犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

ある日の刑事弁護人の日記 その8

2013-06-29 22:46:57 | 国家・政治・刑罰

 これまでの自分の認識を振り返ってみても、今後のことを予想してみても、自動車運転過失致死罪の刑事弁護という職務に対する私の評価は、ほぼ確立している。すなわち、「プロとしての覚悟が必要な事件」や、「常時緊張を強いられる事件」には含まれていない。「軽く考えてはいけない」と意図的に思うことが、軽く考えていることの証拠である。これは、闇金融や街金融を相手にする事件とは対象的である。

 私はこのような直観的な判断を、自分の死が生じる可能性との距離、及びこれに伴う恐怖感によって導いている。いわゆる命を取られる危険性というよりも、事態の思わぬ展開によって四方八方から追い詰められ、責任を取らざるを得なくなる確率である。人は、既に人生が終わってしまったときには、自らの命を絶つことの無意味さの意味が把握できなくなるものだと思う。

 自動車運転過失致死罪の審理の場においては、最も悪い人間が決まっている。また、最も衰弱した人間も決まっている。従って、私は怯える必要がない。私は取り返しのつかない失敗に背筋が寒くなったり、揚げ足を取られて冷や汗をかくこともない。私は、ある人の死に対して何の影響も与えておらず、責任を問われない。赤の他人の失敗と、死者に対する特権的な地位とが存する限り、私は安泰である。

 過去の事件のフォルダを眺めていると、私が依頼を受けた事件は1つ1つ異なり、同じ事件はないことに改めて気づく。こちらの依頼者の人生も、相手方当事者の人生も、それぞれに異なっている。ところが、人の生命と死が端的に問われる自動車運転過失致死罪の件では、なぜか全てが奇妙に一致している。人の人生が見えない。厳罰感情と謝罪、賠償と宥恕というシステムに単純化され、無機質に処理されている。

(フィクションです。続きます。)

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