奴隷の身分から西晋崩壊の過程の混乱の中で頭角を現し、「後趙」の創始者となって中原に覇を唱えた。
概要
若年期(部族長から奴隷へ)
274年、并州の上党郡に生まれる。初名は㔨勒(ハイ ロク)。漢人ではなく「羯」という異民族の出であり、その中の小さな部落の長の家系であったとされている。
父親は粗暴で全く人望がなかったが、㔨勒は成長するにつれて馬や弓の扱いに非凡な才能を見せ、若くして父の代わりに部族長のような立場となり、人々に慕われていたという。
転機となったのは并州で大飢饉が発生した時で、生活に困った㔨勒は羯の人々を連れて職を求めて南へと向かったが、そこで并州刺史司馬騰配下の兵に捕らえられ、暴行された上に人身売買に掛けられるという大変な恥辱を味わった。
結局の所、㔨勒は師懽という漢人に買い取られ、そこで農作業などをさせられていたが、ほどなくして師懽も㔨勒がただものではない事を感じ取り、奴隷の身分から解放することとした。
華北を脅かす野盗軍団
解放されたとはいえ、すでに齢30に達していて文字もさっぱり読めない上に異民族であるという人生軽く詰みの㔨勒であったが、馬の目利きの才能があったことから師懽の近所の馬牧場の主である汲桑という男に拾われ、そこで世話になる事となった。
305年、三国を統一したはずの西晋であったが、早くも八王の乱という泥沼の内戦によって大いに乱れており、この混乱に乗じて成り上がりの野心を持った汲桑は挙兵して大将軍を自称する。この頃、汲桑は㔨勒に「石」姓を名乗るように勧め、「石勒」と名乗りを改めた。
汲桑はすでに死亡していた八王の一角、司馬穎の棺を掘り返して神輿に祭り上げ、その復讐を大義にして各地を荒らし回り、その中で石勒も持ち前の武勇を大いに轟かせて名を挙げた。この戦乱の中で石勒はかつて自分を奴隷に貶した司馬騰とその一族を抹殺して、鄴の街を焼き払った。
略奪と刺史殺しを行いながら暴れまわる汲桑軍団に手を焼いた西晋は戦上手の苟晞を投入して鎮圧を図り、この苟晞の前に汲桑軍団は致命的な大敗を喫して離散し、汲桑は討ち死に。石勒も命からがら落ち延びる事となる。
劉淵に臣従する
破れた石勒は胡人を引き連れて并州へと逃げたが、そこで張㔨督・馮莫突に保護され重用されるようになると、やがて彼らに「漢」を旗揚げして漢王を称していた劉淵への帰順を勧めた。そして張㔨督・馮莫突が揃って漢への帰順を誓った際に、劉淵は石勒の才を認め輔漢将軍・平晋王へと任じる。
漢での立場を確保した石勒はますます勢いづき、各地で西晋の武将を打ち破り勢力を拡大。この過程で張賓など国家運営を担える有力な漢人の官僚を確保して組織化を進めていき、311年に漢が洛陽を攻略した際には騎馬で西晋の主力を壊滅させ、捕らえた司馬一族50人以上を容赦なく殺害した。
独立勢力化
しかし、活躍の一方で石勒は徐々に野心を見せ始め、すでに310年には漢の将軍であった王弥を殺してその勢力を吸収しており、劉淵の跡を継いだ劉聡の代には徐々に忠義に疑問符のつく行動を見せ始める。
その後も冀州・幽州・并州を一挙に平定し、鮮卑段部などの異民族を屈服させるなど華北東部の平定において石勒の立てた功績に並ぶものは存在しなかったが、劉聡が死亡した際に補政のために中央に来るように要求されるとこれを断固として拒否してそのまま兵力を持ち続けた。
漢の5代皇帝劉曜の代に中央との対立は決定的となり、石勒は離反。石勒は趙王に任じられていたため、自身の治める国の名前を「趙」としたが、一方で劉曜も長安へと遷都して故事に倣いこちらも国号を「趙」とした。そのため、史書では便宜上長安を都とした劉曜の趙を前趙、襄国を都とした石勒の趙を後趙と呼び分別されるようになった。
華北の覇権を巡って
漢崩壊後は華北東部を治める石勒と西部を治める劉曜の二大勢力に別れたが、すぐに両者で雌雄を決する対決は起きなかった。石勒は西晋の後継国家である東晋や鮮卑との戦いを継続し、劉曜も西晋残党の勢力の掃討に専念したからである。
石勒は法の整備や戸籍の管理、学校の充実などの施策を行って国力を充実させ黄河流域の東晋の勢力を圧迫して勢力を広げたが、一方で劉曜も荊州・益州・雍州などにおいて急速に勢力を伸ばして体制を立て直しており、両者の衝突は不可避であった。
決戦
328年、涼州の前涼をも臣従させた劉曜に危機感を持った石勒は、河東攻略を甥の大将軍石虎に命じて派兵したが、劉曜はここで勝負に打って出て、領内のかなりの兵力を抽出して東進を開始して石虎を打ち破ると、そのまま一気に進軍して洛陽を包囲した。
劉曜の本気を見て取った石勒はこちらもこれまでの人生で得たチップの大半をベットした作戦でこれを迎え撃つ。後趙領内のかなりの兵力を抽出して洛陽へと向かい、周辺勢力が介入する間もない短期決戦で迅速に大軍を率いている劉曜を叩くべきだと強引に決定(建議で反論した側近を処罰、反対するものがいれば次は死刑にすると恫喝)して勝負に臨んだ。
石勒は「劉曜が成皋関(虎牢関)に兵を置いていれば上策、洛水を守備していれば次計、何もせず洛陽にいるならば生け捕りに出来る」と豪語したが、成皋関まで何事も無く到達できた事で劉曜の備えが甘いことを察して勝利を確信し、まずを天を指差し、次に自らの額を指して「天よ!」と叫んだとされている。
石勒の読み通り、劉曜は石勒がこのような勝負に打って出るとは思っておらず、また石勒が攻め込んできた日に酒をしこたま飲むという失態を犯しており、石勒の本隊出現に慌てて布陣を整えたが酩酊状態で碌な指揮も取れずに散々に打ち破られ、石勒の宣言通りに生け捕りにされた。
石勒は劉曜が臣従を誓うのであれば助命する事もやぶさかではなく、降伏勧告を書かせたが、劉曜は「社稷を維持せよ」という書状を書いたので、不快感を覚えた石勒は結局劉曜を殺害。後日、前趙の領土へと石虎を攻め込ませ、前趙を滅ぼして華北平定を成した。
皇帝即位~死まで
330年、ついに石勒は「趙天王」を称し、これに即位する。後趙は前涼・代などを屈服させて、いよいよ江南に寄る東晋の勢力と荊州で衝突したが、これを東晋方の名将である陶侃・郗鑒らが押し留めた。
しかし、絶頂期にあった後趙であったが、老齢に達した石勒に残された時間は少なく後継者問題が持ち上がると朝廷は紛糾する事になる。石勒には世子である石弘がいたが、軍人としての実績は石虎が抜群であり、有力な武将を多く抱えていて危険視されていて側近から粛清を勧められたが、中華平定まで未だ道半ばの段階で石虎の才を失うことを惜しんだ石勒はこれを聞き入れなかった(石虎は粗暴な人物であったが、石勒の前だけでは礼儀正しく、態度も腰が低かった)。
333年に石勒は没した。享年60。跡を石弘が継いだが、危惧通りに石虎は簒奪を行い翌334年には3代目皇帝に就任している。
人物
幼少より武勇に優れ、こと騎射隊を率いさせては野盗時代から優れたものがあり、官軍も対応に難渋するほどであったが、反面教養は全く無く終生文盲であったという。
しかしながら明晰な人物であり、張賓を謀主としてからは策にも長じ、口八丁で相手を丸め込んだり、泣き落としのような態度から巧みな騙し討ちを仕掛けたりと徐々に戦術・戦略ともに心得た成熟した将へと成長した。
文字の読み書きこそ出来なかったものの、史書を家臣に読ませて聞くのを好む勉強熱心な人物であり、やがて口伝のみであるにも関わらず漢籍の知識でも漢人の士大夫や儒家に称賛されるほどとなった。
一方で短気な人物で、一時の激情で家臣を処罰してしまって後から後悔してしまったりする逸話なども数多い。
匈奴や鮮卑に比べれば遥かに弱小で、飢饉一つで離散に追い込まれてしまうような「羯族」が五胡の一角に数えられているのは、この石勒の覇業が大きな理由となっている。
名言
石勒は部下との宴会の席で歴史上の皇帝と自らを比較してこう発言したとされる。
もし朕が高皇(劉邦)に出会ったならば北面してこれに仕え、韓彭(韓信・彭越)と鞭を競って功を争うだろう。光武(劉秀)に遇したならば共に中原を駆け、天下の覇権を取り合ったであろう。大丈夫が事を行う時は公明正大に、日月を皎然とするべきであるのだ。曹孟徳(曹操)や司馬仲達父子(司馬懿・司馬師・司馬昭)のように、孤児(献帝)や寡婦(郭太后)を欺いて天下を取ってはならぬのだ。
要するに天下を取るならば一から堂々と事を起こすべきであり、沛の任侠から皇帝に至った劉邦は尊敬に値する人物で、劉秀は落ちぶれたとは言え元々が貴種である所から覇権を取ったので中原の覇を競う事になろうが、割拠するに当たって献帝を担いで後漢の威光を利用した曹操や、郭大后の勅を利用して曹魏から簒奪を働いた司馬一族は取るに足らぬ小物であるという事であるらしい。
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