概要
奉公衆三番番頭上野氏の当主。足利将軍家の側近であり、反三好長慶六人衆の一人ともいわれるほど、足利義輝を反三好に引き入れた人間ともいわれるが、わかっていないことも多い。
なお、後世備中上野氏によって勝手に系譜に位置付けられ、軍記などで足利義稙期の当主という設定にされたのを、『岡山県史』等に踏襲されてしまったが、実際のところ…(後述)。
ここまでのあらすじ
足利一門の上野氏とは、足利泰氏の6男、上野義弁の末裔である。この人物は祖父である足利義氏の養子となり、かつては上野国にいたので上野を名乗ったともいわれていたが、実際は母親の出身である義清流足利氏の庇護を受けながら三河にいたとされる。
2代目の上野頼遠、上野貞遠兄弟については全く分からず、上野頼遠の息子・上野頼兼の時代に、南北朝時代となる。彼は一色範氏と同様九州の抑えとして位置づけられ、石見国・丹後国の守護にすら任じられてた存在だが、観応の擾乱で足利直義方として活動し、但馬国で戦死。さらに弟の上野氏勝も引き続き直義党として活動してしまったため、端的に言えばポシャったのである。
ここで、上野頼兼の息子・上野詮兼・上野直兼兄弟に移る。彼らは幕府に帰参し、上野直兼は九州に土着し、上野詮兼の息子と思われる上野左馬助、および上野民部大輔という人物が、足利義満期の犬追物などに姿を現す。この人物こそ、奉公衆三番番頭を引き継いでいく奉公衆上野氏の祖・上野満兼とされる。
そのさらに息子の上野持頼は、足利義量の側近となった。『花営三代記』などを見た限り、そのメンバーはこんな感じである。
このメンバーであるが、要するに守護などではない奉公衆である。つまり、上野氏は完全に将軍近臣の重役にある家になったということなのだ。
さらに、『長禄二年以来申次記』においても、上野持頼は足利義政の御供衆に挙げられている。『文安年中御番帳』にも上野与三郎、上野治部大輔、上野民部大輔、上野刑部大輔、上野治部少輔などの名前が載っており、上野氏の近臣としての躍進があったのだ。
『斎藤親基日記』の寛正6年(1465年)8月15日に上野民部大輔入道常方とあるので、このころまでに上野持頼は出家していたようだ。また、文明17年(1485年)9月3日の『蔭涼軒日録』に、弟の記載のついでに生きていたら80歳だったのだろう的なことが書いてあるので、おそらく応永12年(1405年)の生まれである事、この間に死んでいただろうことがわかる。
さらに『結番日記』文明12年(1480年)10月18日に上野小太郎が家督を継いだとあるので、上野尚長がここで家督を継いだということである。
ただし、この時期からややこしくなるのが、細川遠州家・細川玄蕃頭家も、上野と名乗り始めることである。土佐国守護代や、後に細川高国方として活動していく細川国慶につながっていく、同じ足利一門の上野氏がいるということは、この時期の交名を読む上で注意すべきことである。
謎の空白ー上野尚長以降の上野氏―
『長禄二年以来申次記』によると、文明16年(1584年)には奉公衆三番番頭、申次衆を世襲した上野尚長。さらに、足利義尚が六角高頼討伐に出た時の『常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到』にも上野尚長は載っており、『蔭涼軒日録』の延徳3年(1491年)1月25日に足利義材の御供衆としての登場が最後の登場となっている。
さて、ここで問題となるのが、上野持頼が30くらいの頃に誕生したとすると、この時期既に上野尚長も還暦近くなっていることである。明応2年(1493年)の5月27日以降に上野民部少輔などが見られるが、これは「赤松之徒」、つまり明応の政変を引き起こした足利義澄陣営の存在であるため、おそらく上野尚長とは別人である。
が、この上野尚長の息子として『尊卑分脈』に出てくるのが、早世した上野澄相のみである。そして、『系図簒要』に同じく息子として出てくるのが、この記事の上野信孝なのだが、早く見積もっても天文2年(1533年)の登場であり、半世紀近く開きがあるのだ。
さらに、この間、少なくとも3人の別の上野民部大輔が現れるため、実際は上野尚長と上野信孝の間に、少なくとももう一人いたと考えられている。少なくとも、永正5年(1508年)1月15日の『後法成寺尚通公記』に上野与三郎、大永4年(1525年)12月2日の『大徳寺文書』1124号、1125号に出てくる上野与三郎と、享禄5年(1532年)11月21日の『阿波国微古雑抄所収』に出てくる上野民部太輔が、上野信孝の前任の当主であると考えられる。
そして、このさらに前任とされる上野民部大輔が、明応8年(1499年)2月11日に足利義澄の近臣として、「蜷川家文書」に出てくる。つまり、上野民部大輔家は、足利義澄→足利義晴→足利義輝と継承されていったようなのだ。
しかし、ここで問題となるのが、「益田家文書」の『永正七年在京衆交名』に出てくる上野民部大輔である。つまり、早い話が足利義稙方として活動した上野民部大輔がおり、益田家文書ではこれを上野尚長に比定しているが、永正7年とは1510年なのである。つまり、いくらなんでも長生きしすぎではないだろうか(大館尚氏だの大和晴完だの真木嶋昭光だのいるけどさ…)。実は、この足利義稙方の上野民部大輔は、軍記に多数出てくる存在である。
ぶっちゃけ、実在した足利義稙方の上野民部大輔はともかく、この軍記の上野民部大輔は軍記設定として無視してもいいのだが、『陰徳太平記』に上野信孝と書かれた結果、『岡山県史』からWikipediaに至るまで、上野信孝は足利義稙の近臣であるという記述がひたすらコピペされているのである。はっきり言って、『後太平記』だの『安西軍策』だの『中国兵乱記』だのでは上野民部大輔としか載っておらず、後述の史実の上野信孝とは齟齬をきたしまくっている。というわけで、以後は史実の上野信孝を見ていきたいと思う。
反三好方近臣上野信孝
天文2年(1533年)の『佐々木少弼御成申献立』に、御供衆上野与三郎が出てくる。この上野与三郎が、おそらく上野信孝である(息子の可能性もあるけど、没年的に上野信孝の若い頃の方がまだ…)。この時期既に、足利義晴政権期の末期であり、上野民部大輔家は、要するに近江にまで一緒にいるような将軍近臣の地位を保っていた。
以後、『言継卿記』の天文6年(1537年)1月19日に上野与三郎、天文8年(1539年)の『天文八年佐々木亭御成記』に上野与三郎、天文11年(1542年)3月28日の義輝帰洛時の『言継卿記』に上野与三郎と出てきており、早い話が足利義晴・足利義輝父子にずっとべったりの、近衛家レベルの側近だったようだ。
かくして、天文15年(1546年)の『光源院殿御元服記』、つまり、足利義輝の元服時に上野民部大輔信孝が出てきており、上野与三郎もまた、上野民部大輔として官途を得たようである(遅く見積もってもここで上野信孝は登場したことになる)。
帰京後、足利義輝は三好長慶と協力関係に移ろうとする。しかし、そこで盛大に問題となったのが、上野信孝、杉原晴盛、細川晴広、彦部晴直、祐阿、細川某の六人衆である。この6人は盛大に細川晴元に協力し、三好長慶に人質すら求められた。が、足利義輝が盛大に彼らに肩入れし、再び京都を追われたのである。天文22年(1553年)のことであった。
こうした事態に山科言継は、あれ上野信孝がどう見ても悪いだろ、といった言及を『言継卿記』で行っている。伊勢貞孝を筆頭にした幕臣たちは三好氏に肩入れし、上野信孝らは少数派だったようだが、足利義輝は盛大にこっちについてしまった、という感じである。ただし、この時点では足利義輝よりも、慶寿院といった後見役たちの影響もあったのだろう。
なお、この時近江に動座した幕臣のリストに上野信孝がいないのだが、以後も大名別取次として活動しているので、たぶんいたとは思う。永禄2年(1559年)まで『言継卿記』に出てこないし。
帰京後、永禄年間に上野信孝は、中国地方、伊予河野氏、伊達氏、甲斐武田氏、三木氏といった人々の大名別申次を担った。が、そこで最大限強調しておきたいことは、進士晴舎とともに、三好・松永氏の申次も彼だったということである。
ここで、反三好氏だった彼がなぜこんな役職に就いたのかは、正直よくわからない。また、この時期上野与三郎という人物も登場し、おそらく上野信孝の息子の上野量忠である。
そして、永禄6年(1563年)4月29日の『東寺過去帳』で死んだことがわかる。この時期は畿内政治を担っていた重要人物がポコポコ死んでいた時期だったが、早い話上野信孝はこんな経歴の割に畳の上で死んだのであった。
なお、こんな重要人物の割に、将軍から偏諱を得ていない理由はよくわからない。
その後の上野氏
実は、永禄の変では上野民部大輔家には全く影響がなかった。なお、この永禄の変の原因も上野信孝死後に取次が進士晴舎・小侍従局父子に独占されたことを三好氏が反発したともいわれるため、間接的に彼のせいな気がしなくもない。
上野兵衛大輔家の上野輝清や系譜不明の上野与八郎が永禄の変で死んだ一方で、上野民部大輔家は引き続き幕臣となった。のだが、実はだんだん系譜がわからなくなる。
上野量忠は、父親を引き継ぎ、足利義輝政権で中国地方、伊予河野氏、由良氏、六角氏、三好・松永氏といった大名別申次を担っていったが、おそらく上野憲忠と記載されて『永禄六年諸役人付』の後半部に御供衆として載っているため、無事に足利義昭に仕えたようである。また、同じく上野信忠、上野豪孝も、おそらく上野信孝の息子であるとされる。『朝倉亭御成記』には御供衆として上野陸奥守信忠の姿が見られる。
ここでさらにややこしくなるのが、足利義昭近臣の上野秀政である。この上野秀政であるが、『永禄六年諸役人付』に堀弥八郎、当御若衆也と書かれており、後世肥後細川氏に仕えた子孫が『綿考輯録』にあの人将軍の寵童から上野氏に入った存在ですと設定しているので、足利義昭がアレしていた存在を入名字させたのだろうと思われる。
この上野秀政をさらにややこしくする存在として、上野氏の分家筋の上野中務大輔家の上野清信の存在である。つまり、上野中務大輔を名乗る上野氏が上野秀政と上野清信の2人登場し、両者が同一人物なのか別人なのか、正直よくわかっていないのである。
なお、ここまでいろいろ言ってきたが、上野民部大輔家について述べると、足利義昭政権期は、上野民部大輔家は陸奥守→佐渡守を名乗る上野信忠(→上野信恵)しか見なくなる。「吉川家文書」の永禄12年(1569年)1月13日に上野佐渡守信恵とあるが、これが改名したのか信忠を見間違えたのかはよくわからない。
ちなみに、『言継卿記』の永禄13年(1570年)2月5日に上野下野守輝加(てるまさ)という存在がさらに出てくる。これを、久野雅司は上野紀伊守と同一人物としているが、リストだとこの日の上野下野守を別に検出しているので、勘違いしている気もする。
なお、川本奈々が検出した上野紀伊守は後述のように木下昌規が検出した上野豪為であるが、これが上野豪孝なのかどうかははっきりしたことはわからない。御供衆で大蔵大輔→紀伊守のルートなので、たぶん同一人物だろうとは思う。
まあなんやかんやあって、足利義昭は、武田信玄が西上する段階で、この元寵童の上野秀政の言うことを聞いてしまい、盛大に織田信長を離反してしまう。一方、天正元年(1573年)8月3日付の「毛利家文書」によると、上野信秀(「吉川家文書」のこの年の6月13日付の文書に上野佐渡守信秀とあるので、さらに改名したか?)や三淵藤英らの離反によって真木嶋城の立てこもりに失敗したとあるので、上野秀政とは異なり、上野民部大輔家は織田信長に降っていったのだろう。
なお、木下昌規によると、上野豪為(紀伊守・紀伊入道光庵)、上野信忠(陸奥守・佐渡守)、上野憲忠(上野量忠?)(民部大輔)の3人は、『言継卿記』、『言経卿記』、『兼見卿記』、『宣経卿記』、『信長文書の研究』等から足利義昭追放後も在京していたか織田信長配下になっていたかが確認できるという(それぞれ特に典拠は示されていないのだが…)。上野豪為などは十七ヶ条異見状にも記載されたほどだが、天正期に織田信長から所領安堵されており、盛大に取り込まれていたのであった。なお、『言継卿記』によると上野憲忠(上野量忠?)は天正4年(1576年)にまだ出てきている。
かくして、上野大和守を名乗った上野秀政が、以後は足利義昭に仕えていった。足利義昭が死んだとき、上野中書の息子の上野勘左衛門、上野御吉が剃髪したことが、『鹿苑日録』に記されている。なお、木下昌規は、これを上野秀政としている。
ちなみに、藤田達生が「鞆幕府」の構成員リストに上野信孝を入れているが、礼によって根拠は不明である。そもそも上野信孝はすでに死んでいるはずなので、上野民部大輔を間違えた可能性もあるが、それにしたって上野民部大輔の活動は鞆幕府において特に言及されたことはない(それもこれも足利義昭文書集がまだないのも悪い)。かくして、木下昌規の修正版リストには上野氏は上野秀政のみとなっている
なお、『萩藩閨閥録』の阿曽沼二郎三郎のところにある、「天正16年8月15日付足利義昭奉行人連署奉書写」によると、天正16年(1588年)というはるかに後世、足利義輝の二十五年忌仏事料の要求に、信秀という署名がある。これを木下昌規は、上野信秀とし、あの佐渡守の事だとしている。なので、足利義昭が降ってきた後は、上野民部大輔家は元鞘に収まったのかもしれない。
さらにややこしくなる話―備中上野氏―
ここで、上野信孝が足利義稙方として活動した云々の記述で浮上してきたのが、岡山県地域の自治体史などに出てくる備中上野氏や備前常山城の上野氏である。上野隆徳などを輩出するこの上野氏についても軽く触れておこうと思う。
この備中上野氏は、正直出自はよくわからない。応永年間(1400年前後)に備中細川氏の下で守護代を一瞬務めたようであり、小川信は足利一門の上野氏とみなしているが、あくまでも推測である。
以後、唐突に応仁の乱の頃に、備中上野氏が浮上する。ただし、祖とされる上野広長の実在性などは、結構怪しい。北村章もあくまでも蓋然性の高い事件としている。『備前文明乱記』といった軍記には備前福岡合戦で上野肥前守といった人物が出てくるが、軍記のため、よくわからない。
ここで、明応の政変で宗家が下向してきて備中上野氏を再配置したというのが、各所にみられる上野信孝の伝言ゲームの結果誤った事績である。この上野民部大輔が実在したかどうかも不明であり、北村章は後世の編纂物なのですべて仮定でしかないが、以下のようにする。
- 永正二年以前から松山城に上野頼久が居城していた
- 永正四年に上野子々法師が派遣されてきたが、阿波・備中守護家からの使者である
- 永正六年に備中に下向した上野民部大輔とは上野宗家の人であろうが、信孝ではないと推定される
- 下向した上野宗家は木村山城を根拠地に将軍義稙―細川高国側に備中の諸氏を糾合しようと活動し、②と対立した
- 上野刑部氏之説には別の事実を誤認した可能性があり、疑問が多い
- 松山城の上野氏はこれ以後も存続するが、下向した上野氏の動向は不明である
早い話『中国兵乱記』『古戦場備中府志』といった軍記類が記載する上野宗家の下向は、一過性の出来事に過ぎないとするのである。
まあ、そんなこんなあった松山城主上野氏だったが、『西国太平記』、『中国太平記』、『古戦場備中府志』、『庄氏系譜』等によると、天文2年(1533年)に滅んだとする。が、以後も若干名の備中上野氏は存続したようであり、備前児島の常山城にいた上野隆徳の系統は織田信長と毛利家の戦いで毛利家に加わった結果、その家中に包摂された。
補足
信長の野望に出たことなどない。
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