長野電鉄とは、長野県北部に鉄道路線を有する地方私鉄である。略称は「長電(ながでん)」。
概要
須坂や中野といった千曲川東岸地域(河東地区)と国鉄線の接続による産業輸送近代化を目的とした「河東鉄道」を発祥とし、その後県都である長野との接続を図るべく「長野電気鉄道」を設立し須坂-長野間を開業、両社を統合して発足したのが現在の長野電鉄である。山の内線開業により湯田中・渋温泉や志賀高原の開発を進めるなど観光開発にも注力し、スキーブームの先鞭となった。
(Wikipediaより)
上述の湯田中・渋温泉や志賀高原への観光路線であると同時に、県都である長野市と周辺都市を結ぶ都市交通路線としての性格も持ち、地方私鉄としては珍しく「都市交通を担う鉄道路線」として長野都市圏の公共交通の基幹軸に位置づけられている。そのため地方私鉄としては珍しく路線の一部が複線となっている。(長野線:長野-朝陽間)また、平日朝は長野駅方面に向かっての朝ラッシュが見られる。
それだけではないのがこの長野電鉄で、地方私鉄としては大変珍しく、日中は上記の観光輸送のため、朝夕は通勤通学の利用客のために特急列車を運行している。現在特急列車で使われている車輌は1000系・2100系ともに首都圏で活躍していた車輌であり、大手私鉄と肩を並べるクオリティである。
さらに、極一部だが長野市の中心部2kmほど(長野線:長野-善光寺下間)は地下区間となっている。(暗いとか汚いとか薄気味悪いとかいっちゃいけない)
この地下区間が生まれた理由は長野市の都市計画により、交通渋滞が激しく地域を分断している長電の長野市の中心部を立体交差化することになったのだが、当初長電は工費や地形を理由に高架化を希望していたものの、長野市側が地域の景観や環状道路の整備、降雪対策を理由に地下化を要望したためである。
当該区間は1981年に地下化され、地下化後、計画通り地上部分は片側2~3車線の長野大通りという環状道路に転用された。長電が地下化されたのは大都市にある最近開業した地下鉄よりも早く、とても先進的な都市計画であったと言える。
また、国土交通省の認定する正式な地下鉄ではないながらも長野電鉄では過去路線図に「地下鉄区間」と記載していたこともあった。大都市の地下鉄の一部が周辺都市に延伸されている例(都営新宿線など)を別にすると、このような地下駅を複数有する”地下鉄”が存在するのは政令市以外では長野市だけである。(終着駅だけが地下化されている例は奈良市の近鉄奈良駅や金沢市の北鉄金沢駅などが存在する)
最近では、志賀高原にほど近い地獄谷野猿公苑のお猿さんが温泉に浸かる姿を見に多くの外国人観光客が訪れ、長野電鉄がその輸送に一役買っている。2100系「スノーモンキー」の由来もその温泉に浸かるお猿さんである。
とはいえ、地方私鉄のご多分に漏れず長野線以外の経営は厳しく、木島線・屋代線をそれぞれ廃止するなど必ずしも好調とはいえない。
なお鉄道以外にも、長電バス株式会社やつばめ長電タクシー等の交通系の会社を初めとして、広告・不動産・ガソリンスタンド・旅行代理店・ホテル等の事業もグループ会社と言う形で行っている。
歴史
河東鉄道と長野電気鉄道
1888年、官設鉄道の信越本線が開業し、善光寺平(長野盆地のこと)に初めて鉄道が走り始めた。
とはいえ、信越本線が通ったのは千曲川(信濃川)の左岸であり、右岸の町(松代・須坂・中野など)は鉄道に取り残された形となってしまった。
そこで、その右岸地域に鉄道を引き、信越本線と接続しようという機運が高まり、河東鉄道が設立。(千曲川右岸=川の東側なので河東)
当時、路線を作るのに必要な路線免許は東信の養蚕家らによって設立された佐久鉄道(現:JR小海線の前身)が保有していた。佐久鉄道は南は甲府で富士身延鉄道(現:身延線の前身)と接続し、北は直江津・長岡まで至る本州縦断鉄道となる壮大な計画の一部として、この路線の免許を取得していた。河東鉄道はこれを譲り受けて路線を建設し始めた。そのため河東鉄道は佐久鉄道の影響を強く受けており、社長には、佐久鉄道から相談役の神津藤平が派遣され就任した。結局佐久鉄道の壮大な夢は昭和恐慌なども重なり儚い幻に終わってしまったのだが、それはまた別の話。
1922年、信越線から30年ほど遅れて屋代-須坂間が開業したのを皮切りに、どんどん河東地域に鉄道を伸ばしていき、1925年には木島まで全線開業。翌1926年には早くも全線電化された。
この神津藤平という人、佐久出身の人物なのだが結構すごい人で慶応義塾で福沢諭吉に学び、阪急電鉄創始者である小林一三とは慶應義塾では同期だったという。卒業後は東京電燈に入社。その後、地元の佐久鉄道に相談役として入社して長電へ、という経歴をたどっている。
一方、左岸の県都長野市とも鉄道を結ぼうという計画も出てきて、長野電気鉄道が設立。こちらも神津藤平が社長に就任し、社員も河東鉄道からの派遣だったので実質同じ会社といえる。1926年に権堂-須坂間を開業させた。この路線は会社名の通り、最初から全線電化でしかも権堂-吉田町(現:信濃吉田)間は最初から複線で開業するという当時としては非常に豪華な路線だった。
この路線の開業の際、問題になったのが千曲川を渡る橋の建設で、資本金の約半分にも当たる100万円の工費が必要だと試算され、単独での架橋が無理だと考えた電気鉄道側が長野県側に共用で橋をかけることを依頼。県側も今までの船橋を止めて、永久橋を建設したかったことから快諾。県側6割・電気鉄道側4割の工費を出して、旧「村山橋」が建設された。橋の全長は814mで当時県下第一位の橋であった。現在は長電・国道406号共に新村山橋に切り替えられたが、この新橋も旧橋と同じく併用橋となっている。
長野電鉄へ
そして、両者は権堂須坂間開業からわずか3ヶ月後、河東鉄道側に電気鉄道側が吸収される形で合併。現在の「長野電鉄」が誕生した。
長野電鉄となってからは、1927年に平穏線(ひらおせん→開業わずか4ヶ月で山の内線に改名)信州中野-湯田中間を開業。翌1928年には長野線の長野-権堂間を開業させ、念願の長野駅乗り入れを果たした。
ちなみに、電気鉄道時代に長野駅まで一気に開業できなかったのは、沿線の鍋屋田小学校の校庭を通るか通らないかでモメたからというのはここだけの内緒である。
ちなみに、山の内線の終点にあたる湯田中駅の奥に広がる志賀高原の由来は、神津藤平の出身地である北佐久郡志賀村(現:佐久市)が由来である。神津は志賀高原の開発に全力を注いだ。これは前述した小林一三の沿線開発で乗客を増やすという手法に影響を受けているのかもしれない。この神津のお陰で、志賀高原は1998年の長野オリンピックの会場に選ばれたり、現在でもスキーヤーに大人気の全国屈指のスキー場として発展した。
その後、長電は更に路線拡大を試み、今度は千曲川左岸の現:千曲市八幡や上山田温泉まで路線をのばそうとしたり、山の内線を渋安代温泉まで延長したり、木島から飯山鉄道(現:飯山線)の戸狩駅まで路線を伸ばそうと、かなり意欲的に路線拡大をしようとしていたようだが、昭和恐慌などを理由に諦め、しばらくこの路線形態が続いた。
全盛期到来
戦争を乗り切り、1956年に信濃吉田-朝陽間を一駅だけ複線延伸。1957年からは地方私鉄初となる特急列車を当時最新鋭の2000系を自前で用意して運行開始。当初は2編成だったが運行開始後さらに2編成を追加導入するなど大変人気を博した。ちなみにこの特急料金、乗車距離に関わらず一律100円(小児半額)とかなり安い。
この頃から、長電は同じく特急列車を運行する富山地方鉄道などと並び「地方私鉄の雄」と称されるほどとなった。
1967年には朝ラッシュ対策に自前で製造した20m通勤用車両0系「OSカー」がローレル賞を受賞し、1980年にそれを元に改良を施した10系「新OSカー」を製造し、更に1981年には前述の地下化もあり、難燃化対策のために東急から譲り受けた2500系を大量導入して長野線から旧型車両を一掃するなど普通車両にも力を入れた。
ちなみに、OSカーで採用された赤と黄色のツートンが、OSカー導入後、2000系など他の車両にも波及していき、現在の長電ツートンカラー(りんご色)が定着した。現在、鉄道車両では赤と白の塗り分けや赤帯のみの塗り分けなどとなっておりこのツートンは見ることができないが、グループ会社の長電バスでは現在でもこのツートンカラーを見ることが出来る。
1998年には世界的大イベント、長野オリンピックの開催が決まり、なんと自社が力を入れて開発した志賀高原が会場の一部に選ばれた。鉄道もオリンピックに合わせて力を入れて、2500系置き換えのために営団から譲り受けた3500系を導入し、また輸送増強として北須坂・延徳の2駅を交換駅化。2004年まで長野-須坂間は毎時4本の普通列車に毎時1本特急が走る地方私鉄とは思えない高頻度のパターンダイヤで運行されていた。
衰退、そしてこれからへ
しかし、オリンピック終了後はモータリゼーションが進んだことによる利用者の減少から2002年3月31日に木島線信州中野-木島間を廃止。それからちょうど10年後の2012年3月31日には長電最初の路線である屋代線屋代-須坂間を廃止、とわずか10年で路線規模は半分以下になるほど縮小してしまった。また、2004年以降は自慢の高頻度パターンダイヤも崩壊し、現在では普通が毎時2-3本程度、特急が1時間半に1本程度となってしまった。
そんな中、2006年12月9日からは2000系に変わる新車両、1000系「ゆけむり」を小田急電鉄から譲り受けて運行開始。2011年2月26日には引き続いて2100系「スノーモンキー」をJR東日本から譲り受けて運行を開始し、最近は、地獄谷野猿公苑の人気上昇に合わせて外国人観光客利用者も増加するなど依然経営は厳しくも、明るい話題も多い。
路線
現在、以下の1路線のみを有している。
なお、2002年9月18日までは以下の3線を有していたが、同年4月1日の河東線一部区間(木島線)の廃止を受け、実際の運行形態に合わせて現長野線・屋代線に改められた。
ちなみに屋代線が協議会が作られるなど危ないので、来るときは是非乗ってやってください。
→屋代線が協議会での投票により、廃止決定となりバス路線への転換となってしまったorz 2011年3月中に廃止届を国に提出し、2012年3月31日限りで木島線に次ぐ廃止となった。
車両
用 途 | 列車形式名・愛称 | 概 要 |
---|---|---|
特急用 | 1000系電車 「ゆけむり」 |
元:小田急10000系電車「ロマンスカーHiSE」 |
2100系電車 「スノーモンキー」 |
元:JR東日本253系電車「成田エクスプレス」 新型車置き換えによりJRから譲渡。2011年2月26日より運行開始。 車内日本語アナウンスは地元TV局SBC(信越放送)の山崎昭夫アナが担当。 JR時代のグリーン個室が、長電では「Spa猿~ん」と命名され1,000円で利用できる。 ただ、長野寄りの2両はJR時代のお見合いシートがそのままとなっていたりと欠点もある。 3両編成2本、E1・E2編成で運用。 E1編成はN'EX時代の色を、E2編成は長電オリジナルの色をまとって運行している。 |
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普通用 | 8500系電車 | 元:東急8500系電車 新型車置き換えにより東急から譲渡。2004年9月2日より運行開始。 ブレーキの関係から急勾配の旧山の内線区間では運行できない。 当初は9編成導入予定だったが現在は6編成のみとなっている。 3両編成6本、T1-T6編成で運用。 |
3000系 |
元:東京メトロ03系電車 |
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3500/3600系電車 「マッコウクジラ」 |
元:営団地下鉄3000系電車 |
かつては新車製造に意欲的であり、1957年には地方私鉄ながら当時最新の設備をふんだんに詰め込んだ特急用の2000系車両を製造、1967年には0系「OSカー」でローレル賞を地方私鉄ながら受賞したり、80年にはそれを元にした10系「新OSカー」を製造していたが、80年代以降は他の地方私鉄同様首都圏の様々な路線から売却・譲渡されてきた電車が主力となっており、2003年5月3日の新OSカー引退によって普通用オリジナル車両は消滅。更に、2011年のスノーモンキー導入による2000系引退により完全にオリジナル車両は消滅した。
しかしながら、元の路線の沿線にはない風景や、譲渡元ではあり得なかったはずの電車の組み合わせを見ることができるため、鉄道ファンには割と有名である。
きっぷ
特急列車の利用には、通常の乗車券の他に、特急券100円(小児半額)が必要。
販売箇所は切符によって異なるので注意! 詳しくは、長野電鉄ホームページ-各種乗車券を参照。
- 長電フリー乗車券
- ながでん鉄道・バス2DAYフリーきっぷ
- ホリデーフリーチケット
- 湯っ蔵んどセットクーポン
- 日帰り「楓の湯」クーポン
- SNOW MONKEY PASS
- ながでんお達者パス
- ながでんシネマキップ
- お帰りきっぷ/楽楽きっぷ
関連動画
関連リンク
関連項目
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- 0pt