弁護士と依頼者は、多くの場合、一期一会である。法律事務所のホームページには、「お客様に笑顔で帰って頂くことが私達の仕事のやりがいです」といった軽々しい宣伝文句が目に付くが、これは実際その通りである。最初から幸福で笑顔が絶えない人は、弁護士会の法律相談にも来ないし、法律事務所の門もくぐらない。
数年前に解決した事件の当事者は、今頃どのように暮らしているのか。パソコンのフォルダの検索で、不意に懐かしい名前が目に入ると、この問いが私の頭の片隅に浮かぶ。離婚調停、労働審判、自己破産、その他の危機や修羅場に瀕してこの私を頼って下さった方々の人生は、その後良い方向に進んでいるのだろうか。
「幸せに暮らしていてほしい」という願いは、生温い感傷の典型である。複雑な社会に生きる人の心、一筋縄ではいかない人間関係、言葉にならない繊細な部分を切り捨てて、「幸せ」の一言で済ませることは、自己欺瞞の最たるものだろうと思う。そうかと言って、ここの部分を1つ1つ問い詰めてしまえば身が持たない。
システム化された論理的な作業の場において、最も異質で扱いづらいものは「死」である。それだけに、遠ざけていた死の概念を突きつけられると、そこから逃避している自分の姿が嫌でも目に入る。そして、顔見知りの感情のもつれによる殺人事件よりも、ある日のある瞬間の突然の交通事故死に対して、私の偽善的な思考はより強まる。
(フィクションです。続きます。)