生きるに値しない命(独語:Lebensunwertes Leben)とは、ナチスドイツ時代に作られた概念である。
概要
1920年、ドイツの刑法法学者カール・ビンディングと精神科医アルフレート・ボーヘが「生きるに値しない命を終わらせる行為の解禁」という本を出版した。ここで言う生きるに値しない命とは、生産能力が無い(働けない)知的障害者や精神障害者、治療不能な重症患者などを指す。つまり国のお荷物である障害者の排除を合法にしようと主張した訳である。その本に着目したのが、皆さんご存知のアドルフ・ヒトラーである。彼は自著『我が闘争』に「肉体的にも精神的にも不健康で無価値な者は子孫の体にその苦悩を引き継がせてはならない」と綴っていた。すなわち障害者は優良種たるアーリア民族を汚す存在であり、その排除を実現する腹案を密かに温めていた。
1939年8月18日、内務省は全ての医師、助産婦、看護婦に対し「重度の精神障害もしくは身体障害が見られる新生児及び3歳未満の子供を報告せよ」と布告。これが全ての始まりだった。ヒトラー総統は「この計画は戦争という閉ざされた霧の中で実行せねばならぬ」とし、戦争が起きるのを待っていた。そして第二次世界大戦が勃発した直後の9月、彼は総統官房長官フィリップ・ボウラーに命じて作戦の開始を命じる。10月、当局は障害を持つ子供の親に対して小児診療所への入院を推奨し、送られた子供はドイツとオーストリアの特別指定小児科に入院。年末頃から致死量の薬物投与や餓死させるなどの手段で抹殺し始めた。残された親や親族には「突然死」とだけ言い渡され、死因を調べる事すら許されなかったという。またヒトラー総統は抹殺任務に従事する関係者を告発から守るための秘密の承認を行って保護。殺戮の噂は風に乗って広がっていった。当初は幼児と乳児だけを対象にしていたが、やがて17歳までに拡大、最低でも5000名の年少者が「生きるに値しない命」だとして殺された。
この安楽死プログラムは更に拡大し、ドイツ政府は優生思想に基づいてT4作戦(アクツィオン・テーフィア)という政策を打ち出した。T4とは作戦本部として接収した個人邸宅がベルリン市内のティーアガルテン通り4番地に所在した事に由来する。ちなみに持ち主のユダヤ人には何の補填も支払いも無かったとか。作戦本部には少なくとも60人の専任鑑定医師と300人のスタッフが勤務。
作戦本部は円滑に任務を遂行するため、特別重点部門を何個か作った。その中の1つが公共患者輸送会社である。郵政省から借り受けたバスを灰色に塗装して使用。この灰色のバスは、安楽死させるに相応しいと選定された障害者を迎えに行き、行き先を告げぬまま乗車させる。バスには排気ガスが車内に流れる特別仕様となっていて、走っているだけで障害者を一酸化炭素中毒で抹殺可能だった。したがってこの灰色のバスはT4作戦の象徴的存在となっている。精神病院6ヶ所(ハルトハイム、ブランデンブルグ、ベレンブルク、ピルナ・ゾンネンシュタイン、ハダマー)にガス室が作られ、周囲には有刺鉄線付きの壁が張られた。警護には親衛隊がつき、従事する医者や看護婦、事務員などは地元から雇用。有刺鉄線の中で何が行われているかを口外しない誓約書を書く見返りに、昇進や長期の休暇、特別報酬が約束された。ホロコーストの前段階とも言うべき恐ろしい虐殺計画だったが、実は積極的に推進していたのはドイツの精神科医たちで、ヒトラー総統は命令書に署名しただけだった。ヒトラー総統が関わってないからかホロコーストと比べてT4作戦は知名度が低い傾向にある。
国内の病院、障がい者施設、高齢者施設に質問票を配り、返ってきた回答を3人1組の医師が判別。赤字の+は抹殺、青文字の-は生存、判別不能は?マークを記入し、上級鑑定医のもとへ送って最終的な判断を下した。1940年1月に判定が終わり、「生きるに値しない命」とされた患者を自宅や療養施設から連行。ガス室をシャワー室だと偽り、室内で一酸化炭素ガスを噴射して殺害した。遺体は職員によって運び出され、隣接する遺体焼却場で火葬。骨壷に遺灰を入れて家族のもとへ送っていった。死因は自然死と改ざんされたが、T4作戦が一般的に広く知られていた事もあり、公然の秘密となっていた。当然ながら政府内や民間、特に聖職者からの反対が相次ぎ、ミュンスター大司教のクレメンス・フォン・ガーレンがヒトラー総統を説得した事がきっかけで、1941年8月24日に中止命令を引き出す事に成功した。これによりT4作戦は終わったかに見えたが…。
中止命令に不満を持った精神科医たちが、命令を無視して続行を決意。1942年8月、医療専門家とその従事者が極秘裏に再開し、ヒトラー総統や政府の目に見えないよう、巧妙に隠しながら子供の殺害を行った(大人は対象外となった)。政府や指導者の意に反して行われた殺戮は「野生化した殺人」と比喩された。ガス室は使われなくなり、代わりに薬物投与の方法が多用されるようになった。1943年6月末からは傷病兵や空襲被害者が増加した事により更に障がい者の抹殺が加速。反社会分子や労働を嫌う者も対象になった。
公式記録では7万273名が犠牲になったとしているが、記録されていない者を含めると20万名以上とも言われる。殺害の対象は高齢患者、爆撃の被害者、外国人強制労働者にまで拡大し、終戦まで「価値の無い命」が処分され続けた。このT4作戦はドイツ占領地域でも実行され、ポーランドやバルト三国などから入植するドイツ系人に場所を提供するために親衛隊と秘密警察主導で命の選別が行われた。
ニュルンベルク裁判で検察側が示した証拠によると、27万5000名が犠牲になったという。この作戦に従事した精神科医は異口同音に「自分が悪い事をしたとは思っていない」と語った。2010年、ドイツ最大の精神医学会はT4作戦について正式に謝罪した。
津久井やまゆり園
2016年7月26日未明、神奈川県相模原市にある知的障がい者施設「津久井やまゆり園」にて、元職員の植松聖被告が19人を殺害し、26名を負傷させる事件が発生。事件後、植松被告は緊急措置入院となったが、その時に「ヒトラーの思想が(事件の)二週間前に降りてきた」と語っており、このT4作戦を想起させた。殺人の標的にしたのが重度の知的障がい者で、応対が出来た者は見逃した点も作戦に共通している。
関連項目
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