程の影響は2011年にも見られ、右足内転筋の負傷によって8月以降、シーズン終盤までプレスキックが蹴れない時期が続いた。
前年度で10年間続いた西野体制が終了し、2012年から新たなスタートを切ったチームだったが、開幕から公式戦5連敗という予想以上の低迷期を迎える。低迷するチームの中で孤軍奮闘を見せ、J1第15節コンサドーレ札幌戦では、当時のJリーグ歴代1位となる16度目のFKからの直接ゴールを記録。7月21日に開催された東日本大震災復興支援のJリーグスペシャルマッチでは、サポーター投票で最多得票を集める。だが、極度の不振に陥ったチームの歯車はとうとう最後まで噛み合わず、まさかのJ2降格の悪夢を味わうことに。9年連続で選出されたJリーグベストイレブンもこの年で記録が途切れることとなった。
オフに移籍する話も浮上していたが、2013年もガンバに残留し、自身初となるJ2を戦うことに。さらにこの年、チームのキャプテンを任されることとなった。日本代表との兼ね合いによってシーズンの4分の1は欠場することとなったが、夏に宇佐美がチームに復帰したこともあり、ヴィッセル神戸との首位争いを演じる。シーズン終盤は前線で起用されるようになり、J2優勝によって1年でのJ1復帰を果たす。
J1復帰となった2014年は、開幕当初は引き続き前線で起用されたが、極度の不振に陥り、らしくないミスを連発していた。4月以降今野奏幸とダブルボランチを形成するようになるが、本来のプレー水準には達しておらず、チームも前半戦は降格圏の16位にまで低迷。しかし、ブラジルW杯の中断期間明けからは、休養を取れたことと代表に呼ばれなくなったことで調子を取り戻し、司令塔としてV字回復を見せたチームを牽引する。11月3日のナビスコカップ決勝サンフレッチェ広島戦では、2点ビハインドの状況からパトリックのゴールをアシストし、逆転劇の呼び水となり7年ぶりの優勝に貢献。リーグ戦ではフィールドプレイヤーでは唯一となる全試合フル出場を果たし、最大差14点からの大逆転での優勝を果たす。また、12月開催となった天皇杯も制し、J1昇格1年目にして史上2チーム目となる国内三冠を達成。この年のJリーグアウォーズでは、自身初となるJリーグ最優秀選手賞を受賞している。さらに、2度目となる日本年間最優秀選手賞も受賞。
2015年も2年連続でリーグ戦全試合フル出場を果たし、若返ったチームをベテランとして牽引。CS決勝で広島に敗れ、リーグのタイトルは逃したが、天皇杯決勝の浦和戦でコーナーキックからパトリックのゴールをアシストし、連覇に貢献。2年連続でJリーグベストイレブンにも選出されている。
2016年も3年連続でリーグ戦全試合に出場。10月29日のアルビレックス新潟戦でJ1通算100得点を達成。
2017年は4月のACLでの失点に絡むミスなど不調に陥り、ゴールデンウィークの時期にかけてスタメンを外されることとなり、一部では限界説が囁かれるようになる。それでも、徐々に調子を取り戻すが、秋以降クラブワースト記録となる13試合未勝利を味わう。
2018年にはフィールドプレイヤーとしては史上初となるJ1通算600試合出場を達成。
2019年は、さすがに常時出場は厳しくなり、試合途中から出場することも多くなったが、それでも出場すればチームのリズムを変える重要な働きを見せ、健在ぶりを見せる。8月8日のJ1第21節ヴィッセル神戸戦では、プロ22年目で日本人選手としては史上初となる公式戦1000試合出場となる偉業を成し遂げる。
40歳を迎えての2020年も現役としてピッチに立つ。2月23日のJ1開幕戦横浜F・マリノス戦でスタメンフル出場を果たし、21年連続開幕スタメンを果たす。7月6日のセレッソ大阪戦では、J1新記録となる632試合出場を果たす。しかし、8月のリーグ戦では2試合連続でベンチ外になるなど、若返りを図るチームにおいて出場機会が激減。出場機会にこだわったこともあり、20年ぶりに他チームに移籍することを決断する。
2020年10月5日、J2リーグのジュビロ磐田への期限付き移籍が決定する。背番号は「50」。10月10日の松本山雅戦でスタメンで起用されて新天地でのデビューを果たして以降、中盤で存在感を見せ低迷していたチームの中心として君臨。10月29日のJ2第29節ザスパクサツ群馬戦では得意とするFKからの直接ゴールで移籍後初ゴールを決め、チームの勝利に貢献する。J1昇格は果たすことはできなかったが、加入後チームの活性化に貢献しており、最終的に6位まで浮上させてシーズンを終えた
2021年1月5日に移籍期間の延長が発表され、2021年も磐田でプレーすることとなる。開幕から主力としてプレーするが、4月に練習中に負傷を負い7試合を欠場。5月15日のJ2第14節群馬戦でスタメンに復帰すると、決勝ゴールを決め、Jリーグで98年から24年間連続でゴールを決めるという前人未踏の記録を樹立する。6月13日には、J2第18節ヴァンフォーレ甲府戦にフル出場し、史上初となるJリーグ通算700試合出場を達成する。8月14日のJ2第24節東京ヴェルディ戦では、芸術的なFKから直接ゴールを決め、かつて代表でチームメイトだった田中マルクス闘莉王が大絶賛する。41歳という年齢ながらも高い戦術眼とパスセンスを駆使して不動の司令塔として磐田のJ1復帰とJ2リーグ優勝に大きく貢献する。
2021年12月27日、磐田への完全移籍が発表される。
J1復帰となった2022年は、42歳になりながらも開幕からスタメンで出場を続ける。3月12日J1第4節では古巣であるG大阪と実に22年ぶりに対戦することになり、ゴールに絡む活躍を見せている。降格圏に低迷するチームの中で毎試合スタメンに名を連ね奮闘していたが、最下位に沈むチームが守備的な戦いにシフトした影響で終盤はスタメンを外れることも多くなる。久々のパナソニックスタジアム凱旋となった10月29日の第33節G大阪戦ではフル出場するが、チームは敗れてJ2降格が決定。さらに24年間継続していた公式戦での連続得点記録も途絶えることとなった。
43歳となっても1年間契約を延長し、2023年は再びJ2で戦うこととなった。開幕から2試合連続アシストを記録し、前半戦はスタメンとしてプレーしていたが、後半戦に入ると若手の台頭もあって出場機会が激減。チームがJ1昇格争いを繰り広げた終盤の10試合ではわずか2試合11分のプレー機会しか与えられず、磐田が1年でJ1復帰を果たしたなかで存在感は薄れていた。
2024年1月9日に現役引退を表明。引退発表と同時にガンバ大阪のコーチに就任することが発表される。
遠藤の引退をもって横浜フリューゲルスに在籍した選手が全員現役を退くことになる。。
日本代表
高校生の頃から格年代のカテゴリー別の日本代表に選出されており、公式戦に初めて出場したのは1998年のAFCユース選手権1998。グループリーグ最初の2試合はスタメンで起用され、第2戦のイラク戦ではクロスボールからオウンゴールを誘発してチームの6得点目を演出。しかし、以降の試合は稲本潤一、酒井友之の控えに回り、悔しさの残る大会となった。
1999年フィリップ・トルシエがU-20代表の監督に就任しても、当初は控えのボランチという位置づけだった。しかし、本大会の直前に稲本が負傷したことによりボランチのレギュラーを掴む。4月にナイジェリアで開催された1999 FIFAワールドユース選手権では、快進撃を続ける日本のボランチとして決勝までの全7試合にスタメンで出場。タレント揃いの攻撃陣にパスを捌く配球役に徹し、ベスト16のポルトガル戦では先制ゴールを決めるなど、日本の準優勝という輝かしい結果に貢献。後にこのときのU-20代表は、遠藤を含めた多くのA代表選手を輩出し、「黄金世代」と称されるようになる。
次の目標として掲げていたシドニー五輪出場に向けて、U-22日本代表として戦うこととなる。アジア予選からメンバーに選ばれ、1999年10月からスタートしたアジア最終予選では、稲本とのコンビでボランチとしてスタメンに固定されるが、本大会出場を決めたカザフスタン戦で前半で交代させられてしまう。以降はレギュラーの座を失ってしまい、オーバーエイジ枠が加わった2000年のシドニーオリンピック本大会は予備登録メンバーに選出されたのみとなった。
2002年ジーコ監督から日本代表に初めて選出され、11月20日のアルゼンチン戦でフル代表デビューを果たす。2003年に入るとレギュラーで起用されるようになり、6月に開催されたFIFAコンフェデレーションズ2013では3試合全てにスタメンとして出場。8月20日のナイジェリア戦で代表初ゴールを奪う。その後も当時は激戦区だった日本のボランチのレギュラー争いで一歩リードし、2004年7月に中国で開催されたAFCアジアカップ2004にも出場。厳しいアウェイの環境の中、準決勝までの全試合でスタメンに起用されるが、準決勝のバーレーン戦で前半40分に一発レッドカードを提示され、退場となる。そのため、日本が優勝を決めた決勝は出場停止のためスタンドから観戦することとなった。
2005年にドイツW杯アジア予選がスタートすると、チームの大黒柱である中田英寿がボランチにコンバートされるようになり、相方にはフィジカルの長けた福西崇史が選ばれたため控えに回るようになる。結局アジア最終予選は3試合のみの出場となり、試合に出場できるのは海外組が不在のときに限られていた。2006 FIFAワールドカップのメンバーにも選出されるが、フィールドプレイヤーで唯一出場機会がないという屈辱を味わうことになった。
ドイツW杯後に就任したイビチャ・オシム監督からは、代表の中心選手として扱われ、背番号も現役引退した中田英寿から「7」を引き継ぐこととなった。オシム監督は、遠藤をオフェンシブハーフとして起用し、2007年7月に開催されたAFCアジアカップ2007でも全試合にスタメンとして出場。中村俊輔とともにゲームメイクを任され、グループリーグ第3戦のベトナム戦ではチームの2点目を決めている。準決勝の韓国戦では、PK戦までもつれ込み自身は2人目のキッカーとして成功させたが、チームは敗れている。
2007年12月にオシムが脳梗塞のために倒れ、岡田武史が後任となった後の2008年でも引き続きオフェンシブハーフとして起用されていた。岡田監督が「俺のやり方でやる」と発言した南アフリカW杯3次予選のあたりから長谷部誠とのダブルボランチが定着する。岡田監督から「チームの心臓」と称されるほど信頼され、攻撃の全権を担う司令塔として不動の存在となる。2008年9月6日南アフリカW杯アジア最終予選のアウェイのバーレーン戦でPKのキッカーを務めた際に相手サポーターからレーザービームを当てられるなどの妨害を受けながら、コロコロPKを冷静に決めてチームの2点目を挙げる。アジア最終予選では、W杯出場を決めたウズベキスタン戦までの全6試合にフル出場し、本大会出場権獲得に貢献。2010年に入ると、代表とクラブの過密日程による疲労によって休養を余儀なくされるほどの事態に陥っていた。
2010年6月南アフリカで開催された2010 FIFAワールドカップのメンバーに選出。大会直前にチームが守備重視の戦術を取り入れたことで3ボランチの左インサイドハーフとしての起用となった。前回と違い、この大会ではチームの中心として攻撃のタクトを振るい、グループリーグ第3戦のデンマーク戦では、前半30分にチームの2点目となるFKによる直接ゴールを決め、日本の2大会ぶりとなる決勝トーナメント進出に貢献。ベスト16のパラグアイ戦までの全4試合にスタメンで出場し、4試合トータルでチーム1の走行距離を記録するなど、存在感の大きさを示した大会となった。
南アフリカW杯後に就任したアルベルト・ザッケローニ監督からもチームの司令塔を任され、2010年10月12日の韓国との親善試合で史上4人目となる日本代表100試合出場を達成。2011年1月にカタールで開催されたAFCアジアカップ2011でも、チーム最年長として若い攻撃陣を操り、中盤の底から何本も決定的なパスを通す大車輪の活躍を見せる。決勝まで全試合にスタメンで出場し、自身2度目となるアジアカップ優勝に貢献。大会のMVPに選ばれた本田圭佑は「個人的にはヤットさんだと思う。あの人がいなかったら勝負は紙一重だった」と遠藤の貢献ぶりを称えている。
2012年10月16日ブラジルとの親善試合において国際Aマッチ123試合出場を果たし、井原正巳が持っていた日本代表の最多出場記録を14年ぶりに更新する。ブラジルW杯アジア最終予選では、チームに欠かせない存在としてフル稼働し、海外組がスタメンの大部分を占めるチームの中で全8試合にほぼフル出場。前回に続いて日本の本大会出場権獲得に貢献。2013年6月に開催されたFIFAコンフェデレーションズカップ2013でも3試合全てにスタメン出場を果たす。しかし、30代半ばに差し掛かっていた遠藤にとってクラブと代表の過密日程をこなすことは困難になりつつあり、コンディション維持に苦戦するようになっていた。
2014年6月ブラジルで開催された2014 FIFAワールドカップにチームでは唯一3大会連続での出場を果たす。しかし、この当時ガンバで調子を落としていた影響もあり、本大会はスタメンを山口蛍に譲ることとなった。グループリーグ第1戦のコートジボワール戦と第2戦のギリシャ戦では、いずれも長谷部との交代で途中から出場するが、歯車の狂った攻撃陣を立て直すことができず。3戦目のコロンビア戦は出場機会が無いままに終わり、チームもグループリーグ敗退に終わる。
ブラジルW杯後、しばらく代表から遠ざかっていたが、2014年11月14日のホンジュラス戦で成績の振るわない代表の起爆剤としてハビエル・アギーレ監督から招集される。その試合でゴールを決め、復活をアピールすると、2015年1月にオーストラリアで開催されたAFCアジアカップ2015に出場。自身4度目の出場となる大会に初戦のパレスチナ戦で先制ゴールを決める。この大会では出場時間を限定しながら全4試合にスタメンで出場。準々決勝のUAE戦は、精彩を欠いて後半9分に柴崎岳と交代になる。チームはPK戦の末に敗れ、この試合が代表で出場した最後の試合となった。
国際Aマッチ150試合出場は、現在日本代表の最多出場記録となっている。
個人成績
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
1998 | 横浜フリューゲルス | Jリーグ | 16 | 1 | |
1999 | 京都パープルサンガ | J1リーグ | 24 | 4 | |
2000 | 京都パープルサンガ | J1リーグ | 29 | 5 | |
2001 | ガンバ大阪 | J1リーグ | 30 | 5 | |
2002 | ガンバ大阪 | J1リーグ | 30 | 5 | |
2003 | ガンバ大阪 | J1リーグ | 30 | 4 | |
2004 | ガンバ大阪 | J1リーグ | 29 | 9 | |
2005 | ガンバ大阪 | J1リーグ | 33 | 10 | |
2006 | ガンバ大阪 | J1リーグ | 25 | 9 | |
2007 | ガンバ大阪 | J1リーグ | 34 | 8 | |
2008 | ガンバ大阪 | J1リーグ | 27 | 6 | |
2009 | ガンバ大阪 | J1リーグ | 32 | 10 | |
2010 | ガンバ大阪 | J1リーグ | 33 | 3 | |
2011 | ガンバ大阪 | J1リーグ | 33 | 4 | |
2012 | ガンバ大阪 | J1リーグ | 34 | 5 | |
2013 | ガンバ大阪 | J2リーグ | 33 | 5 | |
2014 | ガンバ大阪 | J1リーグ | 34 | 6 | |
2015 | ガンバ大阪 | J1リーグ | 34 | 5 | |
2016 | ガンバ大阪 | J1リーグ | 34 | 2 | |
2017 | ガンバ大阪 | J1リーグ | 31 | 1 | |
2018 | ガンバ大阪 | J1リーグ | 34 | 1 | |
2019 | ガンバ大阪 | J1リーグ | 28 | 1 | |
2020 |
ガンバ大阪 | J1リーグ | 11 | 0 | |
ジュビロ磐田(loan) | J2リーグ | 15 | 2 | ||
2021 | ジュビロ磐田(loan) | J2リーグ | 35 | 3 | |
2022 | ジュビロ磐田 | J1リーグ | 31 | 0 | |
2023 | ジュビロ磐田 | J2リーグ | 21 | 0 |
個人タイトル
- Jリーグ最優秀選手賞(2014年)
- Jリーグベストイレブン:12回(2003年 - 2012年、2014年 - 2015年)※歴代最多
- AFCチャンピオンズリーグMVP(2008年)
- 日本年間最優秀選手賞:2回(2008年、2014年)
- アジア年間最優秀選手賞(2009年)
プレースタイル
ポジションはボランチもしくはオフェンシブハーフ。中央からボールを散らして攻撃を組み立てるゲームメーカー。フィジカルやスピードといった身体的な特徴は特筆すべきものはなく、派手なテクニックを駆使するわけでもないが、「止める・蹴る」というサッカーの基本プレーの技術が際立って高く、技術の高さに特化した選手である。近い距離のショートパスと中距離の浮き球のパスを得意としており、歴代の日本人選手の中でも精度の高さはトップクラスと言われている。特に短い距離のパスは相手の重心と反対の方向へ出すことでカットされにくい。
彼のプレーは文字通り後方と前線を繋ぐことであり、チーム全体のリズムを調整してゲームをコントロールする能力に長けている。同年代の小野伸二や中村俊輔のようなファンタジスタと比べると地味なスタイルではあるが、長年クラブでも代表でも必要不可欠な存在とされているのはゲームコントロール能力に長けているからである。イビチャ・オシムからは「常に自分をコントロールし、チームメイトや対戦相手をコントロールする。彼がいれば監督は必要ない」と評価されている。
元々運動量が多いわけではなく、バランサーという仕事に特化したタイプだったが、オシムの指導によって自ら仕掛けるプレーを選択肢に入れるようになり、スペースに飛び込みゴール前に顔を出すことも増えた。また、ジーコからプレースキックを蹴るように提言されてからはチームや代表でキッカーを任されることが多くなり、スペシャリストとして知られるようになる。フリーキックは強い回転によって直接ゴールを狙うものと正確に味方に合わせるボールを使い分けることができる。シュート技術も高く、ミドルシュートも得意としているため中盤の選手としては得点力が高い。
フィジカル面は強くないため、スペースを管理する危機察知能力は高いが、対人守備は苦手としている。そのため、代表では長谷部と役割分担を明確にしていた。判断力は高い反面、プレースピードそのものは速くないためポゼッション志向のチームでは重宝されるが、速攻の場面で攻撃を遅らせてしまうこともある。長年、彼のようなタイプの選手がおらず、替えが利かない選手とされていた。それが仇となって過密スケジュールを強いられ、コンディションを崩してしまうこともしばしば。
ペナルティーキック
遠藤のPKは非常に独特である。ゴールキーパーの逆を突くことに重きをおき、自分の足元は見ず
キーパーをじっと見て、「逆が突けるのであれば」ボールのスピードを必要最小限にして蹴り、
「キーパーが動かないようなら」ゴール隅にキーパーが取れない速度で蹴る。
遠藤の正確なキックと集中力のなせる技である。通称:コロコロPK。
しばしば(尊敬と畏怖をこめて)エロイ、エロスと評される。
2008年のFIFAクラブワールドカップのマンチェスター・ユナイテッド戦では、オランダ代表の名GKであるエドウィン・ファン・デル・サールを相手にコロコロPKでゴールを決めている。
人物・エピソード
性格はマイペースでおっとりしていると言われ、あまり目立とうとしない。本人も「緊張はしないし、慌てたりすることもない。」と自己分析している。こうした冷静沈着な性格も、プレースタイルの適性に影響していると言われている。
長友佑都は自身のユーチューブチャンネルで、「最高の天才パサー」第1位に選んでおり、遠藤のパスを「オムライス」と表現し、「オムライスのとろける卵。ふわっとボールが溶けるのよ」とよく分からない独特の例えで称賛していた。
2011年にはゲスト声優として、名探偵コナンの劇場版に出演。演技のことは触れないでおこう。
ガチャピン
ポンキッキーズのマスコットであるガチャピンに似ていると、たびたび話題にされており、本人も似ていると言われることにまんざらでもない様子。スタジアムでガチャピンのイラストや人形を掲げて応援するサポーターも多い。2005年9月24日のポンキッキーズで本物のガチャピンとの初共演が実現。後にガチャピンもガンバ大阪のホームである万博記念競技場へ訪れ、ガチャピンにサッカーを教えている。
2011年に開催されたガンバ大阪のファン感謝祭では、ガチャピンの着ぐるみを来て登場。「本物です」とコメントしていたが、なぜか不愛想なガチャピンと化していた。ちなみに、このとき二川さんが喋ったことのほうがインパクトを残していた。
関連動画
著書
- 自然体~自分のサッカーを貫けば、道は開ける(2009年2月、小学館)
- 明日やろうはバカヤロー(2010年9月、日本スポーツ企画出版社)
- 信頼する力 ジャパン躍進の真実と課題(2011年1月、角川書店)
- 観察眼(2012年1月、角川書店)※今野泰幸との共著
- 眼・術・戦 ヤット流ゲームメイクの極意(2013年4月、カンゼン)※西部謙司との共著
- 変えていく勇気 日本代表であり続けられる理由(2014年12月、文藝春秋)
- 白紙からの選択(2015年12月、講談社)
- 一瞬で決断できる(2017年12月、KADOKAWA)
- 「マイペース」が引き出す可能性 ~常に自分らしくいられる簡単メソッド~(2018年11月、講談社)
※浮世満里子との共著
関連項目
親記事
子記事
兄弟記事
- 2
- 0pt