宋王朝とは、中国の王朝である。
- 周代・春秋戦国時代の諸侯国の一つ(前11世紀〜前286年)
- 六朝のひとつ。劉裕がたてた王朝(420年〜479年)
- 隋末の群雄輔公祏の建てた政権(623年〜624年)
- 趙匡胤が立てた王朝(960年 - 1279年)。趙宋、大宋とも。宋王朝というとこの王朝を指すことが多い。本項で解説する。
- 元末に紅巾の乱の指導者劉福通が、白蓮教教主韓林児を擁立した政権(1355年〜1366年)
宋王朝(960~1279)は時代により北宋と南宋に分かれる。
概要
960年の趙匡胤(ちょうきょういん)の即位から、1279年のフビライ=ハンの侵略まで300年間続いた王朝。途中北方民族の金に都を追われ、南に遷都して以降を南宋。それ以前を北宋とも呼ぶ。
文官を重用した文治主義政治をとり多くの文化を発展させた一方、建国以来ずっと北方民族に悩まされた王朝でもある。
日本史だと平清盛の日宋貿易や、栄西の来日や、宋銭の流入などで名前が出てくる。水滸伝や朱子学でも有名。
北宋の中国統一
当時、世は五代十国の戦乱の時代であった。960年、後周の将軍趙匡胤は北漢征伐を命じられ大軍を率いて軍を進めていた。当時の後周の恭帝はわずか7歳であったため、これを機会にと匡胤の弟の趙匡義とブレーンの趙普は趙匡胤に対して皇位につくように進言する。趙匡胤はこれに応じ、恭帝から禅譲(平和的な政権譲渡)を受けて宋の皇帝として即位した。これが宋王朝の始まりである。なお、宋の国号は趙匡胤が家臣時代に任官していた帰徳軍節度使が、旧宋の地を管轄した事に由来する。(国の創健者が、皇帝になる前に封じられていた場所を国名にするのが、中国のお約束なため)
趙匡胤は趙普のアドバイスを受けて、五代十国時代を支配していた軍人政治を脱却する文治主義国家を建造する方針を固める。その第一歩として趙匡胤は唐代から戦乱を度々引き起こしていた節度使に年金と土地を与えるかわりにその地位を捨てさせ、優秀な将兵は皇帝直属軍隊「禁軍」に編入して契丹やタングートなどの異民族に対する軍隊を作りあげた。
963年、太祖となった趙匡胤は武力による統一に乗り出す。皇帝率いる宋軍はまず荊南、続いて楚を平定し、965年には後蜀を倒した。更に南漢を滅ぼし、974年に江南の大国、南唐に軍を進めた。宋軍は1年近くにわたって南唐の都、金陵を包囲したことにより南唐の主、李煜は城門をひらいて降伏した。
976年、趙匡胤が突然死したので、弟の趙匡義が二代目皇帝太宗として跡を継いだ。太宗は自ら宋軍を率いて残る対抗勢力、北漢を倒しここに宋は全国統一を果たした。しかし、長年の悲願であった燕雲十六州の奪還はついにかなわなかった。
宋政府は科挙を重用し、科挙制度を整えた。首都開封には貢院と呼ばれる試験場を作り、科挙による役人の登用を増やしていった。科挙で1番の成績を修めたものは状元、二番目は榜眼、三番目は探花と呼ばれ、将来の出世が約束された。科挙は基本的には誰でも受けられるが、小作農や商人の子、犯罪者の家族や親族は受験資格がなかった。また科挙に合格するための塾も地方にできて、広く人材が集められた。
澶淵の盟
997年には太宗が亡くなり、その跡を継いだ三代皇帝真宗は文治主義を継続した。中央には民政を司る中書省、監察を司る御史台、軍事を司る枢密院、財政を司る三司と呼ばれる機関を設置し、地方では転運使とよばれる役人を派遣して州や県を治めさせた。それらの政治の中心となったのは科挙出身の官僚達であった。
しかし1004年に遼が30万の大軍を率いて南下を開始する。真宗は、金陵へ退避するか、澶州(せんしゅう)に親征するか逡巡した後に、大臣である寇準の意見を取り入れて出陣を決意する。宋軍は黄河を渡り遼軍と対峙するも和議を結び両軍撤退する。その時に結ばれたのが澶淵の盟である。その内容は、
これは宋が遼の臣下か属国となったような条約であり、漢民族にとっては屈辱的な内容であった。しかし遼に歳幣(さいへい、毎年の贈り物のこと)を送ることによって平和が保てれば、軍事費を他に回ることができるので、宋にとっては好条件なものであった。澶淵の盟により首都開封は大きな発展を遂げることとなる。薬局や本屋、外食屋が立ち並び、皿回し、曲芸、影絵などのエンターテインメントも興隆した。
しかし、真宗の次の仁宗の時代になるとオルドス地方のチベット系タングート族が建国した西夏が宋の領内に侵入してくる。宋は大軍を出してこれを迎え撃つも長いこと実戦から遠ざかっていた宋軍は勝つことが出来ず、和議を結ぶが、それで西夏との紛争は絶えることはなかった。
王安石の改革
1045年、一人の青年が科挙に合格。これが後の王安石である。仁宗の治世後半には増えすぎた官僚と軍人により国の財政は逼迫していた。王安石はこれに対して、勤務先の江寧府(現在の南京)から仁宗に万言の書と呼ばれる長文の政治改革の建白書を送るも、仁宗はこれを重んじなかった。しかし、6代皇帝神宗がこれを発見し、王安石は首都開封に召還される。王安石は皇帝の要請に応じて様々な改革を開始した。
1069年王安石は皇帝直属の政策を審議立案する機関をもうけ、政治改革に意欲のある若手の官僚を集めて新しい法案を練り上げていった。これらの人々を新法派と呼ぶ。また王安石の改革に反対する人々を旧法派を呼んだが、皇帝が新法派を推したため旧法派は次々と地方に左遷されていった。
王安石の改革には以下のようなものがある。
- 青苗法
稲を作る時期に農民達に安い利子で種もみや資金を貸し付け、収穫の時に返してもらった。 - 募役法
地主から財産に応じて税金をとり、それを資金にして役人を雇い入れた。 - 農田水利法
河川や水路の改修。新しい農地の開墾。 - 方田均税法
全国の耕地を測量しなおして土地税の公平を図った。 - 均輸法と市易法
均輸法で物価の安定と物資の流通を図り、市易法で中小商人の保護を目的に大商人の特権を押さえた。 - 保甲法と保馬法
保甲法で農民に軍事訓練を施し、保馬法で農民に政府の馬を飼育させ、普段は農耕用、戦時には軍用に用いた。
また科挙のカンニングを取り締まり、試験科目から詩作を除いて散文を重視する科挙改革にも取り組んだ。
王安石の改革により国の財政は安定を取り戻したかのようにみえたが、その裏では改革に対する反対派の勢力も高まっていた。
1074年に河北地方が大旱魃に見舞われると、農民達は家も田畑も捨てて開封に流れ込んできた。これをきっかけに司馬光や宣仁太后らの反対派の反撃が始まり、王安石はこれに応じて職を辞した。
靖康の変
1093年に宣仁太后がなくなると親政をはじめた7代皇帝哲宗は旧法派をしりぞけ、新法派を復活させたので両派の争いはますます激しくなった。
1100年、哲宗の後を受けて徽宗が即位した。徽宗は絵や書には天才的な才能を発揮したが、政治手腕は拙かったので、神宗の皇后であった向皇太后が摂政として若い皇帝を助けた。向皇太后の死後は蔡京が宰相として政治を担って、宦官の童貫と共に旧法派の大追放を行い、また旧法派の著した書物を焼いた。
しかしその頃、北方では新興勢力の金が勃興し、1115年、完顔阿骨打(ワンヤンアグダ)は遼との戦いに進出。これを倒して遼東地域を占領した。宋は対遼対策として、金と結んで遼を挟み撃ちにするため大軍を派遣することを決定する。一方、宋の国内では1120年、方臘(ほうろう)が重税と地主の悪政に苦しむ農民を率いて蜂起し、これに応じて浙江省南部の農民100万が反乱軍に加わった。宋は軍隊を引き帰らせて方臘の乱の鎮圧に臨むが、これにより江南は荒れ果ててしまうことになる。また水滸伝のモデルになった梁山泊に宋江を慕った豪傑らが集まり開封を目指すも、政府軍の伏兵にあい鎮圧される(ただし、実際にはなかったという説もある)
宋が方臘の乱や宋江の反乱に苦しんでいる間に金は再び遼を攻め、1122年に燕京(北京)を占領し、1125年にはついに遼を滅ぼした。金と同盟を組んでいた宋軍は思っていたほどの戦果を上げられなかったので、事もあろうか遼の残党と手を組んで金を滅ぼそうとしたが、その事実が発覚。その背信に怒り狂った金軍は南下を開始。徽宗はこれに対応する能力がないと自ら認め、皇太子の趙桓に皇位を譲った。これが北宋最後の皇帝となる欽宗である。欽宗は金と和睦しようとするも、金の要求はあまりにも過大であり、宋には支払い能力がなかった。1126年の末、開封を包囲した金の大軍は総攻撃を開始して場内に侵入をはじめ、徽宗や欽宗をはじめとした王族や重臣、妃や女官など3000人が捕われた。これを靖康の変と呼ぶ。翌年に金は捕虜を北に強制連行し、徽宗と欽宗は金の五国城に幽閉されてしまった。こうして宋は建国から167年で一度滅んだ。
南宋
靖康の変が起こり徽宗や欽宗が捕われると、欽宗の弟の趙構が跡を継いで高宗となり、河南省の南京応天府で即位し、宋王朝を再興した。これが南宋である。これを知った金軍が南下を再開したため高宗は杭州から明州(寧波、にんぽー)へ、さらに船で温州にまで逃げて行った。金軍は中原の暑さに耐えきれず、やがて北へ引き返した。
南宋では対金戦略で、交戦派の岳飛と和睦派の秦檜(しんかい)が激しく論を戦わせた。1138年に宋と金は和平を結ぶも1140年に金は約束を破って再び南進を始めてしまった。岳飛は河南平原の各地で金軍をやぶり開封に迫ったが、秦檜は金との和睦を強く望み、皇帝に進言して岳飛を呼び戻してしまった。金は和睦の条件として岳飛の処刑を求め、南宋はこれに応じたので岳飛は息子の岳雲と共に処刑されてしまった。この出来事により岳飛は今でも悲劇の将軍、秦檜は売国奴として中国に伝わっている。
1161年に、金の海陵王が和平条約を破って侵攻するものの、南宋軍は撃退に成功。海陵王が兵変によって殺され、いくらか有利な条件で和平条約を結び直したことによって、ようやく平和が訪れることとなった。
高宗の後を継いだ孝宗の治世下で、南宋の新首都、臨安はかつての開封に勝るとも劣らない発展をみせ、また豊かな農業生産を背景に茶や陶磁器などの産業と、それを取引する商業が華やいだ。しかし、考宗の退場と共にお決まりの政治抗争が勃発して、下り坂に向かっていく。
1206年、当時の権力者であった韓侂胄(かんたくちゅう)が金の衰えを見て、北伐を開始するが、弱ったはずの金軍に負けたあげくに、政変を起こされて殺害されるという事件が発生する。この頃に、朱子学の祖である朱熹が現われるが、その朱熹の学説は当時は偽学として非難されていた。
13世紀に突入しても南宋は金との戦いをなんとか凌ぎつつ、それなりに平和で豊かな生活を送っていた。しかし、その一方で北原に一つの勢力が現れ始めていた。後のモンゴル帝国の祖、チンギス=ハンの出現である。
関連項目
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