日刊イオ

月刊イオがおくる日刊編集後記

久しぶりに筆を取りました。

2013-08-31 09:00:00 | (淑)のブログ
 小中高大と続けてきた書道ですが、社会人になって一旦お教室をお休みした以後、すっかり筆不精になっていました。
 今回はひょんなことから知人に頼まれ、思いがけない依頼がうれしくて二つ返事で引き受けましたが、よくよく考えてみれば習字道具一式は書道の先生宅に預けたまま。幸い墨汁は家に余りがあったので、文具店で半紙と手頃な小筆を一本購入。硯の代わりに少し深みのあるお皿、文鎮はテレビのリモコン、下敷きは古新聞といったなんとも不格好ではありますが、環境は整ったのでいざ。

 しかし書き始めると安物の筆なのでまぁ筆先が割れる割れる。昔からそんなときに決まって浮かぶのが、<글 못한 놈 붓 고른다>(弘法筆を選ばず)という朝鮮のことわざです。これを心の中で何度も復唱しては自分を戒め(笑)、一筆書いては筆先を整え、一筆書いては…を繰り返し、めげずに書き続けました。依頼された字体は行書体でしたし、それほど難しい文字ではなかったので、さっと書けるだろうと甘く見ていましたが、ご無沙汰すぎてすっかり忘れていました。書道にゴールなどないということを。たくさんあった半紙がみるみるなくなっていきました。でもこの飽くなき作業が好きだったなと、そんな気持ちも思い出しました。

 私が今回書いた字は、素人目にはきっと達筆に見えるんだと思います。決して慢心ではなく、そうでなければ習字に費やした膨大な時間と努力が泣きます(汗)。しかし当人としては技術ももちろんそうですが、それ以上に起筆や運筆などの筆法の誤りを含め良し悪しを判断する批評眼が失われていると感じました。学生のころのようにきっちり毎週は通えずとも、定期的にちゃんとした指導を受けたいものです。
 何に関しても共通して言えることですが、やはり「継続は力なり」ということにつきます。文章を書くことも然り、ただひたすら修練あるのみですね。

 しかしながら、依頼されたあの意味深な文言が一体何に使われるのか? 使途も聞かずに書いておきながら、いまさら気になっています。(淑)

電話の失敗談

2013-08-30 09:41:12 | (相)のブログ
 永遠に続くかと思われたあの悪夢のような猛暑も一段落し、一日のうちで涼しさを感じられる時間が増えてきましたが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。

 唐突ですが、今回のエントリではつい先日あった電話にまつわる失敗談を一つ。
 ある同胞男性(Aさん)に取材のアポを取るため、Aさんの働く職場に電話したときのこと。
 プルルル…プルルル…ガチャッ
 女性の声:「もしもし。○○○(職場の名前)です」
 私:「わたくし月刊イオ編集部で働く(相)と申しますが…」
 女性:「いつもお世話になっております」
 私:「Aさんはいらっしゃいますか?」
 女性:「少々お待ちください…申し訳ありません、ただいまAは打ち合わせ中でして…。30分ほどで戻ると思います」
 私:「そうですか。では、後ほどまたお電話いたします」

 30分後に再び電話。プルルル…プルルル…ガチャッ
 電話口からは先ほどの女性の声が。
 私:「どうも、わたくし先ほどお電話差し上げた月刊イオ編集部の…」
 女性:「あ、はい、ただいまおつなぎしますね。少々お待ちください」
 保留のメロディ…
 ややあって、「もしもし」という男性の声。
 私:「(あっ、Aさんだ)どうも、わたくし月刊イオ編集部の(相)と申します(本日3回目)。お仕事中にすみません。実はですね…(とここから一方的に取材の目的について説明した後)。というわけで、一度お会いしてお話をうかがいたいのですが」
 しかしその後、電話口からは今までの流れを全否定するような一言が。
 男性:「すみません、何をおっしゃっているのかよくわかりません」
 私:「えっ? あ、あのー、Aさんは○○や××の活動をされているということで、その件についてお話をお聞きしたいのです」
 男性:「私、Aではありません。Bですけど…」
 私:「えっ? えっ? (少々混乱しながら)す、すみません(汗)」
 普段であれば、相手方に電話がつながった際に当然本人であるかを確認するのだが、この時は初めに応対してくれた女性職員が前回のやりとりの内容を理解して電話をつないでくれたこと、その後につながった電話に男性が出たことで、その電話越しの相手がAさんだと思い込んで話をしてしまったことがミスの原因。Bさん、そして代わったAさんには平謝りだった。Aさんとは無事アポがとれたのだが、なぜあんな恥ずかしい失敗をしてしまったのか。たぶん暑さのせいだろう。

 この手の失敗談は少なくない。一度は、間に入ってくれた人物から取材相手の連絡先を教えてもらった際に間違った番号を教えられ、何の関係もないであろう赤の他人に数日間、電話とメールをしつづけたこともあった(間違われた人からすれば、見知らぬ人間からまったく身に覚えのない問題に関する留守電やメールがじゃんじゃん入ってくるので、とんだ迷惑だっただろう。その人も電話に出て人違いだと言ってくれれば、私もすぐ間違いに気づいたのだろうが、ひたすら無反応だったため、私の「嫌がらせ」はしばらく続く破目になった)。
 ということで、電話を利用する際は気をつけましょうというのが今回の教訓。
 8月もあと2日で終わり、もう9月だ。夏バテなどせずに締切前の慌しさを乗り切りたい。(相)

夏休みの宿題

2013-08-29 09:00:00 | (瑛)のブログ
夏休みもあと3日!

ノホホーンと過ごしていたわが家でも、「あれやったの?」「これやったの?」と今になってソワソワしております。

ざっと見る限り、学校で出された宿題帳は、1学期の復習を兼ねたものになっていました。

しかし、なかには植物や昆虫を観察して日記を書く、というお題もあり、今さらあわてて「何の植物にしようか」と花屋をウロウロしたものの、植物をそのために買うのもつまらない気がして、「家の周りに生えた雑草にしようか」「ハチの下にすんでるダンゴムシなんてどう?」と方向性を決めました。

子どもにとって、宿題というのは、たぶん面倒くさいものなのでしょうね。
それは、子どもにとっては「おもしろい」ことが、すべてのことに勝るから当然かも知れません。早くからプランを立てて、取り組んでいた工作は、ワクワク感があったのでしょう。

夏休みの宿題といえば、日記。

ある日、コソっと開いた息子の日記帳を見ると、その日あったことをテキトーにおもしろみもない文章でつづっており、そのテキトーさに腹が立った私は、「もっとおもしろいこと、書けるんじゃない?」と口を出してしまいました。

その時はふてくされていたのですが、書き直した文章を読むと、ポケモンの映画を見に行ったときに横で爆睡していた父の様子だったり、人生初の骨折を通じた「教訓」など、普段の会話では聞けなかった言葉がつづられていました。

20代の頃、日本学校出身の先輩から、自身の朝鮮語のレベルアップのために毎日朝鮮語で日記を書いていた話を聞き、感心したことがあります。宿題の日記に留まらず、日々の思いをつづることが好きになれば、言葉が磨かれ、何かを表現することに面白みを感じるようになるのかなぁ、と淡い期待もよぎりました。

とにもかくにも、「宿題のための宿題」とはおさらばしたいものです。

さぁ、4日後には2学期がスタート! お弁当作りも始まります。(瑛)

「はだしのゲン」と朝鮮人

2013-08-28 09:00:00 | (K)のブログ
 漫画「はだしのゲン」を、島根県松江市の全小中学校が、児童生徒らに自由に見られないようにする閉架措置としていたことが2週間ほど前から問題となっています。
 「はだしのゲン」は、去年12月に亡くなった被爆者で漫画家の中沢啓治さんが、自らの被爆体験をもとに描いた作品です。1973年に週刊少年ジャンプで連載が開始されました。わたしも中学時代にリアルタイムで読んでいました。原爆により皮膚がドロドロになってさまよう人々やウジがわいてあちこちに放置された死体など、その表現が非常に衝撃的でした。
 読んだ方はわかると思いますが、「はだしのゲン」は単に原爆の悲劇を描いた漫画ではありません。日本の加害性を明確にしています。

 今回の騒動については広く報道されているので詳しく内容は繰り返しませんが、発端は昨年8月に一部の市民が「ありもしない日本軍の蛮行が描かれており、子どもたちに間違った歴史認識を植え付ける」として学校図書室から撤去を求める陳情を市議会に提出したことのようです。その陳情自体は不採択となりましたが、12月、松江市教育委員会が漫画の内容を改めて確認し、「首を切ったり、女性への性的な乱暴シーンが小中学生には過激」と判断して、校長会で「はだしのゲン」を閉架措置としできるだけ貸し出さないよう口頭で求めたとのことです。

 今回の騒動の問題点について、図書館使用の権利の問題、閉架措置を決めた手続きの問題など、様々な人たちが様々に指摘しています。しかし、問題の本質は、日本社会における歴史修正主義の拡大にあると思います。安倍首相が日本軍「慰安婦」問題の河野談話を否定しようとしていること、学校教育の中から日本による侵略や植民地支配の歴史を後退させる、「君が代」・日の丸を強制する、憲法9条を変えようとする、テレビを見れば露骨に自衛隊を美化する番組が放送される―などなど、日本の右傾化の中で歴史修正主義の現象が噴出しています。過去の歴史にきちんと向き合い積極的に次世代に伝え二度と過ちを犯さないようにするというのが、日本が本来とらなければならない態度ですが、まったく逆のことをやっているのが今の日本です。今回の騒動もその一つの現れだと言えるでしょう。

 26日の月曜日、松江市教育委員による臨時会議が開かれ、閲覧制限の撤回を決めました。多くの抗議が寄せられ署名も集められた結果ですが、当然のことです。しかし、今度は歴史修正主義者たちからの逆の抗議が起こるかもしれません。今回は大きな社会問題になりましたが、「歴史を歪曲している」という抗議により表現が変えられたり出版・閲覧が制限されたりということが知らないところで起こっているかもしれません。社会全体の空気がそうなっている。実際、教科書の内容がどんどん後退しているわけですから。いまの日本で、大手出版社の少年漫画に「はだしのゲン」のような作品が連載されるなんて考えられないのではないですか。


 こんな当たり前のことばかり書いていてもつまらないので、「はだしのゲン」に関してちょっと違った話を書きたいと思います。
 「はだしのゲン」には朝鮮人の朴さんも登場します。早くから朝鮮人被爆者が2重3重の苦しみの中にいたことを描いた画期的な作品だと言えます。中学生の頃、朴さんが出てくるくだりをどのような気持ちで読んでいたのか、まったく思い出せませんが、中学生のわたしの心に様々な波紋を起こしたことでしょう。
 作者の中沢啓治さんには、1994年に某雑誌の編集部にいたとき、インタビューしお話をうかがったことがあります。今回もまた、当時の某雑誌のインタビュー記事を紹介したいと思います。朴さんの思い出についての部分を、ちょっと長いですが引用します。


 「僕の家の裏に住んでいたんです。そこの子供で同級生のチュンチャナという子がいて、チュンチャナ、チュンチャナと言っていつも遊んでいたんです。朴さんの家に行くとうどん粉を溶いてフライパンで焼いて食べさせてくれたりね、よく可愛がってもらったんですよ。当時は朝鮮人差別がひどいときでしょ、朝鮮人は人間じゃないという感じで。僕もそれに感化された一人だけど、おやじにそれを厳しく叱られてね。どういう経緯で朝鮮人が日本に来たのかと、よく聞かされました。一般の日本人の子とは違って、おやじの教育が非常に入っていたんです。でも、僕の仲間は朝鮮人、朝鮮人と囃し立てるでしょ。するとチュンチャナは悲しそうな顔をする。僕なんかも仲間と一緒にいるとすぐそういうのに流されていってしまう。本当に恐ろしいと思いますよ。
 今もチマチョゴリを着た朝鮮の生徒が襲われるのは、そういう人間がまだいるということですよね。歴史を知らないというのは日本人として本当に恥ずかしいことなんですよ。歴史をきちんと知ってればそういうことは絶対にできないはずなんですよ。無知だと親が朝鮮人を馬鹿にする、それを子供が真似をする。それが堂々巡りして現在まで来てるわけですからね。歴史はきちんと教えないといけない。たたき込まれた朝鮮人蔑視とか差別、日本人は優秀で朝鮮人は劣るんだと、そういう考えが染みこんでいる日本人はまだまだたくさんいます。」


 インタビューの内容を見れば、中沢さん自身が自らの加害性についてちゃんと向き合っていることがわかります。
 今回の騒動があって改めて調べてわかったのですが、「はだしのゲン」が完結するのが1985年なんですね。もしかすると、わたしは「はだしのゲン」を最後まで読んでいないのではないかと不安になりました。これを機会に、単行本を読んでみたいと思います。(k)

27歳になりました

2013-08-27 09:00:00 | (麗)のブログ
8月26日で27歳になりました。
…三十路まであと三年です!笑


気付けばもうこんな年まで来たか、という感じです。
本当にあっという間なんだなと少し寂しいですが、
27~28が一番楽しいと聞くので精一杯、謳歌しようと思います。

イオ編集部でも、みんなでお昼に行って祝っていただき、誕生日ケーキも用意してくれました。
歳を取るに連れてお祝いメールも減って行きますが、家族や友達のメールはいくつになっても嬉しいものです。


実はここ最近、誕生日の夜を一人で過ごすことが多くなりました。
切ないですが、それも慣れればなんともないです。笑


なんにせよ、27歳、これからも頑張って行きます!^^(麗)

知ってるつもり

2013-08-26 09:00:00 | (理)のブログ
 今月も残すところあと1週間。暦上では秋が近づいており、この暑さも段々と和らいでいくかと思うと少しほっとします。ただ、同時に締切りまでの日数を数えてみるといつまでもほっとしてはいられません。お盆休みで頭を空っぽにしてきたので、ばちっと切り替えていこうと思います。

 10月号の特集のテーマは福祉です。参考のため福祉関係の本や施設のHPを探していて、東京・高田馬場にある日本点字図書館のサイトに行きつきました。ふと目がとまった「随筆随想コンクール」というコンテンツを開くと、第47回から50回までの入選作品が掲載されています。ここでは全盲の方や目の不自由な方が自分の経験や思いを綴っていました。とてもほほえましく心が温かくなるものや力強いものなど内容が様々で、また文章がみな個性的で面白く、続けて何編も読んでしまいました。

 私は大学4年の頃にハンセン病患者の施設を見学しました。施設を回りながら、それまでハンセン病についての認識は名称だけで、それ以上知ろうとしてこなかったことをとても反省しました。その施設ではハンセン病患者のインタビューが見られるのですが、社会的に切り捨てられ辛い思いをしたと多くの方が語っていました。その中でも在日同胞の患者は2重の差別を受けたといいます。その実習がなければ、本当はすごく身近なところに暮らしている方たちの生活や思いをハンセン病という言葉で一括りにして、目を向けないまま通り過ぎてしまうところでした。

 エッセイを読みながらそんなことを思い出すとともに、日常で通り過ぎてしまいがちなことがまだまだたくさんあると感じました。特に福祉は今までなかなか身近に感じる機会がありませんでしたが、それもただ自分が福祉というものをぼんやりと知っているつもりで通り過ぎてきたからです。高齢者・障がい者とその介助者のみならず、制度についても今の自分には直接関わりがないからと勉強を怠ってきました。しかし、その制度で生活が大きく左右される人も大勢います。まずは自分の認識の低さを知ること、その次はきちんと学ぶことが課題だと思いました。今回の取材を機に勉強をして、少しでも多くの人の話を聞きたいです。(理)

デジタル書籍をさがしながら

2013-08-25 09:00:00 | (愛)のブログ
最近、とある事情でデジタル書籍を色々探している。
その中で一番興味を惹かれたのが
日本ビジュアル・ジャーナリスト協会が発行している「 fotgazet(フォトガゼット)」という
雑誌と Webの機能を組み合わせたオンラインPDFマガジン。
http://www.fotgazet.com/
HPからお試し版や東日本大震災の緊急号外がダウンロードできる。
写真をメインとしたオンラインの雑誌、
モニターにめいっぱい広げたフルスクリーンモードで読むと
写真がもつ迫力と説得力に圧倒されてしまう。
ほか動画の記事もついていて、
存分にデジタル書籍の良さを感じられる雑誌だ。
他の号はもちろん有料だが、ぜひとも購入してみようと思った。

話しはそれるが、
号外をダウンロードして読むと、
東日本大震災のときの痛みと原発事故の恐ろしさが今いちど想起された。
現在も福島第 1原発から高濃度汚染水の流出が続いている。
NHKニュースWEB:海に流出のセシウムなど 計30兆ベクレルと試算
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130822/k10013941661000.html

日本は住みよい場所なのに、自らの手で汚染してしまっている現状。
こんな状態なのに原発を再稼働させようと動く政府に
ただただ呆れるばかり。

一昨日電車のなかで、とある雑誌の中吊り広告で「今こそ原子力推進に舵を切れ!」と
いった見出しが目にとまり、かなり引いてしまった。
3.11からの原発事故の恐ろしさに何ら学んでいない姿勢が何よりこわいなと思った。
一度汚染されてしまったものはもとには戻らないのに。
いま巷で流行の「逆回転できない」といった言葉とリンクした。(愛)

8.14日本軍「慰安婦」メモリアル・デーに際して

2013-08-24 09:00:00 | (淑)のブログ
 8月14日の第1回日本軍「慰安婦」メモリアル・デーを前後して、日本をはじめ韓国、台湾、インドネシア、アメリカ、ドイツ、オランダなど世界各国でさまざまな連帯行動が行われました。私も東京ウィメンズプラザ・ホールで開かれた国際シンポジウム(11日)と、新宿で行われたデモ行進(14日)に足を運びました。

 11日、国際シンポジウムには350人が集い、会場内には各国の日本軍「慰安婦」被害者らの肖像や被害者らの絵が掲げられていました。
 

 1部ではフィリピンから来日したサバイバー、エステリータ・デイさん(83)が、14歳で日本軍の駐屯所に連行され性奴隷を強いられ、長年夫にも子どもにも言えず苦しんできた自身の被害を証言し、被害が二度と繰り返されないよう日本政府に対し謝罪と賠償、歴史教科書への記載を訴えました。

 声を震わせ、涙を拭いながら証言するエステリータさんの隣で、支えるように向き合っていたのがフィリピンの支援組織「リラ・ピリピーナ」のレチルダ・エクストレマドゥラさんでした。レチルダさんはフィリピンにおける被害と運動の現状を報告し、「日本市民が立ち上がれば日本政府も動かざるを得ない。日本市民が国内で運動を進めてほしい」と締めくくりました。
 2部では元国連安保理議長のアンワウル・チャウドリーさんが基調講演を行い、韓国から来日した挺対協の尹美香代表、京都大学の岡真理さんがそれぞれ発言し、その後討論が行われました。
    
 討論では、日本軍「慰安婦」メモリアル・デーを国連記念日にすることの意義や、ネーミング(メモリアル・デーにはまだ正式な名前がない)について、具体的な運動の方法など多様に話し合われました。
 尹美香代表は「この運動は、度重なる政治家による妄言や安倍政権による河野談話見直しなど歴史歪曲の動きに対し、制御装置として、再発防止装置として働くはずだ。例えば韓国、台湾、日本、フィリピンなど各国で日本軍『慰安婦』メモリアル・デーを国連デーとする決議を採択する運動を進めてはどうか」と話していました。
 岡真理さんは、国連デーに定められたパレスチナの記念日を例に挙げながら、「毎年国連においてレセプションが開かれているが、最悪を更新し続けているパレスチナの現状を考えれば、記念日が国連の単なるアリバイ証明になっていると考えざるを得ない。国連記念日に定めることによって実際に『何が実現されているのか』を問うことが大切だ」と主張しました。

 一方、14日、新宿で行われたデモ行進には250人が参加。午後6時半、参加者らは柏木公園を出発し、ネオン光る真夏の新宿の街を「日本軍『慰安婦』メモリアル・デーを国連記念日に!」「日本政府は事実を認めろ!」「謝罪と賠償を!」などシュプレヒコールを叫びながら行進しました。

 デモ行進は、歩道フェンスを挟んで終始「在特会」と対峙するような形で進みました。そこには警官らはデモの隊列を圧制し、他方マスコミは在特会に群がる、という不気味な構図がありました。それが日本の民主主義の状況を物語っていたように思えます。
 

 シンポジウムの日、尹美香代表が真っ先に話したのは、日本軍「慰安婦」被害者である李容女さんの訃報でした。シンポジウムの当日の午前2時に亡くなられたそうです。87歳でした。
 またシンポジウムには、フィリピンからもう一人のロラ、ピラール・フィリアスさんが来日する予定でしたが体調不良のため急遽来日を中止し、シンポジウムにはビデオメッセージが寄せられました。

 さらに支援者のレチルダさんのお話の中で、フィリピンで名乗り出た被害者174名中、73名が他界し、現在101名がご存命であること、高齢や認知症などさまざまな理由によりその中でも活動が可能なのは10名にも満たないという現状を知りました。どの国においても証言者の減少は等しく、被害者の存命のうちの被害回復が急がれる切迫した現状を思い知らされました。



 昨年12月、韓国、台湾、フィリピンの日本軍「慰安婦」被害者と各国の支援者が一堂に集まったアジア連帯会議において日本軍「慰安婦」メモリアル・デーに定められた8月14日は、1991年に金学順さんが勇気ある告発をした日として多くの人に記憶されています。それはその後の運動においてきわめて重要な出来事であったことは間違いありません。
 しかし同時に、1991年よりももっと前の1970年代、被害者の誰もが名乗り出られなかった時代に、自らの被害を証言した女性が沖縄にいたことを想起しなければなりません。冷戦と分断状況下、東アジアの矛盾の中で当時も今も奉奇さんの存在は不可視化されていると思えてならないのです。奉奇さんの存在を、そして生前奉奇さんが総聯の支援者との出会いの中で朝鮮半島の統一を願っていたことを、同じ在日朝鮮人である私たちがしかと記憶し、伝えていかなければならないと、在日朝鮮人の一人として痛みを持って感じています。(淑)

最近見た映画の話

2013-08-23 09:00:00 | (相)のブログ
 6日間の夏期休暇も終わり、イオ編集部は今週の初めから仕事モードに突入しました。
 休み明けの出勤初日、デスクに運ばれてくる他の編集部員たちのお土産のお菓子が、休暇期間中に特段何もしなかった自分にとってはとてもまぶしく見えました。

 休みの間の面白い話もとくにないので、今回のエントリでは、つい先日劇場で鑑賞した映画の話を一つ。
 その作品とは…ブラッド・ピット主演の最新作「ワールド・ウォーZ」。いま話題の「ゾンビ映画」です、はい。
 実はこの映画、プロモーションではなぜかゾンビ映画だということが徹底して伏せられています。この部分が強調されると観客の動員数に悪影響があるのでしょうか。それと知らずに鑑賞する人が少なからず出てきそうです。実際、劇場にもいました、上映終了後に「えーっ、この映画、ゾンビが出てくる映画だったんだ。ブラピがゾンビ映画ってすごいねー」という人たちが。
古くはジョージ・ロメロの『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』にはじまって、サム・ライミの『死霊のはらわた』、最近ではダニー・ボイルの『28日後』などいわゆるゾンビモノはそれなりに見てきていたので、今回のブラピ主演の話題作も見てみようという気になったのでした。

 突如発生した謎のウィルスが瞬く間に世界中へと広がった。そのウィルスに感染した人はゾンビと化し、他の人を襲う。爆発的な感染力で増加するゾンビたち。平和な日常風景は一変し、各国は崩壊状態に陥る。元国連捜査官の主人公ジェリー(ブラッド・ピット)は旧知の仲の国連事務次官に呼び出され、ワクチン開発の情報収集のための調査隊に同行するよう依頼される。家族の安全を条件に依頼を引き受けたジェリーはウィルスの謎を解明するため混乱する世界へ向けて旅立つ。果たして世界は救われるのか、ジェリーとその家族の運命は…
 というのがあらすじ。現在公開中ということもあって、あえてネタばれはやりません。

 ストーリー的にはツッコミどころが多々あるのですが、さすがハリウッド大作、映像は圧巻の一言です。予告編やテレビCMでフィーチャーされていた映像も劇場の大スクリーンで見ると迫力が違いました。「ゾンビ映画」というよりもゾンビが出てくるパニック映画といったほうが正確かもしれません。この手の作品では定番だったグロテスクな描写はほとんどなく、カップルや家族連れでも充分鑑賞可能なレベルです(まさか家族連れで鑑賞できるゾンビ映画が出てくるなんて!)。一方で、パニック映画ならではのハラハラドキドキ感も失われてはいません。
 そして、ブラッド・ピットは今作でも相変わらずカッコいい。49歳とは思えないです。
 ちなみに、本作中に「北朝鮮」が描かれる場面があります(正確には、映像で描かれているのではなく、登場人物の台詞を通じてですが)。劇中、世界中の国々がゾンビの増殖によって壊滅状態に陥るのですが、イスラエルと「北朝鮮」だけが感染を免れます。登場人物の元CIA職員によって語られたその理由とは…。答えは劇場で直接確かめてみてください。相変わらずのステレオタイプな描かれ方で、思わず脱力してしまいました。
 近々、もう一つの話題作、『パシフィック・リム』も観にいこうかと思っています。(相)

朝鮮人虐殺を書き残した日本の市民たち

2013-08-22 09:00:00 | (瑛)のブログ
 

 毎日通う職場の玄関には、むくげの花が綺麗に咲いています。むくげを見ると、毎年訪れる関東大震災の日を思い出します。3日前に完成したイオの9月号では、40年の長きに渡って関東大震災の朝鮮人虐殺問題に取り組んでいる歴史家の山田昭次さん(83、埼玉県在住)と、朝鮮人が警察に拳銃で撃ち殺された荒川河川敷の傍に仲間たちと碑を建て、90年前の出来事を伝え続けている「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会」の西崎雅夫さん(53、東京都在住)について書きました。

 1923年9月1日、午前11時58分48秒に関東地方を突然襲ったマグニチュード7.9の激震は未曾有の災害をもたらしました。「大震災」の混乱の中、地震発生の9月1日の午後から「朝鮮人が放火した」「井戸に投薬を投げた」などの流言が飛び交い、関東一円で軍が、自警団を組織した一般民衆が、朝鮮人を捕え、虐殺しました。信じがたいことですが、当時は警察官が「朝鮮人を殺しても差し支えない」と言ったので、一般民衆の多くが竹やりや日本刀を持って朝鮮人を熱狂的に虐殺したのです。

 3日には内務省警保局長名で「朝鮮人暴動」の打電が発せられます。日本の植民地時代に行われた大量虐殺(ジェノサイド)-。しかし、この大事件は日本が国を挙げて証拠を隠滅したため、殺された朝鮮人の数を知ることはいまだは不可能です。

 このような話をブログで書くと、その真偽を疑うコメントが寄せられますが、今回の取材を通じて、朝鮮人虐殺を目撃した日本の民間人の多くがこの事実を文書で書き留めていることを知り、その良心に救われる思いがしました。
 それは、冒頭に紹介した西崎雅夫さんがまとめられた「関東大震災時 朝鮮人虐殺事件 東京フィールドワーク資料」(計3冊)に記されています。冊子の中からその一部を紹介します。



 「…横浜方面から避難してきた朝鮮人は容赦なく自警団の手で殺された。この事変で重症を負い、あるいは無残にも殺された朝鮮人が続々と品川警察署へ担架で引き取られ、あるいは引張られて行くのを見て、私は悲壮な感に打たれた。
 食うものは全くなくなった。隣の人に頼まれて、若者ばかり数人連れで、平塚村戸越のとある米屋へ2俵の玄米をとりに行くことになった。途中で人が黒山になって騒いでいるのに出あった。何か見ると、朝鮮人が2人電柱に縛り付けられているのであった」(米田実男『歴史の真実・関東大震災と朝鮮人虐殺』1975年)

 当時、四谷第五尋常小学校6年だった後藤光重さんの文章です。
 「…八丈丸はいかりをあげてお台場沖へと逃げましたが、ここもあぶないというので品川沖に逃げました。…僕等は早く上陸したいとあせっていましたが、船員達に『今上陸しても鮮人騒ぎで歩けないからもう少し待て』と言われました。やがて我々は上陸し…その夜、またおそろしい光景をまのあたり見せられました。今考えても身が縮まるような心地がします。それは鮮人騒ぎで、3人まで日本刀やピストルで惨殺されるのを見せられたことでした。血刀をひっさげた男が『お前達もみな殺すのだぞ』と私たちの前へ来た時には、恐ろしさにふるえあがりました。その晩はねむれませんでした」(東京市四谷第五尋常小学校編『震災記念、児童の実感』より)

 当時、早稲田大学の聴講生だった俳優で演出家の千田是也さんは、朝鮮人に間違われ、殺されそうになった体験を書いています。千田さんは自身が書いた『決定版・昭和史4』(1984年)で、「異常時の群集心理で、あるいは私も加害者になっていたのかもしれない、その自戒をこめてつまり千駄ヶ谷のコレヤン(Korean)という芸名をつけたのである」と関東大震災の体験を自身の人生に重ねてあわせていました。

 また映画監督の黒沢明さんは、井戸の外の塀に白墨で書かれた変な記号を指して、大人たちが、「それは朝鮮人が井戸へ毒を入れた目印だと言うのであきれ返った」話を書いています。その「記号」とは、黒沢さんが書いた落書きだったからです。

 「…下町の火事の火が消え、どの家にも手持ちの蝋燭がなくなり、夜が文字通りの闇の世界になると、その闇に脅えた人達は恐ろしいデマゴーグの俘虜になり、まさに暗闇の鉄砲、向こう見ずな行動に出る…関東大震災の時に起こった、朝鮮人虐殺事件は、この闇に脅えた人間を巧みに利用したデマゴーグの仕業である」(黒沢明『蝦蠆の油-自伝のようなもの-』1984年)

 この冊子は東京都の23区別に証言をまとめており、官憲が流した朝鮮人暴動の流言蜚語も区別に紹介されています。東京にお住まいの方は、ぜひこの冊子を手に取ってみてください。


東京都墨田区八広に建てられた朝鮮人虐殺追悼碑。加害者が日本の民衆だったことが記されている

 それにしても、これはすべて私たちと同じ人間がやったことという重い事実をどう受け止めればいいのでしょうか。証言の一つひとつを読むと、90年前になぜ人々が根も葉もない流言を信じて、隣人を殺めてしまったのか、という「人殺し」の正体がゆらゆらと立ち上がってきます。

 歴史を実体験することが難しい以上、残されたものから学ぶしかない-。多くの証言はそのことを教えてくれます。

 ※冊子については、http://www.maroon.dti.ne.jp/housenka/の連絡先までご連絡を。(瑛)


月刊イオ9月号が完成しました

2013-08-21 09:00:00 | (K)のブログ

 月刊イオ9月号が出来上がりました。

 特集は「朝鮮戦争―停戦から平和へ」。今年の7月27日は、朝鮮戦争停戦から60年に当たります。停戦というのは完全に戦争が終わったわけではなく、「双方が撃つのをやめている」状態に過ぎません。そのような状態が60年も続いているということは異常なことです。現実に、朝鮮半島は緊張しており、いつ戦争が起こってもおかしくない状況です。
 特集は、朝鮮戦争とはどのような戦争だったのかを検証し、平和構築への道を探る内容となっています。
 停戦から60年を迎えた朝鮮からの報告「ルポ 戦争の傷跡を訪ねる」では、米軍による民衆虐殺があった信川と、分断の最前線にある板門店を訪ねました。米軍により両親を殺され自らも両腕を奪われたリ・オクフィさんはじめ3人の朝鮮の人々に朝鮮戦争とその後の60年間を振り返ってもらった「民衆と朝鮮戦争」も現地・朝鮮からの報告です。
 朝鮮戦争の本質に迫る「朝鮮戦争とはいかなる戦争だったのか―平和の回復なき60年を経て」、停戦後の朝米関係を振り返る「朝米の60年―停戦状態の中の朝鮮半島―」、朝鮮戦争研究の今日的な成果を語った「『朝鮮戦争像』の根本的な転換迫る―最近の朝鮮戦争研究について」、日本が朝鮮戦争にどのようにかかわったのかを解説した「朝鮮戦争と日本」と、豊富な内容で特集が組まれています。

 特別企画は「ウリハッキョの夏休み」。朝鮮学校では初級部から大学生まで夏休みに様々な行事や活動を行います。少年団キャンプやトト理科教室、部活に社会活動、祖国訪問など、有意義に過ごす朝鮮学校の子どもたちの姿を追いました。

 その他、「関東大震災朝鮮人虐殺から90年、語り部たちを追う」の記事では、関東大震災時にあった朝鮮人虐殺の真相を追ってきた人々を紹介しています。
 「何が何でもハッキョを守りたい―広島・朝高生と卒業生110人が提訴」の記事では、「高校無償化」から朝鮮高校が除外されている問題で、広島朝鮮学園と広島朝鮮初中高級学校の生徒・卒業生110人が原告となり国を相手に提訴したことを伝えています。
 「観戦記 ハイレベルの大会制した朝鮮の高技術」の記事では、サッカーの女子東アジアカップで朝鮮が優勝したことと、大会で北と南の選手たちがともに抱き合い喜びを分かち合った感動的な出来事を紹介しています。
 9月号もいつものように充実した内容でお届けします。

 まだ残暑が続いていますが、9月号の表紙は秋らしい紅葉の中のとある同胞一家の写真です。気分だけでも涼しくなっていただければと思います。月刊イオ9月号、ご愛読をお願いいたします。(k)

充実した里帰り

2013-08-20 09:00:00 | (麗)のブログ
お盆休みで一週間地元に帰郷していましたが、それもあっという間に終わり、昨日から仕事再開です。

今年のお盆休みは、私には珍しく、たくさんの人と会った日々でした。
主に同じ小学校の友達と会っていたのですが、大阪に帰ってきて何の前触れもなくいきなり夜のウォーキングに誘われ、この暑いなか公園まで歩き、昔話に花を咲かせていました。
私がお好み焼きが食べたいと漏らせば明日食べに行こう!と誘ってくれました。
翌日、生野区で有名なお好み焼き屋「オモニ」へ。約10年ぶり、二回目の「オモニ」のお好み焼き、これぞ本場の味で美味しかったです。

土曜日には、小学校時代の同級生たちとの同窓会に参加しました。ここでもやはり、小学校時代の思い出話。
誰々がイタズラをして先生にこっぴどく叱られた、誰々が誰々を好きだったなど…もう腹がちぎれるくらい笑ってた気がします。

なかには「そんなことあったっけ?」という誰も知らないエピソードを語り出した子もいました。
あまりにも皆が覚えていないと言うので「じゃあ私が夢見てたんかな?」としょんぼりしていました。
その子には「多分そうやわ」と言っておきました。笑

みんな外見は大人っぽくなりましたが、懐かしいあの頃のままで、何だかとても胸があつくなりました。
たまにはこんな夏休みもいいなぁと思った里帰りでした。^^


最後に、写真はイオ編集部たちのお土産です。
最近はスティック系のお菓子が流行りなのか、私のお土産だけだけ浮くという事態に。
そろそろこのお好み焼きせんべい以外の何かを買わなければ…。(麗)

お盆休み

2013-08-19 09:00:00 | (理)のブログ
 約5ヶ月ぶりに帰省してきました。飛行機で1時間半。本当にあっという間です。帰省のたびに楽しみなのは、町の変わり様です。数年前にはじめてマクドナルドができたときは、「おおーついに来たか」と町のみんなが少し浮き足立っているような雰囲気がありました(田舎です)。

 地元に帰るのは年に2、3回なので久しぶりに帰って町が変わっていると、住みなれた所なのに新しい発見があって楽しいです。今回変わっていたものは、西松屋ができていたこと、文化センターを工事していたこと、公園に新しい遊具ができていたこと、町の象徴とも言えるビジネスホテルが閉館になっていたこと…。少し寂しい変化もありました。

 久しぶりに中学校の同級生にも会いました。当時よく行ったファミレスは今もまだ健在で、いつもの席に座って話していると、中学生の頃となにも変わっていないんじゃないかと思うこともありました。でも、1人は1児の母(!)。1人はしっかりと公務員をしていてなんだか不思議な感覚でしたが、こうして変わらず集まってとりとめもない話で盛り上がれるのはいいことだとしみじみと思いました。ちなみに私は少し前に髪を切ったのですが、私が小1のときの髪型とたまたま似ていて「見た目も全然変わってない!」と騒がれました。それもどうかと…。(理)

念願の…

2013-08-12 09:00:00 | (理)のブログ
 先週の水曜日、やっと自動車免許を取得してきました。思えばこの数ヶ月間、実家に電話しても必ずプレッシャーをかけられ、楽しい会話も一瞬にして険悪なものになり、近況報告で両親にメールを送っても返ってくるのは「ところで免許どうなった?」という一行のみ。心の休まるときがありませんでした。挙句の果てには「受からなかったら帰って来れないよ」という厳しい言葉。最近の2週間は自分から一切の連絡を絶ち、生まれて初めてアボジからのメールも無視しました。そろそろ本当に期限が危ないのと、このままではお盆休みに帰省できないということで覚悟を決めて行ってきました。

 仮免許証と卒業証書を忘れてしまい、ダッシュで引き返したものの午前の受付を逃すという展開に不吉な予感を感じつつ、午後の試験で無事合格。一気に肩の荷が下りました。本当は家族には内緒にしておいてブログを通して報告しようと計画していたのですが、嬉しさのあまり免許証の写真を添付してすぐにメールを送ってしまいました。その日の夜に改めて連絡すると電話越しにアボジの安堵の声が聞こえてきて、相当な心配をかけたんだなと反省しました。ものごとを極限まで後回しにしてしまうクセを本気で直さないと。いつもそれで痛い目にあうか、ものすごい気苦労を溜めてしまいます。

 初めて手にした念願の免許証ですが、唯一納得のいかないのが顔写真です。座って表情を整える間もなく、1人5秒ほどで撮られる証明写真。できあがったものを見ると想像以上に間抜けな顔で結構ショックでした。

 なにはともあれ明日からお盆休み。9月号の締め切りも終わり、運転免許証も手にして、なにひとつ心配ごとのない状態で地元に帰れるのが幸せでなりません。1週間、避暑地でくつろいできます。(理)

夏休みの思い出

2013-08-11 09:00:00 | (愛)のブログ
イオ9月号工程がようやくひと段落しました。
あと残すはもう一工程だけ。
(麗)さんが書いていた編集部の殺伐とした雰囲気を乗り越えて
夏休み前のタイトなスケジュールの締切りを終え、やっと夏休みを迎えます。
夏休み、といえば、イオ9月号の特別企画は「ウリハッキョの夏休み」です
小学生から大学生まで、ウリハッキョに通う子どもたちの夏休みの過ごし方を
写真をメインに紹介します。

私が過ごした夏休みの思い出といえば、
小学校低学年のときはオンニ、オッパたちが先生をしてくれた夏期学校、
高学年から中級部時代は舞踊部の厳しい練習と合宿に、高校時代は美術部の作品制作、
大学時代は絵を描くバイトにいそしんでいた記憶があります。

低学年のころの夏期学校は、宿題もみてもらったものの、
近所のスーパーでやっていたお化け屋敷にいったり、支部の中でスイカ割りをしたり、
皆で市民プールにいったりとただただ楽しかった思い出だけが残っています。
遊びまくって、宿題が追いつかず、
結果夏休みが終わる数日前に慌てて宿題をまとめてやった記憶も。

反面、部活が始まってからは秋に行われる芸術競演大会の予選突破に向けて、
厳しい舞踊部の練習と、合宿の夏休みでした。
練習のために、いつもは通学バスで寝ていれば着く学校までの道程を、
電車で1時間半かけて通ったり、
合宿期間は皆で寄宿舎に泊まりながら朝から晩まで厳しい練習に汗を流したり。
(何度も厳しいと書いてしまうほど本当に厳しい練習だったのです。。。

高校時代は美術部にシフトしたので、学生美術展覧会に出す作品の制作に追われてました。
成績は入選、銅賞とあまり芳しくなかったですが、
個人のペースで制作できたのでとても楽しく、有意義でした。
ただ夜の学校の美術室だけはリアル肝試しでこわくてこわくてしょうがなかったです。

大学時代は美術展覧会に審査のお手伝いや、
研究生のときは仲間とともに焼肉屋の店舗に飾る絵を描くバイトをしていたりしました。
(少し前までお台場の店舗にあのころ描いた絵が貼られていましたが、いまもあるのでしょうか)
仲間たちとあーだこーだと言って過ごす日々はとても楽しかったです。

大人になったいま思うと長期にわたる夏休み、
旅行にでもいければよかったな~と思ったりもしますが、
学生時代はその時なりの夏休みの過ごし方を精一杯していたのかなとも思います。

私の地元では、セミがミンミンうるさすぎるほど鳴く時期はもう夏休み終盤で、
セミの音とともに
(あ~ながい夏休みが今年もおわっていくな~)と感慨深げに何度も思い、
その時の夏休みを振り返ったりしていました。

「夏休み」。色んな思い出がよぎるこの言葉が私は好きです。(愛)