犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その69

2013-10-31 21:47:27 | 国家・政治・刑罰

 私の手元には、被害者の父親からの手紙のコピーが残された。手紙の現物は依頼者がやむなく持ち帰ったからである。本来、罪に対する償いについて被害者側が手紙を送る相手は、検察庁や裁判所である。しかし、これは既に制度の側が作り上げた構造にすぎない。被害者は、へりくだってお上に嘆願し、「訴えを聞いてもらう」「救ってもらう」という与えられた役割を演じさせられている。

 刑事裁判が茶番劇であることに一役買っているのは、検察官も同じである。無限に凝縮される人間の心と言葉を目盛りの荒い物差しで簡単に測りつつ、「被害者の無念は察するに余りある」の一言で済ませる。これは、A4用紙1枚の論告要旨の中の、そのまた2~3行にしかならない。ここには、被害感情が満たされるか、被害感情が逆撫でされるかの二者択一の評価があるのみである。

 弁護士は言葉のプロである。相手の言葉尻を見逃さず、あえて揚げ足を取り、重箱の隅を突き、相手のエラーに付け込む。相手の勇み足を見逃さず、こちらは玉虫色の言葉で誤魔化す。相手の言質を取り、こちらは言質を取られない。被害者からの手紙の行間などは読まない。明晰な頭脳で手紙を飛ばし読みし、厳罰の意思はどの程度のものか、示談金の希望はいくらかを瞬時に読み取る。

 法廷は戦いの場であり、法律事務所はその準備の場である。相手方の主張と証拠に矛盾を探す。隙を見せないように、常に神経を研ぎ澄ます。一言一句が勝敗を分ける。性格が悪くなるのは想定内である。依頼者から「向こうの弁護士のほうが腕がよさそうだ」と思われてしまえば終わりである。このような法律事務所には、被害者の家族が書いてきた手紙の言葉など読める人はいない。

(フィクションです。続きます。)



ある日の刑事弁護人の日記 その68

2013-10-30 22:45:46 | 国家・政治・刑罰

 打ち合わせは1時間半ほどで終わった。依頼者と父親は、事務所に来た時よりも数段明るい顔をして帰ってゆく。私は例によって、問題の核心を避けたまま茶番劇の練習を大真面目で済ませたことへの虚脱感に襲われる。その空白ですら、依頼者から手土産の高級和菓子を頂いたことへの感謝の念などが目の前で入り混じり、私自身でも純粋な論理の把握はかなり難しくなっている。

 遺された者においては、その遺された者の内心を忖度されて慰謝されたところで、筋違い以外の何物でもない。生きている者の胸が張り裂け続けることができるのは、その内心が語られるべき者が生き続けていないからである。人間には「人の身になる」という能力がある。そして、現在の目の前の人間だけではない、過去に遡って自分以外の者の心情を想像することが可能である。

 ……痛い。何が起きたのか。わからない。車にはねられたのか。目が回る。全身が痛い。助けて下さい。死にたくない。何が起きたのか。とにかく助けてほしい。痛い。早くして下さい。死にたくない。何があったのか。死ぬのか。教えてほしい。頼みます。どうなっているのか。わからない。救急車はまだか。死にたくない。これは抽象論などではない。紛れもないこの地球上の事実なのだ。

 死とは何か。私はなぜか、大学の哲学の最初の授業で聞いた「アキレスと亀のパラドックス」の理論を思い起こす。学問的な哲学研究者からは的外れだと笑われるだろうが、アキレスが亀を追い越せないのは、まさに事故の被害者の内心の動きであると思う。そして、加害者の注意義務違反の過失と被害者の死を法律的に論じたとき、アキレスは簡単に亀を追い越してしまうのだと思う。

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ある日の刑事弁護人の日記 その67

2013-10-29 22:28:41 | 国家・政治・刑罰

 「死者に人権はない」とは、いかにも法律学らしい冷酷な物言いである。実際のところ、人権論を演繹していけば、何の冗談の要素もなく、真面目な論理によってこの命題に至る。この科学的真理を会得した法律家の目線は高い。現に存在する人間ではない者の意思を語るなど、不能以外の何物でもなく、感傷的な比喩だとされる。また、法廷で遺影を持つことは、遺族の自己満足にすぎないとされる。

 社会科学である法律の理論は、被害者とは全く別の意味で「遺族」という単語を嫌悪する。そもそも、個人の尊厳・個人主義に立脚する人権論からは、「家」や「家族」には消極的な意味しか与えられない。戦後の憲法の人権論は、何よりも戦前の「家制度」への反省から始まっている。この個人主義に反する家族に加え、科学的に存在しない死者を前提とする「遺族」は、二重に嫌がられることになる。

 個人の尊厳を頂点とする憲法論の価値を身につけることは、世界の見え方がそのように規定されることでもある。個人主義の理念において、家族とは基本的に個人を束縛する概念にすぎない。これは、封建的な家父長制が残っていた戦前には女性に選挙権がなく、家長の権限が絶対的であったという歴史的背景が根底にある。個人主義は、家族の一人が他の家族の意思を推測することを強く否定する。

 私が知る範囲では、憲法の個人の尊厳・個人主義の原理的な価値を会得している者であればあるほど、「遺族」という存在には嫌悪感を持っている。戦前の「家族」の延長であり、しかも本人が存在しないのに、何の権利があって他人の意思を語れるのかということである。そして、「死者に人権はない」という意見は、冗談ではなく本気である。理性的な社会科学から導かれる唯一の結論だからである。

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ある日の刑事弁護人の日記 その66

2013-10-27 23:30:42 | 国家・政治・刑罰

 依頼者の父親は、強い不服の念を語る。被害者側から来た手紙に、「保険会社ばかりが連絡してきて張本人が逃げている」と書かれていた点である。父親は、保険会社の担当者からは相手と直接連絡をとらないように指示されており、それを守っているだけなのに、何でそこまで悪く言われなければならないのかと憤慨している。いったいどうすれば向こうは満足なのか、教えてほしいと言う。

 私も少なからぬ経験を経て、新人の頃とは明らかに感覚に変化が生じてきた。「保険会社ばかりで本人が出てこない」という被害者側の絶望感が、なぜか稚拙なものに見えてしまうのである。自動車保険は金融商品であり、「事故から示談まで全部お任せ」という内容で契約して高い保険料を支払っているのに、肝心な時にそれが役立たないというのでは、商品価値がゼロだからである。

 「たとえ保険会社の指示に逆らっても被害者に誠意を直接示すべきだ」という理念は、現実のシステムが動いている場面では通用していない。担当者の頭越しに話を進めてしまえば、窓口が複数になり、話が食い違って混乱し、責任問題を生ずることになる。この点について、純粋な倫理観の吐露が経済社会の実務から一笑に付されることは、独特の屈辱感により全身の力が抜けるものである。

 近年の司法制度改革により、法は善悪から経済へとさらにシフトした。哲学は経済に太刀打ちできない。需要と供給の相関関係は人々の欲望を刺激し、不安を煽る。そして、加害者が一番逃れたいことを代行してくれる保険のシステムは、善悪ではなく損得で動く。この業界において、保険会社の顧問弁護士の圧倒的地位に対する羨望の念は、被害者の悲痛な心情に対する罪悪感を凌駕する。

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ある日の刑事弁護人の日記 その65

2013-10-26 23:43:48 | 国家・政治・刑罰

 組織において求められるものは、社会人としての責任感である。「公」と「私」に分ければ、社員の家族の死亡事故は私的な出来事でしかない。会社のシステムの流れにとって、さらには取引先や来客にとって、失われた命の重さも儚さも無関係である。組織というものは、公私混同が放任されればすぐに崩壊する。

 私が会社の同僚の立場であれば、まずは絶句し、少しでも力になりたいとの意思を持つはずだと思う。しかし、会社で立て続けに電話が鳴り、至急のメールの返信に追われ、上司に呼びつけられ、書類の山の前に戻ったときには、そこはもう日常の風景である。社会は甘くない。自分のことだけで精一杯であろうと思う。

 「早く立ち直って元気になってほしい」と願う心の内には、本人のためではなく、自分に仕事のしわ寄せが来ては困るという本音が必ずある。そして、会社組織においては、この本音には正当な地位が与えられるはずである。仕事への集中力を欠き、戦力とならない者がいれば、全体の士気が下がるからである。

 また、私が会社の上司の立場であれば、組織人としての厳しい決断を迫られることになる。体調不良で病欠ばかりしている社員は、リストラの候補に挙げなければならない。職務ではない私事は、早急に「終わったこと」にしてもらわねばならないからである。経済社会の理不尽は、このような場面では無限に連鎖する。

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ある日の刑事弁護人の日記 その64

2013-10-24 22:42:31 | 国家・政治・刑罰

 加害者と被害者の置かれた地位の次元の違いが端的にわかるのは、その仕事や勤務先との関係を見るときである。すなわち、上司や同僚など、事故とは無関係の第三者における事実の捉え方の違いである。「立ち直り」「憎しみ」「赦し」といった単純な切り分け方のみでは、それぞれの第三者の思惑が複雑に入り組む状況を見落としてしまう。

 加害者における死亡事故は、勤務先の会社にとっては社員の不祥事であり、懲戒処分などの規定に従って粛々と処理される話だ。これは制度がもとより想定済みの場面である。刑事弁護人は公判の場において、「被告人は真面目に仕事をすることによって罪を償います」と述べることが多い。これは、世間のごく標準的な価値観に沿ったものである。

 これに対し、被害者の家族のほうから述べられる言葉は次元が異なる。「息子を喪ったというのに私は普通に仕事なんかしていてよいのか」「仕事などに真剣になっている自分が許せない」といった別次元の論理である。このような言葉は、聞く者を選ぶ。経験がない者には理解できないとしても、それゆえに畏れるか、それゆえに聞き流すかである。

 全ての価値観が崩壊した状態を悟りつつ、他方で社会人として日常のルールに沿って仕事をこなすことは、人格の分裂を伴うものだと思う。しかしながら、今のところ経験のない私は、その意味するところを全身では理解していない。逆に、私にとってその心情の推測が容易なのは、被害者の家族が勤務する会社の同僚や上司のほうのそれである。

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ある日の刑事弁護人の日記 その63

2013-10-23 22:09:28 | 国家・政治・刑罰

 依頼者の父親は、いわゆる企業戦士である。父親の言葉を聞くと、この事故がビジネスの最前線からはどのように捉えられるのかがよくわかる。この事故は息子にとって挫折であり、屈辱である。これは、「栄光と挫折」「成功と失敗」といった二元論におけるマイナスの部分である。現在がどん底の状態であり、ここから這い上がらなければ人生の敗者で終わってしまうということだ。

 この経済社会で語られる「挫折」や「失敗」とは、いわば人間の器を試されているような局面のことである。すなわち、1つの失敗を糧にして成長できる者もいれば、腐って転落の一途を辿る者もいる。気持ちを切り替えられるか否かが分岐点であり、ここでは「人生は一度きり」という言葉が都合よく使われる。ビジネス誌に「最強のリーダーの資質」と謳われているようなことである。

 父親にとって、この事故は突発的なトラブルという位置づけである。そして、被害者側に対する姿勢は、クレーム対応のそれである。この事故の話はできるだけ早く終わらせ、局面を切り替えさせたいが、上手く行かずに苛立っているということだ。さらには、被害者の家族に対しても「過去を引きずっていてはあなたの人生にとって損失でしょう」という視線が向けられている。

 今日の打ち合わせの目的は、父親の情状証人尋問の予行演習である。「ずっと反省を続けるなど無理だ」「一生の汚点とされるのはたまらない」といった本音は必ず抑え、特に検察官からの意地悪な反対尋問には何とか耐えるように、芝居の演じ方を指導する。「世の中で表向きに行われていることの大半は茶番である」との誰かの言葉が頭に浮かび、私はまた無力感を覚える。

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ある日の刑事弁護人の日記 その62

2013-10-21 22:04:09 | 国家・政治・刑罰

 依頼者の隣で黙っていた父親が、話の流れに乗って、それまで抑えていた本音を語り始める。その口調の強さに、やはり実際に人の命を奪った経験がある者とない者との間には、絶対的な懸隔があるのだと気付かされる。たとえ親子といえども、紛れもないこの自分の身体の動きが他人の生命を止めたという衝撃は、当人の身体からは絶対に出られないということである。

 父親は、被害者側からの手紙には嘘ばかり書いてあると言う。「謝罪に来なかったと責めているが、私達は葬儀に行って追い返されたのだ。その後は気を遣って連絡しなかったのだが、今度は逃げていると文句を言われる」。「私達は誠意がないと言われているが、見舞金の現金書留をそのまま突き返してきたのは向こうである」。父親は、矛盾点を論理的に指摘する。

 依頼者の父親は、現在の状況を「こじれている」「ボタンの掛け違い」などと表現し、加害者側としてなすべきことは全てしてきたはずだと述べる。そして、被害者の自宅に電話をしても出てもらえなかった日時を詳細に記録したメモを取り出し、これを証拠として裁判官に提出してほしいと言う。私は、この父親は恐らく頭は切れるけれども、賢い人間ではないと思った。

 父親の言い分は、社会通念に照らせばもっともである。自宅に伺えばいいのか、伺ってはいけないのか、被害者側の要求は基本的なところが明確でない。コミュニケーションによって用件を伝える能力という点からは、被害者側はそのイロハもできておらず、一般社会で通用する言葉ではない。そして私は、そのような言葉であることの意味を理解しないこの父親を内心で軽蔑した。

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ある日の刑事弁護人の日記 その61

2013-10-20 23:22:03 | 国家・政治・刑罰

 短い沈黙を経た後、依頼者は奥歯に挟まっていた何かが取れたように話し始めた。「私だって社会に出てから、この苦しい時代に翻弄されつつ、毎日必死に生きてきたという思いはある。仕事にも私生活にも色々と苦労しながら、人のために懸命に尽くしてきたはずである。なぜこのような事態になってしまったのか。自分の人生がとにかく情けない」。

 依頼者からのお詫びの手紙に書かれていたことは、全面的な反省と謝罪である。しかし、それが本心の全てではない。人間は、危機的な状況に置かれれば置かれるほど、自身の自叙伝を書くことによってその存在を確認せざるを得なくなる。最大の問題は、事故を契機とした初対面の被害者の家族によって、自分の人生の足場が奪われることであった。

 刑事弁護人はその職務上、被害者の家族に対し、依頼者のこのような姿を見せないように注意しなければならない。「一瞬の不注意だけで私が積み上げてきた全人生までが否定されてしまうのか」という加害者の本音の部分は、被害者の前で言ってはならない。そして、このような決まりごとは、被害者に対する礼儀を理由とするものではない。

 人の命を奪った事実と四六時中向き合っていれば、恐らく人間は自責の念で気が狂う。そして、加害者が発狂に直面した場合に、被害者の家族と決定的に異なるところは、逃げようと思えば自分の判断で逃げられることである。「全面的に悪者にされるのは納得がいかない」という本音が隠されている以上、その反省と謝罪は必ず演技の部分を含む。

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ある日の刑事弁護人の日記 その60

2013-10-18 23:08:47 | 国家・政治・刑罰

 依頼者と私との沈黙を含んだ会話、そして依頼者の中で何度も繰り返されたであろう自問自答とが平行して進んでゆく。プロの弁護士であれば、事故や事件に直面して、その衝撃そのものではなく、すぐに賠償や補償の点に思考が至らなければならない。しかし私は、そのような思考に確信犯的に背を向けている。

 「本当に反省しています」と依頼者は述べる。すると、依頼者の内心の被害者が、「反省できるということは生きている証拠です。そのことが何よりの絶望なのです」と語る。依頼者の顔には、「だったら私は反省しなければいいのですか」という質問が書いてある。しかし、喉まで出かかって、そこで止まっている。

 世の中の通念では、何百回でも謝罪の念を示すことは誠意の表明であるとされる。そこには、謝罪とは屈辱的な行為であるとの前提がある。しかし、「謝罪できることは生きていることの証明である」という桁違いの絶望の前には、謝罪はただの押し付けにすぎない。出口のない問いの目的は、答えではなく、問いの方向である。

 出口のない問いを被害者の家族の側に向ければ、その問いは反語となる。「加害者を苦しめ続ければ気が済むのか」。「加害者の不幸を願うのは行き過ぎではないか」。問いの構造がこのようになってしまえば、沈黙は能弁に変わる。そして、刑事弁護人にとっては仕事がしやすい。謝罪を尽くすことは、刑を軽くする情状だからである。

(フィクションです。続きます。)