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クロアチア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
クロアチア共和国
Republika Hrvatska
クロアチアの国旗 クロアチアの国章
国旗 (国章)
国の標語:なし
国歌Lijepa naša domovino(クロアチア語)
私たちの美しい故国
クロアチアの位置
公用語 クロアチア語
首都 ザグレブ
最大の都市 ザグレブ
政府
大統領 ゾラン・ミラノヴィッチ
首相 アンドレイ・プレンコビッチ
面積
総計 56,542km2124位
水面積率 0.2%
人口
総計(2020年 410万5000[1]人(128位
人口密度 73.4[1]人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2023年 7315億1600万[2]ユーロ (€)
GDP(MER
合計(2023年734億900万[2]ドル(79位
1人あたり 1万8451.271[2]ドル
GDP(PPP
合計(2023年1612億460万[2]ドル(82位
1人あたり 4万0484.514[2]ドル
独立ユーゴスラビア社会主義連邦共和国より
1991年6月25日
通貨 ユーロ (€)(EUR[注釈 1]
時間帯 UTC+1 (DST:+2)
ISO 3166-1 HR / HRV
ccTLD .hr
国際電話番号 385

クロアチア共和国(クロアチアきょうわこく、クロアチア語: Republika Hrvatska)、通称クロアチアは、南ヨーロッパバルカン半島にある共和制国家である。首都はザグレブ

本土では西にスロベニア、北にハンガリー、東にボスニア・ヘルツェゴビナセルビアと国境を接している。南はアドリア海に面し、対岸はイタリア飛び地ドゥブロヴニクでは東にモンテネグロと接している。

ユーゴスラビアを構成していたが、1991年に独立した。

国名

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クロアチア語での正式名称はRepublika Hrvatska Hr-Republika Hrvatska.oga 発音[ヘルプ/ファイル]。通称 Hrvatska [xř̩ʋaːtskaː](フルヴァツカ)。

公式の英語表記は Republic of Croatia。通称 Croatia [kroʊˈeɪʃə] ( 音声ファイル)(クロエイシャ)。

日本語の表記はクロアチア共和国[3]。通称クロアチア漢字表記では克羅地亜呉呂茶など。クロアチア語による正式名称の発音は片仮名表記にするならフルヴァツカが近いが、フルヴァツカと表記されることはあまりない。「クロアティア」とはラテン語読みである。

歴史

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クロアチアの統一

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9世紀になると、北方・西方からフランク王国、南方・東方から東ローマ帝国の圧力が強まった。カール大帝治世の9世紀初めには一時的にフランク王国の版図に含まれ、この時にカトリックを受容している。以降クロアチア(Duchy of Croatia)はカトリックの一員となっている。こうした中、両勢力を牽制しつつヴラニミル英語版がクロアチア統一を進め、879年にローマ教皇ヨハネス8世から独立国家として認められた。その後、トミスラヴのもとでクロアチア王国は発展をとげるが、彼の死後しばらくして、後継者争いから内乱へ突入した。

同君連合

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このことがハンガリー王ラースロー1世の介入を招き、次のハンガリー王カールマーンが、1102年クロアチア・ダルマチアの王として戴冠を受けた。これによって、クロアチア(ここでのクロアチアはザグレブを中心とする地域)とスラヴォニアハンガリー王国との同君連合の枠組みの中に組み込まれた(en)。ハンガリー王はクロアチアに広範な自治を認め、その際におかれた太守(総督)はバン(バーン)と呼ばれた。

オーストリア=ハンガリー帝国

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オーストリア=ハンガリー帝国時代の行政区分(1910年

この後15世紀にはオスマン帝国に征服され(Ottoman wars in Europe)、その領域に組み込まれた(軍政国境地帯の内クロアチア軍政国境地帯スラヴォニア軍政国境地帯にあたる領域はオーストリア=ハンガリー帝国側に残った)。

18世紀末までに、オーストリア、ハンガリーによって回復されている(ハプスブルク領クロアチア王国)。これ以来ハプスブルク体制寄りの姿勢をとり、1848年三月革命の際にはクロアチア人の軍人イェラチッチがハンガリーなどでの革命の鎮圧に活躍している。1867年オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立するが、ハンガリーがクロアチア=スラヴォニア王国に対して認めていた自治権も併せて、実態的には「オーストリア=ハンガリー=クロアチア三重帝国」であったとする研究も存在する[要出典]。クロアチアは帝国内の他地域と比較しても体制側に協力的だった。

一方で、アドリア海沿岸のダルマチアは他2地域とは別の歴史をたどった。ダルマチアは10世紀末にヴェネツィア共和国の植民地になった。複雑な海岸とそれに連なる島々で構成されるダルマチアは天然の良港の宝庫であり、海洋国家ヴェネツィアにとって非常に重要な地域となった。ラグサ共和国として半独立していた時期もあるが、ナポレオン期のフランス帝国イリュリア州1809年 - 1816年)を経て、以降1815年のウィーン会議においてオーストリア帝国直轄領(ハプスブルク領イリュリア王国、ハプスブルク領ダルマチア王国)になるまでヴェネツィアの支配が続く。なお、オーストリア直轄となった点も、ハンガリー王国領域であった他2地域と歴史的性格を異にする。

ユーゴスラビア王国

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1918年第一次世界大戦の敗北からオーストリア・ハンガリーが崩壊。オーストリア・ハンガリーから離脱したスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国は、南スラブ民族による連邦国家の構成と言うセルビア王国の提案を受けて、セルブ=クロアート=スロヴェーン(セルビア・クロアチア・スロヴェニア)王国の成立に参加。1929年は国名をユーゴスラビア王国に改名した。しかしこの連邦国家にはクロアチア人側から、セルビア人に対して政府をコントロールしているのはセルビア人であるとする反発が大きく1939年にはこの不満を解消する目的で、広大なクロアチア自治州セルビア・クロアチア語版英語版を設定したが、批判も多かった。

クロアチア独立国

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クロアチア自治州の設定だけでは満足しないクロアチア人勢力は、アンテ・パヴェリッチを中心として、クロアチアの独立を掲げる民族主義団体ウスタシャを設立。1941年反独クーデターによる親英政府打倒の為ユーゴスラビアに侵攻したナチス・ドイツの支援を背景として、クロアチア、ダルマチア、スラヴォニアとヴォイヴォディナボスニア・ヘルツェゴヴィナの一部に跨るクロアチア独立国を成立させる。それ以降、ユーゴスラビア共産党を中心とするパルチザンおよび旧ユーゴスラビア王国軍の成員を中心としたチェトニックとの間で凄惨な戦闘が繰り返される。クロアチア独立国内にはヤセノヴァツ強制収容所などの収容所が各地に建設され、大規模な迫害と虐殺を行っていた事でも知られる[4]

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国

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ユーゴスラビアの混乱状態は、ユーゴスラビア共産主義者同盟が指導するパルチザンによってユーゴスラビアが自力解放されることによって収束された。戦後、以前のユーゴスラビアの枠組みの中で国家の再建が目指され、以降このパルチザン闘争を主導したヨシップ・ブロズ・チトーの巧みなバランス感覚と、カリスマ性によって多民族国家ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は維持された。しかし、1980年にチトーが死去したことを皮切りに、幹部会システムの導入や経済状況の不安定化によって、各共和国・自治州において不満が噴出しはじめた。クロアチアはユーゴスラビア連邦政府に忠実な立場を取り続けたが、1980年代半ばからスロボダン・ミロシェヴィッチを中心とするセルビア共和国とスロヴェニア共和国の対立が深まると、次第にスロヴェニアと歩調を合わせるようになっていった。

独立

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独立した旧ユーゴスラビア諸国(2008年

東欧革命以降、旧東欧地域でそれまで一党独裁の地位にあった社会主義政党自由選挙を認め民主化の気運が高まると、ユーゴスラビアでもこれを認め1990年に戦後初の複数政党制による自由選挙が実施された(Croatian parliamentary election, 1990)。クロアチアではユーゴスラビアからの自立を掲げるフラニョ・トゥジマン率いるクロアチア民主同盟(HDZ)が勝利し、政権を掌握。以降ユーゴスラビア・セルビアとの関係は険悪化の一途をたどっていった。

1991年3月2日には、スラヴォニアの帰属(西部に西スラヴォニア自治区英語版クライナ・セルビア人自治区英語版、東部に東スラヴォニア・バラニャおよび西スレム・セルビア人自治州)をめぐってクライナ・セルビア人自治区軍とクロアチア警察軍英語版の間でにらみ合う事態となり、3月31日にはプリトビツェ湖群で両者が衝突し、死者を出す事態となった(プリトビツェ湖群事件英語版)。クロアチアの独立を目指す準備は着々と進められており、5月19日には独立の可否を問う国民投票が実施され、93%の圧倒的多数が賛成票を投じた[注釈 2]。これを受けて6月25日スロべニアと同日に独立を宣言した。

一方でクロアチア領内にも多く住むセルビア人は、クロアチアの独立に反対していた。この地域はクライナ・セルビア人自治区(→クライナ・セルビア人共和国)として、クロアチア政府による統治を拒否する構えを見せた。また、セルビア人保護を目的に、ユーゴスラビア連邦軍がクロアチアに介入した。これに対抗したクロアチア軍は、9月半ばにはユーゴスラビア軍との全面衝突クロアチア紛争へと進む。結果1995年に戦闘が終結するまでに大量の死者とセルビア人難民を生み出した。 これはクロアチア軍がセルビア人自治区を襲撃し、迫害を避けるためにセルビア人はユーゴスラビア地域へ退避移住せざるを得ない状況に陥ったことによる。破壊を避けるために先祖代々の墓も退避せざるをえない悲劇であった。移住せざるを得なかったセルビア人は20万人以上と言われている。その地域をクロアチア人居住区として併合することにより民族浄化路線を完了させる。

なお、クロアチア政府は1992年以降、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争にも介入し、セルビア人勢力やボシュニャク人勢力とともに戦闘、民族浄化を繰り広げた。

クロアチアのEU加盟

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クロアチアの欧州連合(以下EUとする)加盟交渉は、2005年中にスケジュールが組み立てられ、2008年1月に発足したサナデル内閣は2010年のEU加入を目標とした。

ただし、クロアチアの加盟交渉の開始に当たってはオランダハーグに設置されている旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷から訴追されているクロアチア軍退役将軍アンテ・ゴトヴィナの同法廷への引渡しが条件となっていた。これに対してはクロアチア国内の民族派からの抵抗が大きく当初2005年3月に予定されていた加盟交渉の開始は、この条件が満たされないことを理由に見送られることになった。同年10月3日から行われたEU緊急外相会議において、トルコ及びクロアチアに対する参加交渉の開始をめぐる議論が行われ、翌4日にクロアチアに対しての加盟交渉の開始が決定された。

当初クロアチアの加盟交渉開始の障害となっていたアンテ・ゴトヴィナは同年12月初頭にスペインカナリア諸島で身柄を拘束され、ハーグの旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷に移送された。

2008年、クロアチアのNATO(北大西洋条約機構)への加盟が認められ[5](実際の加盟は2009年4月)、軍事的に旧西側諸国の枠の中であると認識されるようになった。

その後、欧州委員会はクロアチアとの加盟交渉を終了し、同国のEU加盟を加盟27カ国に提案する方針を2011年6月に固めた。

2012年1月22日の国民投票で3分の2の賛成を得、議会によるEU加盟条約の批准を経て、2013年7月1日にクロアチアは正式にEUに加盟した[6]。28番目のEU加盟国であり[注釈 3]、旧ユーゴスラビア構成国家での中ではスロべニアに続く2例目となった。

2023年1月1日にユーロ通貨を導入し[7][8]シェンゲン協定にも参加した[9]

政治

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バンの宮殿

1990年憲法制定以来、クロアチアは民主主義を標榜している。1990年から2000年までは半大統領制、それ以降は議院内閣制を採用している。国家元首である共和国大統領は国民の直接選挙による選出で、任期は5年、2期までと定められている。

大統領は軍の最高司令官であり、議会の同意のもと首相を任命し、国家元首として外交政策に影響を及ぼすものの、主に儀礼的な役割を果たす[10]ザグレブの大統領宮殿の他、避暑地のブリユニ島フヴァル島に邸宅を所有している。

国会(サボル)は2001年まで二院制を取っていたが、上院(州議院)が廃止され、現在は一院制である。サボルの議員定数は100〜160人の可変で比例代表制によって選出される。任期は4年。本会議は1月15日から7月15日までと9月15日から12月15日まで行われる。

2024年4月17日に総選挙が行われ、与党のクロアチア民主同盟が65議席を獲得し第一党の座を維持した。親ロシア的とされるゾラン・ミラノヴィッチ大統領系のクロアチア社会民主党を中心とする中道左派連合は、42議席に留まった[11]

政府(ヴラダ)は副首相と14名の閣僚を率いる首相を首班とする。行政機関は予算案、法案の策定に責任を持ち、共和国の外交、内政を実行する。政府公邸はザグレブのen:Banski dvoriバンの宮殿、クロアチア社会主義共和国時代には大統領府)である。

地理

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クロアチアの地図

クロアチアの国土は大まかに

の4地方に分かれる。

ドゥブロヴニク地方は、ボスニア・ヘルツェゴビナネウムによって分離され、飛び地となっている。そのためユーゴスラビアからの独立後は本土とドゥブロヴニクの間の移動の際に同国の検問所を通過するため不便さがあったが、2022年に両地域の間に、長大橋「ペリェシャツ橋」が開通したことでこれらの地域が直接行き来できるようになった。

地方行政区分

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クロアチアは20地方(županije, županija - 単数形)と1直轄市(grad - 単数形)に分かれる。

経済

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首都ザグレブ
リエカ

IMFによると、2024年の名目GDPは約880億ドルである[12]。一人当たりの名目GDPは13,401ドルで、旧ユーゴスラビア諸国の中ではスロベニアに次いで2番目に高い。

鉱業

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クロアチアの鉱業は同国の経済において補助的な役割しか果たしていない。原油(104万トン)と天然ガス(74千ジュール)は同国のエネルギー消費量の数%をまかなうに過ぎない。金属鉱物資源は産出せず、塩などが見られる程度である。

交通

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陸路、航空路、水路交通(ならびに河川舟運)は次のように整備されている[13](クロアチアの交通はザグレブ中心なので、ザグレブ#交通に詳述されている)。

道路

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国道には1号線(オーストリア国境〜ザグレブスプリト)、3号線(ハンガリー国境〜ザグレブ〜リエカ)、8号線(リエカ〜ザダル〜スプリト〜ドブロブニクモンテネグロ国境)などがあり、高速道路はA1(ザグレブ〜ザダル〜スプリト〜プロツェ、E71)、A2(オーストリア国境〜ザグレブ、E59)、A3(スロベニア国境〜ザグレブ〜スラヴォンスキ・ブロドセルビア国境、E70)、A4(ザグレブ〜ハンガリー国境、E70E65)などが近年急激に整備されてきた。[14] 都市間の移動には中長距離バスが利用されていて、便利である。市内の移動には、バス、路面電車(ザグレブなど)、タクシーなどが利用できる。

鉄道

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ザグレブ中央駅

ユーゴスラビア鉄道が解体されたあとのクロアチア鉄道国有鉄道)が運営している。主な路線にはザグレブヴィンコヴツィ、ザグレブ〜オシエク、ザグレブ〜リエカ、ザグレブ〜スプリトなどがあり、さらに隣国のオーストリア、スロベニア、ハンガリー、セルビアなどへの国際列車も多い。

航空路

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クロアチア航空がある。空港はザグレブ(ザグレブ国際空港)、リエカ、スプリト、ドブロヴニクなどにあり、各社の航空機が発着している。

水路

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リエカ、ザダル、スプリトに大きな港があり、アドリア海ではヤドロリニヤブルーライン・インターナショナル英語版(スプリト〜アンコーナ)などの海運会社も活躍していて、アドリア海に面した有名観光都市(リエカ、ザダル、スプリト、ドブロヴニク、および諸島)へは各社の豪華客船の寄港も多い。ヴコヴァルドナウ川)、スラヴォンスキ・ブロドサヴァ川)などでは河川も利用されている。

国民

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民族

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民族構成(クロアチア)
クロアチア人
  
90.4%
セルビア人
  
4.4%
ボシュニャク人
  
0.7%
その他
  
4.5%

住民は、クロアチア人が90.4%である。その他、セルビア人が4.36%、ボシュニャク人が0.7%などとなっている。クロアチアにおけるクロアチア人の割合はクロアチア紛争以降高くなっており、クロアチア紛争によってクロアチアに在住していたセルビア人の多くが難民としてクロアチア国外に退去したか、あるいは死亡した一方で、ボスニアからのクロアチア系難民が多く流入したものと見られている。民族浄化の最も成功した例といえる。

言語

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クロアチアのクロアチア語の方言の地図

言語はクロアチア語ラテン文字が公用語であり[注釈 4]、広く使われている (96%)。一部セルビア語を使うものもいる (1%) が、この二つは文字が違う(セルビア語はキリル文字とラテン文字を使用)程度でほとんど同じ言葉であり、その違いは日本語の共通語(東京地域)と大阪弁の間の違いよりも小さいといわれる。実際、旧ユーゴスラビア時代はセルビア・クロアチア語という一つの言語として扱われていた。

婚姻

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婚姻時、改姓しない夫婦別姓も、配偶者の姓に改姓することも、複合姓とすることもいずれも選択が可能である[15]

宗教

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宗教は、大部分がローマ・カトリック(中心はザグレブ大聖堂)である (86.3%)。残りは、セルビア正教会が4.4%、イスラム教が1.3%、プロテスタントが0.3%などである。

教育

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日本語教育

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2014年現在、ザグレブ大学ザダル大学で日本語教育が行われている[16]

保健

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クロアチアは、世界における平均余命で約50位にランクされており、男性は73歳、女性は79歳であり、乳児死亡率は出生1,000人あたり6人と低かった[17]

治安

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クロアチアの治安状況は、一般に中・東欧諸国の中で比較的安全とされている。しかし、観光シーズンである夏季を中心として、同国を訪れた日本人旅行者から「スリ被害に遭った」との情報が頻繁に寄せられているとの報告が続いている為、十分な注意が求められている[18]

人権

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マスコミ

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文化

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ネクタイは元々がクロアチア人の風習であったことから、ネクタイを指す言葉が各国語で「クロアチア」を語幹に使っている例がある(フランス語: cravateスペイン語: corbataなど)。

食文化

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同国の料理は主に以下のものが知られている。

文学

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音楽

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クロアチアの民俗音楽は地域によって大きく異なる。北部では旋律リズムがハンガリーと似ているが、タンブリツァによる伴奏がクロアチア的であるとされ、ヴァイオリンツィンバロムといった構成はあまり使われない。また、リズムにハンガリー民謡のようなシンコペーションは見られない。男性合唱による「クラパ」はダルマチア地方ではいまでも盛んに行われていて、観光客もよく耳にする。[19] また、1919年に創立されたザグレブ四重奏団も名高い。

ディスコグラフィー

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  • "Songs & Dances from Croatia"(Zagreb Folk Dance Ensemble / Dr.Ivan Ivančan - Mentor / EUCD 1500, dinaton & ®©1900, ARC Music Productions Int.Ltd.[20])
  • "Folk Music from Croatia"(Tamburaski Sastav "Veritas"(Tambura Ensemble "Veritas") / EUCD 1078, ARC M.P.Int.Ltd.)

映画

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1954年に設立されたプーラ映画祭英語版や1999年に設立のモトヴン映画祭英語版が有名であり、2003年からは首都ザグレブにおいてザグレブ映画祭英語版(ZFF)が開催されている。

また、「ZagrebDox」と呼ばれる国際ドキュメンタリー映画祭が毎年2月下旬から3月上旬にかけてザグレブで開催される。

建築

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クロアチアはヨーロッパ諸国において建築の歴史が長い国の一国に数えられている。

世界遺産

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世界遺産ドゥブロヴニク旧市街

クロアチア国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が1件ある。

祝祭日

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祝祭日
日付 日本語表記 クロアチア語表記 備考
1月1日 元日 Nova Godina(ノヴァ・ゴディナ)
... 復活祭および復活祭後の月曜日 Uskrs i Uskršnji ponedjeljak(ウスクルス・イ・ウスクルシニ・ポネディイェルイェヤク) 変動あり
5月1日 メーデー Međunarodni praznik rada(メジュナロドニー・プラズニク・ラダ)
イースターより60日後 聖体の祝日 Tjelovo (ティイェロヴォー) 移動祝日
6月22日 反ファシスト闘争記念日 Dan antifašističke borbe(ダン・アンティファシスティチュケ・ボルベ)
6月25日 国家の日 Dan državnosti(ダン・ドルジャヴノスティ)
8月5日 解放の日 Dan pobjede i Dan domovinske zahvalnosti(ダン・ポブイェデ・イ・ダン・ドモヴィンスケ・ザファルノスティ)
8月15日 聖母被昇天の祭日 Velika Gospa(ヴェリカ・ゴースパ)
10月8日 独立記念日 Dan nezavisnosti(ダン・ネザヴィスノスティ)
11月1日 諸聖人の日 Dan svih svetih(ダン・スヴィ・スヴェーティー)
12月25日 クリスマス Božić(ボージチュ)
12月26日 ステファノ殉教者の祝日 Sveti Stjepan(スヴェーティー・スティエパン)

スポーツ

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サッカー

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2018 FIFAワールドカップ」準決勝でのサッカークロアチア代表

サッカーはクロアチア国内で圧倒的に1番人気のスポーツであり、旧ユーゴスラビア時代から数多くの世界的な名選手を輩出している。1992年にはサッカーリーグのプルヴァHNLが創設された。ディナモ・ザグレブハイドゥク・スプリトダービーマッチである『ヴィエチュニ・デルビ』は、地域主義に根差したライバル意識が強く、サポーター同士の衝突が頻繁に発生する。

クロアチアサッカー連盟(HNS)によって構成されるサッカークロアチア代表は、FIFAワールドカップには1998年大会で初出場を果たし、3位の好成績を収めた。さらに2018年大会では旧ユーゴ時代を通しても初となる決勝進出を果たし、フランス代表に2-4で敗れたものの準優勝に輝いた。キャプテンルカ・モドリッチは、同大会でゴールデンボール(最優秀選手)を受賞し[21]、さらに同年にはFIFA最優秀選手賞バロンドールも獲得している[22]2022年大会では日本代表PK戦で下した上で強豪ブラジル代表を破り、3位に入賞した。

バスケットボール

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アリーナ・ザグレブ

クロアチアでは多くのNBA選手を輩出しており、クロアチア代表は独立後の1992年に結成された。初めてのオリンピックとなったバルセロナ五輪では、マイケル・ジョーダンマジック・ジョンソンらを擁する初代ドリームチームを相手に決勝で敗れたものの、初出場で堂々の銀メダルを獲得した。また、1994年世界選手権でも銅メダルを獲得している。さらにユーロバスケットでは、1993年大会1995年大会で銅メダルを獲得した。しかし、1996年アトランタ五輪で7位に終わった後は長らく低迷が続いた。2008年北京五輪でアトランタ大会以来の五輪出場を成し遂げ、再び復調の兆しをみせている。

テニス

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クロアチアはテニスも盛んであり、世界ランク2位を記録したゴラン・イワニセビッチからイワン・リュビチッチイボ・カロビッチマリオ・アンチッチマリン・チリッチと、常に長身のビッグサーバーを輩出するテニス大国である。2005年には国別対抗戦であるデビスカップで、イワン・リュビチッチマリオ・アンチッチの2人を中心に世界一に輝いた。

著名な出身者

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脚注

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注釈

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  1. ^ 2022年以前の通貨はクーナクロアチアのユーロ硬貨も参照。
  2. ^ セルビア系住民の大半は投票をボイコットした。
  3. ^ 当時はイギリスも加盟していたため。2020年1月のブレグジットにより、参加国数は27カ国となった。
  4. ^ クロアチア共和国憲法クロアチア語版英語版第12条で明確に定められている。

出典

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  1. ^ a b UNdata”. 国連. 2021年11月6日閲覧。
  2. ^ a b c d e World Economic Outlook Database” (英語). IMF. 2023年1月2日閲覧。
  3. ^ クロアチア基礎データ”. Ministry of Foreign Affairs of Japan. 2022年10月2日閲覧。
  4. ^ 石田信一. “旧ユーゴスラヴィア諸国と第二次世界大戦をめぐる歴史認識”. ヨーロッパ統合と国民国家の歴史認識. 地域研究コンソーシアム. 2020年3月23日閲覧。
  5. ^ NATO首脳会議が開幕、アルバニアとクロアチアの加盟を承認”. AFP (2008年4月3日). 2022年1月27日閲覧。
  6. ^ “クロアチアがEU加盟、28カ国体制に バルカン半島安定に前進”. 産経新聞. (2013年7月1日). https://web.archive.org/web/20130703162104/http://sankei.jp.msn.com/world/news/130701/erp13070107390001-n1.htm 2013年7月1日閲覧。 
  7. ^ 共同通信 (2023年1月2日). “クロアチアがユーロ導入 20カ国目、経済効果期待 | 共同通信”. 共同通信. 2023年1月2日閲覧。
  8. ^ ビジネス短信: クロアチア、2023年1月からのユーロ導入が正式決定、シェンゲン協定にも参加の見通し”. 日本貿易振興機構 (2022年7月14日). 2022年7月29日閲覧。
  9. ^ ビジネス短信: EU理事会、2023年1月からのクロアチアのシェンゲン協定参加を正式決定”. 日本貿易振興機構 (2022年12月12日). 2022年12月13日閲覧。
  10. ^ クロアチア、来月22日に大統領選実施へ”. ロイター (2019年11月14日). 2019年11月14日閲覧。
  11. ^ 親欧州与党が第1党 大統領派野党に勝利―クロアチア総選挙:時事ドットコム”. 時事通信社 (2024年4月18日). 2024年5月30日閲覧。
  12. ^ Report for Selected Countries and Subjects” (英語). IMF. 2024年6月10日閲覧。
  13. ^ 『地球の歩き方、クロアチア スロベニア』(ダイヤモンド・ビッグ社、2011年)
  14. ^ "Auto Karte Trsat, Hrvatska" (Trsat Polo d.o.o., 2012)
  15. ^ Obiteljski zakon (Family Law), CROATIAN PARLIAMENT, 2015.
  16. ^ [1] 在クロアチア日本国大使館公式サイトにおける大使の挨拶、2014年12月22日閲覧。
  17. ^ Croatia” (2015年5月10日). 2022年1月29日閲覧。
  18. ^ クロアチア 安全対策基礎データ「犯罪発生状況、防犯対策」”. 外務省. 2022年1月29日閲覧。
  19. ^ 『Lonely Planet, Croatia』 (Lonely Planet Publications, 2011)
  20. ^ ARC MUSIC
  21. ^ クロアチア・モドリッチ最優秀選手賞 ケーン得点王 - 日刊スポーツ、2018年7月16日
  22. ^ “モドリッチがバロンドール初受賞で個人3冠!…メッシは12年連続トップ3逃す”. サッカーキング. (2018年12月4日). https://www.soccer-king.jp/news/world/world_other/20181204/872243.html 2020年2月26日閲覧。 

関連項目

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外部リンク

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政府
日本政府
観光
その他