エルトゥールル号遭難事件とは、1890年9月16日に起きた大規模な海難事故である。
日本とトルコの関係に大きな影響を及ぼした事件であるが、実はあまりよくは知られていない事件であり、オスマン帝国の始祖オスマン1世の父君に因む艦名もしばしば「エルトゥール号」と誤記される程である。
概要
始まり
事の発端は1887年に遡る。明治天皇の甥にあたる小松宮彰仁親王は親王妃と共に初の国産軍艦・清輝に搭乗して本邦初の船舶による欧州歴訪を果たす中、帝政末期のオスマン帝国(この一部が現在のトルコである)の首都イスタンブルを訪問し、時の第34代皇帝アブデュルハミト2世 (عبد الحميد ثانی, ʿAbdülḥamîd-i s̱ânî)に明治天皇から賜った勲章や親書を送っている。
これの答礼として、オスマン帝国から特使が派遣されることとなり、彼等を乗せる船として事件を引き起こすこととなったフリゲート艦エルトゥールル(ارطغرل, Erṭuğrul)が選ばれた。エルトゥールル号は建造から25年建った老朽艦であり、出航前には木造の部分の補強なども行われている。しかし、機関部の補修などは放置されてしまった。
日本への特使として、将校50余名を含めた609名の乗員が選出された。特に士官学校を出たばかりの若い少尉が多く乗り込むことになった。何故かというと、この任務自体が明らかに困難の伴うものではなかったためで、主に卒業直後の彼等に経験を積ませる目的があったと言われている(ちなみに清輝の欧州歴訪も国産艦および邦人乗員による長距離航海のテストの意味合いが強かった)。
エルトゥールル号は数々の港を立ち寄りながら日本へと航海を進めた。日本に着いたのは出航から11ヶ月も後(ほとんど1年後)の6月7日、横浜港にようやく到着した。
惨劇の日
明治天皇から歓待を受けた彼等は責務を果たし、帰路の準備も整った3ヶ月後の9月に、故郷への出航が決まった。
ところがこの時、日本には台風が押し寄せていた。明らかに船出には不向きな天候なうえ、エルトゥールル号は長い旅路で船体もそうだが、物資・人員ともに、とても船旅をするには心許ないくらいに消耗しきっていた。
日本政府は出航の延期を進言したが、責任者はその提案を固辞した。海軍の戦力低下の懸念もあって、1日も早く彼等は故郷へと帰らなくてはいけない思惑があったのである。
日本政府の心配を他所に、エルトゥールル号は出港、しかしその途中で政府の懸念していた以上の事故が起きてしまった。
エルトゥールル号は本州最南端にある和歌山県東牟婁(ひがしむろ)郡大島村(現・串本町大島)の樫野埼沖で台風に進行を阻まれる中、地元で船甲羅(ふなごうら)と呼ばれ恐れられている岩礁群に衝突して船体が割れてしまう。さらにそこから機関室に海水が侵入、機関部は水蒸気爆発を起こした。こうしてエルトゥールル号は沈没し、船員は冷たい海に投げ出されていった。
流された船員たちは樫野埼灯台を見つけ、灯台守にエルトゥールル号の惨劇を知らせにいった。といってもたかだか3ヶ月しか滞在していない小国の言葉など船員は憶えていない上に憔悴しきっていた。何を言っても通じない外国人に灯台守は「万国信号書」を見せて、ようやく彼等がトルコ人であることを知った。
救出
灯台守は近隣の村々に応援を要請、人々は女子供も問わずに乗員たちが投げ出されているという紀伊大島の沿岸へと向かった。
現場は惨憺たる有様だった。岸に打ち上げられた乗員達は投げ出された遺体に混じった生存者もほとんどが虫の息、しかも海には息絶えたトルコ人の遺体が何十体も浮かんでいた。
村人達はそれを見て酷く心を痛め、異国の地で絶える無念を思って泣いたという。
そして奮起した彼等は、息のある負傷者を自らの体温で温めたり、溺れて助けを待っているかもしれない乗員を救うため嵐の海へ飛び込んだり、四方八方手をつくして救出にあたったが、結果として乗員587人は死亡または行方不明となって日本の地でその生涯を終えることとなった。引き上げられた遺体は丁寧に村の人々が葬ったという。
助け出したとはいえ、この村はほとんど施設の整っていない貧しいド田舎の村だった為、これだけ多くの生存者を収容できる医療施設があるわけでもなく、しかも台風の影響で漁に出られないので食料も底を尽きはじめていた。
それでも彼等は自分達の食い扶持を減らし、最後に残ったニワトリをも彼等のために利用し、献身的に介護した。
なんとか確保した収容先では島の医師達が必至の治療を行い、結果として、残りの69名の人命は救われた。この報を聞きつけた政府は負傷者達を東京へと移し、施設の整った医療機関で治療を受けさせ、彼等はなんとか快方へと向かった。
さらにこの話を聞きつけた言論活動家の山田寅次郎は、彼等のために2年がかりで約5,000円(現在の約1億円)もの義捐金を募っている。
回復した乗員達を母国に返すため、日本政府は比叡、金剛の2隻の軍艦に彼等を乗せて、トルコのイスタンブールへと送った。この時、山田は義捐金を託そうとしたが、時の外務大臣・青木周蔵から「せっかく募ったのだから君自身が渡すといい」と言われて、一緒に軍艦へと乗り込んでいる。
その後
現場海域は古来より黒潮による強い潮流と暗礁が散在する航行の難所であり、4年近く前にも西隣の潮岬(しおみさき。西牟婁郡塩味崎村。現・東牟婁郡串本町。江戸条約に則って初めて建造された8基の条約灯台の一つでAランクの保存灯台である潮岬灯台がある)の沖合でイギリス籍の貨物船ノーマントンが台風に煽られて座礁沈没し、外国人船員は全員生還するも日本人乗客が全員死亡する悲劇が起こっている(不信を抱いた日本の世論が紛糾し、不平等条約撤廃の機運を一気に高揚させた、いわゆる「ノルマントン号事件」である)。
とはいえ、今回の事故は明らかに数々の判断ミスの積み重ねによって惹き起こされた人災であった。だがオスマンの皇帝はこれを秘匿して天災による悲しい大事故として丸く収めた。この時新聞の報道などで日本の村の人々の救助活動が伝えられ、当時の人々は日本に対する好感を抱いたと言われている。
1891年には事故のあった紀伊大島では慰霊碑が建立され、1929年にはさらに拡張された。ちなみに場所は乗員達が命からがらに助けを求めた樫野埼灯台の近くである。
今でも5年ごとにエルトゥールル号の犠牲者を悼む追悼式典が行われており、串本町はトルコと特に強い友好関係にある。
さて義捐金を届けた山田だが、たかだか民間人でありながらも現地で手厚い歓迎を受け、謁見を許された皇帝からは不平等条約の関係で正常な国交の無かった土日友好のためトルコに留まるよう依願された。山田は大阪の商家・中村家をパトロンに日本製品の販売所「中村商店」を起業して日本とトルコの間を行き来するうちにトルコに魅了され、やがてトルコに留まって事業の傍ら皇帝の依頼を引き受けるようになり、士官学校で日本語を教えるなどして友好関係の構築に務めた。
山田は1906年ごろにイスタンブルを去る(経緯は不詳)が、日露戦争による軍需景気を背景に、トルコで培ったタバコ用巻紙の国産化を中心に日本の製紙業界で成功を収めた。
その後、大戦後の民主革命により共和国となったトルコは新興国として国内産業発展のために保護貿易政策に舵を切り、中村商店もやむなく周辺諸国へと活動の場を移さざるを得なくなったが、久し振りにイスタンブルを訪れて大歓迎を受けた山田は、初代大統領ケマル・アタテュルクから士官学校時代の教え子であったことを直々に聞かされて大いに驚いたという。
日露戦争時には、永らくロシアから圧力をかけられていたこともあって、トルコ人は日本の勝利をまるで自分のことのように喜んでいたと言われている。
イラン・イラク戦争における恩返し
このエルトゥールル号にまつわる話に関連して、こんな有名なエピソードがある。
1985年、イラクのサダム・フセインが、「40時間後、イラン上空の航空機を無差別に攻撃する」という布告を行った。これを聞いてイランにいた外国人達は全員イランからの脱出を試みることになり、各国が迎えの航空機をよこす中、日本は憲法9条が仇となり、その原則から救出のための自衛隊を送り込めなかった(なお現在は自衛隊法が改正されており、限定的に派遣が可能となっている)。
ちなみにこの時、自衛隊派遣に反対したのは当時の最大野党であった社会党、現在の社民党である。
さらに民間の日本の航空会社も、イラン・イラクの情勢が安全とされるまで航空機は出せないとした。
これもまた組合に所属する共産・社会党の面々が社内で猛反対したためである。
かくなるうえはと各国に救援を要請したものの、どこの国も自国民の救助で手一杯となっており、とても外国人を乗せているような余裕はなかった。
こうしてイランに取り残された邦人約250名は、刻一刻と迫る刻限の時を、絶望とともに迎えるしかなくなっていた。
イラン駐在の野村豊大使は最後まで他国の大使館に要請を送り続け、やがてトルコ大使館に辿り着いた。もしかしたら要請をしていた本人はまた断られると思っていたかもしれない。
だが、当時のトルコ大使イスメット・ビルセル氏(İsmet Birsel)は、
「わかりました、ただちに本国に救援を求めて救援機を派遣させます。かつてのエルトゥールル号の事故で日本の方々がしてくださった献身的な救助活動を、今も我々は忘れてはいません」
と答えて要請を快諾。実際にトルコ政府はトルコ航空の救援機の最終便を2便も増やした。そのうえでトルコは自身の国民も苦難を抱える中で、自国民よりも日本人を優先的に乗せてくれたという。それはタイムリミットまで1時間15分に迫った時のことだった。
当然乗りきれなかったトルコ人が出てくるわけだが、トルコがイランからそれほど遠くなかったことから、彼等は陸路を自動車でイランから脱出したという(その数なんと日本人の倍の約500名)。
日本のマスコミは、当然そんなことなど知らないので一様に首を傾げ、朝日一部の新聞社に至っては「日本が対トルコ経済援助を強化しているからでは」という当て推量(つまり「これで恩を売った事にする気ってことかwwww金目当て乙wwww」という意味である)を紙面に載せる有様だった。その後、1992年から '96年まで駐日大使を務めたネジャティ・ウトカン氏(Necati Utkan)は、産経新聞のコラムにて1世紀近くも前の出来事を採り上げたのだ。
ただ一言、「我々はこの恩義に報いただけなのです」とのみ伝える為に。
現在
これほどまでのことをしてくれるトルコだが、実はうちらがトルコのことを知らないように相手も日本のことなどさして知りはしない。エルトゥールル号の事件も時代の流れと共に以前ほど教科書に乗らなくなったという。
しかし追悼式典は未だに串本町で行われているほか、現在でも海底に眠っているエルトゥールル号の残骸の引き上げ・調査活動が続けられている。
ただ最近の若い人に知られなくなったというだけで、事件の知名度自体は決して低くないようで、「よくわからないけど」親日的な感情を持ってる人は多いようだ。
2013年、トルコにおいて26歳の女子大生が殺害される事件が起こった際は、地元住民がわざわざ集合し、日本に対して哀悼と謝罪の意思を精一杯示すなど、「なんとなく」でも日本に対する親近感は向こうの方が断然深い。
だからといってトルコの記事にもあるように歓待されると思ったら大間違いである。日本人のそういう隙をついて国を問わず悪人はお人好しをカモにします。まあ悪い人は程度は違えどどこの国にもいるわけで。
映画化
日本のテレビの特番・特集のネタとして取り上げられるレベルだったこの事件に、ひとつの転機が訪れた。
島の寺に残されていた、事故当時に治療にあたった島の医師達が治療費を支払うので請求するよう申しでたトルコに対して、治療費は不要なのでトルコ人犠牲者の為にお金を使うように求める返書を見た串本町長の田嶋勝正は、2005年に大学の同期だった田中光敏監督に事件の映画化を求める手紙を送った。
現場を訪れて事故に興味をもった田中監督は、2010年に串本町で行われた追悼式典の際に田嶋町長や和歌山県の仁坂知事らと共に映画化の企画書を配布。トルコや日本の自治体・企業等の賛同を取り付けて日本・トルコ合作での映画化が決定。2014年にクランクインした。
日本側の主演には内野聖陽、トルコ側の主演にはケナン・エジェ、ヒロインに忽那汐里らを配した映画は、田中監督の希望で事故のあった串本町にセットを組んでの撮影や、東映京都スタジオ内に組んだセットでの荒天の中での救出シーン撮影が進められ、少ない資料から作り出したミニチュアのエルトゥールル号を使用した特撮シーンは、特撮研究所が担当した。トルコでも普段は撮影が許されない場所での撮影や、エルトゥールル号の甲板上での嵐のシーンやボイラー室セットでの撮影が行われ(テヘラン市内やテヘラン空港のシーンもトルコ国内で撮影された)、2015年12月5日に公開された。
※日本・トルコ合作映画『海難1890』12月5日(土)公開 公式サイト
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