盧綰(ろわん)とは、戦国時代末期~前漢の人物。漢王朝を興した高祖・劉邦と同じく沛の豊邑(ほうゆう)の出身で、劉邦の幼なじみであり、格別の信任を受けて燕王に封じられたが、後に謀反の罪で討伐され、匈奴に逃亡した。
劉邦の腹心である沛時代からの部下の中でただ一人、劉氏以外で王に封じられたことで知られる。楚漢戦争時代は将軍や大尉として、劉邦を支え、劉邦からの寵愛を受けていた。燕王となってから、保身のため陳豨(ちんき)の反乱を長引かせようと支援したがために、謀反の罪で逃亡するに至ったが、最後まで劉邦には信頼を寄せていた。
盧綰とともに、劉邦の一族である劉賈(りゅうか)と、劉邦の兄弟(劉伯、劉喜、劉交)、劉邦に沛の決起時代から仕えた武儒・朱軫・彭祖・単父聖もあわせて紹介する。
概要
劉邦の最も信頼した幼なじみ
泗水(しすい)郡沛県の豊邑の出身。劉邦とは豊邑のさらに同じ里(り。邑をさらに細かく分けた百戸程度の土地区域)である中陽里(ちゅうようり)において同日に生まれた。劉邦の父である劉太公と盧綰の父は親友であったため、里の人々は劉邦と盧綰の家を祝った。(ただし、劉邦を魏の出身とする説が正しければ、沛ではない他の地方の同じ里で生まれたことになる)
劉邦と盧綰は成人してからも、ともに文字を学び、親しくまじわった。里の人々は、彼らが親子二代にわたって仲がとても良いことを喜び、また、羊の肉や酒で祝った。
劉邦がまだ亭長(交番や出張所の責任者)となる以前に、犯罪のために逃亡した時にも、盧綰は劉邦の逃亡につきあった。
劉邦は沛において、始皇帝が建国した秦に対して反乱を起こし、沛公を名乗った時には、劉邦の部下では最上位の地位である「客」に任じられた。これは、劉邦の義理の兄である呂沢(りょたく)・呂釈之(りょしゃくし)と沛の主要な役人であった蕭何(しょうか)と同じ地位であり、盧綰が重んじられたことが分かる。
盧綰は劉邦に従い、劉邦が項羽によって漢王に封じられ、漢中に入った時に将軍に任じられた。盧綰は漢王となった劉邦のもとにも頻繁に出入りできた。
この時までの盧綰は、劉邦の個人的な相談役や直属軍の指揮、劉邦の臨時の代理などを行っていたものと考えられる。
楚漢戦争における活躍
劉邦が項羽討伐のために決起すると、盧綰は漢の軍事をつかさどる大尉に任じられ、劉邦に同行する。盧綰は劉邦の寝室まで出入りすることが許され、劉邦からの信愛や与えられた恩賞は他の群臣たちは遠く及ばなかった。盧綰は、咸陽の土地を与えられ、長安侯に封じられた。
劉邦が韓信の軍を奪った後、項羽と対峙したことがあった。劉邦は項羽と直接戦わず、防衛を行って項羽をひきつけるとともに、盧綰に命じて、劉邦の一族である劉賈とともに、兵2万人、騎兵数百を率いて、項羽の本拠地である楚の地を攻撃させた。盧綰と劉賈は、群雄である彭越と合流し、楚軍を破る。さらに、楚の兵糧を焼き、土地を攻略して、項羽への補給を断たせた上に、梁の地にあった十数城を降伏させる功績をあげる。このために、項羽率いる楚軍は兵糧不足に苦しむこととなった。
劉邦が項羽と決戦を行った垓下の戦いの後、項羽は自害した。盧綰は将軍として、劉賈とともに、臨江王の共尉(きょうい)を打ち破る。共尉は靳歙(きんきゅう)により生け捕られた。盧綰は劉邦の元に帰還した。
盧綰は劉邦の腹心として、劉邦の弟である劉交とともに、劉邦の側に控えて寝室まで出入りして、臣下の言葉や宮廷での様々な事やささやかれている陰謀などを伝えた。
この記述は、『漢書』のみにある。このことから盧綰は、劉邦が帝位につく以前から、謀略に長けた劉邦のそういった側面を補佐していたと考えるのが自然である。
劉邦はこの時、韓信・張敖(ちょうごう、張耳の子)・黥布(げいふ)・彭越・呉芮(ごぜい)・韓王信・臧荼(ぞうと)といった諸侯王が劉氏以外の王位についたものばかりであったため、劉邦は(親族ではなく)盧綰を王に封じようと考えていたが、他の功臣たちが(盧綰への余りにも優遇に)不満を感じていたので、できないでいたと伝えられる。
王位につく
燕王に封じられていた臧荼(ぞうと)が反乱を起すと、劉邦と盧綰は臧荼を攻撃し、降伏させる。
この時、劉邦は詔(みことのり)を群臣にくだして、功臣で特に功績のあるものを選んで、王にするように求める。
群臣は、劉邦が盧綰を王に封じたいという意向を知っていたため、皆、忖度して「大尉の長安侯・盧綰は、陛下(劉邦)に常日頃から従って、天下を平定しました。その功績は功臣の中でも最大です。燕王に封じてください」と返答した。
劉邦は、この茶番劇を大いに喜びながら、実際は無理矢理引き出した群臣たちの願いを許す。盧綰は燕王に封じられた。劉邦の盧綰に対する寵愛は諸侯王の中でも、最大であった。
劉邦の信任に背く
漢の10年(前197)、盧綰は他の諸侯王とともに長安におもむき、劉邦と会う。この時までは平穏であった。
しかし、劉邦に対して、代の相国と将軍に任じられていた陳豨(ちんき)が反乱を起こし、代王を名乗り、代と趙の土地を制圧する。劉邦は自ら陳豨を討伐し、邯鄲(かんたん)へと軍を進め、陳豨を攻撃した。陳豨から見て後背の位置である燕の地から盧綰も軍を出し、陳豨の東北方面を攻撃した。
陳豨が匈奴に援軍を求めたため、盧綰も家臣の張勝を匈奴に派遣し、「陳豨の軍は撃破された」と報告させ、匈奴の軍派遣を止めようとした。張勝は匈奴の地において、かつての燕王であった臧荼の息子にあたる臧衍(ぞうえん)に会う。匈奴に亡命していた臧衍は、「燕の国が存続しているのは、諸侯が反乱を起こして戦争が終息しないからです。陳豨を滅ぼせば、次は燕国が滅ぼされるでしょう。陳豨への攻撃をゆるめて、(劉邦を)匈奴と和睦させれば、燕国は安泰でしょう」と張勝に進言する。
張勝は同意して、ひそかに匈奴に陳豨を支援させ、燕国を攻撃させる。
盧綰は張勝が匈奴に寝返り、反乱を起こしたものと考えて、劉邦に張勝の一族を皆殺しにするように上奏した。しかし、張勝が匈奴から帰り、事情を説明すると、盧綰はそれに納得し、同意する(時期が曖昧なところがあるが、この頃に韓信と彭越が謀反の疑いで一族皆殺しにされている)。盧綰は張勝の家族を脱出させ、張勝を匈奴の連絡役に任じ、また、范斉という部下を陳豨のもとに派遣させ、陳豨を逃げ回らせて、戦争を長引かせた
漢の11年(前196)、劉邦は周勃とともに、陳豨の軍を破り、洛陽にもどる。代の地には劉邦の息子である劉恒(りゅうこう、後の漢の文帝)が代王に封じられた。
反逆の発覚
漢の12年(前195)、陳豨の反乱はいまだ平定されていなかったが、南で黥布が漢に対して反乱を起こしたため、劉邦は病身をおして、軍を率いて黥布討伐に向かう。
劉邦は樊噲を陳豨討伐に向かわせる。樊噲は、陳豨を攻撃し、討ち取った。陳豨の副将が降伏し、盧綰が范斉をつかわし陳豨と謀略をたくらんでいたことを伝える。劉邦は、使者を盧綰のもとにつかわし、呼び寄せる。
この時の劉邦の心理は伝えられていないが、後に「ますます怒る」とあるため、信じられないというような反応ではなく、その話を即座に信じ、盧綰に対してすでに怒り心頭であったことが分かる。(劉邦がすでに疑心暗鬼だったためと見るべきか、盧綰の反逆にかなりの信憑性があったからと見るべきかは不明)
盧綰は仮病をつかって辞退すると、劉邦は審食其(しんいき)、趙尭(ちょうぎょう)という腹心をつかわし、盧綰を迎えにいかせ、その部下を取り調べさせた。盧綰は恐れて燕国の宮廷に引きこもり、腹心たちに語った。
「劉氏でなくて、王として残っているのは、わしと長沙王の呉芮(ごぜい)だけだ。先年、韓信と彭越が一族皆殺しにされた。これは、(劉邦の皇后である)呂雉(りょち)の仕業である。呂雉は女なので、(漢王朝もしくは自身の権力を固めるため)、劉氏以外の王や功臣たちを殺害しようと夢中である」
盧綰はまた仮病をつかって使者と会おうとせず、盧綰の側近たちも逃げ隠れたが、盧綰が腹心たちに語った言葉が漏れた。審食其がその内容を細かく劉邦に報告すると、劉邦はますます怒った。
さらに、匈奴から降伏した者が劉邦へ、「張勝が匈奴に亡命して燕の使いとして働いています」と伝える。劉邦は「盧綰は果たして反逆していたのか」と語り、樊噲に燕国を攻撃させる。燕王には、劉邦の子である劉建が封じられた。
盧綰はこれを聞いて、宮中の女官と家族、騎兵数千を引き連れて長城の付近にとどまり、様子をうかがった。盧綰は、劉邦の病気が癒えれば、自分から赴いて謝罪しようと考えていた。
匈奴に亡命する
しかし、劉邦はそのまま死去する。盧綰は連れていたものを率いて、匈奴へ亡命する。匈奴の冒頓単于は、盧綰を東胡の盧王に封じる。しかし、騎馬民族の人間たちによって、盧綰は侵奪されるようになり、盧綰は漢に帰りたいと考えるようになった。(匈奴の民によって様々なものを奪われるようになったという意味か、与えられた土地が他の北方民族からの侵略に遭い、苦しめられたという意味か不明)
盧綰が匈奴に亡命して一年余りで、盧綰は死去する。それから、十数年経ってから、盧綰の妻子は匈奴から逃亡して漢に逃げ帰った。当時は、呂雉が漢を統治しており、呂雉は彼らに会おうとしたが、病気のために謁見できず、そのまま死去する。盧綰の妻も同じ頃に死去した。
後に盧綰の孫の盧他之(ろたし)が漢の景帝時代に、東胡王の地位で漢に降伏し、亜谷侯(あこくこう)に封じられている。
評価
司馬遷は、盧綰について、「盧綰は代々、徳を積み重ねた血筋ではなく、その時限りの策略と偽りの力で功績をあげた。漢が天下を平定する時に偶然、出くわして功績をあげたため、土地を与えられ王の地位に封じられた。漢王朝にはその強大さを疑われ、匈奴をその助けとした。そのため、次第にうとまれて、みずからを窮地に追い込むことになり、ついに匈奴に亡命した。なんと悲しいことであろうか」と評している。
盧綰は、盧綰自身にも罪があり、劉邦の完全な粛清の対象となったわけではないが、劉邦の疑心暗鬼の犠牲者という面が強く、盧綰なりに最善の結果を模索したつもりが反逆者となってしまっている。乱世や創業において、家臣として君主に仕えることが困難であるという意味で、盧綰に同情を寄せる意見も強い。
楚漢戦争を題材とした創作作品では、盧綰は劉邦の幼なじみであり、才能や功績だけで立身したわけでないという認識があるためか、劉邦の主要な部下では劉邦に忠実ではあるが、比較的、凡庸な人物に描かれることが多く、劉邦の行った失敗についても盧綰が原因とされることがある。
盧綰について
劉邦の第一の功臣
盧綰については、史書に特別の功績や才能を書かれておらず、劉邦から多大な信頼を受けながらその信頼を最後に裏切った人物というイメージがあるためか、劉邦との親しい関係であっただけの凡庸な人物と考えられがちであるが、劉邦から三傑(張良、蕭何、韓信)を含む家臣の中で、最も天下平定の功績を評価された人物である。
盧綰は劉邦の一族である劉氏(劉賈、劉交など)でも、元々王位に封じられた人物(張耳、黥布、呉芮、臧荼)や王の血を引いた人物(韓王信)でないにも関わらず、ただ一人、劉邦が進んで王に封じた人物である。これは、恩賞に気前のいいという評価がある劉邦でも特別の人事であり、ある意味では、三傑(張良、蕭何、韓信)を上回る評価を受けているものと考えられる。
劉邦は軍事功績のある人物に恩賞は与えても、漢王朝の統治にはあくまで統治能力の高い人物を起用しており、機械的に功績の高い人物に権限のある地位を与えるようなことはしていない。燕王に封じられた盧綰もまた高い統治能力があると劉邦に判断されたと考えるのが自然である。
実際は、盧綰は燕国という匈奴に近く孤立しやすい土地を与えられながら、韓王信のように匈奴へ降伏することはなく、代王・劉喜のように逃亡する事態になることはなく、匈奴から自立を保ってきている。匈奴に通じた理由も匈奴をおそれたわけではなく、劉邦からの粛清による討伐をおそれたためであり、盧綰は匈奴に充分に対抗できているという点も注意すべきである。
もちろん、劉邦との特別な信頼関係や幼なじみであるという点は見逃せないが、史書に残っていない、あるいは諸将に知られていなかっただけで、劉邦から見ると、盧綰に三傑に劣らない様々な功績があり、多大な能力を有していたのではないか、といった想像することは可能である。
当時の農民の識字について
ただの富農の子であり、遊侠(ごろつき)に過ぎなかったと考えられる盧綰や劉邦がともに文字を学んでいたことから分かる通り、秦や前漢時代の中国では庶民でも漢字の読み書きできるものが多かった。秦の兵士が自分で書いたと考えられる手紙も残っており、役所や軍隊における識字の浸透がそれなりにあったと考えられている。
『史記』を読んでも、劉邦ばかりでなく、小作人に過ぎない陳勝が高い教養を思わせる発言をしており、陳平や酈食其(れきいき)のような貧困であっても学問熱心なものもいた。また、奴隷の中でも読み書きできるものもあった。
ただし、盧綰の時代から約200年後の新時代において反乱を起こした赤眉のようなほとんどの人間が字を読めない集団があらわれており、一般的な農民のかなりの割合が文字を読めたかどうかは、不明な部分もある。
また、晋王朝の時代や五胡十六国の時代には異民族を中心に文字を読めない人間が目立つようになる。
文字を学んだ盧綰や劉邦は、確かに(かつてイメージされていたような)貧困な農民出身ではないが、集落を代表するほどの富裕な農民出身であったと判断することには注意を要する。
当時の農民の生活
当時(秦や前漢)の農民層は大きく、「大家」、「中家」、「貧家」に分かれており、当時の認識でも三つの大きな区分に分かれていると認識されていた。
この三つの区分は、主に財産の総額を基準に分けられている。全財産が、5・6金から14・15金程度が中家と呼ばれ、それに満たないものが貧家、それを超えるものが大家と呼ばれた。
貧家は、おおむね一家が4~6人で、労働できる人間は2~3人であった。おおむね所有している農地が狭く、農地の耕作だけでは子供二人を育てられず、国から種もみを借り受け、他の家の小作も行って生活していた。農民の半数以上がこの貧家であった。
中家は、農民の半数近くを占め(秦と前漢にみられる特徴であり、後漢時代に中家の存在はなくなっていく)、5~6人の家族で耕作を行い、中には小作を用いて耕作するものや、奴隷を所有するものもいた。前漢時代は財産で区分され、中家以上が官吏になることができた。
大家は富豪層であり、数は少なかった。数名から数百名の奴隷を所有し、奴隷や雇われ人を使い、耕作のみならず、牧畜や商業も行うことがあった。また、土地を貸し出して、小作を行わせることもあった。
劉邦の父である劉太公は、子供を四人以上も育てることができ、子の学問も行わせており、貧家ではないが、基本的には農業も行っている。また、遊侠活動を行っていた劉邦が無頼扱いされていることから、(大家である場合は、遊侠活動にともなう商業を行うことは奨励される)劉邦や盧綰の家は中家であったであろうと想像される。
漢王朝建国から劉邦の死までの歴史年表
楚漢戦争後、劉邦が皇帝に即位し漢王朝が建国されてから、劉邦の死までの事績について、個々のエピソードとしては知られるが、時系列については余り知られておらず、韓信・彭越・黥布の死後に平城の戦いにおいて、劉邦が冒頓単于に敗れる(実際は、韓信は楚王を降格されてはいたが、三人の生前に戦いは起きている)などの誤解が見られるため、ここに掲載する。
なお、この時は10月を年始とし、閏月として後9月が存在する年があるので注意を必要とする。
臨江王・共尉、捕らえられる。
漢6年(前201)12月 陳で楚王・韓信を捕らえ、降格させ、淮陰侯とする。
同年 正月 劉賈を荊王、劉交(劉邦の弟)を楚王、劉喜(劉邦の兄)を代王、劉肥(劉邦の長子)を斉王に封じる。
漢7年(前200)10月 劉邦、匈奴の冒頓単于に平城に包囲される。
同年 12月 劉喜が代の国を捨てる。劉如意(劉邦の子)が代王に封じられる。
漢8年(前199)10月頃 劉邦、韓王信の残った勢力を討伐。
漢9年(前198) 正月 暗殺計画の発覚により、趙王・張敖を廃し、劉如意を趙王に封じる。
漢11年(前196) 10月頃 陳豨が代の地で反乱を起こす。
劉邦が討伐を行う。
漢12年(前195) 10月 劉邦、黥布を破る。帰路、沛に寄る。
周勃、陳豨を討ち取る。
同年 5月 太子・劉盈、皇帝に即位する。(後に恵帝と呼ばれる)
約7年の間に、長沙王・呉芮を除く諸侯王は盧綰も含めて全員廃され、劉氏が代わりに王に封じられている。劉邦は劉氏ではない異姓の諸侯王に全て言いがかりをつけて廃してまで、劉氏に代えようとしたわけではないが、機会があればできるだけ諸侯王を劉氏に代えたいという考えであったのであろう。
初期の劉邦は、盧綰を王に封じたように、功績の大きい人物や信頼性の高い人物を王に封じようとしたようであるが、韓信を楚王から廃してから、それなりに功績のあり、比較的、劉邦とは血縁が遠い劉賈を優先して王に封じるという配慮が見られた以外は、これ以降、劉氏というだけでが諸侯王に封じられている。
また、劉邦は「劉氏以外のものが王となった時には天下で討つように」という「白馬の盟」と呼ばれる言葉を残し、皇后の呂雉の一族である呂氏すら王となることも封じようとした。
こういった背景があり、かつ、韓信と彭越が謀反の疑いだけで一族皆殺しになっているため、晩年、疑心暗鬼となっていた劉邦を、盧綰が信用しないようになっていた理由は理解できる。
劉賈と劉邦の兄弟
上述した通り、盧綰は劉邦の一族である劉賈と軍事行動を何度か行っており、盧綰と親しい関係にあったことが推測できる。また、あわせて、盧綰と交流があったと考えられる劉邦の兄弟についても紹介する。
劉賈(りゅうか)
『史記』では、劉邦の関係が不明な一族の一人とされるが、『漢書』では、劉邦の従兄とされる。漢王となった劉邦に従って、将軍として、三秦(関中)攻めに加わり、将軍として塞王・司馬欣の治める咸陽方面を攻略した。その後、楚漢戦争では劉邦に従い、項羽と戦う。
項羽との戦いでは、本文で記載した通り、盧綰とともに功績をあげる。劉賈は、楚軍の反撃に対し、彭越と協力して防衛を固めて、応戦せずに守り通した。
劉邦が項羽との講和を破って攻撃した時には、劉邦に命じられて、淮水を南に渡って、楚の主要な拠点である寿春を包囲する。劉賈は、楚の大司馬である周殷を寝返らせた。劉賈は周殷とともに九江郡を制圧し、さらに黥布とも合流して、垓下において項羽を攻撃する。
項羽が敗戦の末、自害すると、盧綰とともに臨江王・共尉を討伐して、捕らえ、処刑した。
盧綰が燕王に封じられた後に、楚王・韓信が捕らえられ、降格されると、楚の領地を二分して、荊と楚の国に分けられた。
劉邦は同姓のものを王にしようとしたが、子はまだ幼少で、兄弟は全て凡庸だったので、「将軍・劉賈は軍功がある。その他、劉氏の子弟で王となるものを選べ」と群臣に命じる。
答えるべき答えがほとんど分かっていた群臣は、「劉賈を荊王とし、陛下(劉邦)の弟の劉交を楚王としてはどうでしょう」と答えた。劉邦は群臣たちに反対がなかったことを喜びつつうなずいて、さらに、長子の劉肥を斉王に、兄の劉喜を代王に封じた。かくして、劉賈は淮水の東、52城を領する荊王となった。
漢の11年(前196)、淮南王の黥布が反乱を起こす。黥布は東へ進み、荊国を討った。劉賈は応戦したが、敗れて敗走中に戦死した。
劉賈の死後、荊王は劉賈の子や親族に継がれることはなく、劉邦は、劉邦の兄・劉喜の子である劉濞(りゅうび)を呉王に封じ、元の荊国を治めさせた。
司馬遷は、「劉賈が荊王となったのは、漢王朝が建国したばかりで、天下がいまだ安んじなかったため、(劉邦の)遠い一族であったが、方策として王に封じたからである」と評している。
劉伯(りゅうはく)劉邦の長兄
史書では早く死去したとあるのみであるが、彼の妻の逸話が伝わっている。
劉邦がある事件を起こして身を隠していた頃(盧綰が劉邦と一緒に逃亡していた事件と同一か?)、時々、仲間(盧綰も入っていたと思われる)と一緒に兄嫁にあたる劉伯の妻のもとに立ち寄って食事をしていた。兄嫁は、劉邦を嫌っていたので、ある時、釜に入っていたあつものがなくなったかように、釜の底をガリガリと鳴らした。そのため、劉邦の仲間は帰っていったが、劉邦が釜を見ると、あつものは残っていた。この事で、劉邦は兄嫁を恨んでいた。
どっちもどっちな、けち臭いしょうもない事件のようであるが、このことが意外と執念深い劉邦はずっと根に持ち続けていたらしい。
劉邦が皇帝に即位した後、劉邦の兄弟は王に封じられたが、劉伯の子だけは封じられなかった。劉邦の父である劉太公が理由をたずねると、劉邦は「あの子を封じるのを忘れたわけではないんだけど、あの子の母が意地悪だからだよ」と答える。結局、劉伯の子の劉信も侯に封じられるが、侯の名は、羹頡侯(かんかつこう)であった。
元より、羹頡などという地名はなく、「あつものガリガリ」侯の意味であり、器が大きいと言われる劉邦の余りに小さすぎる人間臭い面を伝える逸話である。
というか、なぜ、こんな話を残したのだ? 司馬遷
劉喜(りゅうき)(劉仲とも)、劉邦の次兄
劉邦の父親・劉太公からは、勤勉な性格で評価され、劉太公は遊侠時代の劉邦を彼と比べて、説教したことが多かったようである。劉邦はこのことも多少、根に持っていたらしい。
上記の劉賈の部分で記載した通り、劉賈・劉交・劉肥と同時期に、代王に封じられたが、真面目なだけのただの農民に過ぎない劉喜は、わずか一年程度で、匈奴からの攻撃により、国を防衛することができず、国をすてて洛陽にいた劉邦の元へ逃亡した。劉邦は兄であることから、彼を罰することは忍びず、彼の王位を廃して、合陽侯(ごうようこう)とした。
後に、劉賈が戦死した後、劉喜の子である劉濞(りゅうび)が黥布との戦いで騎将として活躍したため、呉王に封じ、元の荊国を治めさせた。この劉濞が後に、呉楚七国の乱の首謀者となり、漢の景帝(劉邦の孫)時代に、漢王朝に反乱を起こすことになる。
劉交(りゅうこう)、劉邦の末弟
劉邦の同母の弟で末弟にあたる(劉伯、劉喜と同母であるかは不明)。字を遊(ゆう)と言った。
特に優れた人物ではなかったという記述もあるが、個人としては読書を好み、才能が豊かであったと伝えられる。若い頃、魯の国におもむき、『詩経』の学問を浮丘伯(ふきゅうはく)という人物から授けられた。
楚漢戦争の時には特に功績を立てなかったが、劉邦の皇帝即位の後は、盧綰とともに、劉邦に臣下の言葉や宮廷での様々な事やささやかれている陰謀などを伝えた。
劉賈や劉喜と同時期に王に封じられ、楚国36城の王となり、彭城を都に定める。 かつて、自分とともに勉学に励んだ穆公(ぼくこう)、白公、申公を中大夫に取り立てる。劉交は、彼らを礼遇して、酒を余り飲めない穆公のために、甘酒を用意していたと伝えられる。
漢の11年(前196)、淮南王の黥布が反乱を起こした時、荊王の劉賈が戦死した後、黥布は荊国の兵士を無理に従軍させ、次は楚国に攻め込んできた。楚国では、軍を三つに分けて連携をとる奇策をとることにした。これを諫める人もいたが、楚の将軍は聞き入れなかった。黥布が三つに分けた一軍を破ると、他の二軍は敗走した。劉交は戦死することはなく、逃走に成功し、やがて、黥布は討伐された。
劉邦や恵帝の死後も行き、呂雉(りょち、呂后)の統治時代においても、長安にいた浮丘伯のもとへ、息子の劉郢客(りゅうえいかく)と申公を使わして、学問を学ばせている。 劉郢客は九卿の一人である宗正(皇族に関することを総括する役職)として用いられた。
文帝の時代になって、「詩経」に通じた申公は博士として用いられた。
劉交は、劉邦の弟に似合わず、詩経を好み、その子もみな「詩経」を読んだ。申公が「詩経」の伝(解説)をつくり、『魯詩』と号すると、劉交も「詩経」の伝(解説)をつくり、『元王詩』と号され、世に伝わった。
楚王のまま死去している。 太子はすでに死去していたため、劉郢客が後を継ぎ、楚王となった。
約700年後の5世紀に、南朝宋(劉宋とも)の創業者である劉裕は、劉交の子孫を名乗っている。
沛から劉邦に従って功績をあげた人物たち
盧綰とともに沛における決起の時から劉邦に従い、功績をあげて逸話が残る人物を紹介する。
武儒(ぶじゅ)
決起時点では、謁者(えっしゃ)という劉邦への客人を取りつぐ役職についていた。劉邦に従軍して、秦討伐で功績をあげ、劉邦に従って漢中に入る。その後は将軍に任じられ、諸侯討伐において功績をあげた。二千八百戸が与えられ、功臣における順位は二十位とかなり上位に位置した。
朱軫(しゅしん)
決起時点では、樊噲と同じ舎人という劉邦の下級の側近に任じられる。騎兵を率い、三秦(関中)の戦いでは、翟(てき)王・董翳(とうえい)を降伏させる戦いで功績をあげる。また、なんと、かつての秦の名将であった雍王・章邯(しょうかん)を捕らえるという大功績をあげている。(章邯は自害したはずであるため、その死骸を確保したという意味か)。
与えられた戸数は不明であるが、功臣における順位は二十三位とかなり高い。
彭祖(ほうそ)
決起時点では、ただの卒(兵卒)であった。逃亡していた劉邦に従っていた可能性もある。沛城を開門するという功績をあげる(門を開けるだけでは功績にならないため、沛の県令を討ち取るために、それなりに戦闘が行われたということなのであろう)。その後は、劉邦の父・劉太公の従僕となっていた。(劉太公が項羽に捕らえられていた時、どのようにしていたか不明)。後に、陳豨討伐に功績をあげた。与えられた戸数は千二百戸であり、功臣における順位は百十六位。
単父聖(ぜんふせい)
決起時点では、ただの卒(兵卒)。劉邦に従軍し続け、黥布討伐において功績をあげた。与えられた戸数は二千三百戸であり、功臣における順位は百二十五位。
順位に比して戸数が多く、実際に戸数に価する功績はなかったと思われるが、劉邦に貧しかった時に急に馬が必要となったことあり、その時に馬を与えたため、侯になれたと伝わる。
劉邦の恨みに対してはかなり執念深いが、昔、受けた恩義を忘れない気質を示す逸話である。
創作物における盧綰
池野雅博『レッドドラゴン』
楚漢戦争を題材にした漫画作品。少年漫画向けのキャラクターデザインがなされている。主人公は、なんと、盧綰である。(当初はタイトル通り、劉邦も主人公であったが次第に盧綰の出番が多くなる)
盧綰は戦歴や功績に対して資料が少ないため、忍びみたいな役割にするという構想もあったらしい。
劉邦が野望多い智謀優れた器が大きい人物像であるのに対し、盧綰は少年漫画の主人公らしい、単純なところはあるが正義感が強い真っすぐな性格の信義に厚い劉邦のかけがえのない親友であり、劉邦軍第一の武勇の持ち主でもある。劉邦陣営の副将格として、戦場ばかりでなく、様々な方面で劉邦を支えていく。
人間的魅力もあるため、敵方に好かれることも多く、敵対した秦の武将や項羽にも認められていた。
作品は秦の滅亡までであり、後日談として、項羽との戦いや劉邦の粛清など史実通りの展開となったことが語られるが、最後まで盧綰は、劉邦の親友として、劉邦を支えることになる。
実は、盧綰に史実に残らない活躍が多かったという解釈をした方が、燕王に封じられたことへの整合性がつくということを、これを書いた人に教えてくれた作品でもある。
関連書籍
藤田勝久『項羽と劉邦の時代』(講談社選書メチエ)
盧綰の専著は、当然のごとく、存在しないが、史記の翻訳や項羽と劉邦ものの楚漢戦争ものの小説を読み終えた人に、劉邦や盧綰たちの活躍の背景となる戦国時代の楚の歴史や文化、秦王朝の政治や法律および地方における行政組織、沛県の社会や生活などを近年、発掘された史料を駆使しながら、説明している。
概説書にしても内容が難しいが、楚漢戦争の背景について詳しく知りたい人には、「第一章 南方の大国・楚」と、「第二章 秦帝国の地方社会」についてはとてもおすすめである。
関連動画
関連項目
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