犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その9

2013-06-30 23:01:07 | 国家・政治・刑罰

 被害者宅に何度も謝罪に訪れて追い返されたというような話は、業界内での苦労話の典型のように語られることがある。私は、この手の理屈には耳を塞ぎたくなる。「エリートの弁護士先生がここまで頭を下げているから誠意が通じるのだ」という自惚れや、「自分は悪くないのに他人のために献身している」という自己憐憫が強すぎると感じるからである。

 実際のところ、自由業である弁護士が世知辛い社会の中で生き残っていくのに必要な資質とは、官僚的な才能に等しいのだと思う。それは、常に責任の所在を察知し、事なかれ主義の合理性を心底から理解し、先の先を読んで保身のための証拠を残し、あるいは残さないといった技能である。そして、この職業病にかかった者は、部外者の考えの甘さと拙さを軽蔑する。

 弁護士が同時並行で100件以上の案件を手掛けているとき、それぞれの依頼者に対して演じるのは、定型的な立場と肩書きである。かくして、独身の弁護士は離婚の何たるかを知ったように語ることができる。多重債務者でない弁護士も、破産者になることの何たるかをわかったように語る。弁護士が加害者や被害者を捉える視線は、これらと同様である。

 一般論として、刑事事件は民事事件よりも定型的で簡単であるという印象を弁護士仲間からよく聞く。これは、抽象名詞の切り回しの技術が求められる場面、すなわちいわゆる弁護士としての実力が試される場面の差によるものである。犯罪と刑罰に関する哲学的な問題は、実務的には出番がない。その結果として、弁護士は安心感の中で刑事弁護の業務を遂行できることになる。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その8

2013-06-29 22:46:57 | 国家・政治・刑罰

 これまでの自分の認識を振り返ってみても、今後のことを予想してみても、自動車運転過失致死罪の刑事弁護という職務に対する私の評価は、ほぼ確立している。すなわち、「プロとしての覚悟が必要な事件」や、「常時緊張を強いられる事件」には含まれていない。「軽く考えてはいけない」と意図的に思うことが、軽く考えていることの証拠である。これは、闇金融や街金融を相手にする事件とは対象的である。

 私はこのような直観的な判断を、自分の死が生じる可能性との距離、及びこれに伴う恐怖感によって導いている。いわゆる命を取られる危険性というよりも、事態の思わぬ展開によって四方八方から追い詰められ、責任を取らざるを得なくなる確率である。人は、既に人生が終わってしまったときには、自らの命を絶つことの無意味さの意味が把握できなくなるものだと思う。

 自動車運転過失致死罪の審理の場においては、最も悪い人間が決まっている。また、最も衰弱した人間も決まっている。従って、私は怯える必要がない。私は取り返しのつかない失敗に背筋が寒くなったり、揚げ足を取られて冷や汗をかくこともない。私は、ある人の死に対して何の影響も与えておらず、責任を問われない。赤の他人の失敗と、死者に対する特権的な地位とが存する限り、私は安泰である。

 過去の事件のフォルダを眺めていると、私が依頼を受けた事件は1つ1つ異なり、同じ事件はないことに改めて気づく。こちらの依頼者の人生も、相手方当事者の人生も、それぞれに異なっている。ところが、人の生命と死が端的に問われる自動車運転過失致死罪の件では、なぜか全てが奇妙に一致している。人の人生が見えない。厳罰感情と謝罪、賠償と宥恕というシステムに単純化され、無機質に処理されている。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その7

2013-06-27 23:27:22 | 国家・政治・刑罰

 元依頼者の名前を久しぶりに目にすると、完全に消えていた記憶が芋づる式に出てくる。この頭のどこに、そんな大量の過去が入っていたのかと思う。この機会でもなければ、永久に消えていたはずの時間である。過去の記憶は、論理的な文章の形をとってはいない。言葉にできない無数の怒りや悲しさを押し込んで誤魔化した何物かと、断片的な映像とで構成されているものである。

 あの債務整理の交渉は本当に厳しかった。全身が疲労してベッドに倒れ込んだというのに、私はどうしても寝つかれない。明け方の4時に見た目覚まし時計の青白さの記憶に、私の焦燥感は再び募る。同じ頃に連日の長電話でクタクタになっていた債権回収の件も厳しかった。食事が喉を通りたがらない。あの胃の痛さは、どんな名医に説明してもわかってもらえないだろうと思う。

 これらの記憶と比較して、自動車運転過失致死罪の昔の依頼者の名を目にして直感するのは、私の精神はこの事件では磨耗していなかったという事実である。私は複雑な利害関係の板挟みとなって疲弊したわけでもなく、職務過誤の汚名を被って詰め腹を切らされたわけでもなく、重箱の隅を突かれたりして脱力したわけでもなく、人間としての胆力や打たれ強さが試されたわけでもない。

 社会で揉まれて生き残ってきた者が身に付ける最大の能力とは、「死にたくない」という本能的な欲求を具体化する技術なのだと思う。自分の置かれた立場を冷静に把握し、逃げ道を確認し、火の粉を浴びる危険性があるかどうか、中間管理職的な立場で責任を取らされる可能性があるかを察する能力である。この点では、小心者の自己保身も、権力者の狡猾さも変わることがない。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その6

2013-06-24 22:23:08 | 国家・政治・刑罰

 何億円が動く会社の法的トラブルの案件と、1人の死亡事故の刑事弁護の案件の難易度を比較すれば、前者のほうが恐らく数百倍は難しい。作成すべき書面、整理すべき資料、これらに要する時間、複雑な利害関係の調整と厳しい折衝、預金口座間を動き回る多額の債権、そしてこれらを首尾よく処理する専門知識など、実際のところ比較にならないからである。法律の世界は、既にこのように作られてしまっている。

 「会社」とは、単に生命のある人間の集まりの別名に過ぎない。しかしこの真実は、多忙な事務処理のど真ん中に投げ込まれると、「だからそれがどうした」と言われて色を失う。この業界内で真に生死を語り、命の重さと死の重さを大声で語る者は、「バカも休み休み言え」と本気で非難され、蔑まれることを覚悟する必要がある。そして、私を含め、そのような無謀な人間は今まで1人も見たことがない。

 公訴事実に争いのない自動車運転過失致死罪の刑事弁護の案件の中でも、亡くなった被害者の社会的地位が高ければ、事件の難易度は上がる。刑事裁判の量刑は民事での示談の状況に左右されるが、収入が高額であれば逸失利益の額も桁違いになるからである。多くの弁護士は、このような論理を当然のこととして受け入れ、日常の職務を遂行する。そして、ある特定の場面になると「人の命の重さ」を持ち出していきり立つ。

 私は以前、ある先輩から仕事の厳しさについての講義を受け、その際に自動車運転過失致死罪の刑事弁護の体験談を聞き、心底卑しいと思った。「追い返されても何度も頭を下げに行った」という武勇伝、「最後は謝罪の言葉を受け入れてくれた」という成功体験、そして「嫌な仕事からも逃げ出すことは許されない」「為せば成る」「仕事とはクライアントのニーズに応えることだ」などといった凡庸な結論に貫かれていたからである。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その5

2013-06-23 23:40:14 | 国家・政治・刑罰

 私は、過去に苦心の末に解決した事件の文書ファイルが入ったフォルダを見ると、体の中に何かの力が湧く感じになる。多かれ少なかれ、同じ仕事をしている人は似たような感覚を持つものだと思う。個人情報保護下での職務関係文書保存義務年限にかこつけて、自分史を貯め続けている感じである。元依頼者の人生の危機と修羅場が、今の私を形成している。

 お金や地位や名誉ではない、依頼者からの感謝の言葉は、現にこの仕事を続けていく上での原動力となっている。人はなぜ働くのかという人生哲学の問いに対する答えも、確かにここに見つけられる。嫌々する労働ではなく、お金のためと割り切るのでもない充実感と喜びは、仕事が上手く進まない徒労感や疲弊で心が折れたとき、自分の命をつなぎ止める助けとなる。

 それだけに、このような喜びや充実感が浅薄な人生訓であると感じられる場面では、全ての価値観が崩壊する。絶望の次元が違うからである。この現実が現実であり、私がそれまで「現実」と言っていたものは無効である。私は臭い物に蓋をし、解決できない問いを無限に先送りし、一件落着した事件の記憶に浸っているにすぎない。

 私は、過去に作った自動車運転過失致死罪の文書を読むと、自分の言葉によって、自分が自分についていた嘘を突き付けられる。私はこの文書を書いていた時、同時並行で、ある会社の億単位の破産の件や、何千万円の債権回収の件にかかりっ切りであった。この文書の作成に割ける時間は少なかった。私はその心の隙間を埋めるため、「法秩序」「正義」といった大上段の概念を借りた。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その4

2013-06-22 23:37:19 | 国家・政治・刑罰

 私は、新たに委任を受けた自動車運転過失致死罪の被告人に使い回すため、過去に作ったワードの文書を開いた。元依頼者の名前と顔が一致する。そして、条件反射のように起きるはずの「幸せに暮らしていてほしい」という気持ちは、私の心の中を探しても全く見つからない。ずっと避けていた場所に連れ戻されたようで、居心地が悪くなる。

 その代わりに私の心が行っている作業は、「彼は背負っている」という事実の確認である。背負っているのは何なのかと言われても、簡単には説明できない。安易に十字架などという比喩に安住したくもない。これは、言葉にしようとすればするほど言葉にできず、嘘ばかり言ってしまう種類の話である。

 一期一会の偶然でこの私を頼ってくれた元依頼者に対して、陰ながらその幸せを祈るのは、罪悪感を伴った強制であり、自惚れでもある。離婚調停、自己破産、遺産分割、労働審判など、千差万別のどの事件の元依頼者に対しても、ここだけはなぜか一致している。刑事裁判の中でも、窃盗罪や薬物事犯といった事件も同様である。

 自動車運転過失致死罪の件の記憶がこれらと異なるのは、被害者の顔と名前も瞬間的に一致する点である。もちろん被害者は写真だけであり、目を閉じている。ここに生じる罪悪感は、元依頼者に対するそれ、すなわち「私如きの人間が偉そうに」という感傷ではない。相手方は敵方であるという借りてきた正義に安住し、現実から目を逸らし続けているという点である。私も背負っている。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その3

2013-06-20 22:55:56 | 国家・政治・刑罰

 弁護士と依頼者は、多くの場合、一期一会である。法律事務所のホームページには、「お客様に笑顔で帰って頂くことが私達の仕事のやりがいです」といった軽々しい宣伝文句が目に付くが、これは実際その通りである。最初から幸福で笑顔が絶えない人は、弁護士会の法律相談にも来ないし、法律事務所の門もくぐらない。

 数年前に解決した事件の当事者は、今頃どのように暮らしているのか。パソコンのフォルダの検索で、不意に懐かしい名前が目に入ると、この問いが私の頭の片隅に浮かぶ。離婚調停、労働審判、自己破産、その他の危機や修羅場に瀕してこの私を頼って下さった方々の人生は、その後良い方向に進んでいるのだろうか。

 「幸せに暮らしていてほしい」という願いは、生温い感傷の典型である。複雑な社会に生きる人の心、一筋縄ではいかない人間関係、言葉にならない繊細な部分を切り捨てて、「幸せ」の一言で済ませることは、自己欺瞞の最たるものだろうと思う。そうかと言って、ここの部分を1つ1つ問い詰めてしまえば身が持たない。

 システム化された論理的な作業の場において、最も異質で扱いづらいものは「死」である。それだけに、遠ざけていた死の概念を突きつけられると、そこから逃避している自分の姿が嫌でも目に入る。そして、顔見知りの感情のもつれによる殺人事件よりも、ある日のある瞬間の突然の交通事故死に対して、私の偽善的な思考はより強まる。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その2

2013-06-18 23:11:18 | 国家・政治・刑罰


 パソコンに保存してある過去の文書を流用するという方法は、どんなに問題点が指摘されても、仕事の場面からなくなるものではない。忙しい現場のシステムとして非常に効率的だからである。ワードの置換機能を使い、以前の被告人の名前を今回の被告人の名前に一斉に変えれば、それだけで法律文書の体裁は整う。そして、貴重な時間が捻出できる。

 多忙で目が回っている時には、効率的な事務処理がどうしても必要になる。実務の現場では、1つの問いを深く突き詰めることは、全く無意味で有害なことである。これは、裁判所も検察庁も同じだろうと思う。自分はいったい何のために何をしているのか、訳がわからなくなるのが毎日の事務的な仕事というものだからである。

 このような日常に埋没している私は、流用のために過去の文書に触れることの中に、本来の目的とは全く違う意義を見出した。昔の自分が書いた文書の中に、久しぶりに当事者の名前を見ると、その時の名付けられない心境が芋づる式に蘇ってくるという点である。これは、間違っても懐古や追憶ではなく、未解決の問いの指摘である。

 次から次へと仕事に気忙しく追い立てられている時には、人は過去を振り返っている暇などない。しかし、そうして自分を見失い、足元が揺れて倒れそうになるとき、過去の自分の文書の中に自己欺瞞を見出すことにより、この揺れはなぜか止まる。そしてこの作用は、民事事件よりも刑事事件において強く、中でも自動車運転過失致死罪の裁判において特に強い。

(フィクションです。続きます。)

ある日の刑事弁護人の日記 その1

2013-06-17 22:19:40 | 国家・政治・刑罰

 自動車運転過失致死罪の刑事裁判の私選弁護人に就く者は、どのような思想の持ち主なのか。私の学生時代の疑問は、実際にこの業界に入ってみると、すぐに解けた。弁護士会の持ち回りの法律相談は、予約の電話の順番で事務的に割り振られるだけである。電話が数分早いか遅いかだけで、受ける相談の内容は正反対になる。

 「なぜ弁護士は犯罪者の味方をするのか」という批判と、「弁護士は犯罪者の唯一の味方なのだ」という反論との対立は、実務の真ん中で走り回っている時には、ほとんど意味がない。隣の部屋ではどのような相談が行われているのかという問題は、私がこの部屋にいる限り、全く無意味である。これが、現場で私が最初に痛感させられたことだ。

 私が自動車運転過失致死罪の刑事弁護の案件を担当するのは、もう何件目になるだろうか。その数が正確に把握できないことよりも、件数をデータとして捉え、過去の判例のように集積させていることに気が付く。私は、こんな感覚で仕事をしているはずではなかった。しかし、内省するだけの時間も気持ちの余裕もない。ただ、軽々しく「命を守る」と言わないよう努めているだけである。

 パソコンの検索で、以前の裁判の時に作ったワードのファイルを調べていく。過去の文書の流用は、無関係の人の名前が残ってしまうミスが起きやすく、個人情報保護の点からは非常に好ましくない。しかし、過去に自分が書いた文書を目の当たりにすると、その時の私の内心の混乱がありありと蘇ってくる。私は、どうしてもこの過程を辿らないと、新たな文書が書き始められない。

(フィクションです。続きます。)

内田樹著 『昭和のエートス』より

2013-06-08 00:01:38 | 読書感想文

p.181~ 「記号的な殺人と喪の儀礼について―秋葉原連続殺傷事件を読む」より
(事件の2日後、平成20年6月11日の文章です。)

 個人的経験が人間をどう変えるか、その決定因は、出来事そのもののうちにあるではなく、出来事をどういう「文脈」に置いて読むかという「物語」のレベルにある。例えば、無差別殺人の犯人は、勤務先の工場の更衣室で自分の作業着が見当たらなかったことを「解雇」のシグナルだと解釈した。同じことを自分の勘違いだと思う人もいるだろうし、同僚のいたずらだと思う人もいるだろう。けれども、この人物は選ぶことのできる解釈のうちの「最悪のもの」を選択した。

 「被害者」はどのようなコメントであれ、それが自分にとってもっとも不愉快な含意を持つレベルにおいて解釈する権利をもっている。「現に私はその言葉で傷ついた」というひとことで「言った側」のどのような言い訳もリジェクトされる。これが私たちの時代の「政治的に正しい」ルールである。その結果、私たちの社会は、誰が何を言っても、そのメッセージを自分のつくりあげた「鋳型」に落とし込んで、「その言葉は私を不快にした」と金切り声を上げる「被害者」たちを組織的に生産することになった。

 今回の秋葉原の事件に私が感じたのは、犯人が採用した「物語」の恐るべきシンプルさと、同じく恐るべき堅牢性である。人を殴ろうとしたことのある人なら、他人の顔を殴るということがどれくらいの生理的抵抗を克服する必要があるかを知っているはずである。人間の身体の厚みや奥行きや手触りや温度を「感じて」しまうと、人間は他人の身体を毀損することができない。他人の人体を破壊できるのは、それが物質的な持ち重りのしない、「記号」に見えるときだけである。

 だから、人間は他者の身体を破壊しようとするとき、必ずそれを「記号化」する。そこにあるのが具体的な長い時間をかけて造り上げられた「人間の身体」だと思っていたら、人間の身体を短時間に、「効率的に」破壊することはできない。今回の犯人の目にもおそらく人間は「記号」に見えていたのだろう思う。「無差別」とはそういうことである。ひとりひとりの人間の個別性には「何の意味もない」ということを前件にしないと、「無差別」ということは成り立たない。

 私たちの社会は現実の厚みを捨象して、すべてを記号として扱う術に習熟することを現にその成員たちに向かって日々要求している。それどころか、この事件そのものが私たちに「すべてを記号として扱うこと」を要求している。というのは、私たちは殺された人々のひとりひとりの肖像をいくら詳細に描き出されても、犯行の手順の詳細を知っても、それによっては事件について「何も理解できない」からである。

 この事件について、メディアは被害者の個人史のようなものを紹介し、それがいかに「かけがえのないもの」であるかをパセティック(悲劇的)な筆致で描き出している。けれども、そんなことをいくら知らされても私たちは「この事件について」は何一つ知ることができない。この事件について理解したいと思えば、私たちは「死者たちのことはとりあえず脇に置いて」という情報の操作を強いられる。私たちは記号的に殺された死者たちをもう一度記号的に殺すことに「加担」させられることなしには、この事件について語ることができない。


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 内田氏はこの本の別のところで、メディアの用いる語法の欺瞞性について指摘しています(p.203~)。テレビで社会問題を批判的に論じる全ての人々が共有する、「先取りされた責任放棄」のことです。すなわち、「私はこの事件の発生に何の責任もありません」、そして「この事件が解決しないことにも何の責任もありません」というメッセージです。自分に責任の一端も存在しないことを確認して初めて、問題への厳しい非難が可能となるということです。

 メディアの用いる語法の流布によって、「被害者」という単語は二種類の意味を背負わされるようになったと感じることがあります。内田氏が加藤被告をカギ括弧のついた「被害者」と称し、殺された者をカギ括弧の付かない被害者と称しているのも、その表れだと思います。カギ括弧がつく「被害者」のほうは、被害者であることによって政治的な発言力を増し、弱者であることの特権を振りかざし、望んでその地位に留まるのが通常と思われます。

 カギ括弧のつく「被害者」は、一方では「加害者もまた被害者なのだ」と主張し、他方では被害者意識、被害者特権、被害者面、被害者気取りといった単語で批判を浴びるのが通常です。また、このはね返りによって、カギ括弧のない被害者の絶句と沈黙に対して安易な解釈が与えられることは、恐るべき知性の退廃だと思います。メディアの用いる語法によって、「遺族の恨みの暴走」「行き過ぎた報復感情」といった解釈の枠組みが与えられることは、喪の儀礼を遂行する能力の欠如を示すものだと思います。

 この事件直後の報道は、5年前も5年後も同じように、「将来の夢を奪われた被害者」のお涙頂戴の物語ばかりだったと記憶しています。加害者側の物語に支配されまいと抵抗し、あえて加害者の言い分を語らず、死者側の物語を取り戻すという目的自体は間違っていないと確信しますが、美化された物語はいつも軽薄です。そして、「死者たちのことは『とりあえず』脇に置く」という情報の操作を行い、脇に置いた後は取りに戻るという本来の喪の儀礼は、例によって実現されることがありません。

 内田氏はこの本のあとがきで、今や他罰的な言説は様々なメディアで蔓延し、人性を荒廃させていると述べています。5年前の「将来の夢を奪われた被害者」のお涙頂戴の報道は、当然ながら一過性のものであり、5年経てば見る影もありません。5年前から解り切っていたことだと言えばそれまでですが、5年前に「将来の夢を奪われた」ことに心を痛めた者は、その5年後の将来である現在において「将来の夢を奪われ続けている」ことについて、僅かでも心を痛める義務があるのだと思います。