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盧綰単語

ロワン
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盧綰(ろわん)とは、戦国時代末期前漢の人物。漢王朝した高祖・劉邦と同じく沛の豊(ほうゆう)の出身で、劉邦幼なじみであり、格別の信任を受けて王に封じられたが、後に謀反の罪で討伐され、匈奴に逃亡した。

劉邦心である沛時代からの部下の中でただ一人、氏以外で王に封じられたことで知られる。楚戦争時代は将軍大尉として、劉邦を支え、劉邦からの寵を受けていた。王となってから、保身のため陳豨(ちんき)の反乱を長引かせようと支援したがために、謀反の罪で逃亡するに至ったが、最後まで劉邦には信頼を寄せていた。 

盧綰とともに、劉邦の一族である賈(りゅうか)と、劉邦兄弟伯、喜、交)、劉邦に沛の決起時代から仕えた武儒・朱軫・彭祖・単もあわせて紹介する。

概要

劉邦の最も信頼した幼なじみ

泗水(しすい)沛県の豊の出身。劉邦とは豊のさらに同じ里(り。をさらに細かく分けた戸程度の土地区域)である中陽里(ちゅうようり)において同日に生まれた。劉邦であると盧綰の友であったため、里の人々は劉邦と盧綰のを祝った。(ただし、劉邦の出身とする説が正しければ、沛ではない他の地方の同じ里で生まれたことになる) 

劉邦と盧綰は成人してからも、ともに文字を学び、しくまじわった。里の人々は、彼らが子二代にわたって仲がとても良いことを喜び、また、羊の肉で祝った。

劉邦がまだ亭長(交番や出張所の責任者)となる以前に、犯罪のために逃亡した時にも、盧綰は劉邦の逃亡につきあった。 

劉邦は沛において、始皇帝が建したに対して反乱を起こし、沛を名乗った時には、劉邦の部下では最上位の地位である「客」に任じられた。これは、劉邦の義理のである呂沢(りょたく)・呂釈之(りょしゃくし)と沛の要な役人であった蕭何(しょうか)と同じ地位であり、盧綰が重んじられたことが分かる。 

盧綰は劉邦に従い、劉邦項羽によって王に封じられ、中に入った時に将軍に任じられた。盧綰は王となった劉邦のもとにも頻繁に出入りできた。 

この時までの盧綰は、劉邦の個人的な相談役や直属軍の揮、劉邦の臨時の代理などを行っていたものと考えられる。 

楚漢戦争における活躍 

劉邦項羽討伐のために決起すると、盧綰は軍事つかさどる大尉に任じられ、劉邦に同行する。盧綰は劉邦の寝室まで出入りすることが許され、劉邦からの信や与えられた恩賞は他の群臣たちは遠く及ばなかった。盧綰は、咸陽の土地を与えられ、長安侯に封じられた。 

劉邦韓信の軍を奪った後、項羽と対峙したことがあった。劉邦項羽と直接戦わず、防衛を行って項羽をひきつけるとともに、盧綰に命じて、劉邦の一族である賈とともに、兵2万人、騎兵を率いて、項羽の本拠地である楚の地を攻撃させた。盧綰と賈は、群雄である彭越と合流し、楚軍を破る。さらに、楚の兵糧を焼き、土地を攻略して、項羽への補給を断たせた上に、梁の地にあった十数を降させる功績をあげる。このために、項羽率いる楚軍は兵糧不足に苦しむこととなった。 

劉邦項羽決戦を行った下の戦いの後、項羽自害した。盧綰は将軍として、賈とともに、臨江王の共尉(きょうい)を打ち破る。共尉は靳歙(きんきゅう)により生け捕られた。盧綰は劉邦の元に帰還した。 

やがて、劉邦皇帝に即位し、漢王朝を建する。 

盧綰は劉邦心として、劉邦である交とともに、劉邦の側に控えて寝室まで出入りして、臣下の言葉や宮廷での様々な事やささやかれている陰謀などを伝えた。 

この記述は、『書』のみにある。このことから盧綰は、劉邦位につく以前から、謀略に長けた劉邦のそういった側面を補佐していたと考えるのが自然である。

劉邦はこの時、韓信敖(ちょうごう、張耳の子)・黥布(げいふ)・彭越芮(ごぜい)・王信・荼(ぞうと)といった諸侯王が氏以外の王位についたものばかりであったため、劉邦は(族ではなく)盧綰を王に封じようと考えていたが、他の功臣たちが(盧綰への余りにも優遇に)不満を感じていたので、できないでいたと伝えられる。 

王位につく 

王に封じられていた荼(ぞうと)が反乱を起すと、劉邦と盧綰は荼を攻撃し、降させる。 

この時、劉邦は詔(みことのり)を群臣にくだして、功臣で特に功績のあるものを選んで、王にするようにめる。 

群臣は、劉邦が盧綰を王に封じたいという意向を知っていたため、皆、忖度して大尉の長安侯・盧綰は、陛下劉邦)に常日頃から従って、下を定しました。その功績は功臣の中でも最大です。王に封じてください」と返答した。 

劉邦は、この茶番劇を大いに喜びながら、実際は理矢理引き出した群臣たちの願いを許す。盧綰は王に封じられた。劉邦の盧綰に対する寵は諸侯王の中でも、最大であった。 

劉邦の信任に背く 

10年(前197)、盧綰は他の諸侯王とともに長安におもむき、劉邦と会う。この時までは穏であった。 

しかし、劉邦に対して、代の相将軍に任じられていた陳豨(ちんき)が反乱を起こし、代王を名乗り、代との土地を制圧する。劉邦は自ら陳豨を討伐し、(かんたん)へと軍を進め、陳豨を攻撃した。陳豨から見て後背の位置であるの地から盧綰も軍を出し、陳豨の東北方面を攻撃した。 

陳豨が匈奴に援軍をめたため、盧綰も臣の勝を匈奴派遣し、「陳豨の軍は撃破された」と報告させ、匈奴の軍派遣を止めようとした。勝は匈奴の地において、かつての王であった荼の息子にあたる(ぞうえん)に会う。匈奴亡命していたは、「が存続しているのは、諸侯が反乱を起こして戦争が終息しないからです。陳豨を滅ぼせば、次はが滅ぼされるでしょう。陳豨への攻撃をゆるめて、(劉邦を)匈奴と和させれば、は安泰でしょう」と勝に進言する。 

勝は同意して、ひそかに匈奴に陳豨を支援させ、を攻撃させる。 

盧綰は勝が匈奴寝返り、反乱を起こしたものと考えて、劉邦勝の一族を皆殺しにするように上奏した。しかし、勝が匈奴から帰り、事情を説明すると、盧綰はそれに納得し、同意する(時期が曖昧なところがあるが、この頃に韓信彭越謀反の疑いで一族皆殺しにされている)。盧綰は勝の家族を脱出させ、勝を匈奴の連絡役に任じ、また、范斉という部下を陳豨のもとに派遣させ、陳豨を逃げ回らせて、戦争を長引かせた 

11年(前196)、劉邦は周勃とともに、陳豨の軍を破り、陽にもどる。代の地には劉邦息子である恒(りゅうこう、後のの文)が代王に封じられた。 

反逆の発覚 

12年(前195)、陳豨の反乱はいまだ定されていなかったが、南で黥布に対して反乱を起こしたため、劉邦は病身をおして、軍を率いて黥布討伐に向かう。 

劉邦樊噲を陳豨討伐に向かわせる。樊噲は、陳豨を攻撃し、討ち取った。陳豨の副将が降し、盧綰が范斉をつかわし陳豨と謀略をたくらんでいたことを伝える。劉邦は、使者を盧綰のもとにつかわし、呼び寄せる。 

この時の劉邦の心理は伝えられていないが、後に「ますます怒る」とあるため、信じられないというような反応ではなく、その話を即座に信じ、盧綰に対してすでに怒り心頭であったことが分かる。(劉邦がすでに疑心暗鬼だったためと見るべきか、盧綰の反逆にかなりの信憑性があったからと見るべきかは不明) 

盧綰は仮病をつかって辞退すると、劉邦は審食其(しんいき)、尭(ちょうぎょう)という心をつかわし、盧綰を迎えにいかせ、その部下を取り調べさせた。盧綰は恐れての宮廷に引きこもり心たちに語った。 

氏でなくて、王として残っているのは、わしと長沙王の芮(ごぜい)だけだ。先年、韓信彭越が一族皆殺しにされた。これは、(劉邦皇后である)呂雉(りょち)の仕業である。呂雉は女なので、(漢王朝もしくは自身の権力を固めるため)、氏以外の王や功臣たちを殺しようと中である」 

盧綰はまた仮病をつかって使者と会おうとせず、盧綰の側近たちも逃げ隠れたが、盧綰が心たちに語った言葉が漏れた。審食其がその内容を細かく劉邦に報告すると、劉邦はますます怒った。 

さらに、匈奴から降した者が劉邦へ、「勝が匈奴亡命しての使いとして働いています」と伝える。劉邦は「盧綰は果たして反逆していたのか」と語り、樊噲を攻撃させる。王には、劉邦の子である建が封じられた。 

盧綰はこれを聞いて、宮中の女官と家族騎兵数千を引き連れて長の付近にとどまり、様子をうかがった。盧綰は、劉邦病気が癒えれば、自分から赴いて謝罪しようと考えていた。 

匈奴に亡命する 

しかし、劉邦はそのまま死去する。盧綰は連れていたものを率いて、匈奴亡命する。匈奴冒頓単于は、盧綰を東胡の王に封じる。しかし、騎民族人間たちによって、盧綰は侵奪されるようになり、盧綰はに帰りたいと考えるようになった。(匈奴の民によって様々なものを奪われるようになったという意味か、与えられた土地が他の北方民族からの侵略に遭い、苦しめられたという意味か不明) 

盧綰が匈奴亡命して一年余りで、盧綰は死去する。それから、十数年経ってから、盧綰の妻子は匈奴から逃亡して逃げ帰った。当時は、呂雉がを統治しており、呂雉は彼らに会おうとしたが、病気のために謁見できず、そのまま死去する。盧綰の妻も同じ頃に死去した。 

後に盧綰の孫の他之(ろたし)が時代に、東胡王の地位でに降し、亜侯(あこくこう)に封じられている。 

評価 

司馬遷は、盧綰について、「盧綰は代々、徳を積み重ねた血筋ではなく、その時限りの策略と偽りの力で功績をあげた。下を定する時に偶然、出くわして功績をあげたため、土地を与えられ王の地位に封じられた。漢王朝にはその強大さを疑われ、匈奴をその助けとした。そのため、次第にうとまれて、みずからを窮地に追い込むことになり、ついに匈奴亡命した。なんと悲しいことであろうか」と評している。 

盧綰は、盧綰自身にも罪があり、劉邦全な粛清の対となったわけではないが、劉邦疑心暗鬼の犠牲者という面が強く、盧綰なりに最善の結果を模索したつもりが反逆者となってしまっている。乱世や創業において、臣として君に仕えることが困難であるという意味で、盧綰に同情を寄せる意見も強い。 

戦争を題材とした創作作品では、盧綰は劉邦幼なじみであり、才や功績だけで立身したわけでないという認識があるためか、劉邦要な部下では劉邦に忠実ではあるが、較的、庸な人物に描かれることが多く、劉邦の行った失敗についても盧綰が原因とされることがある。

盧綰について

劉邦の第一の功臣

盧綰については、史書に特別の功績や才を書かれておらず、劉邦から多大な信頼を受けながらその信頼を最後に裏切った人物というイメージがあるためか、劉邦とのしい関係であっただけの庸な人物と考えられがちであるが、劉邦から三傑(張良蕭何韓信)を含む臣の中で、最も定の功績を評価された人物である。 

盧綰は劉邦の一族である氏(賈、交など)でも、元々王位に封じられた人物(張耳黥布芮、荼)や王の血を引いた人物(王信)でないにも関わらず、ただ一人、劉邦が進んで王に封じた人物である。これは、恩賞に気前のいいという評価がある劉邦でも特別の人事であり、ある意味では、三傑(張良蕭何韓信)を上回る評価を受けているものと考えられる。 

劉邦軍事功績のある人物に恩賞は与えても、漢王朝の統治にはあくまで統治力の高い人物を起用しており、機械的に功績の高い人物に権限のある地位を与えるようなことはしていない。王に封じられた盧綰もまた高い統治力があると劉邦に判断されたと考えるのが自然である。 

実際は、盧綰はという匈奴に近く孤立しやすい土地を与えられながら、王信のように匈奴へ降することはなく、代王・喜のように逃亡する事態になることはなく、匈奴から自立を保ってきている。匈奴に通じた理由も匈奴をおそれたわけではなく、劉邦からの粛清による討伐をおそれたためであり、盧綰は匈奴に充分に対抗できているという点も注意すべきである。 

もちろん、劉邦との特別な信頼関係や幼なじみであるという点は見逃せないが、史書に残っていない、あるいは諸将に知られていなかっただけで、劉邦から見ると、盧綰に三傑に劣らない様々な功績があり、多大な力を有していたのではないか、といった想像することは可である。 

当時の農民の識字について 

ただの富農の子であり、遊侠(ごろつき)に過ぎなかったと考えられる盧綰や劉邦がともに文字を学んでいたことから分かる通り、前漢時代の中国では庶民でも漢字読み書きできるものが多かった。兵士が自分で書いたと考えられる手紙も残っており、役所や軍隊における識字の浸透がそれなりにあったと考えられている。 

史記』を読んでも、劉邦ばかりでなく、小作人に過ぎない陳勝が高い教養を思わせる発言をしており、陳や酈食其(れきいき)のような貧困であっても学問熱心なものもいた。また、奴隷の中でも読み書きできるものもあった。 

ただし、盧綰の時代から約200年後の新時代において反乱を起こしたのようなほとんどの人間が字を読めない集団があらわれており、一般的な農民のかなりの割合が文字を読めたかどうかは、不明な部分もある。 

また、晋王朝の時代や五胡十六国の時代には異民族を中心に文字を読めない人間立つようになる。 

文字を学んだ盧綰や劉邦は、確かに(かつてイメージされていたような)貧困な農民出身ではないが、集落を代表するほどの富裕な農民出身であったと判断することには注意を要する。 

当時の農民の生活 

当時(前漢)の農民層は大きく、「大家」、「中」、「貧」に分かれており、当時の認識でも三つの大きな区分に分かれていると認識されていた。 

この三つの区分は、財産の総額を基準に分けられている。全財産が、5・6金から14・15金程度が中と呼ばれ、それに満たないものが貧、それをえるものが大家と呼ばれた。 

は、おおむね一家が46人で、労働できる人間は23人であった。おおむね所有している農地が狭く、農地の耕作だけでは子供二人を育てられず、から種もみを借り受け、他のの小作も行って生活していた。農民の半数以上がこの貧であった。 

は、農民の半数近くを占め(前漢にみられる特徴であり、後漢時代に中の存在はなくなっていく)、56人の家族耕作を行い、中には小作を用いて耕作するものや、奴隷を所有するものもいた。前漢時代は財産で区分され、中以上が官吏になることができた。 

大家は富層であり、数は少なかった。数名から数名の奴隷を所有し、奴隷や雇われ人を使い、耕作のみならず、牧畜や商業も行うことがあった。また、土地を貸し出して、小作を行わせることもあった。 

劉邦であるは、子供を四人以上も育てることができ、子の学問も行わせており、貧ではないが、基本的には農業も行っている。また、遊侠活動を行っていた劉邦頼扱いされていることから、(大家である場合は、遊侠活動にともなう商業を行うことは奨励される)劉邦や盧綰のは中であったであろうと想像される。 

漢王朝建国から劉邦の死までの歴史年表 

戦争後、劉邦皇帝に即位し漢王朝が建されてから、劉邦の死までの事績について、個々のエピソードとしては知られるが、時系列については余り知られておらず、韓信彭越黥布の死後にの戦いにおいて、劉邦冒頓単于に敗れる(実際は、韓信は楚王を降格されてはいたが、三人の生前に戦いは起きている)などの誤解が見られるため、ここに掲載する。 

なお、この時は10を年始とし、として後9月が存在する年があるので注意を必要とする。 

5年(前20212 覇王項羽自害する。

臨江王・共尉、捕らえられる。

戦争が終結する。

同年 2月 劉邦皇帝に即位する。漢王朝、建する。

同年 9月 反乱した王・荼を捕らえる。

同年 後9月 盧綰、王に封じられる。

6年(前20112 陳で楚王・韓信を捕らえ、降格させ、陰侯とする。

劉邦蕭何曹参らの論功行賞を行う。

同年 正月 賈を荊王、交(劉邦)を楚王、喜(劉邦)を代王、肥(劉邦の長子)を斉王に封じる。

同年 9月 王信が匈奴に降する。

7年(前20010 劉邦匈奴冒頓単于に包囲される。

同年 12 喜が代のを捨てる。如意(劉邦の子)が代王に封じられる。

同年 2月 劉邦、都を櫟陽(れきよう)から長安に移す。

8年(前19910頃 劉邦王信の残った勢力を討伐。

9年(前198) 正月 暗殺計画の発覚により、王・敖をし、如意を王に封じる。

10年(前197) 9月 陳豨が代の地で反乱を起こす。

11年(前196) 10頃 陳豨が代の地で反乱を起こす。

同年 正月 韓信謀反の罪で処刑される。

武、王信を討ち取る。

恒(劉邦の子、後のの文)、代王に封じられる。

同年 3月 彭越謀反の罪で処刑される。

恢(劉邦の子)を梁王、友(劉邦の子)を陽王に封じる。

同年 7月 黥布が反乱を起こす。

劉邦が討伐を行う。

長(劉邦の子)を南王に封じる。

荊王・賈、黥布と戦い、戦死する。

12年(前195) 10 劉邦黥布を破る。帰路、沛に寄る。

周勃、陳豨を討ち取る。

濞(喜の子)を王に封じる。

同年 2月 樊噲・周勃、盧綰を討伐する。

建(劉邦の子)を王に封じる。

同年 4月 劉邦、死去する。

同年 5月 太子・劉盈皇帝に即位する。(後に恵帝と呼ばれる) 

約7年の間に、長沙王・芮を除く諸侯王は盧綰も含めて全員され、氏が代わりに王に封じられている。劉邦氏ではない異姓の諸侯王に全て言いがかりをつけてしてまで、氏に代えようとしたわけではないが、機会があればできるだけ諸侯王を氏に代えたいという考えであったのであろう。 

初期の劉邦は、盧綰を王に封じたように、功績の大きい人物や信頼性の高い人物を王に封じようとしたようであるが、韓信を楚王からしてから、それなりに功績のあり、較的、劉邦とは血縁が遠い賈を優先して王に封じるという配慮が見られた以外は、これ以降、氏というだけでが諸侯王に封じられている。 

また、劉邦は「氏以外のものが王となった時には下で討つように」という「の盟」と呼ばれる言葉を残し、皇后の呂雉の一族である呂氏すら王となることも封じようとした。 

こういった背景があり、かつ、韓信彭越謀反の疑いだけで一族皆殺しになっているため、晩年、疑心暗鬼となっていた劉邦を、盧綰が信用しないようになっていた理由は理解できる。 

劉賈と劉邦の兄弟 

上述した通り、盧綰は劉邦の一族である賈と軍事行動を何度か行っており、盧綰としい関係にあったことが推測できる。また、あわせて、盧綰と交流があったと考えられる劉邦兄弟についても紹介する。 

なお、劉邦伯、喜(仲)、劉邦交の四兄弟である。 

劉賈(りゅうか) 

史記』では、劉邦の関係が不明な一族の一人とされるが、『書』では、劉邦従兄とされる。王となった劉邦に従って、将軍として、三(関中)攻めに加わり、将軍として塞王・司馬欣の治める咸陽方面を攻略した。その後、楚戦争では劉邦に従い、項羽と戦う。 

項羽との戦いでは、本文で記載した通り、盧綰とともに功績をあげる。賈は、楚軍の反撃に対し、彭越と協力して防衛を固めて、応戦せずに守り通した。 

劉邦項羽との講和を破って攻撃した時には、劉邦に命じられて、を南に渡って、楚の要な拠点である寿を包囲する。賈は、楚の大司馬である周殷を寝返らせた。賈は周殷とともに九江を制圧し、さらに黥布とも合流して、下において項羽を攻撃する。 

項羽が敗戦の末、自害すると、盧綰とともに臨江王・共尉を討伐して、捕らえ、処刑した。 

盧綰が王に封じられた後に、楚王・韓信が捕らえられ、降格されると、楚の領地を二分して、荊と楚のに分けられた。 

劉邦は同姓のものを王にしようとしたが、子はまだ幼少で、兄弟は全て庸だったので、「将軍賈は軍功がある。その他、氏の子で王となるものを選べ」と群臣に命じる。 

答えるべき答えがほとんど分かっていた群臣は、「賈を荊王とし、陛下劉邦)の交を楚王としてはどうでしょう」と答えた。劉邦群臣たちに反対がなかったことを喜びつつうなずいて、さらに、長子の肥を斉王に、喜を代王に封じた。かくして、賈はの東、52を領する荊王となった。 

11年(前196)、南王の黥布が反乱を起こす。黥布は東へ進み、荊を討った。賈は応戦したが、敗れて敗走中に戦死した。 

賈の死後、荊王は賈の子や族に継がれることはなく、劉邦は、劉邦喜の子である濞(りゅうび)を王に封じ、元の荊を治めさせた。 

司馬遷は、「賈が荊王となったのは、漢王朝が建したばかりで、下がいまだ安んじなかったため、(劉邦の)遠い一族であったが、方策として王に封じたからである」と評している。 

劉伯(りゅうはく)劉邦の長兄 

史書ではく死去したとあるのみであるが、彼の妻の逸話が伝わっている。 

劉邦がある事件を起こして身を隠していた頃(盧綰が劉邦と一緒に逃亡していた事件と同一か?)、時々、仲間(盧綰も入っていたと思われる)と一緒ににあたる伯の妻のもとに立ち寄って食事をしていた。は、劉邦を嫌っていたので、ある時、釜に入っていたあつものがなくなったかように、釜の底をガリガリと鳴らした。そのため、劉邦仲間は帰っていったが、劉邦が釜を見ると、あつものは残っていた。この事で、劉邦を恨んでいた。 

どっちもどっちな、けち臭いしょうもない事件のようであるが、このことが意外と執念深い劉邦はずっと根に持ち続けていたらしい。 

劉邦皇帝に即位した後、劉邦兄弟は王に封じられたが、伯の子だけは封じられなかった。劉邦であるが理由をたずねると、劉邦は「あの子を封じるのを忘れたわけではないんだけど、あの子が意地悪だからだよ」と答える。結局、伯の子の信も侯に封じられるが、侯の名は、羹頡侯(かんかつこう)であった。 

元より、羹頡などという地名はなく、「あつものガリガリ」侯の意味であり、器が大きいと言われる劉邦余りに小さすぎる人間臭い面を伝える逸話である。 

というか、なぜ、こんな話を残したのだ? 司馬遷 

劉喜(りゅうき)(劉仲とも)、劉邦の次兄 

劉邦父親からは、勤勉な性格で評価され、は遊侠時代の劉邦を彼とべて、説教したことが多かったようである。劉邦はこのことも多少、根に持っていたらしい。 

上記の賈の部分で記載した通り、賈・交・肥と同時期に、代王に封じられたが、なだけのただの農民に過ぎない喜は、わずか一年程度で、匈奴からの攻撃により、を防衛することができず、をすてて陽にいた劉邦の元へ逃亡した。劉邦であることから、彼を罰することはびず、彼の王位して、合陽侯(ごうようこう)とした。 

後に、賈が戦死した後、喜の子である濞(りゅうび)が黥布との戦いで騎将として活躍したため、王に封じ、元の荊を治めさせた。この濞が後に、楚七の乱の首謀者となり、劉邦の孫)時代に、漢王朝に反乱を起こすことになる。 

劉交(りゅうこう)、劉邦の末弟 

劉邦の同で末にあたる(伯、喜と同であるかは不明)。字を遊(ゆう)と言った。 

特に優れた人物ではなかったという記述もあるが、個人としては読書を好み、才が豊かであったと伝えられる。若い頃、魯のにおもむき、『経』の学問を浮丘伯(ふきゅうはく)という人物から授けられた。 

戦争の時には特に功績を立てなかったが、劉邦皇帝即位の後は、盧綰とともに、劉邦に臣下の言葉や宮廷での様々な事やささやかれている陰謀などを伝えた。 

賈や喜と同時期に王に封じられ、楚36の王となり、彭を都に定める。 かつて、自分とともに勉学に励んだ穆(ぼくこう)、、申中大夫に取り立てる。交は、彼らを礼遇して、余り飲めない穆のために、甘酒を用意していたと伝えられる。 

11年(前196)、南王の黥布が反乱を起こした時、荊王の賈が戦死した後、黥布は荊兵士理に従軍させ、次は楚に攻め込んできた。楚では、軍を三つに分けて連携をとる奇策をとることにした。これを諫める人もいたが、楚の将軍は聞き入れなかった。黥布が三つに分けた一軍を破ると、他の二軍は敗走した。交は戦死することはなく、逃走に成功し、やがて、黥布は討伐された。 

劉邦恵帝の死後も行き、呂雉(りょち、呂后)の統治時代においても、長安にいた浮丘伯のもとへ、息子郢客(りゅうえいかく)と申を使わして、学問を学ばせている。 郢客は九卿の一人である宗正(皇族に関することを総括する役職)として用いられた。

の時代になって、「経」に通じた申博士として用いられた。 

交は、劉邦に似合わず、経を好み、その子もみな「経」を読んだ。申が「経」の伝(解説)をつくり、『魯』と号すると、交も「経」の伝(解説)をつくり、『元王』と号され、世に伝わった。 

楚王のまま死去している。 太子はすでに死去していたため、郢客が後を継ぎ、楚王となった。

 700年後の5世紀に、南とも)の創業者である裕は、交の子孫を名乗っている。 

沛から劉邦に従って功績をあげた人物たち 

盧綰とともに沛における決起の時から劉邦に従い、功績をあげて逸話が残る人物を紹介する。 

武儒(ぶじゅ) 

決起時点では、謁者(えっしゃ)という劉邦への客人を取りつぐ役職についていた。劉邦に従軍して、討伐で功績をあげ、劉邦に従って中に入る。その後は将軍に任じられ、諸侯討伐において功績をあげた。二千八戸が与えられ、功臣における順位は二十位とかなり上位に位置した。 

朱軫(しゅしん) 

決起時点では、樊噲と同じ舎人という劉邦の下級の側近に任じられる。騎兵を率い、三(関中)の戦いでは、翟(てき)王・董翳(とうえい)を降させる戦いで功績をあげる。また、なんと、かつてのの名将であった雍王・章邯(しょうかん)を捕らえるという大功績をあげている。(章邯自害したはずであるため、その死骸を確保したという意味か)。 

与えられた戸数は不明であるが、功臣における順位は二十三位とかなり高い。 

彭祖(ほうそ) 

決起時点では、ただの卒(兵卒)であった。逃亡していた劉邦に従っていた可性もある。沛を開門するという功績をあげる(門を開けるだけでは功績にならないため、沛の県を討ち取るために、それなりに戦闘が行われたということなのであろう)。その後は、劉邦の従となっていた。(項羽に捕らえられていた時、どのようにしていたか不明)。後に、陳豨討伐に功績をあげた。与えられた戸数は千二戸であり、功臣における順位は十六位。 

単父聖(ぜんふせい) 

決起時点では、ただの卒(兵卒)。劉邦に従軍し続け、黥布討伐において功績をあげた。与えられた戸数は二千三百戸であり、功臣における順位は二十五位。 

順位にして戸数が多く、実際に戸数に価する功績はなかったと思われるが、劉邦に貧しかった時に急にが必要となったことあり、その時にを与えたため、侯になれたと伝わる。 

劉邦恨みに対してはかなり執念深いが、昔、受けた恩義を忘れない気質を示す逸話である。

創作物における盧綰 

池野雅博『レッドドラゴン』 

戦争を題材にした漫画作品。少年漫画向けのキャラクターデザインがなされている。主人公は、なんと、盧綰である。(当初はタイトル通り、劉邦主人公であったが次第に盧綰の出番が多くなる) 

盧綰は戦歴や功績に対して資料が少ないため、びみたいな役割にするという構想もあったらしい。 

劉邦が野望多い智謀優れた器が大きい人物像であるのに対し、盧綰は少年漫画主人公らしい、単純なところはあるが正義感が強いっすぐな性格の信義に厚い劉邦のかけがえのない友であり、劉邦軍第一の武勇の持ちでもある。劉邦営の副将格として、戦場ばかりでなく、様々な方面で劉邦を支えていく。 

人間的魅力もあるため、敵方に好かれることも多く、敵対したの武将や項羽にも認められていた。 

作品はの滅亡までであり、後日談として、項羽との戦いや劉邦粛清など史実通りの展開となったことが語られるが、最後まで盧綰は、劉邦友として、劉邦を支えることになる。 

実は、盧綰に史実に残らない活躍が多かったという解釈をした方が、王に封じられたことへの整合性がつくということを、これを書いた人に教えてくれた作品でもある。

関連書籍

藤田勝久『項羽と劉邦の時代exit(講談社選書メチエ)

盧綰の専著は、当然のごとく、存在しないが、史記翻訳項羽劉邦ものの楚戦争ものの小説読み終えた人に、劉邦や盧綰たちの活躍の背景となる戦国時代の楚の歴史文化政治法律および地方における行政組織、沛県の社会生活などを近年、発掘された史料を駆使しながら、説明している。 

概説書にしても内容が難しいが、楚戦争背景について詳しく知りたい人には、「第一章 南方の大・楚」と、「第二章 帝国地方社会」についてはとてもおすすめである。

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盧綰

1 ななしのよっしん
2020/08/17(月) 11:23:07 ID: RgCSmabSUN
詳しく書かれていて非常にいいと思うんだけど、盧綰と接点があったとしても特に(盧綰との)逸話がない人物達は省いてもよいのでは?
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2 ななしのよっしん
2020/08/23(日) 11:51:37 ID: WDeDksXHwZ
意見ありがとう。

確かに、それは一理あるとは思うけど、史記は注釈を含む三国志べて記述がかなり簡素で、逸話だけをとったら記述は少ないし、ここに書いただけしか記述がない人物は項立てするのも微妙だしね。

関係の歴史記事はそういった逸話だけの記事はネット上に多いから、項羽劉邦を中心として、コラムや関連人物も含めて、全体として充実した記事をめざしているので、ご理解をお願いしたいな。
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3 ななしのよっしん
2020/09/13(日) 01:20:46 ID: Qa5bKFM2H2
横山版だと、靳歙とセットで出てくる武将の1人でしかなかったけど
めちゃくちゃ重要なポジションな上に濃い人生送ってたのねこの人…
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4 ななしのよっしん
2020/12/08(火) 00:33:49 ID: 1w3tAHlHzf
ただの幼馴染なだけで王になったとか劉邦並に強運だな
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5 ななし
2021/05/03(月) 08:41:41 ID: qvAnkBRV+d
あつものガリガリ侯は
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6 ななしのよっしん
2021/05/20(木) 08:45:57 ID: x7lF6E34Jo
戦争期の人物シリーズもかなり増えてきたな
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7 ななしのよっしん
2023/01/17(火) 00:33:43 ID: Z06lT4P7sQ
レッドドラゴンの話は奚涓の方にあるか
打ち切り残念やった
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