オフサイドトラップとは
ここでは、2について解説
やるべきことは
一片の挫折も知らない者が
どれほどいるだろうか
茨の道を僕らは生きる与えられた時間は短くて
チャンスもさほど多くない
この世は理不尽に満ちているけれど憂いている暇はない
やるべきことはたったひとつ
自分を信じ、自分を貫き
持てる力を出し尽くすこと
主な勝ち鞍
1998年:天皇賞(秋)(GI)、七夕賞(GIII)、新潟記念(GIII)
1991年4月21日生まれ。小柄ながらバランスの良い馬体で仔馬時から期待され、美浦・加藤修甫厩舎に入厩。椎名晃厩務員の担当となる。
1993年の12月にデビューして2着。その後、翌年の未勝利戦で勝利すると、続くセントポーリア賞も好タイムで勝利。この頃からクラシックの有力候補となる。さらに、続く若葉ステークスでは強豪・エアダブリンなどを退けて優勝し三連勝を飾り、陣営の期待に応える。
しかし、オフサイドトラップの世代には言わずと知れたスターホース・ナリタブライアンがいた。ナリタブライアンが皐月賞をレコードタイムで、日本ダービーを5馬身差でそれぞれ圧勝する中、オフサイドトラップは成すすべなく7・8着に敗れる。
さらにラジオたんぱ賞でヤシマソブリンの4着となったあと、右前脚に最初の屈腱炎を発症。長期療養を余儀なくされる。実はオフサイドトラップはデビュー前から右脚部不安を持っており、若葉ステークス後も軽い熱発を生じていたところ、なんとかクラシック本番に間に合わせたという経緯があった。
屈腱炎は治療に時間がかかり、完治は困難で、さらに再発しやすいことから競走馬にとっての不治の病と呼ばれることも多い。現に屈腱炎により引退に追い込まれた名馬は枚挙に暇がないが、オフサイドトラップ陣営はその才能を信じて現役続行を決断、これがオフサイドトラップと関係者の長い闘いの始まりになる。
椎名厩務員はじめスタッフは多忙の合間を縫ってオフサイドトラップの脚を冷やしてはレーザーを当てるといった作業を繰り返し、状態を見ては坂路で脚の負担の少ない調教を行った。
ようやく復帰が叶ったのは既にナリタブライアンが三冠を達成した後の12月、ディセンバーステークスだった。ここでは3着とまずまずの結果を出す。
年明けは重賞の金杯(東)に挑戦。1番人気に支持されるが8着に敗れる。この時の優勝馬が遅れてきた同期の大物・サクラローレルであり、彼とはこれが最初で最後の対戦となった。
そして翌月のバレンタインステークスでは、後続の追撃をハナ差振り切り、ほぼ1年振りに勝利を挙げる。ところが、遂に復活を果たした矢先にまたもや屈腱炎を発症。さらに右脚をかばい続けた結果なのか、今度は左前脚にも不安を抱え始め、再度の長期療養となる。
椎名厩務員らは今度はオフサイドトラップの両足のケアを地道に続けていくことになる。同年12月にいったん実戦復帰し、ディセンバーステークスで2年連続で3着となるも、安定して走れるまでには快復せず、再び地道な治療が続いた。
治療の甲斐あって、翌1996年の秋頃からオフサイドトラップの状態は少しずつ良化していった。しかし屈腱炎の再発を恐れてあまり強い調教が掛けられなかったこともあり、11月の富士ステークスで4着、12月のディセンバーステークスで2着に終わり、結局この年はこの2戦のみで終えることとなる。
6歳となったオフサイドトラップは年明けからも脚部不安と戦いつつ、なんとか勝利を飾らせてやりたいという陣営の思いを乗せて中距離重賞を中心にレースをこなすが、復帰緒戦から8戦して2着3回・3着3回と、あと一歩のところで勝ちきれないレースが続く。
そして、5月末のエプソムカップ6着の後、とうとう3度目の屈腱炎に見舞われる。既に6歳となっており、これから長期療養をしては7歳になってしまうこと、屈腱炎を抱えた馬が7歳になっても活躍することはほぼ前例のないことであるため、当然引退が検討されたが、管理調教師の加藤氏や渡邊オーナーはオフサイドトラップの高い資質を信じ、現役を続行させる決断を下す。
厩舎一丸となった必死の治療が、今度は10か月近く続くことになり、デビューからの療養期間は3年以上になっていた。
そして1998年3月、7歳となったオフサイドトラップはターフに姿を現す。陣営も最後の年と覚悟しての復帰であったが、東風ステークス2着、韓国馬事会杯2着、GIII新潟大賞典はクビ差届かず2着、GIIIエプソムカップは1着から0.1秒差の3着と、またしてもあと少しの所で勝ちきれないレースが続いていた。
そこで、七夕賞ではこの年絶好調だった蛯名正義騎手が手綱を取ることに。すると、従来では先行策だったオフサイドトラップは後方待機策をとる。直線で逃げ粘りを図るタイキフラッシュを上がり最速の脚で捉え、25戦目、7歳にしてついに重賞初制覇を果たす。
このとき、最後にオフサイドトラップが勝った4歳のバレンタインステークスから、既に3年5か月もの月日が流れていた。オフサイドトラップは今までの鬱憤を晴らすかのように走り、続く新潟記念でも同じく後方待機の追い込みで1番人気に応えて重賞連勝を飾った。陣営の喜びもひとしおだっただろう。
そして、陣営は次走として天皇賞(秋)を選択する。ダービー以来、4年半近くぶりのGI挑戦である。蛯名騎手がステイゴールドに騎乗するため、柴田善臣騎手を鞍上に迎えた。
しかし、このレースには圧倒的な逃げパフォーマンスで重賞5連勝を含む6連勝中のサイレンススズカがおり、このレースでも1.2倍の圧倒的な1番人気に支持される。そして離れた2・3番人気にもメジロブライト・シルクジャスティスといった強豪馬がいた。大衆の注目が「サイレンススズカがどのように勝つのか」に注がれる中、オフサイドトラップは6番人気であった。
レースでもサイレンススズカが後続を10馬身近く離した逃げを展開する。オフサイドトラップも離れた3番手を追走していた。ところが3コーナー、大ケヤキを過ぎた所でサイレンススズカが故障を発生し競走中止してしまう。柴田騎手とオフサイドトラップは内側を最短距離で走り直線で抜け出すと、追いすがるステイゴールドを凌ぎきり、ついにGI初制覇を成し遂げた。
既に同期の歴史的名馬・ナリタブライアンはこの世を去り、サクラローレルも前年に引退する中、オフサイドトラップの能力を信じ、地道な治療をひたすら続けた陣営と、馬自身の執念が結実したGⅠ勝利であった。
その後は有馬記念に出走し10着となったところで、ついに燃え尽き、現役を引退。門別にて種牡馬入りする。
通算成績28戦7勝。天皇賞秋が注目されがちだが、掲示板を外したのは僅か5回と、非常に堅実な成績を残した名馬であった。
種牡馬入りはするも、人気の低さから活躍馬を出すには至らず、早々に種牡馬を引退。日高、新冠で巧労馬として悠々自適の暮らしをしていたが、2011年8月29日に腸障害のため死亡した。
正直、この馬が勝利した1998年の天皇賞(秋)はこの馬が優勝したことよりも、サイレンススズカが故障したということの方が印象が強いのは否めない。実際、当時より、サイレンススズカの悲劇がクローズアップされる中で、オフサイドトラップの執念の勝利が着目されることは極端に少なかった。
それどころか、「サイレンススズカが故障したおかげで勝った」というような揶揄をされることもあった。現に2000年代に入り、多くの人が見るであろうYahoo!のコラムにおいて「もし故障さえなければ、サイレンススズカがあっさり逃げ切っていただろう。勝った馬には申し訳ないが、この年の天皇賞にはほとんど価値はない。」などと書かれてしまうという、悲惨な扱いを受けている。
その他、競馬の注目度が再び上がり、様々なメディアでサイレンススズカが取り上げられることがまた増えてきた近年においても、「オフサイドトラップの勝利」が注目されることはほぼ無いと言ってよい。
しかし、稀代の逃げ馬と称されながら散っていったサイレンススズカと同様、不治の病とされる屈腱炎に3度襲われても決して諦めず、一世一代のチャンスで勝利をもぎ取ったこの不屈の馬にも、また競馬におけるドラマがあったことも忘れないでほしい。
現に「20世紀の名馬」投票ではGI1勝馬ながら88位に選ばれており、当時からオフサイドトラップを愛したファンは多く存在するのである。
なお、オフサイドトラップに関連しては、当時から現在に至るまで「サイレンススズカの悲劇後に、オフサイドトラップの柴田ジョッキーが『笑いが止まらない』と発言した」ことが非難されることがある。
しかし、柴田ジョッキーの発言は「気分よく競馬できたので、成績がこういう成績(1着)ですので、笑いがとまらないって感じです。」という、単にオフサイドトラップの快走を喜ぶ文脈でなされたものである。また、柴田ジョッキーは同じインタビューで、サイレンススズカに対して気の毒でしたとの気持ちを述べており(なおこのインタビュー時点で、サイレンススズカの死はまだ発表されていなかった)、このことからも、「笑いが止まらない」発言が決してサイレンススズカの事故を軽んじるような意図でなされたものではないことは明らかであろう。
この天皇賞から26年を経た2024年、柴田はスポーツ雑誌の取材でオフサイドトラップについて語り、サイレンススズカに故障があったこと自体はレース中に認識していたが、勝利騎手インタビューの時点でも事故の詳しい情報は検量室に届いておらず、会心の競馬で天皇賞を制した高揚感もあってあの言葉が出てしまった、後にサイレンススズカが予後不良になったことを知りひどく落ち込んだと当時を振り返った。また、自らの不用意な発言でサイレンススズカのファンに嫌な思いをさせ、またオフサイドトラップにもよからぬ印象を与えてしまったことを長い間悔いていたと語り、取材を通じて「配慮の足りないコメントをしてしまい本当に申し訳ありませんでした」と謝罪の言葉を述べている。
なぜか「笑いが止まらない」だけが独り歩きして、柴田ジョッキー、ひいてはオフサイドトラップへの非難に繋がってきた面は否定できないところである。その点でもなにかと不憫な馬ではあるが、恣意的な切り取りに影響されることなく、ただこの不屈の名馬の功績を称えたいものである。
*トニービン Tony Bin 1983 鹿毛 |
*カンパラ 1976 黒鹿毛 |
Kalamoun | *ゼダーン |
Khairunissa | |||
State Pension | *オンリーフォアライフ | ||
Lorelei | |||
Severn Bridge 1965 栗毛 |
Hornbeam | Hyperion | |
Thicket | |||
Priddy Fair | Preciptic | ||
Campanette | |||
トウコウキャロル 1987 鹿毛 FNo.7-c |
ホスピタリテイ 1979 黒鹿毛 |
*テュデナム | Tudor Melody |
Heath Rose | |||
トウコウポポ | *アイアンリージ | ||
フジチヨ | |||
ミヨトウコウ 1970 黒鹿毛 |
*ムーティエ | Sicambre | |
Ballynash | |||
チトセホープ | *ライジングフレーム | ||
エベレスト | |||
競走馬の4代血統表 |
クロス:Prince Bio 5×5(6.25%)、Nasrullah 5×5(6.25%)
掲示板
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最終更新:2024/12/31(火) 03:00
最終更新:2024/12/31(火) 02:00
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