日本列島の形成から、日本文化の始まりにかけての時期。古代国家が誕生し、統一王朝が生まれる。
日本列島は、元々東アジア大陸と地続きであったのが、陸地の隆起と陥没が繰り返されて、日本列島の元が形成された。
また土器を伴わない、先土器文化があった事が岩宿遺跡により解明されている。
日本列島が大陸と分離し、ほぼ現在と同じような形になると、自然環境も大きく変わった。このような中で、日本列島に定着した原始人たちは、打製石器に代わり磨製石器、さらには土器を製作し始めた。
縄文時代は、土器と磨製石器を用いていることから新石器時代にあたる。狩猟・漁労の採取経済が生活の中心であったが、原始的な農耕は行われていた可能性がある(栽培植物)。
本格的な農耕生活への移行が始まる。また、西日本の方から、人々は新しい土器(弥生土器)を作り始めた。東南アジア、中国大陸の中南部、朝鮮南部などから伝えられた水稲耕作は、東北地方にまで普及した。農具の多くは木製農具で、若干鉄製鍬も用いられた。人々は、水田で田植えをし、湿田が多かったので、田に入る為に、田下駄を用いた。稲は石包丁で穂首刈りをし、運搬に田舟を用いることも多かった。
この時期は、金属器の使用と製作も始まっており、その中でも銅剣・銅矛・銅戈・銅鐸が目に付く。これらは、これまでの石器による武器より遥かに優れた武器であり、各地の集団はこれらの入手を望んだ。しかしこれらの青銅器は、次第に大型化し、実用に耐えられなくなった。その為、実用的な武器であるよりも、集団とその首長の武力や政治的権威を象徴する武器または宝器になっていった。
弥生時代中期の倭人について、『漢書』地理志には、100余りの国が分立し、楽浪郡を通じて毎年漢に朝貢していたと書いてある。それらのうち、北九州の奴国の王の使者は、57年に後漢の洛陽に至り、光武帝から印綬を授けられたという(『後漢書』東夷伝)。107年には倭国王帥升らが奴隷160人を献じて、安帝に謁見を求めた(『後漢書』東夷伝)。
『魏志』倭人伝に記される国々を統率した邪馬台国があったとされるが、その地域については北九州か近畿かその他の地域にあったかという論争は明治時代以来こんにちまで論争が重ねられてきたが、未だ定説はない。
ヤマト王権から大和朝廷と呼ばれるまで拡大すると時を同じくして、古墳文化が広まっていった。
4世紀中頃の倭国にとっては、朝鮮諸民族の伸長に伴い、それらとの関係が一層重要なものとなった(『百済記』・七支刀・高句麗好太王碑文)。『古事記』・『日本書紀』の伝承によると、4世紀の末に大和の葛城襲津彦を新羅に派遣したところ、彼は逆に当地に留まって帰国しなかったという。また5世紀初め頃に、神功皇后が三韓を征討した話もある(後者は史実としては不確かである)。
また朝鮮諸国との関係が緊迫してくると、5世紀初め倭王(讃)は中国(南朝東晋・宋)へ入貢した。以後、珍・済・興・武の5代に渡り入貢し、倭国王や安東大将軍の称号を受けた。
5世紀末~6世紀前半は、動乱の時代を迎え、地域王国のうち、ヤマト王国をはじめ、他の地域王国のもとでも、支配下の民衆のうちから有力農民が成長し、古い秩序が動揺した(磐井の乱)。こうした地域王国間の対立・抗争の激化には、朝鮮半島との外交関係が深く関わっていた。朝鮮半島では、高句麗の南下のため百済が危機に直面し、新羅やヤマト王国に救援を求めてきたからであった。512年、大連大伴金村が、一部の反対を押し切って、加羅の4県との関係を放棄し、朝鮮諸国の動きもあり、ヤマト王国との関係は絶たれていく。
ヤマト王国の内部では、新興の物部氏の主導の下に、各地の地域王国や地方豪族の服属と統合を進めて、新しい支配組織を整えていき、仏教・儒教を中心とする新たな支配理念や文化を持つようになった。このような統治体制の国家が大和国家と言われる。これとともに、元のヤマト王国の王は地方の王や豪族に君臨するものとして大王と呼ばれるようになっていった。
隋帝国の出現(581年)によって、6世紀末から7世紀初めにかけて、東アジアでは大きな国際関係の変化が見られるようになった。大伴金村の失脚後、朝廷内部の主導権を巡って、蘇我氏と物部氏の対立が深まった。それは激化し、6世紀末には仏教受容についての意見の対立(崇仏論争)と、用明天皇死後の皇位継承問題とが絡んで、武力抗争にまで発展した。
587年、仏教崇拝を認める蘇我氏が勝利した。その後大王の外戚として権勢をふるい、馬子は崇峻天皇を暗殺するに至り、推古天皇が擁立された。これに伴い、有力な皇位継承者であった厩戸皇子が皇太子となり、摂政として政治を行うことになった。この時代は、外には朝鮮半島の失地回復の努力が、内には蘇我氏の勢力が大王家を凌ぐほどになっていた。こうした中、蘇我馬子と協力して中央集権的国家体制を目指して政治的改革を進めていった(遣隋使、憲法十七条の制定、冠位十二階の制、国史編纂)。
乙巳の変を経て蘇我氏の影響を排除し、権力を握った皇族の中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足らによる大化の改新が進められた。天智天皇の弟の天武天皇は壬申の乱で勝利して実権を握り、より中央集権的な国家運営が進められた。今日我々が知る「日本」という国号も定められた。近江令から始まった律令制が形成され、発展していった時代である(大宝律令)。
奈良の平城京に都が置かれていた8世紀初頭~末にかけての時代である。中央には二官八省の政治機構が整えられ、地方の各国へも国司に任じられた中央貴族が赴き、中央と密接した政治が行われるようになった。
民衆に対しては、租庸調制・軍団制・班田制などによる支配が確立した。
律令制進展に伴い、辺境地の開拓も進められた。特に東北地方は多賀城が造られるなど、蝦夷経営はかなり北上した。
文化的には遣唐使の影響を受けた天平文化が、仏教的には鎮護国家思想が強まり東大寺・護国寺が建立された。
一方、政情不安が非常に多く発生しており、長屋王、藤原四家、橘諸兄、藤原仲麻呂、道鏡など政権主導者が相次ぐ政争を繰り広げていたのもこの時期である。この頃から藤原氏(藤原北家)が権力を握り始める。
8世紀末から12世紀末までの、桓武天皇が築いた平安京が置かれた時代。前期では律令国家体制の限界が、農民の浮浪・逃亡や地方政治の乱れなどに現れていた。そこで桓武天皇は令外官を置き、勘解由使を派遣し国司の不正を取り締まらせた。また征夷大将軍を特別に東北地方に送った。また班田を12年に延長、今までの軍団制から健児の制など農民の負担軽減が図られた。また地方の税が中央に入りづらくなっていたので、直営田と呼ばれる中央が直接収入を得る経営地が設けられた。
しかしこういった改革は11世紀には律令制度を大きく変容させる事により、当初意図されていた制度の強化から次第に封建制の性格を現していく。そこでは、人頭税的なものから土地単位の課税と負名体制へ、地方統治を支える事になる国衙軍制を通じた官人層である武士階層が生じた。この時期は中央政治では藤原北家による摂関政治が成立した。藤原道長、藤原頼通父子の間が藤原氏絶頂期であるとされている。
12世紀になると、権門が荘園領主である荘園と、国衙が支配する公領が並存し、武士がその管理人として在地領主になる中世的な荘園公領制が確立する。この時期は中央政治で、上皇による院政が行われていた。
平安末期になると、保元・平治の乱を経て中央政治に軍事力を持って影響力を強めた武士が現れ、その中でも伊勢平氏が初の武家政権を成立させている。しかし平清盛が亡くなる前後から反平氏の動きが全国に伝播しており、皇族の以仁王の呼びかけに応じた源頼朝や源義経らによって、平家は滅亡、衰退した。(治承・寿永の乱)
12世紀末から14世紀までの、主に鎌倉幕府が置かれていた時代。初期は源頼朝の私的政権であった鎌倉幕府は、守護・地頭を得て東国支配を得る。その後、承久の乱により朝廷の公家政権に対して優位に立つようになった。幕府内部では源実朝が亡くなると、御家人筆頭の北条氏による執権政治に移り、のちに得宗と呼ばれる北条義時の子孫を中心とする体制が出来上がる。
また日宋貿易により宋銭が輸入された事による貨幣経済の浸透、惣村の形成、武士の荘園公領への侵出など社会変動が起きた。
文化的には武士・庶民の新しい文化が生まれ、素朴で写実的な作風である。仏教的には、旧仏教を革新する鎌倉新仏教が勃興した。
8代執権である北条時宗の際に元寇が発生。鎌倉武士の奮闘もあり元を退けたが、政情不安を頻発させ、北条時宗が若年で早逝するといよいよ混乱が大きくなる。北条氏もまた、内管領などの傀儡になりつつあった。
14世紀頃の南朝・北朝と朝廷が2つ並存した時代である。後醍醐天皇が鎌倉幕府を滅ぼし、建武の新政と呼ばれる天皇親政を行ったが、武士の慣習と合わない、斬新すぎて公家からも批判が集まるなど不満が募り、足利尊氏を筆頭にした離反を招いた。
その後、後醍醐親政は失脚し、尊氏による幕府組織を後見に新天皇が立つが(北朝)、京都を脱出した後醍醐天皇も一方的に皇位復活を宣言する(南朝)。これにより朝廷は分裂し、皇族、公家、武士、寺社、国人勢力などあらゆる階層の人間を巻き込む騒乱の時代となる。
朝廷の正統対立を軸としつつも、実体は様々な価値観や権益が入り交じる権力闘争の場であり、寝返りが日常茶飯事の渾沌とした戦いである。さらに両陣営でも内部分裂が相次ぎ、殊に足利尊氏・足利義詮を中心とする勢力と足利直義・足利直冬を中心とする勢力の内乱は観応の擾乱と呼ばれ、非常に長期化した。九州は一時半独立国家状態になるなど情勢は複雑怪奇を極めた。(なお、現在の天皇系譜では南朝天皇を正統とするが、現行皇室は北朝系の子孫というややこしいことになっている)
上の通り室町幕府の政体は既に存在し、よって室町時代とも重なっているので注意。
政治的には混迷を極めた時代だが、同時に新しい価値観の勃興も促し、既成の権威を否定する「ばさら」の風潮が流行する。いわゆる日本文化と呼ばれる華道、茶道などの諸芸術が確立し始めるのはこの時代である。能を大成した観阿弥、世阿弥が出たのもこの頃。
14世紀から16世紀頃までの主に室町幕府が存在した時代をいう。14世紀から続いていた南北朝の対立は、室町幕府3代将軍足利義満の時代に南北朝合一を迎える。各国に置かれた守護は半済などの経済的特権の常態化、守護請の拡大を通じて、守護領国制と呼ばれる守護大名へと成長していった。
幕府の職制は概ね鎌倉幕府のそれを引き継いでいるが、鎌倉幕府が北条氏宗家による得宗専制であった一方、足利氏の臣下筋を三管領四職に当たらせた。
守護大名の伸長は将軍存廃のところにまで及び、応仁の乱など全国的な守護大名の対立が背景となり、以降戦国時代と呼ばれる。
文化的には大きく分けて3代将軍足利義満を頂点とする北山文化、8代将軍義政を頂点とする東山文化がある。前者は伝統的公家文化と新興の武家文化の融合、中国の文化を取り入れ、禅宗文化を基礎としたもの。後者は新興の庶民文化を色濃く吸収したものである(わび・さび)。これらは直接的には幕府があった京都に育ったが、地方にも伝えられて、それぞれの時代の文化の基調となった。
社会的な動きとしては、自力救済が肯定され、社会の各階層において連帯する一揆が頻発した。また村落がより自治を強め、惣村・郷村が各地に確立した。
外交においては、日明貿易により中国大陸との国交が再開され、同時に倭寇の取り締まりが行われた。しかし国内政治の混乱などにより、再び国交は断絶し再び私貿易が行われていく。
15世紀後期から16世紀後期までの間をいう。この時代は守護大名が没落する一方、領国内で守護代や国人・地侍が勢力を伸ばし、家臣が上位の者を倒す下克上と呼ばれる風潮が広がった。しかし、下克上ばかり起こっていたかというとそうでもなく、武田信玄や今川義元といった強力な守護大名も存在しており、新旧入り乱れた様相であった。
守護や守護代、国人を出自とする戦国大名と呼ばれる大名らは、それまでの支配体系を崩し独自の分国法を定め、一円支配をし、地域国家が多数興った。これを大名領国制と呼ぶ。
多数の大名が並立する中で、将軍家はやがて山城1国を支配下に置くのみになり、伸長する戦国大名の中で今川義元を桶狭間の戦いで破った織田信長が特に兵農分離・商農分離を始めとした身分制度の整備を進め、武力の組織化に成功し、支配地域を広げた。
社会的には各大名が領地経営を進めた結果、農業生産性が向上、地域国家内での流通が促進されて、都市と呼ばれるものが形成されていった。また南蛮貿易と呼ばれるヨーロッパとの交易が始まり、火縄銃・キリスト教が流入し、戦術・宗教面で影響を与えた。
中央では足利義材、足利義澄ら10・11代将軍同士の抗争などもあり、管領細川家の細川高国、細川晴元らが実権を握り、やがてその家臣にあたる三好長慶が実権を握った。これらは堺政権と呼ばれることもある。しかし長慶が亡くなると、織田信長らに押されつつあった。
武家政権による統一支配を特徴とする。中世と比べ強力な中央政権がある。
戦国大名である織田信長と豊臣秀吉が政権を持った時代をいう(織豊政権)。戦国大名の中でも特に強大であった織田信長は、室町幕府15代将軍足利義昭を京から追放し、畿内を中心として日本の大部分を支配する天下政権を作る。識者や学者の中には「信長の天下統一」という意見もあるが、しかし信長が本能寺の変で倒れると内乱が起こり、最終的に山崎の戦いで信長の仇を討った豊臣秀吉が政権を引き継ぐ事になり、信長の一族をはじめ数多の人間が彼に従った。
秀吉は信長の姿勢を踏襲しつつも改良を重ね、畿内政権を基盤としながらも、東北から九州までを平定し、天下統一を達成する。信長同様に秀吉も、中世の支配体系・勢力を破壊・排除していき、検地・刀狩あるいは兵農分離など身分制の整備を進めていき、荘園公領制・重層的な土地支配の解体をした。秀吉はその後、唐入りという形で勢力を海外に広げようとするが、戦争が長期化した。
しかし豊臣政権も後継者問題によって暗雲が立ち込め、秀吉の死によって瓦解へと突き進んだ。唐入りという海外への軍事活動も、秀吉の死により中止となった。
文化的には、都市部の豪商を担い手とした桃山文化が生まれた。古典文化への憧憬を持ちつつも、豪放・絢爛である事が特徴で、現実的色彩が強くなっている。また部分的ではあるもののヨーロッパ文化の影響を直接受けた南蛮文化も現れている。
1603年の江戸幕府開府から1867年の大政奉還までの間をいう。江戸幕府が江戸に置かれた。秀吉の死後、五大老筆頭と目されていた徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利し、征夷大将軍の座に就くと江戸幕府を開いた。そして大坂の陣で豊臣秀頼を自刃させ、秀吉死去以来の政情不安に終止符を打った(元和偃武)。
前期:徳川家を優位とする政局安定策、武断政治が3代将軍家光の時代まで続くが、他大名、朝廷などに対し法治体制を取った。しかし徳川家光の死後、慶安の変や明暦の大火などで混乱が生じると、4代将軍徳川家綱を中心に文治政治を進める。保科正之、松平信綱など優秀な幕閣の活躍もあり、次代の徳川綱吉の代にほぼ完成。外交では鎖国政策の完成。
中期:農業生産力が伸びた事により、経済発展を達成。また貨幣経済が村落にも浸透し、商品作物が作られるようになった。また港町、城下町、門前町など色々な都市が生まれた。各地の特産物が大坂を集散地とし(天下の台所)、上方文化(元禄文化)が発展した。しかし、コメ価格の下落が起き、御家人層が困窮するなど改革の必要性も出てきた(享保の改革)。
後期:享保の改革で年貢収入は増加したが、再びコメ価格の下落などにより行き詰まりを見せていた。そこで田沼意次が、重商主義・貨幣流通量増加の政策を取った。しかし意次が失脚すると再び、保守的な政策に戻り(寛政の改革・天保の改革)、幕府の財政は悪化した。
1853年、江戸幕府は黒船で砲艦外交を迫ってきたマシュー・ペリーと日米和親条約、次いで日米修好通商条約を締結。その後なし崩しで西欧諸国と同様の不平等条約を結び、日本経済は打撃を受けた。また開国に伴い下級武士や知識人層を中心に攘夷運動が起こり、朝廷の権威が再び注目される事になった。江戸幕府を率いる徳川慶喜は窮余の策として大政奉還を行い政治力の温存を図るが、薩摩藩の仕組んだ王政復古の政変と鳥羽伏見の戦いの敗戦から政治主導権の維持回復は不可能になる。その後江戸城無血開城にて江戸幕府の統治機構は解体され、五稜郭の戦いをもって旧幕府勢力は壊滅した。
民主的な政府により統治される時代。産業革命による資本主義の成立。近代的な中央集権体制による全国統一の完成
倒幕を成功させた薩長連合を中心とした諸藩勢力による明治新政府が出来る。天皇大権を中心として、欧米の社会システムをお手本に近代化をする。不平等条約改正の為に、大日本帝国憲法制定・帝国議会の設置などをし、富国強兵策・産業振興を進める。日清・日露戦争に勝利し、不平等条約改正を達成すると、列強の一角を占め国際的地位を確保する。
1914年に発生した第一次世界大戦に日英同盟の同盟国として参戦。ドイツ帝国の青島租借地などを攻略した。戦後は連合国の五大国の1つとして、ドイツ帝国の支配地であった南沙諸島を委任統治領として譲り受け、国際連盟の常任理事国入りを果たす。
国内では、大正デモクラシーの煽りを受けて、日本初の普通選挙が実施され、政党政治が成立。また戦争特需により好景気に沸いた(成金)。
1926年から1989年までの63年が昭和の時代にあたる。昭和はまさに激動の時代で、文化が一変する境目である大東亜戦争を中心に前期(戦前)と後期(戦後)で分けられる。テレビ等で昭和と言えば戦後を指す事が多い。
戦前・戦中:1923年に発生した関東大震災により社会不安が増大する中、1929年頃より始まった世界恐慌で前代未聞の不景気が襲い、経済は混乱。国民の生活はどん底へと叩き落とされた。救済策を施行するはずの政府は失策続きで、満州における権益はソ連や中国国民党に脅かされ続けるなど国民の政治家に対する不満・失望が広まっていた。特に農村部の荒廃や窮乏は目に余り、農家出身の兵と接する機会が多かった陸海軍の青年将校は強い危機感を抱いた。その後、軍人及び右翼勢力は腐敗した政権を転覆させようと五・一五事件や二・二六事件のような軍事クーデターを起こす。いずれも政権転覆には至らなかったが政府に不満を持つ国民は軍部に味方し、またクーデターを恐れた政界は軍人を無選挙で入閣できるよう計らったため軍部が政治に強い影響力を持つようになった。政治政党の終焉と政治における軍部介入は終戦まで続いた。
また中国大陸の権益をめぐる問題で欧米列強と対立し、日本は国際連盟から離脱。次第に国際社会から孤立していく。1937年8月、第二次上海事変をきっかけに支那事変が勃発し、中華民国と武力衝突する。支那派遣軍は首都南京や要衝武漢を占領するなど快進撃を続けていたが、蒋介石率いる国民党軍は遷都を繰り返して奥地へ逃げ続け、また日本の強大化を嫌がる米英が中華民国を支援していたため予想に反して長期化。臣民の生活を圧迫するようになる。
日本と同じく国際社会から孤立していたドイツ、イタリアと緊密な関係となり、日独防共協定や日独伊三国軍事同盟を締結。ハンガリー、ブルガリア、ルーマニア、クロアチア独立国といった東欧の国も仲間に加わった。そして1941年12月8日の真珠湾攻撃を以って枢軸国側に参戦し、イギリス、アメリカ、オランダ、オーストラリア等からなる連合国に宣戦布告した。南方作戦、マレー沖海戦、ジャワ沖海戦、スラバヤ沖海戦、バタビア沖海戦、セイロン沖海戦で連戦連勝を重ね、東南アジアとインド洋から連合軍を一掃する事に成功。南方の資源地帯を確保し、長期持久体制を構築した。序盤は優勢に立っていたが、ガダルカナル島の戦いを機にアメリカ軍の本格的反攻が始まる。レンネル島沖海戦やコロンバンガラ島沖海戦などで局地的に勝利を収めたものの、以降はアメリカ軍の膨大な物量に押されていく。マリアナ沖海戦で再建した空母機動部隊が、レイテ沖海戦で水上艦艇が壊滅させられた事で組織的抵抗力を喪失。もはや小規模艦隊による作戦しか出来なくなり、資源地帯との輸送路を断たれた後はそれすら不可能になった。1945年4月に生起した坊ノ岬沖海戦で戦艦大和を喪失、6月には沖縄を失陥し、本土では連日連夜B-29による爆撃が行われた。最後は長崎広島に原爆を投下され、8月15日にポツダム宣言を受諾して終戦する。
戦後:GHQの占領政策に基づき、日本国憲法を制定。また財閥解体、農地解放など経済改革を行う。その後アメリカによる経済支援などもあり、経済復興を成し遂げ、高度経済成長期を迎える。池田勇人首相による所得倍増計画もあり、経済成長著しい時代であったが、一方で公害問題なども発生していた。外交では1952年に、サンフランシスコ講和条約を結び西側諸国の一員として復帰、同時に日米安全保障条約で軍事的なパートナーとなる。国内政治では、自民党・社会党の55年体制が成立、大きな政治変革が起きる事もなかった。
昭和期から続いたバブル景気が崩壊し、以後失われた20年と呼ばれる長期不況が続く。景気回復はあったものの、実質所得の増加がないため、実感なき経済成長と呼ばれている。国内政治では、戦後38年間と長期に政権を担った自民党から他の政党への政権交代が起きる一方で、短期政権も発生するなど不安定な政治状況が生まれた。逆に不安定な政治状況を嫌った民意も高まり、平成11年からの小泉純一郎内閣や平成24年からの安倍晋三内閣は記録的な長期政権となった。外交安全保障では、日米同盟の深化が謳われ、イラク戦争後のイラクへの自衛隊派遣や平成27年の平和安全法制など自衛隊とアメリカ軍の一体化が進んでいる。1995年には、オウム真理教による地下鉄サリン事件が発生。社会的には1995年の阪神・淡路大震災と2011年の東日本大震災の二度の大災害に見舞われるた。東日本大震災では福島第一原子力発電所事故により発生した環境汚染と長期的な社会への影響が問題となっている。
また、テレビ、新聞などの旧マスメディアが衰退する一歩、携帯電話が普及し、持つ事が当たり前の時代になり、2008年にはスマホが発売された。ネットも普及し、SNSや動画のネット配信などの登場でされにテレビ、新聞などが衰退する。
125代目天皇明仁(現在の上皇)の生前退位により、徳仁が天皇に即位し、「令和」に改元。
掲示板
302 ななしのよっしん
2024/08/13(火) 22:05:48 ID: AkTUjx2OM7
最近気づいたけど道州制で考察される北東北と南東北の区分けって古代日本(奈良時代)の異民族と大和朝廷の境界線とほぼ同一な件について
303 ななしのよっしん
2024/10/13(日) 14:05:54 ID: qbk70cMRTa
国史教科書でアップデートされた史実を習うわけだが、
識者の間ではどこまで評価されてる?
304 ななしのよっしん
2024/10/20(日) 06:27:43 ID: AhHb5SjNcW
日本史の教科書において、戦争や近現代史の箇所で日本が戦争を行い悪者の印象を植え付ける為に黒塗りにしたと有るけど、私の時代や個別指導も含め未だ学ぶには記述に関しては良かったのかな?(多分、修身や道徳の箇所は消されてたぽい?)
普通に第二次世界大戦の三国同盟から、原爆投下、ポツダム宣言、日中平和条約、日ソ共同宣言、サンフランシスコ平和条約、日本国憲法制定、自民党設立、冷戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、オリンピック、バブル崩壊と。
細かく正確に覚えてる訳では無いけど、全部の歴史を出題範囲に据えて、公民、政治経済の教科書も習わされたから特別日本が悪人だと感じなかった様な気がします。 何なら世界史を見てたら領土獲得や奴隷を得る為にアメリカ、清国、ローマも戦争してた記載も有るし
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最終更新:2025/01/31(金) 16:00
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