犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

山田玲司著 『非属の才能』

2008-02-29 01:31:42 | 読書感想文
第6章「独創性は孤立が作る」より

俗世に吹き荒れる洗脳の砂嵐から身を逃れ、引きこもることで自分の頭のなかが少しずつクリアになってきたら、今度は自分で創るステージに入るといいだろう。はじめは紙にメモ程度の文や、落書きなどでいい。とにかく、思いついた表現方法すべてを試すことだ。創るものが時代に合うかどうか、下手かどうか、他人にどう思われるかなどは一切考えず、ただ自分が求めるものを創ればいい。

井原西鶴が誰に見せるわけでもなく、ひとり書き続けていた原稿があった。座敷に投げ出してあったその原稿を弟子が見つけ、あまりのおもしろさに出版してしまうと、それは庶民の間で空前の大ヒットとなった。それがあの『好色一代男』だ。

もし見た人の意見を聞き入れ、作品そのものに手を加えようとするなら、それは限りなく駄作に近くなってしまうだろう。手塚治虫は、作品にオリジナリティーを出すためには、「描いている最中に人の意見を聞かず、ただただマイペースに描くこと」だと言っている。

知り合いの編集者は、「著者がアマゾンのレビュー(素人の評価)を気にしすぎる」と嘆いていた。僕は、信頼のできるプロの編集者と、「こいつは」と思える数人の友人にしか聞かないようにしている。漠然とした「みんなの意見」ほど当てにならないものはないからだ。群れの価値観が作る意味のない意見に負けてしまえば、すべての革新的可能性は消えてしまうのである。

(p.195~200より抜粋)


この本に対するアマゾンのレビュー

By 一会社員  「おもしろい」 ★★★★★
正直自分が書いた本かと思ってしまいました。私は三十代のオッサンですが、最近こういうことを良く考えます。世間の多数派の意見に違和感を感じても、むしろその違和感をありのまま受け入れて生きるという生き方もある、と言っているのだと思います。どうやっても変わり者扱いされてしまうタイプでも、考え方次第でそれを強みに変えることができると。

By ヨッパライ 「ただの俗気本」 ★
人と違う事をする奴は、みんな素晴らしい。協調性の無い奴こそ才能あふれる天才。流行に流される奴はみんなバカ。なぜなら俺を観てごらん。俺はこんなに凄いんだぜ?!っていう事が書かれている本です。現在成功を納めている人の一握りが過去変わり者だった事を、大袈裟に取り上げ得意げ書き上げています。その中の成功者の一人には、もちろん著者自身も含まれています。くだらないですね。馬鹿な不良少年の理論です。異端である事自体は正しい事でも立派な事でもないのです。

文書と文章の違い

2008-02-28 01:31:27 | 言語・論理・構造
法律用語は難解であり、法律の文書は厳格である。それは客観的・一義的に明らかでなければならず、語るもののみを示さなければならない。そして、語らないものを示してはならない。法律の論理が、被告人側の構成要件該当性という形でしか犯罪現象を捉えられず、被害者を見落としてきたことの構造的な理由がここにある。もちろんいかなる法律家も人間であるから、1人の人間の心情としては、被害者にも理解を示しているのが通常である。しかしながら、このような厳格な文書で構築される閉鎖的な言語ゲームの中には、被害者は論理的に入ることができない。被害者の苦悩は逆説や反語により示されるしかないが、それは法律文書の厳格性と真っ向から対立するからである。これが文書と文章の違いである。

法律文書の厳格性は、和解契約書や示談書、念書といった文書において先鋭的に現れる。ここでは、①とにかく曖昧な表現を排除して書くこと、②できる限り期日や条件を明確にすること、③様々な事態を想定し、場合分けをして、どのような場合にどうするか書くことなどが至上命題とされている。これは、法律の知識がない一般人が書くのはなかなか難しい。ゆえに、専門家である法律家の腕の見せどころとなっている。和解条項に間違いがあっては逆に新たなトラブルの種を残してしまうので、法律家は一言一句に病的なほどの神経を使うことになる。契約書1枚の作成で数十万円もの報酬を得るのだから、穴が開くほど文字を読み返すのは当然と言えば当然であり、それがプロの自負ともなっている。

例えば、次のような和解契約があったとする。

第1項 甲は乙に対し、金30万円を次のとおり分割して支払う。平成20年1月31日から同年10月31日まで、毎月末日限り 金3万円。                                 
第2項 甲が前項の支払いを1回でも怠ったときは、甲は期限の利益を失い、残額を直ちに支払わなければならない。

一見すれば何の問題もない和解条項であるが、専門家の目を通してみれば、第2項の「支払いを1回でも怠ったときは」という部分に大きな欠陥が指摘されてしまう。甲が3万円を支払えない場合に、100円だけを支払って、これは「支払いを1回でも怠ったときにあたらない」と主張してくる可能性を排除できないからである。従って、厳密を期せば「支払いを1円でも怠ったときは」と書かなければならない。「支払いを1回でも怠った」と言えば当然3万円のことだろう、普通に社会生活を送っている人間であれば、当然にこのことを理解している。ところが、穴をふさぐことに躍起になり、無限に生じる屁理屈の可能性を事前に封じようとすると、人間はどういうわけか穴の可能性が気になって仕方がなくなる。これが部分的言語ゲームの網の目が無限に細かくなるという恐ろしさであり、一度始めてしまったものは止められなくなり、専門家集団が必要になるという例である。

被害者が法律家に自らの苦悩を切々と訴えても、何だか今一歩手応えがなく、法的な過失割合やらお金の話ばかりされて帰ってきた、このような体験談を聞くことが多い。これは専門性の負の面であり、医師が患者の話を聞かずに薬だけ出す構造とも似ている。厳格な法律文書を作ることを仕事としている限り、その文法で処理できない話を1人の人間として聞くことは、どうしても仕事の障害となる。法律家が客観的に明確な示談書の作成に神経を使っている場面においては、被害者による苦しい心情の吐露は、単に非本質的な周辺部分の話であると位置づけられる。また、加害者が心底から反省して謝罪の弁を述べたとしても、これも本筋と関係がなく重要性がない話だと位置づけられる。これが被害者の見落としの構造であり、現在も根本的には変わっていない。

ロス疑惑

2008-02-27 18:58:17 | 実存・心理・宗教
1981年に起きたロス疑惑が、30年近く経って再燃している。問題なのは、現代社会におけるこのような再燃の形式である。「日本で無罪判決が確定しても、アメリカで再び裁かれることがあるのか」。「新証拠とは一体何なのか」。現代社会では、論点はこのような形でしか表れない。そして、情報化の波に乗って、これ以外の論点の形式は見えにくくなる。しかしながら、論理的にも時間的にも最大の論点は明白である。「だから、要するに、三浦和義元社長は一美さんを殺したのか殺していないのか」。近代刑法や刑事訴訟法の理論はこの最大論点をひた隠しにし、専門家はワイドショー的な視点を見下す。実存的な罪と罰の問題は、どんどん技術的に細かくなり、素人では近付きがたいものになって行く。

三浦元社長の逮捕は、国際法上も何ら問題はない。どういうわけか人類はこの地球に国というものを作り、国ごとに法律を変えているのだから、これ以上何をどうしろと言われても困るという話である。近代裁判の制度が確立している限り、1次的には属地主義を採用し、重罪について2次的に属人主義を採用することには、それなりの合理性がある。従って、日本人がアメリカで殺人を犯したり、アメリカ人が日本で殺人を犯したりすれば、このような現象は必然的に起きる。法の隙間でも何でもなく、条約の不備でも何でもない。二重の危険の原則は英米法に由来するはずだと言っても、困るのは学者だけである。

殺害された一美さんの母親である佐々木康子さん(75歳)は、三浦元社長の逮捕を自宅の仏壇に報告し、マスコミには「本当のことを言ってほしい」とのコメントを発表した。当然のことである。本来人間であれば、これ以外に取るべき行動はなく、言うべき言葉もない。裁判の効力はどうか、新証拠とは何か、これらの論点は、論理的にも時間的にも派生的な問題だからである。佐々木さんは、「病院のベッドに寝ていたときの一美の顔は、生涯忘れられない」との手記を残し、1998年に高等裁判所で無罪判決があったときには「亡くなった娘と主人に何て報告したらいいか……」と声を震わせた。彼女の30年近くの苦しみは、体験したことのない者にとっては想像を絶する。従って、合理的で客観的な近代社会は、このような想像をしたがらない。そして、裁判の効力はどうか、新証拠とは何かという興味深い論点について論争することになる。

近代刑法の支配する社会においては、裁判所で被告人の無罪が確定すると、その事件そのものについて意見を述べることが憚られるようになる。灰色無罪であろうと、被告人は堂々と無罪を誇ることができる。ここには、近代刑法に基づく社会のシステムが被害者をパラダイムの外に追いやる構造が端的に表れている。今回の三浦元社長の逮捕は、このパラダイムを思わぬ形で揺さぶった。それゆえに近代刑法の理論は、またもやその理論で解決できる問題のみを中心論点として掲げ、罪と罰の実存的な問題から目を逸らそうとする。いわく、「新証拠とは一体何なのか」。

「三浦和義は無罪になった。だから、要するに、彼は一美さんを殺したのか殺していないのか」。この問いは、「無罪が確定した者が再び裁かれることがあってよいのだろうか」という問いよりも論理的に先に来る。そして、人間が人間であるところの罪と罰の問題をストレートに捉えている。裁判の制度上は、確かにそうなっている。だから、あなた自身の倫理は一体どうなのだ。もし仮にあなたが真犯人であるならば、良心の呵責に苦しむことはないのか。もし仮にあなたが真犯人であるならば、死者の前で、いかにしてここまで鈍感になれるのか。どんなに前近代的でプリミティブであろうと、人間の罪と罰の問題からこの側面を消し去ることはできない。

ソクラテス・メソッドは難しい

2008-02-25 22:20:21 | 国家・政治・刑罰
学生 「先生、僕の刑法のレポートが盗まれました。盗難届を出します」

教授 「レポートのテーマは何かね?」

学生 「窃盗罪における不法領得の意思の実証的研究です」

教授 「君は不法領得の意思についてどのように考えるのかね?」

学生 「権利者を排除して他人の物を自己の所有物としてその経済的用法に従いこれを利用・処分する意思と考えます。大審院・大正4年5月21日判決の基準と同旨です」

教授 「それで、レポートを盗んだ人に心当たりはあるのかね?」

学生 「仲の悪いA君が、嫌がらせで隠したのだと思います」

教授 「それでは不法領得の意思は認められないな。盗難届は受理できん」

学生 「いや、頭の悪いB君が、無断で写すために持ち去ったのだと思います」

教授 「それでも不法領得の意思は認められないな。盗難届は受理できん」

学生 「もしかしたら、性格の悪いC君が予備校に転売するために盗んだのかも知れません」

教授 「君の実力からしてその可能性は皆無だ。盗難届は受理できん」

学生 「先生、僕はどうすればいいのでしょうか」

教授 「不法領得の意思について、不要説に考えを改めることだ」

池田晶子著 『ロゴスに訊け』  「すべての死者は行方不明」より

2008-02-23 18:07:36 | 読書感想文
「すべての死者は行方不明」より

ニューヨークのビル倒壊現場では、まだ数千人の人々が行方不明だそうである。時同じくして、ハワイで沈没した「えひめ丸」の行方不明者たちが、捜索により発見されつつある。これは決して不謹慎な話ではなくて、きわめて真面目な話なので、間違わないで聞いていただきたいのだが、右の話で私が面白いと思うのは、明らかに死亡しているとほとんどの人が心中では思っているにもかかわらず、決してそれを「死者」とは言わず、あくまでも「行方不明者」と言うところである。

遺体が見つからない限り、生きているかもしれないとの希望にすがっている遺族の人々に気遣って、人はそのような言い方をすることにしているのだろう。しかし、人がそのような心情的な気遣いをする根底には、必ずしも自覚されていない、さらに深い理由があると思われる。例によってこれは、深く存在論的な話なのである。

生きているはずはないと、ほとんどの人は思っていると言ったけれども、この「ほとんどの人」というのは、行方不明者の家族や友人以外の人、つまり行方不明者が自分にとって「三人称」、つまりまったく見知らない人であるような人々だろう。行方不明者が家族や友人である、つまり「二人称」として見知っている人々にとっては、おそらく事情はまったく違う。彼らは彼らが生きていると、死んでいるはずなどないと、あくまでも思っているはずである。

げんにニュースなどで彼らの言を聞く限り、「絶対に生きていると信じています」「彼は強い人だから死んでなんかいるもんですか」といった、強い信念の表明ばかりである。しかし、人々のその強い信念の、その根拠はと言えば、驚くべき当たり前のことなのだが、唯一、「死体が見つかっていない」という、これだけのことなのである。これは、どういうことなのか。死体が存在しなければ、死は存在しない。これである。行方不明者の死体を見るまではその死を納得できないということも、その心情の根底には、必ずこの存在論、存在と無の謎がある。行方不明ということでは、すべての死者は行方不明なのである。

(p.147~p.151より抜粋)


海上自衛隊のイージス艦「あたご」と漁船「清徳丸」の衝突事故は、すでに4日間が過ぎたが、吉清治夫さん(58)と哲大さん(23)の捜索は難航している。海上自衛隊にはここぞとばかりにバッシングが向けられているが、これはあくまでも「三人称」の批判である。吉清さんの親族や新勝浦市漁協の人々、すなわち「二人称」の人々にとっては、事情はまったく違う。ニュースキャスターの正義の怒りは、吉清さんの親族の焦りや怒りを正確に描写することができていない。

「常識的にまず助からないだろう」。「恐らく2人は生きていない」。防衛省の幹部や与党の政治家がポロッとこのようなことを言えば、バッシングはさらに加速する。それゆえに防衛省幹部や政治家は、慎重に言葉を選ぶ。この政治家の偽善もさることながら、バッシングのネタを探して問題発言を待つ人々の偽善はさらに品性がない。ただひたすら2人の無事な帰還を待ち、2人の笑顔を待ち続けている人々の心情に寄り添って見るならば、その心情は石破大臣の辞任を求める野党の主張とは似て非なるものであることはすぐにわかるはずである。

※ 今日で池田晶子氏の死去からちょうど1年になります。

時代に乗り遅れるとはどのようなことか

2008-02-20 22:16:50 | 時間・生死・人生
次世代DVDの規格の主導権争いは、東芝が「HD-DVD」について撤退を表明したことにより、ソニーや松下電器産業が推進する「ブルーレイ・ディスク」が勝利する見通しとなった。このような規格戦争は消費者置き去りの愚挙であるとの批判もあるが、そもそもメーカーの自由競争は消費者に良質の製品を提供するものとして推奨されてきたのだから、どちらに転んでも理想の社会は到来しない。ところで、次世代DVDの「次世代」とは一体いつなのか。この世界は、この地球は、いつになったら「次世代」になるのか。

同じような言い回しとして、「10年後の日本」というものがある。10年後の日本はどうなっているのか。2008年に「10年後の日本」と言えば、これは2018年のことである。このように時間軸を固定してしまうと、来年、再来年と時間が進むにつれて、「9年後の日本」、「8年後の日本」という具合に数字が減っていくような気がしてくる。ところが、実際にはこのようなことは起きない。「10年後の日本」は、2019年、2020年という風に先に進んでしまうからである。そもそも2008年は、「1998年の10年後の日本」である。その意味で、時代はいつでも「10年後の日本」である。2018年のことを想像してああだこうだ言うよりも、1998年のことを振り返ってみて、どれほど予想が外れているかを笑い飛ばすほうが賢い。

携帯電話や電子メールなど、つい数年前まではこの世には存在しなかった。しかし、時間の中にしか生きられず、従って現在にしか生きられない人間は、それらが存在しなかった時代のことを簡単に忘れる。理想の社会があっという間に現実になれば、それは理想でも何でもなくなる。理想が実現した後に待っていたのは、夢や希望にあふれた世界ではなく、目標を失ったニヒリズムである。地球の自転と公転の速さは悠久の昔から変わっていないのに、時代の流れが速くなったと感じるのは、端的に人間が自らそう思い込むことによる錯覚でしかない。「スピードばかり追求して、人間は本当に幸せになっているのか。どこか現代社会は間違ってしまっているのではないか」。このような閉塞感から自由になるためには、時代の流れの速さなるものの実在を疑ってみればよい。

現代社会では、自分から常にアンテナを張って情報化の波に乗っていなければ、あっという間に時代から置いて行かれてしまう。そして、一度時代から取り残されてしまったら、時代に追いつくことは並大抵のことではない。この恐怖感、不安感を根本的に払拭するためには、やはり逆説的な発想が必要である。そして、ハイデガーの「死の哲学」がこの逆説を正確に言い当てている。人間は死を見つめることによって、初めて生への希望が湧いてくる。すべての人間は必ず死ぬ。21世紀に生きる人間は、どう頑張っても、23世紀の時代の波に乗ることはできない。25世紀の時代から取り残されていることも確実である。30世紀や50世紀は言うに及ばない。自分の貴重な一生を、21世紀の時代に食らい付いて行くことに捧げることの虚しさは、ハイデガーの視点を借りれば簡単に見抜ける。時代の流れの速さなるものは、人間の時間性においては実在しない。

日本人はなぜ遺言を書かないのか

2008-02-19 15:19:52 | 時間・生死・人生
日本人は、欧米に比べて遺言を書かないようである。この点について、日本の民法学者や法律実務家の意見はだいたい一致している。「日本では伝統的に、遺言といえば『縁起でもない』という反応が多い。しかし、将来の紛争を未然に防ぐために遺言を残すことは、財産を持つ者の権利であり、責任でもある。この点について、日本人の考え方はまだまだ遅れている。このような風習は改めるべきであり、遺言の大切さをPRすべきである」。近年では高齢化社会を迎えて、銀行が遺言信託業務を請け負うことも増えてきた。そして、20代や30代の若者が「相続コーディネーター」と名乗り、70代や80代の老人に相続税の節税対策のアドバイスなどをしている。

「遺言を書きましょう」。「遺言は大切です」。このようなPRが公証人や行政書士の手数料確保のために行われているならば、話はわかりやすい。しかし、ことの性質が人間の死であるために、やはりこのPRは何となく気持ち悪い。日本人の考え方はまだまだ遅れているといっても、考え方が進んだところで、その当人は遺言を書いて死んでしまうからである。死んでしまえば、その人は日本人ではなくなる。果たして、考えが進んでいるとか遅れているとかいうのは、いったいどの日本人のことなのか。個々人ではない、全体としての日本人のことだといっても、そのような日本人は死ぬわけがない。従って、遺言を書く必要もない。

遺言というものを書く動機は、自分の死後に骨肉の争いが起きることが忍びないと感じるからである。それでは、そもそもなぜ遺族の間に骨肉の争いが起きるのか。それは、いずれその遺族も自分自身が死ぬことを知っているからである。人間はいずれは必ず死ぬ、従って生きているうちに十分楽しんで幸せな一生を送りたい。しかしそのためにはお金がいる、だから遺産が欲しい。話は簡単である。こうして、また最初に戻る。不動産や株式を大量に保有している資産家の一族の間では、遺言を書いたところで、遺言書の偽造やら遺留分減殺やらで大騒ぎになる。片や大多数の庶民には、遺言を書く動機も起きず、法定相続が粛々と行われる。ここで相続コーディネーターが登場して「遺言を書きましょう」と叫んだところで、遺言を書く人が劇的に増えるとも思われない。

日本の民法では、遺言は15歳から書けることになっており、財産に関する自己決定権を広く認めるという理念に基づくものとされている。しかしながら、いったい何人の少年少女が、15歳で遺言を書いているのか。法律の規範定立とあてはめの客観的なパラダイムは、こと話が「生老病死」に及ぶと、途端に歯が立たなくなってくる。15歳の若者にとっての世界と、85歳の老人にとっての世界は、主観的に明らかに異なっている。人間は時間の中にしか生きられず、従って年齢の中にしか生きられないからである。ところが、「日本人はなぜ遺言を書かないのか」という全称的な問題の立て方では、この刻時性が捉えられない。客観的・抽象的な日本人であれば、人生経験が深まることもなければ、老後の不安で夜中に眠れなくなることもない道理である。

映画 『母べえ』

2008-02-17 19:11:24 | その他
反戦映画だと思って見ると混乱する。善悪二元論に基づいて見るとさらに混乱する。「いったいこの映画は何を伝えたかったのか? 家族の絆? いまいちわからない」。ネット上にもこのような意見が多く見られる。右派からは、単純に戦前の軍国主義を批判する反戦映画であり、日教組の稚拙な理論と変わらないとの評価もみられる。左派からは、戦争の悲惨さを訴える映画なのに、反戦のメッセージが足りないとの評価もみられる。全くその通りである。この映画をそのように評論することによって、人間は自ら右派であるところのものにもなり、左派であるところのものにもなるからである。

「小さな家族の中を大きな時代が通り過ぎてゆく」。山田洋次監督のスタンスはいつも明確である。それ以外にはなく、それ以外のことを語ろうとしても、気付いたときには人間はその中にいるしかない。時代はいつも現代であり、それはいつも歴史的な瞬間である。庶民の目線で時代を捉える手法は、脱構築でありつつこの世の唯一の目線である。過去については歴史という何物かを対象化し、あるいは歴史から何物かの教訓を得て、現代に絶対的な基準を置く視点は、名もなき庶民の一言によって蟻の一穴を開けられる。あらゆる歴史上の瞬間は、古今東西の人間の現在の瞬間でしかあり得ないからである。山田監督のこの視点は、藤沢周平原作の『たそがれ清兵衛』や『武士の一分』などの映画においても一貫している。

治安維持法違反による逮捕。思想犯の弾圧。特高警察による捜索と取調べ。転向の強要。現在の日本では、このように列挙してみると、どうしても街頭に出て憲法9条を守るための署名活動をするという選択肢に直結してしまう。しかし、この映画の中で逮捕されたドイツ文学者の野上滋氏に言わせれば、おそらくこのような活動は失笑の対象であろう。カントやニーチェ、トルストイの本に細かく書き込みをしている人にとっては、その時代が戦後から戦前に戻ることなどあり得ない。1940年当時には1941年はなく、1945年もなかった。これは、現在が2008年であって2009年ではないことと同じである。この映画から反戦平和のメッセージを読み取ったのであれば、単にそれだけの話である。

ネット上の意見の中には、本筋とは関係ない登場人物が多くまとまりがないとの批判も見られる。これもその通りである。名もなき庶民の目線から語るならば、まとまりが生じるわけがない。権力者は自分に都合の良いように歴史にストーリー化する、従って話はスッキリとまとまる。ところが、それを批判して権力者による歴史の改ざんを非難するならば、その反権力性によって、同じように話はスッキリとまとまってしまう。この構造を壊すには、ちょっとした工夫がいる。この映画でポイントとなっているのは、本筋とは関係ない変わり者の叔父さんの登場とその死である。金儲けしか頭にない下品な悪役として登場したはずが、いつの間にか「ぜいたくは敵だ」の軍国主義へのアンチテーゼになってしまっている。ここは泣くよりも笑うしかない。

感情的なものは理性的である

2008-02-16 15:42:50 | 国家・政治・刑罰
2月15日、地下鉄サリン事件等の実行犯で殺人罪等に問われたオウム真理教元幹部・林泰男被告の上告審の判決があった。最高裁は林被告の上告を棄却し、これによって死刑判決が確定することとなった。林被告は、サリン入りの袋を他の幹部よりも多く3個も持ち込み、それによって地下鉄日比谷線においては、事件のあった路線の中で最多の8人の死者が生じている。

死刑存置論と死刑廃止論の争いが机上の空論にならないためには、何よりも正面から「死」を見つめなければならない。そして、逃げずにこれを見つめるには、何よりも被害者の遺族の声を聞かなければならない。生死の問題であり、生死の問題でしかない死刑を語るに際して、遺族から逃げ回って死刑廃止条約の条文を叫んでも全く支持を集めることができない道理である。「死刑の問題は重い」「遺族の言葉は重い」などと言っている限りは、表面的な政治論から抜け出せない。

林泰男被告が散布したサリンによって娘の命を奪われたある母親は、この死刑判決を聞いて、次のように述べていた。「麻原彰晃(松本智津夫)も憎いが何よりも林泰男が憎い。地裁の法廷で証言をしたとき、林に殴りかかりそうになった。しかし、警備をしている拘置所の職員と裁判所の廷吏に止められた。自分は今でも林を殴れなかったこの手を責めている。娘に申し訳が立たない」。

もしもこのとき警備員の反応が遅れて、実際に母親が林被告を殴っていたらどうなっていたのか。おそらく司法行政事務は大変な大騒ぎになったことだろう。母親の暴行罪は微罪処分で見逃されるとしても、拘置所の職員と裁判所の廷吏の責任問題が生じ、裁判官会議においては訴訟指揮が問題となり、再発防止のための対応策に追われることになっただろう。厳罰化に反対し、遺族の感情を消極的に捉える立場は、「だから言っただろう。裁判はそんな場ではない。遺族を法廷に入れてはいけないのだ」と勢いづくことは目に見えている。

しかしながら、この母親が今でも苦しんでいるのは、法律に反して法廷内で被告人を殴ろうとしたことではない。殴ろうとして殴れなかったことである。なぜ殴ることができなかったのか、いつまでも自分を責めている。娘を殺した犯人が目の前にいるのに殴ることもできず、娘に対して申し訳が立たない。娘を守れなかった自分のこの手が許せない。この母親の倒錯的な悩みと苦しみは、間違いなく近代裁判のシステムによって必然的に生じている。そして、「法廷で遺族が感情的に意見を述べれば公平な裁判が阻害される」と主張する伝統的な人権論によってもたらされている。それでは、裁判システムのほうは、これに対してどのように答えるのか。

これは答えられない。すべてが壊れるからである。林泰男がサリンの袋を割らなければ娘は生きていた、林泰男がサリンの袋を割ったから娘は殺された。すべてはそのとおりの現実である。娘を殺した犯人が目の前にいれば殴りたくなるのが母親であり、殴りたくならなければそれは母親ではない、これもそのとおりの現実である。遺族の意見が感情的であるならば、それはこの世では遺族の意見が感情的でないことができないという単なる現実を指し示すのみである。客観的なものは主観的であり、感情的なものは理性的である。

裁判システムが遺族の言葉に答えられないことを知っている限り、自らにおいて答えはすでに出ている。従って、法治国家の維持のためには、その問いを閉じ込めなければならない。いわく、「法は客観的で理性的なければならないが、遺族は主観的で感情的である。歪曲や誇張によって裁判の公正が害されてはならない」。しかし、このように厳罰化や冤罪を批判する人権派がいつも感情むき出しで激怒し、むきになって反対派を論破しようとして徒党を組むのは一体どうしたことか。

言語ゲームの習得

2008-02-14 17:06:34 | 言語・論理・構造
ある人間が言葉を話しているとすれば、その人間には言語ゲームを習得した瞬間が必ずある。自分がそれを習得した瞬間は、その性質上、言葉で語ることができない。しかしながら、他人の場合であれば、不完全ながらその瞬間を言葉で語ることができる。この瞬間の最もわかりやすい例としては、ヘレン・ケラーが井戸水を手にかけて「ウォーター」という言葉を理解したというエピソードが挙げられる。この話が世界中で語り継がれているのは、単に「三重苦なのに良く頑張りましたね」ということではない。世界各地を歴訪して身体障害者の教育・福祉に尽くした偉人だからということでもない。何だかわからないがヘレン・ケラーの人生の一大転機であった、そこからすべての物が一気に開けた、この瞬間がなければその後のすべてはなかったかも知れない、何となくその点に奇跡を感じるからである。

『奇跡の人』とは、ヘレン・ケラーのことではなく、家庭教師のアン・サリバン先生のことである。言葉が世界を作っている、これをどうやって教えたらいいものか。この謎は、三重苦の人間に限ったことではない。普遍的な言語ゲームの習得は、万人に共通する謎である。幼いヘレン・ケラーが聴力を失う前にわずかに記憶していた言葉は、水を意味する「ウォー」だけであった。アン・サリバンは、わずかな可能性を求めて、あらゆる手段を尽くした。そしてる時、井戸水を手にかけたところ、それが「ウォー」と結びついた。これが「水」だ。この「水」ではない。全世界の川の水、海の水、1億年前の水、1億年後の水だ。物に名前があるとはどういうことか、それは名前が物をその物たらしめていることだ。この瞬間を、まさにそのところのものの言語によって語ったのが、ヘレン・ケラーの「水」のエピソードである。

客観的な世界の実在を信じている現代の科学主義は、言葉によって強烈なしっぺ返しを受けている。人間は、肉体的な暴力のみならず、言葉の暴力によって自殺する。本当の暴力よりも言葉の暴力のほうが苦しい。この「言葉の暴力」という比喩は最初から転倒している。暴力とは言葉である。ヘレン・ケラーが井戸水を触っても、水を意味する「ウォー」を記憶していなければ世界が開けなかったことと同じである。言葉によって暴力は暴力になるのだから、その言葉によって人間が自殺するのは当たり前である。言葉には人を殺す力がある。言語ゲームが習得できないのは苦しい。数学や英語の勉強の落ちこぼれは特に苦しい。新入社員や転職した社員が新しい仕事の専門用語がわからないのも苦しい。言語ゲームが習得できていない状態とは、ヘレン・ケラーの「水」の瞬間が訪れていないことである。仕事がさっぱりわからない、失敗ばかり、怒られてばかり。こうなると、人間は本当に簡単に自殺してしまう。言葉には人を殺す力があるからである。

自らが言語ゲームをしていることに気付いた者は、瞬間的に言葉が出なくなる。絶句するしかない。「水」は「水」であって「水」以外ではなく、この「水」ではないが、この「水」である。これ以上何を言う必要があるのか。この地点から眺めて見ると、言語による構成物である法律は、やはり言葉の安売りである。例えば、水道原水水質保全事業の実施の促進に関する法律第2条2項は、「この法律において『水道原水』とは、水道事業者が河川から取水施設により取り入れた前項の水道事業又は水道用水供給事業(水道法第3条第4項に規定する水道用水供給事業をいう。第14条第2項において同じ。)のための原水をいう」と定めている。どんなに法律で細かく「水」を定義しても、この世には「水」という言葉を語る人間の数だけ、「水」という言葉を覚えた瞬間を忘れた人間が存在するだけである。