ライン演習作戦単語

12件
ラインエンシュウサクセン
1.1万文字の記事
  • 0
  • 0pt
掲示板へ

ライン演習作戦とは、第二次世界大戦中の1941年5月18日ドイツ海軍が発動した通商破壊作戦である。イギリス艦隊との交戦で巡洋戦艦フッドを撃沈するが、この事がイギリス海軍の怒りに触れ、猛追の末にドイツ戦艦ビスマルクも撃沈された。

概要

背景

第二次世界大戦が勃発して1年が経とうとしていた1940年8月24日ドイツ海軍に強大な戦艦が加わった。排水量4万トンえの巨体を持つ世界最大(当時)の戦艦――その名はビスマルク鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルクから名を受け継いだ由緒正しきドイツ戦艦は、かつて存在した高艦隊を彷彿させる力強い威容を誇っていた。大海を支配するに相応しいリヴァイアサンにはアドルフ・ヒトラー総統興味々であり、後に閲を行っている。

1941年3月22日ドイツ占領下フランスブレスト軍港にベルリン作戦を終えた巡洋戦艦シャルンホルストグナイゼナウが入港。大西洋に所在する2隻の巡洋戦艦と、ドイツにいる戦艦ビスマルク重巡プリンツ・オイゲンが同時に出撃して敵護送団を挟み撃ちにすれば、イギリス海軍が護衛に戦艦を割かない限り対抗出来ない事をエーリヒレーダー海軍総司令官は理解していた。この挟み撃ち攻撃を体としたライン演習作戦が立案され、ドイツ海軍が誇る怪物ビスマルクにも出撃の命が下った。しかし大西洋側から出撃するはずのシャルンホルスト機関不調で、グナイゼナウブレスト襲時に艦尾を大破させられて出撃不能になってしまったのである。本ブレストからの連携攻撃は作戦開始前から既に破綻していたのだ。

だがレーダー提督作戦の実行を諦めなかった。先のベルリン作戦の大戦果を再現しようとビスマルクプリンツ・オイゲンの出撃だけでも行う事とし、イギリス艦隊がビスマルクを恐れている心理を利用、差し詰めビスマルク磁石のようにして敵艦隊を釣り上げ、その間にプリンツ・オイゲン防備の敵団へ襲い掛かるという内容に作戦を変更した。一方、戦艦戦隊ドイツ艦隊長官ギュンター・リュッチェン中将は慎重だった。彼は4月22日作戦の詳細を取り決めたが、その翌日に伴走者のプリンツ・オイゲンが触雷損傷する被害が発生して出撃日が2週間遅延4月26日ベルリンで行われた会議で「ブレスト側の準備が整うまではライン演習作戦を延期すべきだ」としたが、レーダー提督はリュッチェン中将の懸念に理解を示しつつも「まで待っていたら敵の監視網を掻い潜るのに好都合な、北大西洋の長い時化を自ら手放す事になる」と聞き入れず。また6月に控えるバルバロッサ作戦が実行されれば陸軍空軍の要が優先的に考慮され、海軍は除け者になってしまう。ヒトラー総統の関心を海軍に留めるためにも大戦果を早急に挙げる必要があった。レーダー提督ビスマルクの喪失や損傷を避けるべく敵水上部隊との交戦を避けるようリュッチェン中将示を出すが、彼は「の脅威は空母から放たれる雷撃機」だと意見を述べている。マレー沖海戦より前、航空機では作戦行動中の戦艦を沈める事が出来ないというのが世界常識とされていた中、リュッチェン中将は先見性を発揮。そして皮にもその意見は的中していた。

ライン演習作戦の実行決定に伴い、ドイツ海軍ビスマルクのために7隻の給油タンカーと2隻の補給を用意。西はラブラドール、南はカーボベルデに至る広大域をカバーする。またUボートとの協同作戦が必要になった時に備えてビスマルクには連絡士官が便乗した。こうしてビスマルク戦闘準備と人員配置は着々と進み、4月28日に艦長リンデマ大佐は艦隊部、西部方面艦隊、北部方面艦隊に準備了していると通達。命を吹き込まれた怪物は次第に呼吸を荒げ始める。自身の敵を嚙み砕かんとして。

5月5日、ゴーテンハーフェンに停泊中のビスマルクティルピッツヒトラー総統が視察。リュッチェン中将が出迎えた。5月13日午後にゴーテンハーフェンを出発したビスマルクダンツィヒ湾でプリンツ・オイゲンと艦隊給油の訓練を実施するが、その際に左舷クレーンが故障したため出発日を遅らせ、5月16日修理了。

経過

戦艦ビスマルク出撃

ライン演習作戦が発動された1941年5月18日午前10時、リュッチェン中将は補佐官を伴ってプリンツ・オイゲンの乗組員を閲兵。続いてビスマルク艦内でリンデマン艦長とヘルムート・ブリクマン艦長に作戦を説明した。正午頃、軍楽隊が奏でる勇壮な音楽に見送られて停泊地を出発し、港外に集積されていた物資や燃料を積載。その際に燃料ホースの1本が破裂して全には給油出来なかった。21時、まず重巡プリンツ・オイゲンがゴーテンハーフェンを出港。続いて翌19日午前2時にリュッチェン中将が座乗する戦艦ビスマルク駆逐艦Z10、機雷原啓開13号と31号、第5掃海艇群に護衛されて出港した。両艦はバルト西部のリューゲンアルコナで合流し、新たにZ16とZ23が護衛に加わった。しかし5月20日13時頃、グレートベルト峡を航行中にスウェーデン航空巡洋艦ゴトランドに発見される。ゴトランドスウェーデンに報告するが、その通信をイギリスに傍受され、英海軍ビスマルクプリンツ・オイゲンの出撃を々に察知してしまう。

そうとは知らずに5月21日午前9時ドイツ占領ノルウェーベルゲンへ寄港して燃料補給を受ける。その時にビスマルクの再塗装を行った他、偵察に現れたスピットファイアによってベルゲンにいる事を突き止められる。翌22日にベルゲンを出港。伴走者の駆逐艦3隻と分離してビスマルクプリンツ・オイゲンの2隻はデンマーク峡へと向かった。その先には凄惨な運命が待ち受けているとも知らずに…。

スカパ・フローを本拠地とする英本艦隊は戦艦キングジョージ5世プリンス・オブ・ウェールズ巡洋戦艦フッドレナウンに対し北大西洋への進出を命。ただビスマルクデンマーク峡とアイスランドフェロー諸島間のどちらの域を通過するまでは割り出せなかったため、戦力を二分にして対処した。自ら敵のへ飛び込む格好となったビスマルクに思わぬ幸運が味方する。北大西洋特有の急悪化によりイギリス艦隊はビスマルク所在を掴めなくなり、この隙を突いてリュッチェン中将デンマーク峡の突破を試みた。5月22日デンマーク峡に差し掛かったビスマルクアイスランドの北端を西進。

5月23日になっても依然ビスマルクの味方だった。濃霧で視界が140m以内に狭められ、イギリス軍は航空を中止、デンマーク峡の監視も停止していた。用意周到な事にドイツ海軍イギリスが持つ高性レーダーの存在も計算に入れており、視界不良の中で一頼りになるレーダー探知すらも掻い潜っていた。しかし19時22分、デンマーク峡を突破する前に最新鋭レーダーを携えた敵巡洋艦サフォークノーフォークに発見される。だが、ここでもビスマルクは幸運に恵まれた。最新鋭レーダーは艦尾方向の探知が出来ない欠陥を抱えていて、ちょうどビスマルク盲目の艦尾方向から姿を現した事でサフォークの初動が遅れた。ノーフォークサフォークは後方からビスマルクを追跡。この先で待ち構えるフッドプリンス・オブ・ウェールズのもとまで誘導する。

追跡してくる敵艦2隻を疎ましく思ったビスマルクノーフォーク掛けてを発射。命中弾こそ出なかったがノーフォークビビらせるには十分過ぎたらしく、慌てての中へと逃げ込んだ。その後、敵艦はビスマルク哮を恐れてレーダー探知出来るギリギリの場所から追いかけた。この撃の際、衝撃ビスマルクレーダーが故障してしまったため、プリンツ・オイゲンを先行させて前路させる。

デンマーク海峡海戦で敵巡洋戦艦フッドを撃沈する

5月24日午前5時35分、フッドの右舷前方約30kmにビスマルクが姿を現した。ドイツ艦隊はプリンツ・オイゲンビスマルクの順に並んだ単縦イギリス艦隊もフッドを先頭にした単縦を組んでいた。戦艦1隻と重巡1隻のドイツ艦隊に対し、イギリス艦隊は巡洋戦艦1隻、戦艦1隻と火力的に優勢であり、戦闘においても一日の長があるなど敵側が一歩有利な状況下、後の世に言うデンマーク戦が幕を開ける。

まず最初に戦端を開いたのはイギリス艦隊だった。距離2万3000mから先制の撃を浴びせられる。敵水上艦隊との交戦は避けるよう言われていたが、リンデマン艦長が発許可を出し、リュッチェン中将も黙認した事で速に戦闘態勢へと移る事が出来た。そんな中、イギリス艦隊は致命的なミスをやらかす。なんとフッドプリンツ・オイゲンビスマルクと誤認した上、それぞれが別の標に撃を仕掛けて火力を分散させてしまったのだ。対するドイツ艦隊は先頭のフッド火力を集中。プリンス・オブ・ウェールズフッド同様にオイゲンビスマルクと見間違えるミスをしていたが、期に気付いてビスマルクに照準を合わせている。だがウェールズは就役したばかりの新造艦だったため乗組員の練度が低く、せっかくの高火力ビスマルクにぶつけられなかった。

プリンツ・オイゲンの第四斉射によりフッドへ10.2cm弾と20.3cm弾が命中するが、生じた火災はすぐに消火されて致命傷には至らなかった。ウェールズは既に7回に及ぶ一斉射を行うも練度の低さが足を引っってビスマルクに命中弾を出せずにいた。

午前5時52分、ビスマルク最初の一斉射がフッドの近くに着弾。その3分後には第三斉射がフッドボートに命中して弾薬誘爆火災が発生する。フッド標をビスマルクに変えて艦首を左へ向けるが、その間にも第四斉射がフッドを夾叉。徐々に命中精度が上がっていく。そして午前6時距離1万3000mから放たれたビスマルクの第五斉射の1発がフッドの煙突後方に直撃。舷側装甲と艦内甲装甲を貫き、両用弾薬庫内で炸裂した事で後部弾薬庫が誘爆してフッド。1419名中1416名戦死という大損を受けた。燃え盛る火の玉と化したフッドをかわすためプリンス・オブ・ウェールズは転。何とか回避に成功したが、ビスマルクプリンツ・オイゲンから集中火を受け、午前6時6分から12分の間に7発が命中(内訳ビスマルクが4発、オイゲンが3発)。未完成の電により重の幾つかは発射管が故障、ビスマルクの38cm弾が戦闘揮所に命中して艦長と主任信号長を除く全員死亡するなど報が相次ぎ、戦意を喪失したプリンス・オブ・ウェールズ撃を中止。煙幕を展開しながら離脱し、後方から追いかけていたサフォークノーフォークの両艦と合流する。

デンマーク戦はフッドを撃沈したドイツ艦隊の勝利に終わった。リンデマン艦長は追撃を希望したが、「用な戦闘は避けるように」とレーダー提督から命を受けていたリュッチェン中将がその意見を退けた。

戦闘後、270度方向に向けて離脱。ビスマルクプリンス・オブ・ウェールズから3発の命中弾を受け、2400トンの浸被害を受けると同時にボイラー室の一部と発電機室が浸して最大速力が24ノットに低下。艦首燃料タンクに突き刺さった不発弾1発のせいで燃料1000トンが使用不能になり、面には流れ出たの尾を引くなど発見されやすい状態に陥る。損傷と燃料の喪失により長期の通商破壊作戦困難と判断され、傷で乗り切ったオイゲンに任務を任せる事に。18時14分、ビスマルクが火を噴き、相変わらず追いかけてくるサフォークノーフォークを牽制。その間にプリンツ・オイゲンを分離させた。敵の狙いはビスマルクだけらしく、オイゲンが離脱した後も追跡してきたため、イギリス艦隊をUボートが展開している域へ誘い込みながら修理的でフランス方面へ向かった。ビスマルク級が入渠出来るドックを持つ拠点はサン・ナゼールしかなく、午前8時にリュッチェン中将はサン・ナゼールへの入港を希望。現地では係留ブイなどの準備が進められた。

恐怖の始まり

かくしてイギリス海軍の誇りとも言うべきフッドリヴァイアサンに噛み砕かれた。この事実イギリス海軍に大きな衝撃をもたらす。チャーチル首相大西洋の交通に対する重大な脅威を取り除くため、総力を挙げてのビスマルク撃沈を下。一説によると「どうやってやったって構わない。ビスマルクを沈めなければならない!」とがなり立てたという。

艦隊から戦艦キングジョージ5世巡洋戦艦レパルス空母ヴィクトリアスを、地中海艦隊からは巡洋戦艦レナウン重巡シェフィールド空母アークロイヤルを、団護衛からは戦艦ロドネイと駆逐艦3隻を出。過剰なまでの大戦力を差し向け、怒りと復讐に燃えるイギリス艦隊はビスマルクを討ち滅ぼそうと競い合うように押しかける。総勢戦艦8隻、空母2隻、重巡4隻、軽巡7隻、駆逐艦21隻、潜水艦6隻、陸上航空機数機。単一の作戦としては最大級の戦力であった。こうして恐怖の時間が始まった。

5月24日22時――フッド撃沈から僅か16時間後――、最初の刺客がビスマルクを襲った。悪の中、敵空母ヴィクトリアスから発進してきた9機の艦上機ソードフィッシュが出現し、ビスマルクから対空砲火が放たれる。右舷中央部に魚雷1本を命中するも、幸い深度調整装置の故障により最も装甲の厚い場所へ当たったための一部が故障する程度の被害で済む。しかし燃料の消費が更に増大してしまい、入港先を直線距離で最も近いブレストに変更する。間に理やり航空攻撃を仕掛けた代償としてヴィクトリアス側は2機のフルマー攻撃機が着艦ミスしてへ沈んだ。またこの中途半端な航空攻撃はビスマルク乗員の戦意を萎えさせるどころか逆に盛り上げた。

5月25日午前3時16分、しつこく追跡してきたノーフォークサフォークを遂に振り切る。これによりイギリス艦隊はビスマルク所在が分からなくなり、とりあえず航路上に戦艦ミリーズを配置して他は血眼になって捜索した。ここでリュッチェン中将イギリス軍にを仕掛けた。巧みな航路変更によりあたかも西方へ向かうかのように見せかけたのである。見事敵はこのに引っかかり「ビスマルク西方に向かった」と思わせる事に成功。

安心したのか、25日フッド撃沈の戦果を30分間に渡ってヒトラー総統に報告するが、これは闊だった。線を傍受したイギリス軍は4時間後に再度正確に位置を特定。が、捜索のため広範囲に艦艇を分散させていたためすぐには攻撃出来なかった。またキングジョージ5世では正確な心射図方式の図ではなく、狂いが生じる通常の航図に位置を記入するミスをやらかし、本来の位置から北方へ370kmほど離れた場所をビスマルク現在位置としてしまった。この致命的なミスは捜索艦隊全体にもを及ぼす。アイスランドフェロー諸島間を通って本へ戻ろうとしていると判断し、イギリス艦隊は北上を開始。しかしビスマルクは今この間も南東へと向かっていたのである。イギリス海軍によって幸いだったのはこのミスがすぐに是正された事だったが、大きく距離を開けられたで本艦隊の大半がビスマルクを捕捉出来なくなっていた。23時頃、ビスマルク西方にいる敵戦艦ロドネイのを掻い潜った事で本艦隊は捕捉のチャンスを失った。

ビスマルクブレストの間に一展開していたのは空母アークロイヤル巡洋戦艦レナウン軽巡洋艦シェフィールドからなる地中海艦隊ことH部隊フッドを葬った強大なビスマルク相手では荷が重すぎるとしてH部隊は極力接近せず、航空攻撃のみ実施。損傷を与えてビスマルクの足を絡め取り、本艦隊が追いつけるように仕組む。

5月26日午前10時30分、ブレストまで後1200kmのところでカタリナ飛行艇に発見され、しい対空砲火により撃退したものの位置をイギリス艦隊へ通報される。安全圏まであと少し――翌日の遅くにはブレストへ到着し、今から24時間以内にドイツ空軍支援を受けられる――だが、死神ビスマルクの首を今にも刎ねようとしていた。20時47分、敵空母アークロイヤルから放たれた雷撃機15機が襲い掛かって来たのである。連戦に次ぐ連戦で乗組員は疲弊していたが勇敢に戦い、対空砲火で数機に大損を与える。20時53分、ビスマルクが右へ回避した時、左舷へ魚雷2本が命中。このうちの1本が左舷後部の機室を破壊したが左旋回15度に固定されてしまい、速力も15ノットに低下。死神ビスマルクの首を落とした間だった。もはや逃げる事すらままならない。どれだけ速力を上げても左周りに円を描くだけでその場から動けなくなってしまったのだから。21時30分、航空魚雷が命中して操不能になったと報告。

雷撃機が去った後、潜士が潜って調べてみたが修理不能と判断。生き残る全に断たれてしまったリュッチェン中将23時40分、ベルリンへ「は操不能。最後の1発まで戦う。総統万歳」と別電を打ち、ヒトラー総統から「戦艦ビスマルク乗組員!全ドイツは諸君とともにある。まだ出来る事を実行せよ。諸君の職責の遂行は生存のために戦っている民を元気付けるだろう」と励電が送られてきた。動けなくなったビスマルクの巨体は卓越によって北西へと運ばれていく。

次に現れたのはバイアン大佐率いる第4駆逐艦戦隊コサックマオリ、シークズールーポーランド駆逐艦ピオルンの5隻で、5月27日午前7時まで通し襲撃してきたため乗組員の疲労は限界に達した。それでもビスマルクの反撃は的確かつ強力であり、コサックアンテナを破壊し、至近弾の破片で乗組員3名を負傷させる。結局駆逐艦戦隊ではビスマルクトドメを刺せなかった。、死期を悟ったビスマルク戦闘記録だけでも残そうとアラドAr196水上機を発進させたが、カタパルトが故障して失敗。遺言すら残す事を許されなかった。午前7時10分、リュッチェン中将から「戦時日誌をUボートに回収させるように」と最後の通信が送られた。ライフジャケットを着たリンデマン艦長は全てを諦めてしまったかのように艦でぼんやりと立っていたという。不運な事にビスマルク現在位置はドイツ空軍機の行動範囲のギリギリ外であった。にも関わらず空軍ビスマルクを援護しようとユンカースJu88A-5を発進させたが、北大西洋上でイギリス軍機に撃墜されてしまう。希望の火が一つひとつ消え、刻々と処刑の時が迫る。

いずれ来る戦闘に備えてビスマルクは残余のAr196へ投棄して可な限りの準備を行う。

絶望の最期、処刑の朝

5月27日午前8時47分、最期の時が来た。ビスマルクの周囲を戦艦キングジョージ5世、ロドネイ、重巡ノーフォーク、ドーセットシャーが包囲する。ビスマルクが旋回して一斉射を放ち、ロドネイに至近弾を与えるが、疲労が限界に達していた乗組員たちに正確な射撃不可能だった。この時、U-74がビスマルクの近隣まで来ていたが艦の損傷がしく、もはや見守る事しか出来なかった。

処刑のい段階でビスマルク砲兵揮所が破壊されて散発的な抵抗しか出来なくなる。午前8時59分、ロドネイの弾1発が命中し、1番及び2番が使用不能になる。続いてキンジョージ5世撃で3番が、ノーフォーク撃で測距儀と方位盤が破壊される。血にまみれていくビスマルクであったが死に体に打って決死の抵抗を行い、キングジョージ5世に15cm弾1発を命中させて揮所と前部の連絡を一時的に断つ。だが抵抗もここまでだった。午前9時30分のロドネイの撃で4番も使用不能になって戦闘力を喪失。そこへ駆逐艦群も攻撃に加わり、全方向から滅多打ちにされる。イギリス戦史にはこの時の様子を「あたかも直射訓練の時のように、射距離は段々詰まった。午前10時15分までに巨艦ビスマルクは燃え盛る修羅のちまたと化していった」と記している。戦う術を失ったため生き残っていた上級士官ハンス・オエルス一等航士は自沈を示。自ら伝となって艦内を歩き回り、自身が殺されるまで出会った人に命を伝え続けた。乗組員たちは艦からの脱出準備を始めるが、午前10時頃にロドネイとキングジョージ5世から4発の至近弾を受け、多くが死傷してしまう。

ビスマルクからの火が途絶えたのを見たロドネイは一気に距離を詰め、2700mの至近から撃を加えるとともに1本の魚雷を喰らわせる。艦首から艦尾に至るまで炎に包まれるリヴァイアサンだったが最後まで戦意は衰えず、イギリス艦隊からの降勧告も拒否して勇敢に戦い続けた。浸により艦尾が沈み始め、左舷へ20度傾き、今にも沈みそうな状況ながら踏みとどまり続ける。大中口径の弾を300~600発被弾したビスマルクの上部構造物はど破壊されて廃墟と化していたが、喫線下が事だったため何とか浮き続けていた。

あまりにも耐え続けるビスマルクに対し、戦艦の燃料不足が深刻化してきたイギリス艦隊は早急トドメを刺そうとドーセットシャーに雷撃を命午前10時20分、ドーセットシャーが放った魚雷2本が右舷へ命中するが、最後の力を振り絞って耐えぐ。効果がいと見るやドーセットシャーは左舷側へ回り込んで魚雷を発射し、午前10時36分に左舷へ1本が命中。これが致命傷となり、左舷へ引きずり込まれるように巨体が倒れ込み、4門の38cmへ滑落させながら3分後に転覆。巨艦堕つ――乗組員2206名中、U-74に3名、独気観測ザクセンヴァルトに2名、ドーセットシャーに85名、英駆逐艦マオリに25名が救助された。リュッチェン中将リンデマン艦長ら乗組員の大多数は助からなかった。イギリス艦隊はビスマルク追撃で失った艦はかったが、退却中にドイツ空軍第77戦闘航空団の襲を受けて英駆逐艦マショナが撃沈されている。

その後

ビスマルク喪失の報を受けたヒトラー総統ショックを受け、大西洋方面への大艦の出撃を禁止。ビスマルクにあたる2番艦ティルピッツノルウェー方面に送られた。イギリス艦隊は恐るべきリヴァイアサンの討伐には成功したものの、理やり大戦力を動員したため、向こうしばらく艦隊行動が取れなくなる事態に陥る。またビスマルク級へのトラウマからノルウェーにいるティルピッツ対策に本艦隊を手元に置かざるを得なくなり、その動きは凍り付いたように硬直化した。悲劇で終わったライン演習作戦だったが、一の慰めは分離したプリンツ・オイゲン6月1日ブレストへ入港出来た事だった。オイゲンは8ヶ後、シャルンホルストグナイゼナウとともにブレストを脱出し、本帰投をツェルベルス作戦に臨む事となる。

補給により体勢を整えたイギリス艦隊はライン演習作戦で投入された補給狩りを開始。6月3日グリーンランド南方で独タンカーベルチェンが発見されたのを皮切りに次々に撃沈され、9隻中7隻が狩られる大損を受けた。これにより先述の大艦出撃禁止と合わさって大西洋における水上艦の通商破壊は不活発化してしまった。

もう一つの物語

フッドを撃沈したビスマルクを全力で粉砕しようとイギリス海軍数の刺客を差し向けた5月23日頃、ドイツ海軍カール・デーニッツ提督大西洋で使用可な全てのUボートビスマルク支援に充てると申し出た。イタリア海軍BETASOM基地にもこの事が伝えられ、「逃走中ビスマルク支援せよ」と大西洋で作戦行動中の潜水艦に呼びかけた。救出作戦に呼応してUボート5隻が参戦し、ビスマルク釣り上げた敵艦隊を攻撃すべく線を形成する。

その中にはビスマルクを守ると誓った騎士U-556も含まれていた。

遡ること1941年1月、U-556は進水式を迎えた。艦長のヘルベルトヴォーファル少佐は軍楽隊による祝賀を希望したが「そんな余裕はい」と突っぱねられ、眉毛を八の字にしていた。そこへビスマルク艦長エルンスト・リンデマ大佐の厚意で自艦の軍楽隊が貸し出される事となり、U-556の誕生を盛大に祝ってくれた。ウォールファル少佐はこの心意気に感謝し、「いつ如何なる時も必ずビスマルクを守る」という宣誓書を書き、甲上に円卓の騎士パーシヴァル水中魚雷を止めようとする絵と潜水艦が安全なところまで戦艦を牽引する絵を描いた。こうしてU-556は専属の護衛騎士となったのである。

そのビスマルクが今、窮地に陥っている。U-556は恩を返すために行動を開始。5月26日19時48分、U-556はビスマルクを追跡中の敵艦隊と遭遇。キングジョージ5世アークロイヤルの姿が見えた。しかしU-556は事前通商破壊魚雷を使い果たしており、出来る事は誘導ビーコンと位置情報を放って近くのUボートを誘導する事だけだった。だが情にも荒れたUボートの集結を拒み、頑って来てくれたU-73もアークロイヤルへの雷撃に失敗した後、荒波に流されてしまった。20時39分、浮上したU-556は「視界内にて敵戦艦空母が高速で航行中」と報告。レナウンアークロイヤルの針路を正確に伝えた。

5月27日午前0時、敵駆逐艦群に包囲されたビスマルクが猛攻を受けている所を撃。「ビスマルクのために何か出来る事はいのか?近くにいるのに何も出来ないというのは酷い気分だ」とヴォーファルト艦長が顔をめてく。U-556が放つ誘導ビーコンに従って戦闘力を持つUボートが来てくれる事をただひたすら祈るばかり。何も出来ない力さに打ちひしがれながらもU-556は「全てのUボート魚雷が装填されています。すぐに助けに行く事が出来ます。ビスマルクに向けて全力航行中」と悲痛な叫びとも取れる励文を送信。ビスマルクの北にはU-556、西にはU-108、南にはU-74、U-97、U-98、U-552がおり、ビスケー湾で敵艦隊を待ちせていたUボート群もビスマルク防衛のため動き始めていた。午前6時30分、誘導ビーコンによって馳せ参じたU-74と合流。燃料不足からU-74にビスマルク支援の任を託し、自身はロリアン軍港へと向かう。

U-556は5月30日ロリアンへと入港したがビスマルクは死地から生きて戻る事は出来なかった…。U-74もまた損傷を負っていたど援護出来ず、戦時日誌も回収出来ず、沈没後に3名の生存者を救助しただけだった。そしてビスマルクの後を追うように次の出撃でU-556も未帰還となる。

関連動画

関連項目

【スポンサーリンク】

  • 0
  • 0pt
記事編集 編集履歴を閲覧

ニコニ広告で宣伝された記事

この記事の掲示板に最近描かれたお絵カキコ

お絵カキコがありません

この記事の掲示板に最近投稿されたピコカキコ

ピコカキコがありません

ライン演習作戦

まだ掲示板に書き込みがありません…以下のようなことを書き込んでもらえると嬉しいでーす!

  • 記事を編集した人の応援(応援されると喜びます)
  • 記事に追加して欲しい動画・商品・記述についての情報提供(具体的だと嬉しいです)
  • ライン演習作戦についての雑談(ダラダラとゆるい感じで)

書き込みを行うには、ニコニコのアカウントが必要です!