サラディン(西暦1137年または1138年生~1193年没)とはイスラームの大英雄である。
概要
キリスト教徒から聖地イェレサレム(エルサレム)を奪還、第三次十字軍と戦った。
エジプトを拠点とするアイユーブ朝の創始者。
「サラディン」とはヨーロッパ人による慣習的な名であり、アラビア語のフルネームはアル・マリク・アン・ナジル・アブ・アル・ムサファ・サラーフ・アッディーン・ユースフ・ブン=アイユーブ(al-Malik an-Nāṣir ’abū al-Muẓaffar Ṣalāḥ ad-Dīn Yūsuf bun ’ayyūb)。
このうち本名が「ユースフ(・ブン=アイユーブ)」で、サラーフ・アッディーン(サラーフッディーン)は「信仰の救い」を意味するラカブ(尊称)である。
誕生と出世
ヒジュラ歴532年(西暦1137年または1138年)、イラク北部の都市・ティクリート(タクリート)で、クルド人の両親の間に産まれた。
彼の産まれたティクリートはクルド、ペルシャ、トルコ、アラブといった、多種多様な人種や文化が複雑に入り混じる場所であった。
サラディンの父・アイユーブは最初セルジューク朝でクルド人代官として働いていたが、サラディンの兄が起こした諍いの罪を問われ、一家ともども追放されてしまう。しかしかつて恩義のあったシリアのザンギー朝の創始者・ザンギーに迎えられ、レバノン東部のバールベックに領地を与えられた。このザンギー朝二代君主が、後にサラディンが仕えることとなるヌールッディーン・マフムードである。
当時のイスラームでは才知ある少年を寵童として取り立てるのが慣習となっており、サラディンも寵童として重用されたという。15歳にしてイクター(徴税権)を与えられるなど、若くして頭角を現したサラディンはシリアで軍事訓練を積む一方、学問や政治に才を発揮。智勇を兼ね備えた武将として成長していった。
当時、聖地イェレサレムは第一回十字軍によってキリスト教徒の手に落ちており、聖地奪還はムスリムの悲願であった。
一方でイェレサレム王・アモーリー(当然キリスト教勢)はイスラームからイェレサレムを防衛するためにエジプトの古豪ファーティマ朝を襲撃。これに対してヌールッディーンは1164年から69年にかけて三度エジプトに遠征を試みる。
サラディンはこれに従軍し、活躍が認められた結果ファーティマ朝の宰相に任じられた。このときサラディン32歳。
ファーティマ朝の宰相からアイユーブ朝創立へ
サラディンはファーティマ朝の宰相として、エジプトに色々な変化をもたらした。
軍制では、身内の者にイクター(徴税権)を与え、自身はマムルーク(奴隷)の購入を開始した。また旧弊に陥っていた黒人奴隷兵団とアルメニア人軍団を解散させた。
ファーティマ朝は以前からキリスト系アルメニア人とイスラーム系スンナ派の対立が激しい国であったが、サラディンは就任当初から反アルメニア路線をとり、修道士の追放やアルメニア人の財産の没収などをして彼らを弾圧した。
サラディンの新エジプト軍の特徴は以下のようになる。
サラディンは自ら掌握した経済基盤を自分の支持者に分配することによって、軍隊を強化していったのである。
かつての栄光は見る陰もないほどに衰えていたファーティマ朝であったが、その宗教的権威は依然保っていた。そこでサラディンは簒奪者の汚名を逃れるためにイスラーム諸国の最古参にしてもっとも宗教的権威のある(反面、軍事的存在感を失っていた)アッバース朝を支持することを表明。
またシーア派であるファーティマ朝においてスンナ派を優遇し、着々と王朝建設の下準備を行っていた。
1171年にファーティマ朝の最後のカリフ、アル・アーディドが病死し、250年続いたファーティマ朝はここに滅亡した。
ファーティマ朝滅亡の直後はアッバース朝と、いまだにサラディンの上にあったザンギー朝のヌールッディーンに恭順を示していたサラディンだが、政治的野心を疑われて関係は悪化。1174年にヌールッディーンが死去すると、新たなる王朝、アイユーブ朝の創設を宣言した。
しかしいまだエジプトはアッバース朝の影響を強く受けており、西にはヌールッディーンの後継者がサラディンと対立するなど、情勢は安泰とは程遠かった。
サラディンの改革
政権を手に入れたサラディンがまず最初に着手したのは、ディーワーン(官僚機構)の改革であった。
官僚の頂点には宰相時代からサラディンの信任厚かったカーディー・アルファーディルが就任。彼は事実上の宰相として働き、国の全予算の管理と公文書を起草する責任を負った。
長いことファーティマ朝の宰相として働いていたサラディンには、カーディーの他にも優秀な官吏がついていた。とりわけアリー・マフズーミーとイブン・マンマーティーは行政と財政に関してアイユーブ朝を大いに助けた。
サラディンは彼らやエジプト人官僚の助言によって検地・暦の改定・税制改革などを次々と行った。またクルアーンによって禁止されていたザカート(喜捨)の他、ハラージュ(地租)・異教徒へのジズヤ(人頭税)以外の全てのマスク(雑税)を廃止し、民衆に喜ばれた。
またサラディンは宰相時代から続けていたイクター(徴税権)の再編成を更に進めていく。
彼はファーティマ朝の元高官や黒人、アルメニア人の土地を没収し、部下にその土地のイクター(徴税権)を与えて軍事制度を維持した。なおここで部下に与えられるのは徴税権のみであり、自治権がない点で封建制とは趣きを異にする。
国防に関してはサラディンはカイロおよび周辺を城塞化させようと計画していたようだが、これが現実になるのは次のマムルーク朝になってからのことであった。しかし彼の計画した城塞は有効性が高く、以後700年、20世紀になるまでその効力を保つこととなる。
そしてもちろんムスリムの義務として宗教施設の建設も怠っていない。
サラディンはファーティマ朝のシーア派の残滓を取り除くことと優秀な人材を育成する目的で、スンナ派のマドラサ(宗教学校)を25軒も建てた。
聖地奪還、vs十字軍、最期
サラディン治世の初期はほとんどが十字軍ではなく、ヌールッディーンの後継者たるイスラーム勢力との戦いに費やされた。単に武力に訴えるだけでなく、彼の側近はサラディンのジハド(聖戦)の宗教的正当性を訴えるため、宣伝活動にも力を注いだ。
1187年、アイユーブ朝建国から13年後、ついにサラディンはイェレサレム王国を陥落させ、聖地奪還を成し遂げた。
メッカ、メディナに続くムスリムの「第三の聖地」を取り戻したサラディンは、その威光をイスラーム社会全土に拡げることとなる。
かつて十字軍がイェレサレムを落とした際には目を覆いたくなるような虐殺があったため、イェレサレムのキリスト教徒たちは同じように復讐されるのではないかと戦々恐々としていた。
しかしサラディンは身代金を徴収することによって、キリスト教徒を寛大に解放したのである。また身代金を支払えない捕虜の兵士には慈悲をかけ、何を奪うでもなく彼らも同様に解放した。
サラディンはイェレサレムに入城すると、キリスト教化していたイェレサレムを再度イスラーム化させることに心を砕いた。マドラサ(宗教学校)、ハーンカー(修道院)、ビーマーリスターン(病院)を建設し、人々が世俗と宗教の両面において活動する場所を多く建築していった。
一方、イェレサレムが陥落したことを知ったキリスト教徒は、教皇グレゴリウス8世の号令の下に第三次十字軍を結成。諸国の王が聖地奪還を目指して大軍を率いて攻め寄せた。
サラディンはこれに対抗。とりわけイングランド国王、獅子心王(ライオンハート)ことリチャード1世との戦い、そして交渉は熾烈を極めた。
「イェレサレムをキリスト教徒とムスリムの共同統治にしよう」というサラディンの提案は拒否され、宗教戦争は更に凄惨さを増していく。激戦に次ぐ激戦の後、最終的にイェレサレムへの聖地巡礼権をキリスト教徒に与えることによって、遂に両者は停戦へと至った。
停戦を迎えた翌年の1193年、黄熱病に倒れたサラディンはダマスクスで逝去。
生涯戦場を駆け巡った男にしては、寝床の上で家族に見守られながらの安らかな死であった。
その後の評価
サラディンの業績は数え上げればきりがない。
対十字軍戦争の勝利、聖地イェレサレム奪還、エジプトでのスンナ派勢力の確立。彼が行った教育政策によってハディース学、イスラーム法学は復興を果たした。
また4つの古都(フスタート、アスカル、カターイア、カイロ)は統合され、後にアフリカ最大の都市圏、大カイロ(アル・カーヒラ・アル・クブラ)の基礎となった。
サラディンとその生涯はイスラーム世界だけでなく、西洋においても伝説化された。
高潔さを讃える逸話についても多く、敵であるリチャード1世が病に倒れると、万年雪で作った氷菓子などの珍奇な贈り物で労わったり、捕らえた捕虜を身代金の有無を問わずに助命・解放したり、ムスリムに娘を誘拐されたキリスト教徒の母親の訴えを聞き入れ、部下に命じて奴隷になっていた娘を取り戻させたなど、枚挙に暇がない。
ただし全てにおいて寛容だった訳ではない。たとえばフランスの騎士、ルノー・ド・シャティヨンは対イスラム強硬派であり、休戦協定を反故にして隊商を襲撃・虐殺するなどの非道を働いた。これを知ったサラディンの怒りは激しく、後にルノーを捕らえた際、彼と配下の騎士団員を全員処刑している。
一方でサラディンは宗教的正義にこだわりすぎたあまり、国内を安定させることは怠ったと見なされている。ジハド(聖戦)に費やされた戦費は莫大だった一方、本人が清貧を心掛けていた為に蓄財も僅かだったとも伝えられている。事実アイユーブ朝はサラディンの死後50年後に滅亡している。
加えてサラディンは中東から十字軍国家を完全に排除するには至らなかった。それを為すには、キリスト教徒のそれに比べて海軍力があまりに非力だったのである。
現在、中東の情勢においてクルド人を取り巻く状況は極めて厳しい。イラン、トルコ、イラクの三国に囲まれたクルディスタンにおいて独立運動を続ける一方、イラクのフセイン政権下では迫害を受けてきた民族である。そんな彼らは今でも英雄としてサラディンを崇め、心の支えとしているという。
ダンテ・アリギエーリの叙事詩『神曲』地獄篇においては、イスラム教の開祖ムハンマドやカリフが地獄の責め苦を受けている描写がある。
イスラム圏で禁書にされるのもやむなしの扱いだが、その中にあってサラディンは「キリスト教成立以前の偉人」らと共に「哲人達に囲まれ座したる智者の師」として辺獄(リンボ)にいるという、ムスリムでありながら破格の描写をされている。
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