樋笠一夫(ひがさ かずお)とは、元プロ野球選手である。故人。
OB | |
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樋笠一夫 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 香川県坂出市 |
生年月日 | 1920年3月20日 |
没年月日 | 2007年6月17日 |
身長 体重 |
176cm 68kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 外野手 |
プロ入り | 1950年 |
引退 | 1957年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
高松中学校に進学。1934年には夏の甲子園大会に出場しベスト8まで勝ち進んだが、川上哲治擁する熊本工業に敗れている。
卒業後、陸軍騎兵学校へ進み、陸軍大尉まで昇進。戦時中は南方方面への輸送部隊の指揮官として活動し、バンコクまで軍馬を200頭を輸送した。
終戦後、広島鉄道局、三井鉱山美唄でプレー。その後、尽誠学園高等学校で監督を務める傍ら、同校で体育や社会、珠算などの教師としても学生たちを指導していた。
1949年末、広島カープ入団を決めていた中山正嘉の誘いを受け、30歳ながら広島に入団を決めた。なお、中山は広島の監督であった石本秀一の命を受けて樋笠を勧誘したようである。
1950年、新興球団故に選手層の薄い広島において、長谷川良平や白石勝巳らとともに奮闘。クリーンナップの一角を任され、打率.219ながら21本塁打、72打点を記録し、白石とともにベストナインにも選出された。
ただ給料の遅配が続き、30歳という年齢であったことから広島を退団。野球から離れて地元坂出市で友人とともに醤油製造会社の経営を始めたが、1951年、読売ジャイアンツから熱心に勧誘されたことから同球団に入団を決めた。
当時の巨人は青田昇、与那嶺要、南村侑広ら等、外野の選手層が厚かっため控えとしてプレー。その後、勝負強い打撃を評価され、代打の切り札の草分け的存在として活躍。1951年は31試合の出場ながら打率.370、3本塁打、8打点を記録、日本シリーズでは代打本塁打を放つなど活躍を見せた。
1953年からは青田が移籍したこともあり外野のレギュラー争いに加わり、1953年には12本塁打、1954年には11本塁打を放っている。
1955年以降は再び代打中心の起用となり、1956年の中日ドラゴンズ戦では杉下茂からNPB初となる代打逆転サヨナラ満塁本塁打を放つなど、勝負強さが光った。
引退後は巨人で二軍監督を努めた後、社会人野球のヤシカの監督や近鉄バファローの打撃コーチや寮長を務めた。
その後は球界から離れ、マスコミ関連の企業で定年まで勤務した後、運送会社でも勤務した。
晩年老人ホームのカラオケ部会の指導委員など社会福祉活動にも貢献していたようである。
2009年1月16日、2007年6月17日に死去していたことが報じられた。享年87歳。
持ち前のパンチ力と勝負強さ、高い集中力を武器に、代打という少ない出番でも活躍を続けた「元祖代打の切り札」。日本野球における代打という役割の草分け的存在といえる。
古風なスタイルを好んでいたようであり、日常生活だけでなく試合中もふんどしを愛用していた他、どてらを着込み、キセルでタバコを吹かしながら河川敷を散歩することも珍しくなかったようである。
1956年3月25日に樋笠の代打逆転サヨナラ満塁本塁打というあまりにドラマチックな展開で勝利したことを記念して、3月25日は「ドラマチックデー」に定められている。
通算:8年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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NPB | 548 | 1557 | 1376 | 181 | 315 | 54 | 194 | 25 | 7 | 3 | 168 | 3 | 199 | 47 | .229 | .314 |
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最終更新:2025/01/20(月) 16:00
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