犯罪被害者の法哲学

犯罪被害・刑罰・裁判員制度・いじめ・過労死などの問題について、法哲学(主に哲学)の視点から、考えたことを書いて参ります。

東日本大震災の保育所の裁判について その8

2014-03-31 22:14:08 | 国家・政治・刑罰

 裁判は所詮は人間のやることですので、白と黒は時と場所次第で逆になりますし、法的正義の所在も全く変わります。裁判所に「何か」を訴えるそれが何であるのか、世間の一般常識で問い詰めるならば、その先は「誰かを悪者にして叩きたい」「過去をいつまで引きずる」「長々と争って更に苦しむ」という安易な解釈に流れがちだと思います。解釈する側の立ち位置の投影にすぎないと理解していても、やはり話があまりに通じないのは情けなく、私も仕事の過程でがっかりさせられることが多くあります。

 法律実務家は、概して実際のコストや経営を度外視した理想論を嫌いますので、「真実を知りたい」「社会に問題提起したい」という要求を受け止めることは非常に苦手だと思います。そして、「人の命に値段はつけられない」という正論は、多くの法律実務家に反感を生じさせるばかりか、自分の仕事の意義を否定されたような不快感をも生じさせるものと思います。「お金じゃなければ毎週毎週土下座しに来てもらえれば気が済むのか、そんな子供のような理屈は社会では通用しない」という話です。

 また、金銭の支払いが訴訟の目的となると、それに合った立証が求められるため、全ては所定の型にはめられます。特に、精神的苦痛の慰謝料請求においては、苦痛が体の異変として表れないと外部から見えないため、とにかく心ではなく身体の痛みを主張することが重要とされます。すなわち、本人の手記よりも医師の診断書が重要です。逆に、自分の心を見つめて哀しみを綴り続けたような手記は、「本人の元からの悲観的な性格に問題あり」として、相手方から揚げ足を取られる危険を負わされます。

(続きます。)

東日本大震災の保育所の裁判について その7

2014-03-30 22:20:26 | 国家・政治・刑罰

 死を無駄にしないために「何か」をしなければならないとき、確かに金銭の請求は確かにこれに含まれます。但し、これは時間を元に戻すことができず、原状回復がどうしてもできない苦悩に自ら直面して、その末の最終手段としてせめて金銭で償うという共通の理解と絶望が大前提です。「いくら札束を積まれても納得できない」という論理は、逆の入口から入って来てしまった者に対して、正しい入口を指し示す真実であろうと思います。

 現に人が食べて寝て生活するためには、交換価値である貨幣が必要であり、「お金が欲しくない」と言う論理は資本主義では嘘になります。そして、「人の生死に比べればお金などに価値はない」という抽象的な真実と向き合い続けつつ、日々の具体的な現実の中を生き続けることは、生身の人間の精神にとってあまりに苦しすぎ、事実上不可能と思います。かような状況であっても、お金に価値を認めていたほうが確かに楽であると思います。

 「お金など欲しくない」という大原則を前提としつつ多額の賠償金を請求するという内心の矛盾は、本来は個人の内心のこじれの話であり、これは双方の話し合いがこじれるという場面に先立つものと思います。ところが、具体的に「安い見舞金で片をつける」「1円も払わない」という金銭の話は、不満に秩序をもたらし、外部から解釈しやすい形を生じさせます。「双方の話し合いがこじれる」というのは、この部分の観察に過ぎません。

(続きます。)

東日本大震災の保育所の裁判について その6

2014-03-29 22:31:15 | 国家・政治・刑罰

 人は誰しも、本当の絶望のときには一切の言葉もなく、涙も出ず、一切の感情が表に出ず、心が空洞化した状態になるのが必定と思います。ここから「裁判を起こさなければならない」という結論が出ることを了解するためには、そのような心の空洞化状態であるということが共通了解事項となっていなければなりません。しかし、法律の理論に精通している優秀な方々ほど、このような必然性を政治的な主張として捉えることが多く、私は返ってくる答えに落胆させられることがよくありました。

 人生の最大の問題として、その「何か」をする以上に重要なことはないとき、それは自分の人生だけでなく、全ての人の人生において重要です。これは、中身の詰まった人間は自己に執着するのに対し、人間の形をした抜け殻となることを強いられた者は普遍しか思考できないという逆説だと思います。論理的に、その「何か」をしないでは先に進めないとき、その他の些事に時間を費やす意味はありません。これは、いわゆる「戦い」ではなく、戦う相手などわからないものだと思います。

 私が経験した範囲内での結論ですが、一切の言葉を失った中から拾い集めた結果として形になった言葉は、「真実を知りたい」「社会に問題提起したい」という部分に集約されるものと思います。これは、「腹いせに怒りをぶつけたい」「お金がほしい」という要求とは対極的であり、「なぜ人生にはこのような出来事が起きるのか」「人はなぜ苦しくても生きなければならないのか」という哲学的な問いそのものであり、特定の人の死ではなく、普遍的な人の生死が問題とされていると思います。

 「死を無駄にしたくない」というのは、人の生命が何かの手段とされてはならないという当たり前の原則の各論であり、ここでは真実のみが求められ、嘘を知っても意味がありません。無駄にできないのは死の事実だけではなく、生まれて生きて存在したというその一生の明確な形のことであり、生きている者は死者には絶対に敵わないものと思います。本来、法律家にできることは、その「何か」をしなければならないという言葉を「何か」で止め、その先を問わないことだと感じています。

(続きます。)

東日本大震災の保育所の裁判について その5

2014-03-28 22:17:59 | 国家・政治・刑罰

 現代社会で子供1人を育て上げるのには、約3000万円はかかると言われています。何よりもお金に価値を置く被災者遺族であれば、子供が亡くなれば現実に莫大なお金と時間が浮きますので、心置きなく投資や起業による金儲けに専念できるはずだと思います。被災地は折から復興に向けた建築や発電のビジネスチャンスであり、生産性がない裁判などにお金と時間を費やすのは全くの損という話になるからです。そして、実際にこのような話になっては世も末です。

 被災地で提起される民事訴訟について、「怒りの矛先の向け方が釈然としない」という意見に関し、それではどうすれば釈然とするのかと言えば、条件を満たすに最適の状況は明らかです。すなわち、子供を虐待していた親が、邪魔者が消えればいいと思っていた時に、ちょうど大震災が起きてくれたというような場合です。裁判を起こすよりも起こさないほうが絶対的に正しいのなら、この論理が肯定されなければ筋が通りません。そして、通ってしまっては世も末です。

 私は自分の裁判の仕事を通じ、「恨みつらみの腹いせで訴えているのではない」という考えが本当に他者に伝わらないことや、「生きている人が優先に決まっている」という理屈の強さに絶望的な思いをさせられてきました。他方で、「子供が消えたことを前向きに捉えて自分の人生を楽しみたい」「過去は綺麗さっぱり忘れて裁判など起こさない」などという論理が正面から語られれば、「子供が浮かばれない」「親として失格だ」という厳しい評価を受けることも明らかです。

(続きます。)

東日本大震災の保育所の裁判について その4

2014-03-27 22:25:38 | 国家・政治・刑罰

 被災地における一連の民事訴訟に対して、被災地の外の平均的な国民の目はあまり好意的ではないと感じます。「人の命をお金に変えるのか」「裁判沙汰にしても死んだ人が喜ばない」「死者でなく遺族のための裁判ではないか」といった感想を耳にすることもありますが、そのすべてが的を全く外しているとも思いません。もともと裁判のニュースは気分のよいものではなく、多くの人間の平衡感覚による心の動きはこんなものではないかと、私の心には一種の諦めがあります。

 法制度が用意する民事訴訟のシステムに最も親和性があるのは、富と名誉と成功をめぐる仁義なき争いの場面であり、金銭欲や物欲の調整の機能だと思います。裁判所は、いかなる種類の訴訟が提起された場合であっても、システムが予定する争いの形に当事者を引き込みます。その結果として、千差万別であるはずの当事者の行動は、ステレオタイプのそれに押し込まれます。いつの間にか「原告」は「原告」らしく、テンプレート通りの行動を取っているということです。

 この種の訴訟に対する評価として、現場を見てきた者として完全に的を外していると感じるのが、「お金が欲しくて訴えるクレーマー」というものです。お金が目的なのであれば、このような訴訟を起こすことはあり得ません。絶対に勝てる保証がないどころか、負ける確率が高いと説明され、勝っても負けても失われた命は戻らず、しかも負ければさらに絶望を深めるような裁判を、高い弁護士費用を支払って進めることはありません。損得の経済の論理で言えば、損ばかりです。

(続きます。)


東日本大震災の保育所の裁判について その3

2014-03-26 22:58:05 | 国家・政治・刑罰

 求めている「何か」が何であるのかわからず、従ってその「何か」を模索せざるを得ないとき、人は訴訟を起こすか否かという決断を迫られれば、「起こす」というほうを選ぶものと思います。法秩序が実体法と訴訟法のシステムを用意し、人がその社会の中で生かされている以上、この結論は最初から決まっていると思います。実際のところは、裁判にかかる時間と費用、体力と精神力、世間体などの問題が絡んできますが、論理の根本のところは動かないはずだからです。

 「何か」が何であるかを問わないこと、すなわち金銭の請求でなければ何なのかを問うか否かという部分は、2種類の論理の違いを示していると思います。すなわち、「ロゴス」と称される論理と、「ロジック」と称される論理です。「何か」が何であるかを問わないのはロゴスであり、その「何か」はやるべきであり、やらねばならないことを認めるのはロゴスだと思います。他方、民事訴訟法の要件事実に基づく主張・立証の技術は、専門家の手腕を必要とするロジックです。

 世の中の争い事はどこかでキリをつけなければ社会の秩序が保てない、ここが法律の誕生の契機です。他方で、責任の所在などと細かく論じる以前に、そもそも命とは何か、死とは何かという疑問から出発しなければ一歩も動けないという現実的な哲学的問題を突き付けられれば、法律はお手上げだと思います。ロゴスは自分を含めた普遍的世界を語りますが、ロジックは自分を除いた客観的世界を語ります。そして、ロジックは、生きることと考えることを別のものと捉えます。

(続きます。)

東日本大震災の保育所の裁判について その2

2014-03-25 22:57:13 | 国家・政治・刑罰

 原告の最大かつ唯一の希望は、言うまでもなく命を戻したいということであり、これは比喩的ではなく動かぬ結論だと思います。同時にその絶対的不可能を請求の中に含むとき、論理は窮して何回も転じます。そして、生身の人間の頭と心には、通常はこれを整理する能力は備わっていないと思います。また、この絶句と混沌の中を手探りで論理を求めるとき、必ず行き着くのが、「真実を知りたい」という論理だというのが私の経験です。この真実は破壊的だと思います。

 これに対し、法律の論理は秩序を旨とし、破壊とは対極的な地位にあります。混沌とした状況を丸く収め、個々のトラブル終わらせたいという法の要請と、これを通じて理想の社会を建設に寄与したいという法律家の希望は、簡単につながるものと思います。従って、この秩序の確保のためには、ある種の真実の探求には否定的な姿勢が示されます。法律の規定に従って責任の有無を論じることになると、どういうわけか話が噛み合わず、食い違いは紛争に転化します。

 私の狭い経験、それも何件かの医療事故や交通事故裁判の仕事からの勝手な推測ですが、この種の損害賠償請求の目的が「お金が欲しい」であることは皆無であると感じます。とにかく自分が置かれた状況において、絶句と沈黙の真っ只中で「何か」をしなければならず、その「何か」を消去法で切っていった場合に、この世の合法的なシステムにおける「何か」というのは、それしかないということです。「何か」が金銭の請求になってしまうことは、本人の責任ではありません。

(続きます。)

東日本大震災の保育所の裁判について その1

2014-03-24 22:53:41 | 国家・政治・刑罰

3月24日 毎日新聞より
「園児遺族側が敗訴 仙台地裁、賠償請求棄却」

 東日本大震災の大津波で亡くなった宮城県山元町立東保育所の園児2人(当時2歳、6歳)の遺族3人が「町側が避難を指示しなかったため起きた人災だ」として、町に計約8800万円の賠償を求めた訴訟で、仙台地裁は24日、請求を棄却した。震災犠牲者の遺族が勤務先や学校などの責任を問う一連の訴訟で3件目の判決で、七十七銀行女川支店(同県女川町)訴訟に続き、遺族側が敗訴した。

 訴訟で遺族側は、町災害対策本部が震災発生直後、園に対し避難の必要がない「現状待機」を指示したために発生した事故だと主張。津波の情報収集にも不備があったとして「自力避難が不可能な乳幼児を預かる保育士と町職員が、適切な行動を取らなかったために発生した人災」と批判していた。

 一方、町側は、保育所が海岸から1.5キロ離れた場所にあったことなどから「津波襲来を予見できたとは言えない」と反論。「現状待機」指示についても「津波を予見できなかった以上、避難を指示する義務はなかった」としていた。


***************************************************

 この裁判や判決の詳細に関しては、全くの部外者である私にはよくわかりません。民事法の専門家は、この判決文を読み込んで過去の判例との整合性を検討し、今後の判例の動向についての研究材料にするものと思います。また、当事者以外の一般的な国民は、マスコミを通じて伝えられる範囲の情報を真実と捉えつつ、裁判所の判断や当事者のコメントに対して、賛成か否かの意見を持つものと思います。そして、数日間ですぐに忘れてしまうのだろうと思います。

 私の仕事の狭い経験からですが、このような問題についての双方の話し合いは、訴訟を回避するよりも、逆に訴訟での激しい争いを避け難いものとするように感じます。すなわち、両者に歩み寄りの意志があればあるほど、それが不可能であることの絶望に直面せざるを得なくなるからです。その意味で「交渉決裂」「裁判沙汰」といった用語は不正確であり、現在の法制度の下では、これを利用しないことの決断には激しい精神の消耗を伴わざるを得ないと思います。

(続きます。)

高校野球のエースの連投について

2014-03-22 22:46:13 | 言語・論理・構造

 近年、高校野球を巡るニュースでは、主戦投手(エース)が連投して肩や肘を壊すことの問題点が多く論じられていると思います。そして、近時の我が国のブラック企業との類似性について指摘される意見も耳にすることがあり、私は妙に納得させられています。これは、論者の分析の鋭さによって初めて気付かされるというのではなく、人間の精神の構造や日本文化の体質に対する洞察の深さに驚くというのでもなく、理屈を言う前に単に結論が先にあって、端的に両者が似ているということです。

 現実問題として、目の前に勝ちがあり、是が非でも勝ちたい、負けたら何もかも終わりである、頼むから勝たせてくれという切羽詰まった状況のとき、その場を支配する権力を持つ人物が採る行動は、ほぼ決まっていると思います。すなわち、権力において劣り、かつ実力において秀でている者に対して命令し、かつその場を任せて頼り切ることです。勝利に全ての価値があり、敗戦には価値もない勝負の世界において、勝つ目的のための最善の行動を採らないなど意味がわからないからです。

 目の前の勝ちがあるというのに何故わざわざ負けを選ぶ奴があるか、お前は何をしに球場に来ているのか、つべこべ言わずに言われたことをやれ、寝言は寝て言えという絶対的な論理は、権力者の独断ではなく、戦う集団の一致した意志だと思います。上位進出のためにエースを温存したがために初戦で足を掬われるなど本末転倒であり、いったい何のために何をやっているのか、勝つために野球をやらないなら何の目的で野球をやっているのかと問われれば、この論理に対抗できる論理はないと思われます。

 高校野球をブラック企業になぞらえることは、汗を流してひたむきに1個のボールを追いかける球児に失礼だという意見も耳にしますが、これもその通りだと思います。両者を科学的に比較して分析することは無意味です。ただ、本当に無理な連投して肩や肘を壊し、野球人生に悪影響を残してしまうエースが非常に気の毒だと思うのみです。そして、「投げないことは許されない」という形の論理で、誰が許したり許さなかったりするのかが不明のまま、受動態の命令が示されることの絶対的な力を恐れるのみです。

『ひまわりの おか』

2014-03-16 22:53:43 | 読書感想文

※ 東日本大震災の津波により、石巻市立大川小学校に通わせていた子どもを亡くした母親の手紙をもとに作られた絵本です。

p.33~ 葉方丹氏の「あとがきにかえて」より

 ひまわりの丘をたずねるたびに、お母さんたちは、子どものことを聞かせてくれました。涙を流し、時には笑いながら話してくれました。お母さんたちの話は、子どもへの深い深い愛に溢れていました。そして、そのぶん、深い深い悲しみに満ちていました。子を想う母親の心は、果てがないと思いました。そのことを、できるだけ多くの人たちに伝えたいと思いました。そして、お母さんたちが書いてくれた、子どもたちについての手紙をもとに、この絵本をつくることになったのです。

 ひまわりは、日々、大きくなっていきます。お母さんたちは、ひまわりの世話をしながら、ひまわりに語りかけています。きっと、子どもと話しているのです。ネイティブ・アメリカンの人たちは、「この世の中、誰ひとり私のことを思わなくなったら、私の姿は消えてしまう」と信じていました。人は、人を想うこと、人に想われることで、生きていけるのです。お母さんたちは、いつもどこでも、子どもたちのことを想っています。子どもたちは、お母さんといっしょに生きています。


***************************************************

 「事実が正確に表現されていない」「言葉が不正確である」などと評される場合の問題には、大きく分けて、2つの状況があると思います。その1つは、「客観的事実と言語とが対応していない」という場合であり、実際に体験していない者の議論は伝聞からの想像に陥らざるを得ない結果として、事実の歪曲や隠蔽の有無が争われることになる状況です。恐らく、言葉の不正確性が問題とされて争われる場合の99パーセント以上が、この部分から生じているのだろうと思います。

 ここでの客観的事実とは、紛れもない主観的事実のことであり、本当に我が身に起きた歴史的な出来事であればこそ事実が正確に記せるのであって、ここで客観的事実と言語とが初めて対応するのだと思います。実際に自身に生じた歴史的事実については認識や解釈を巡る議論も起こり得ず、単に体験の有無が決定的な差異を生ずるからです。東日本大震災においても、体験の有無による言葉の温度差は如何ともし難く、温度の低い側はひたすら謙虚になるしかないと感じます。

 他方、上記の問題のもう1つの場合、すなわち言葉の不正確性が問題となる1パーセント未満の場面とは、本当に自身に起きた出来事であるがゆえに正確に書き残すことができず、本当のところは言葉にならないという状況です。人は自分の心の中を言葉にしなければ自分の心の中はわかりませんが、その自分の心の中を正確に言葉にしようとすればするほど嘘を語ってしまうという逆説があります。そして、この沈黙に苦しむ者は、安い言葉の嘘を必ず見抜くはずだと思います。

 人間がこの沈黙の言葉を語ろうとするときには、「詩」「物語」「絵画」といった高度に抽象的な伝達手段を選択せざるを得ないものと思います。言語の限界を知り抜いた者は、広い意味での論理を適切に用いて、正確な嘘を語らなければならないからです。もっとも、これはもとより言葉の不正確性が問題となる1パーセント未満の場合であり、実際に世の中で交わされている膨大な言葉の中で、絶句の深さを伴った言葉はごく僅かだと思います。容易に見つからないと思います。

 以下は、大川小学校の裁判の部外者である私の勝手な願望ですが、原告側の弁護士も被告側も弁護士も、この絵本の言葉を念頭に置きつつ話を進めてほしいと感じます。法律家にとって、絵本など六法全書よりもかなり下に位置づけられ、感傷的な空想と決め込むのが通常のことと思います。しかしながら、この裁判が「安全確保義務」「危険調査義務」といった抽象概念の切り回しの頭脳労働で終わるのであれば、法律というものはあまりに惨めで虚しい言葉の羅列だと思います。