ライン演習作戦とは、第二次世界大戦中の1941年5月18日にドイツ海軍が発動した通商破壊作戦である。イギリス艦隊との交戦で巡洋戦艦フッドを撃沈するが、この事がイギリス海軍の怒りに触れ、猛追の末にドイツ戦艦ビスマルクも撃沈された。
概要
背景
第二次世界大戦が勃発して1年が経とうとしていた1940年8月24日、ドイツ海軍に強大な戦艦が加わった。排水量4万トン超えの巨体を持つ世界最大(当時)の戦艦――その名はビスマルク。鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルクから名を受け継いだ由緒正しきドイツ戦艦は、かつて存在した高海艦隊を彷彿させる力強い威容を誇っていた。大海を支配するに相応しいリヴァイアサンにはアドルフ・ヒトラー総統も興味津々であり、後に査閲を行っている。
1941年3月22日、ドイツ占領下フランスのブレスト軍港にベルリン作戦を終えた巡洋戦艦シャルンホルストとグナイゼナウが入港。大西洋に所在する2隻の巡洋戦艦と、ドイツ本国にいる戦艦ビスマルクと重巡プリンツ・オイゲンが同時に出撃して敵護送船団を挟み撃ちにすれば、イギリス海軍が護衛に戦艦を割かない限り対抗出来ない事をエーリヒ・レーダー海軍総司令官は理解していた。この挟み撃ち攻撃を主体としたライン演習作戦が立案され、ドイツ海軍が誇る怪物ビスマルクにも出撃の命が下った。しかし大西洋側から出撃するはずのシャルンホルストは機関不調で、グナイゼナウはブレスト空襲時に艦尾を大破させられて出撃不能になってしまったのである。本国とブレストからの連携攻撃は作戦開始前から既に破綻していたのだ。
だがレーダー提督は作戦の実行を諦めなかった。先のベルリン作戦の大戦果を再現しようとビスマルクとプリンツ・オイゲンの出撃だけでも行う事とし、イギリス艦隊がビスマルクを恐れている心理を利用、差し詰めビスマルクを磁石のようにして敵艦隊を釣り上げ、その間にプリンツ・オイゲンが無防備の敵船団へ襲い掛かるという内容に作戦を変更した。一方、戦艦戦隊司令兼ドイツ艦隊司令長官ギュンター・リュッチェンス中将は慎重派だった。彼は4月22日に作戦の詳細を取り決めたが、その翌日に伴走者のプリンツ・オイゲンが触雷損傷する被害が発生して出撃日が2週間遅延。4月26日、ベルリンで行われた会議で「ブレスト側の準備が整うまではライン演習作戦を延期すべきだ」と主張したが、レーダー提督はリュッチェンス中将の懸念に理解を示しつつも「夏まで待っていたら敵の監視網を掻い潜るのに好都合な、北大西洋の長い夜と時化を自ら手放す事になる」と聞き入れず。また6月に控えるバルバロッサ作戦が実行されれば陸軍と空軍の要求が優先的に考慮され、海軍は除け者になってしまう。ヒトラー総統の関心を海軍に留めるためにも大戦果を早急に挙げる必要があった。レーダー提督はビスマルクの喪失や損傷を避けるべく敵水上部隊との交戦を避けるようリュッチェンス中将に指示を出すが、彼は「真の脅威は空母から放たれる雷撃機」だと意見を述べている。マレー沖海戦より前、航空機では作戦行動中の戦艦を沈める事が出来ないというのが世界の常識とされていた中、リュッチェンス中将は先見性を発揮。そして皮肉にもその意見は的中していた。
ライン演習作戦の実行決定に伴い、ドイツ海軍はビスマルクのために7隻の給油タンカーと2隻の補給船を用意。西はラブラドール、南はカーボベルデ諸島に至る広大な海域をカバーする。またUボートとの協同作戦が必要になった時に備えてビスマルクには連絡士官が便乗した。こうしてビスマルクの戦闘準備と人員配置は着々と進み、4月28日に艦長リンデマン大佐は艦隊司令部、西部方面艦隊、北部方面艦隊に準備完了していると通達。命を吹き込まれた怪物は次第に呼吸を荒げ始める。自身の敵を嚙み砕かんとして。
5月5日、ゴーテンハーフェンに停泊中のビスマルクとティルピッツをヒトラー総統が視察。リュッチェンス中将が出迎えた。5月13日午後にゴーテンハーフェンを出発したビスマルクはダンツィヒ湾でプリンツ・オイゲンと艦隊給油の訓練を実施するが、その際に左舷クレーンが故障したため出発日を遅らせ、5月16日に修理完了。
経過
戦艦ビスマルク出撃
ライン演習作戦が発動された1941年5月18日午前10時、リュッチェンス中将は補佐官を伴ってプリンツ・オイゲンの乗組員を閲兵。続いてビスマルク艦内でリンデマン艦長とヘルムート・ブリンクマン艦長に作戦を説明した。正午頃、軍楽隊が奏でる勇壮な音楽に見送られて停泊地を出発し、港外に集積されていた物資や燃料を積載。その際に燃料ホースの1本が破裂して完全には給油出来なかった。21時、まず重巡プリンツ・オイゲンがゴーテンハーフェンを出港。続いて翌19日午前2時にリュッチェンス中将が座乗する戦艦ビスマルクが駆逐艦Z10、機雷原啓開船13号と31号、第5掃海艇群に護衛されて出港した。両艦はバルト海西部のリューゲン島アルコナ岬沖で合流し、新たにZ16とZ23が護衛に加わった。しかし5月20日13時頃、グレートベルト海峡を航行中にスウェーデンの航空巡洋艦ゴトランドに発見される。ゴトランドはスウェーデン本国に報告するが、その通信をイギリスに傍受され、英海軍はビスマルクとプリンツ・オイゲンの出撃を早々に察知してしまう。
そうとは知らずに5月21日午前9時、ドイツ占領ノルウェーのベルゲンへ寄港して燃料補給を受ける。その時にビスマルクの再塗装を行った他、偵察に現れたスピットファイアによってベルゲンにいる事を突き止められる。翌22日にベルゲンを出港。伴走者の駆逐艦3隻と分離してビスマルクとプリンツ・オイゲンの2隻はデンマーク海峡へと向かった。その先には凄惨な運命が待ち受けているとも知らずに…。
スカパ・フローを本拠地とする英本国艦隊は戦艦キングジョージ5世、プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦フッド、レナウンに対し北大西洋への進出を命令。ただビスマルクがデンマーク海峡とアイスランド・フェロー諸島間のどちらの海域を通過するまでは割り出せなかったため、戦力を二分にして対処した。自ら敵の罠へ飛び込む格好となったビスマルクに思わぬ幸運が味方する。北大西洋特有の急激な天候悪化によりイギリス艦隊はビスマルクの所在を掴めなくなり、この隙を突いてリュッチェンス中将はデンマーク海峡の突破を試みた。5月22日夜、デンマーク海峡に差し掛かったビスマルクはアイスランドの北端を西進。
5月23日になっても依然天候はビスマルクの味方だった。霧雨と濃霧の影響で視界が140m以内に狭められ、イギリス軍は航空哨戒を中止、デンマーク海峡の監視も停止していた。用意周到な事にドイツ海軍はイギリスが持つ高性能レーダーの存在も計算に入れており、視界不良の中で唯一頼りになるレーダー探知すらも掻い潜っていた。しかし19時22分、デンマーク海峡を突破する前に最新鋭レーダーを携えた敵巡洋艦サフォークとノーフォークに発見される。だが、ここでもビスマルクは幸運に恵まれた。最新鋭レーダーは艦尾方向の探知が出来ない欠陥を抱えていて、ちょうどビスマルクが盲目の艦尾方向から姿を現した事でサフォークの初動が遅れた。ノーフォークとサフォークは後方からビスマルクを追跡。この先で待ち構えるフッドとプリンス・オブ・ウェールズのもとまで誘導する。
追跡してくる敵艦2隻を疎ましく思ったビスマルクはノーフォーク目掛けて主砲を発射。命中弾こそ出なかったがノーフォークをビビらせるには十分過ぎたらしく、慌てて霧の中へと逃げ込んだ。その後、敵艦はビスマルクの咆哮を恐れてレーダー探知出来るギリギリの場所から追いかけた。この砲撃の際、衝撃でビスマルクのレーダーが故障してしまったため、プリンツ・オイゲンを先行させて前路哨戒させる。
デンマーク海峡海戦で敵巡洋戦艦フッドを撃沈する
5月24日午前5時35分、フッドの右舷前方約30kmにビスマルクが姿を現した。ドイツ艦隊はプリンツ・オイゲン、ビスマルクの順に並んだ単縦陣、イギリス艦隊もフッドを先頭にした単縦陣を組んでいた。戦艦1隻と重巡1隻のドイツ艦隊に対し、イギリス艦隊は巡洋戦艦1隻、戦艦1隻と火力的に優勢であり、海上戦闘においても一日の長があるなど敵側が一歩有利な状況下、後の世に言うデンマーク海峡海戦が幕を開ける。
まず最初に戦端を開いたのはイギリス艦隊だった。距離2万3000mから先制の砲撃を浴びせられる。敵水上艦隊との交戦は避けるよう言われていたが、リンデマン艦長が発砲許可を出し、リュッチェンス中将も黙認した事で迅速に戦闘態勢へと移る事が出来た。そんな中、イギリス艦隊は致命的なミスをやらかす。なんとフッドはプリンツ・オイゲンをビスマルクと誤認した上、それぞれが別の目標に砲撃を仕掛けて火力を分散させてしまったのだ。対するドイツ艦隊は先頭のフッドに火力を集中。プリンス・オブ・ウェールズもフッド同様にオイゲンをビスマルクと見間違えるミスをしていたが、早期に気付いてビスマルクに照準を合わせている。だがウェールズは就役したばかりの新造艦だったため乗組員の練度が低く、せっかくの高火力をビスマルクにぶつけられなかった。
プリンツ・オイゲンの第四斉射によりフッドへ10.2cm砲弾と20.3cm砲弾が命中するが、生じた火災はすぐに消火されて致命傷には至らなかった。ウェールズは既に7回に及ぶ一斉射を行うも練度の低さが足を引っ張ってビスマルクに命中弾を出せずにいた。
午前5時52分、ビスマルク最初の一斉射がフッドの近くに着弾。その3分後には第三斉射がフッドのボート甲板に命中して弾薬に誘爆、火災が発生する。フッドは目標をビスマルクに変えて艦首を左へ向けるが、その間にも第四斉射がフッドを夾叉。徐々に命中精度が上がっていく。そして午前6時、距離1万3000mから放たれたビスマルクの第五斉射の1発がフッドの煙突後方に直撃。舷側装甲と艦内甲板装甲を貫き、両用砲弾薬庫内で炸裂した事で後部主砲弾薬庫が誘爆してフッドは轟沈。1419名中1416名戦死という大損害を受けた。燃え盛る火の玉と化したフッドをかわすためプリンス・オブ・ウェールズは転舵。何とか回避に成功したが、ビスマルクとプリンツ・オイゲンから集中砲火を受け、午前6時6分から12分の間に7発が命中(内訳ビスマルクが4発、オイゲンが3発)。未完成の電源により重砲の幾つかは発射管が故障、ビスマルクの38cm砲弾が戦闘指揮所に命中して艦長と主任信号長を除く全員が死亡するなど凶報が相次ぎ、戦意を喪失したプリンス・オブ・ウェールズは砲撃を中止。煙幕を展開しながら離脱し、後方から追いかけていたサフォーク、ノーフォークの両艦と合流する。
デンマーク海峡海戦はフッドを撃沈したドイツ艦隊の勝利に終わった。リンデマン艦長は追撃を希望したが、「無用な戦闘は避けるように」とレーダー提督から命令を受けていたリュッチェンス中将がその意見を退けた。
戦闘後、270度方向に向けて離脱。ビスマルクはプリンス・オブ・ウェールズから3発の命中弾を受け、2400トンの浸水被害を受けると同時にボイラー室の一部と発電機室が浸水して最大速力が24ノットに低下。艦首燃料タンクに突き刺さった不発弾1発のせいで燃料1000トンが使用不能になり、海面には流れ出た油の尾を引くなど発見されやすい状態に陥る。損傷と燃料の喪失により長期の通商破壊作戦は困難と判断され、無傷で乗り切ったオイゲンに任務を任せる事に。18時14分、ビスマルクの主砲が火を噴き、相変わらず追いかけてくるサフォークとノーフォークを牽制。その間にプリンツ・オイゲンを分離させた。敵の狙いはビスマルクだけらしく、オイゲンが離脱した後も追跡してきたため、イギリス艦隊をUボートが展開している海域へ誘い込みながら修理の目的でフランス方面へ向かった。ビスマルク級が入渠出来るドックを持つ拠点はサン・ナゼールしかなく、午前8時にリュッチェンス中将はサン・ナゼールへの入港を希望。現地では係留ブイなどの準備が進められた。
恐怖の始まり
かくしてイギリス海軍の誇りとも言うべきフッドはリヴァイアサンに噛み砕かれた。この事実はイギリス海軍に大きな衝撃をもたらす。チャーチル首相は大西洋の海上交通に対する重大な脅威を取り除くため、総力を挙げてのビスマルク撃沈を下令。一説によると「どうやってやったって構わない。ビスマルクを沈めなければならない!」とがなり立てたという。
本国艦隊から戦艦キングジョージ5世、巡洋戦艦レパルス、空母ヴィクトリアスを、地中海艦隊からは巡洋戦艦レナウン、重巡シェフィールド、空母アークロイヤルを、船団護衛からは戦艦ロドネイと駆逐艦3隻を派出。過剰なまでの大戦力を差し向け、怒りと復讐に燃えるイギリス艦隊はビスマルクを討ち滅ぼそうと競い合うように押しかける。総勢戦艦8隻、空母2隻、重巡4隻、軽巡7隻、駆逐艦21隻、潜水艦6隻、陸上航空機数機。単一の作戦としては最大級の戦力であった。こうして恐怖の時間が始まった。
5月24日22時――フッド撃沈から僅か16時間後――、最初の刺客がビスマルクを襲った。悪天候の中、敵空母ヴィクトリアスから発進してきた9機の艦上機ソードフィッシュが出現し、ビスマルクから対空砲火が放たれる。右舷中央部に魚雷1本を命中するも、幸い深度調整装置の故障により最も装甲の厚い場所へ当たったため主缶の一部が故障する程度の被害で済む。しかし燃料の消費が更に増大してしまい、入港先を直線距離で最も近いブレストに変更する。夜間に無理やり航空攻撃を仕掛けた代償としてヴィクトリアス側は2機のフルマー攻撃機が着艦ミスして海へ沈んだ。またこの中途半端な航空攻撃はビスマルク乗員の戦意を萎えさせるどころか逆に盛り上げた。
5月25日午前3時16分、しつこく追跡してきたノーフォークとサフォークを遂に振り切る。これによりイギリス艦隊はビスマルクの所在が分からなくなり、とりあえず航路上に戦艦ラミリーズを配置して他は血眼になって捜索した。ここでリュッチェンス中将はイギリス軍に罠を仕掛けた。巧みな航路変更によりあたかも西方へ向かうかのように見せかけたのである。見事敵はこの罠に引っかかり「ビスマルクは西方に向かった」と思わせる事に成功。
安心したのか、25日朝にフッド撃沈の戦果を30分間に渡ってヒトラー総統に報告するが、これは迂闊だった。無線を傍受したイギリス軍は4時間後に再度正確に位置を特定。が、捜索のため広範囲に艦艇を分散させていたためすぐには攻撃出来なかった。またキングジョージ5世では正確な心射図方式の海図ではなく、狂いが生じる通常の航海用海図に位置を記入するミスをやらかし、本来の位置から北方へ370kmほど離れた場所をビスマルクの現在位置としてしまった。この致命的なミスは捜索艦隊全体にも影響を及ぼす。アイスランド・フェロー諸島間を通って本国へ戻ろうとしていると判断し、イギリス艦隊は北上を開始。しかしビスマルクは今この瞬間も南東へと向かっていたのである。イギリス海軍によって幸いだったのはこのミスがすぐに是正された事だったが、大きく距離を開けられた影響で本国艦隊の大半がビスマルクを捕捉出来なくなっていた。23時頃、ビスマルクが西方にいる敵戦艦ロドネイの目を掻い潜った事で本国艦隊は捕捉のチャンスを失った。
ビスマルクとブレストの間に唯一展開していたのは空母アークロイヤル、巡洋戦艦レナウン、軽巡洋艦シェフィールドからなる地中海艦隊ことH部隊。フッドを葬った強大なビスマルク相手では荷が重すぎるとしてH部隊は極力接近せず、航空攻撃のみ実施。損傷を与えてビスマルクの足を絡め取り、本国艦隊が追いつけるように仕組む。
5月26日午前10時30分、ブレストまで後1200kmのところでカタリナ飛行艇に発見され、激しい対空砲火により撃退したものの位置をイギリス艦隊へ通報される。安全圏まであと少し――翌日の夜遅くにはブレストへ到着し、今から24時間以内にドイツ空軍の支援を受けられる――だが、死神の鎌はビスマルクの首を今にも刎ねようとしていた。20時47分、敵空母アークロイヤルから放たれた雷撃機15機が襲い掛かって来たのである。連戦に次ぐ連戦で乗組員は疲弊していたが勇敢に戦い、対空砲火で数機に大損害を与える。20時53分、ビスマルクが右へ回避した時、左舷へ魚雷2本が命中。このうちの1本が左舷後部の舵機室を破壊した影響で舵が左旋回15度に固定されてしまい、速力も15ノットに低下。死神の鎌がビスマルクの首を落とした瞬間だった。もはや逃げる事すらままならない。どれだけ速力を上げても左周りに円を描くだけでその場から動けなくなってしまったのだから。21時30分、航空魚雷が命中して操舵不能になったと報告。
雷撃機が去った後、潜水士が潜って調べてみたが舵の修理は不能と判断。生き残る道を完全に断たれてしまったリュッチェンス中将は23時40分、ベルリンへ「船は操舵不能。最後の1発まで戦う。総統万歳」と訣別電を打ち、ヒトラー総統から「戦艦ビスマルク乗組員!全ドイツは諸君とともにある。まだ出来る事を実行せよ。諸君の職責の遂行は生存のために戦っている我々国民を元気付けるだろう」と激励電が送られてきた。動けなくなったビスマルクの巨体は卓越風によって北西へと運ばれていく。
次に現れたのはバイアン大佐率いる第4駆逐艦戦隊のコサック、マオリ、シーク、ズールー、ポーランド駆逐艦ピオルンの5隻で、5月27日午前7時まで夜通し襲撃してきたため乗組員の疲労は限界に達した。それでもビスマルクの反撃は的確かつ強力であり、コサックの無電アンテナを破壊し、至近弾の破片で乗組員3名を負傷させる。結局駆逐艦戦隊ではビスマルクにトドメを刺せなかった。早朝、死期を悟ったビスマルクは戦闘記録だけでも残そうとアラドAr196水上機を発進させたが、カタパルトが故障して失敗。遺言すら残す事を許されなかった。午前7時10分、リュッチェンス中将から「戦時日誌をUボートに回収させるように」と最後の通信が送られた。ライフジャケットを着たリンデマン艦長は全てを諦めてしまったかのように艦橋でぼんやりと立っていたという。不運な事にビスマルクの現在位置はドイツ空軍機の行動範囲のギリギリ外であった。にも関わらず空軍はビスマルクを援護しようとユンカースJu88A-5を発進させたが、北大西洋上でイギリス軍機に撃墜されてしまう。希望の火が一つひとつ消え、刻々と処刑の時が迫る。
いずれ来る戦闘に備えてビスマルクは残余のAr196を海へ投棄して可能な限りの準備を行う。
絶望の最期、処刑の朝
5月27日午前8時47分、最期の時が来た。ビスマルクの周囲を戦艦キングジョージ5世、ロドネイ、重巡ノーフォーク、ドーセットシャーが包囲する。ビスマルクの砲塔が旋回して一斉射を放ち、ロドネイに至近弾を与えるが、疲労が限界に達していた乗組員たちに正確な射撃は不可能だった。この時、U-74がビスマルクの近隣まで来ていたが艦の損傷が激しく、もはや見守る事しか出来なかった。
処刑の早い段階でビスマルクの砲兵指揮所が破壊されて散発的な抵抗しか出来なくなる。午前8時59分、ロドネイの主砲弾1発が命中し、1番及び2番砲塔が使用不能になる。続いてキンクジョージ5世の砲撃で3番主砲が、ノーフォークの砲撃で測距儀と方位盤が破壊される。血にまみれていくビスマルクであったが死に体に鞭打って決死の抵抗を行い、キングジョージ5世に15cm砲弾1発を命中させて指揮所と前部砲塔の連絡を一時的に断つ。だが抵抗もここまでだった。午前9時30分のロドネイの砲撃で4番主砲も使用不能になって戦闘能力を喪失。そこへ駆逐艦群も攻撃に加わり、全方向から滅多打ちにされる。イギリスの公刊戦史にはこの時の様子を「あたかも直射訓練の時のように、射距離は段々詰まった。午前10時15分までに巨艦ビスマルクは燃え盛る修羅のちまたと化していった」と記している。戦う術を失ったため生き残っていた上級士官ハンス・オエルス一等航海士は自沈を指示。自ら伝令となって艦内を歩き回り、自身が殺されるまで出会った人に命令を伝え続けた。乗組員たちは艦からの脱出準備を始めるが、午前10時頃にロドネイとキングジョージ5世から4発の至近弾を受け、多くが死傷してしまう。
ビスマルクからの砲火が途絶えたのを見たロドネイは一気に距離を詰め、2700mの至近から砲撃を加えるとともに1本の魚雷を喰らわせる。艦首から艦尾に至るまで炎に包まれるリヴァイアサンだったが最後まで戦意は衰えず、イギリス艦隊からの降伏勧告も拒否して勇敢に戦い続けた。浸水により艦尾が沈み始め、左舷へ20度傾き、今にも沈みそうな状況ながら踏みとどまり続ける。大中口径の砲弾を300~600発被弾したビスマルクの上部構造物は殆ど破壊されて廃墟と化していたが、喫水線下が無事だったため何とか浮き続けていた。
あまりにも耐え続けるビスマルクに対し、戦艦の燃料不足が深刻化してきたイギリス艦隊は早急にトドメを刺そうとドーセットシャーに雷撃を命令。午前10時20分、ドーセットシャーが放った魚雷2本が右舷へ命中するが、最後の力を振り絞って耐え凌ぐ。効果が無いと見るやドーセットシャーは左舷側へ回り込んで魚雷を発射し、午前10時36分に左舷へ1本が命中。これが致命傷となり、左舷へ引きずり込まれるように巨体が倒れ込み、4門の38cm主砲塔を海へ滑落させながら3分後に転覆。巨艦堕つ――乗組員2206名中、U-74に3名、独気象観測船ザクセンヴァルトに2名、ドーセットシャーに85名、英駆逐艦マオリに25名が救助された。リュッチェンス中将やリンデマン艦長ら乗組員の大多数は助からなかった。イギリス艦隊はビスマルク追撃で失った艦は無かったが、退却中にドイツ空軍第77戦闘航空団の空襲を受けて英駆逐艦マショナが撃沈されている。
その後
ビスマルク喪失の報を受けたヒトラー総統はショックを受け、大西洋方面への大型艦の出撃を禁止。ビスマルクの弟にあたる2番艦ティルピッツはノルウェー方面に送られた。イギリス艦隊は恐るべきリヴァイアサンの討伐には成功したものの、無理やり大戦力を動員したため、向こうしばらく艦隊行動が取れなくなる事態に陥る。またビスマルク級へのトラウマからノルウェーにいるティルピッツ対策に本国艦隊を手元に置かざるを得なくなり、その動きは凍り付いたように硬直化した。悲劇で終わったライン演習作戦だったが、唯一の慰めは分離したプリンツ・オイゲンが6月1日に無事ブレストへ入港出来た事だった。オイゲンは8ヶ月後、シャルンホルストやグナイゼナウとともにブレストを脱出し、本国帰投を目指すツェルベルス作戦に臨む事となる。
補給により体勢を整えたイギリス艦隊はライン演習作戦で投入された補給船狩りを開始。6月3日にグリーンランド南方で独タンカーベルチェンが発見されたのを皮切りに次々に撃沈され、9隻中7隻が狩られる大損害を受けた。これにより先述の大型艦出撃禁止令と合わさって大西洋における水上艦の通商破壊は不活発化してしまった。
もう一つの物語
フッドを撃沈したビスマルクを全力で粉砕しようとイギリス海軍が無数の刺客を差し向けた5月23日頃、ドイツ海軍のカール・デーニッツ提督は大西洋で使用可能な全てのUボートをビスマルクの支援に充てると申し出た。イタリア海軍のBETASOM基地にもこの事が伝えられ、「逃走中のビスマルクを支援せよ」と大西洋で作戦行動中の伊潜水艦に呼びかけた。救出作戦に呼応してUボート5隻が参戦し、ビスマルクが釣り上げた敵艦隊を攻撃すべく哨戒線を形成する。
その中にはビスマルクを守ると誓った騎士U-556も含まれていた。
遡ること1941年1月、U-556は進水式を迎えた。艦長のヘルベルト・ヴォールファルト少佐は軍楽隊による祝賀を希望したが「そんな余裕は無い」と突っぱねられ、眉毛を八の字にしていた。そこへビスマルク艦長エルンスト・リンデマン大佐の厚意で自艦の軍楽隊が貸し出される事となり、U-556の誕生を盛大に祝ってくれた。ウォールファルト少佐はこの心意気に感謝し、「いつ如何なる時も必ずビスマルクを守る」という宣誓書を書き、甲板上に円卓の騎士パーシヴァルが親指で水中の魚雷を止めようとする絵と潜水艦が安全なところまで戦艦を牽引する絵を描いた。こうしてU-556は専属の護衛騎士となったのである。
そのビスマルクが今、窮地に陥っている。U-556は恩を返すために行動を開始。5月26日19時48分、U-556はビスマルクを追跡中の敵艦隊と遭遇。キングジョージ5世とアークロイヤルの姿が見えた。しかしU-556は事前の通商破壊で魚雷を使い果たしており、出来る事は誘導ビーコンと位置情報を放って近くのUボートを誘導する事だけだった。だが無情にも荒れた海がUボートの集結を拒み、頑張って来てくれたU-73もアークロイヤルへの雷撃に失敗した後、荒波に流されてしまった。20時39分、浮上したU-556は「視界内にて敵戦艦と空母が高速で航行中」と報告。レナウンとアークロイヤルの針路を正確に伝えた。
5月27日午前0時、敵駆逐艦群に包囲されたビスマルクが猛攻を受けている所を目撃。「ビスマルクのために何か出来る事は無いのか?近くにいるのに何も出来ないというのは酷い気分だ」とヴォールファルト艦長が顔を歪めて呟く。U-556が放つ誘導ビーコンに従って戦闘能力を持つUボートが来てくれる事をただひたすら祈るばかり。何も出来ない無力さに打ちひしがれながらもU-556は「全てのUボートに魚雷が装填されています。すぐに助けに行く事が出来ます。ビスマルクに向けて全力航行中」と悲痛な叫びとも取れる激励文を送信。ビスマルクの北にはU-556、西にはU-108、南にはU-74、U-97、U-98、U-552がおり、ビスケー湾で敵艦隊を待ち伏せていたUボート群もビスマルク防衛のため動き始めていた。午前6時30分、誘導ビーコンによって馳せ参じたU-74と合流。燃料不足からU-74にビスマルク支援の任を託し、自身はロリアン軍港へと向かう。
U-556は5月30日にロリアンへと入港したがビスマルクは死地から生きて戻る事は出来なかった…。U-74もまた損傷を負っていた影響で殆ど援護出来ず、戦時日誌も回収出来ず、沈没後に3名の生存者を救助しただけだった。そしてビスマルクの後を追うように次の出撃でU-556も未帰還となる。
関連動画
関連項目
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