楢山佐渡(1831~1869)とは、幕末に活躍した人物である。
概要
盛岡藩士。諱は隆志。一名は隆吉。大柄で白皙の美丈夫と伝わる。
盛岡藩士・楢山帯刀の長男。また叔母の楢山烈は盛岡藩主・南部利済の側室で、後の藩主・南部利義と南部利剛を産んだ、ということで歴代藩主の従弟にもあたる。
天保11年(1840年)に南部利済から日々登城を下命され、嘉永6年(1853年)には家老となった。慶応4年(1868年)に上洛し、京都で動静を探っていったが、この頃岩倉具視から薩長の野心を正すため、奥羽諸藩は同盟して抵抗せよとの密旨を受け取ったとも受け取っていないとも。
かくして戊辰戦争が始まり奥羽越列藩同盟が結成されて盛岡藩もこれに加わるも、藩の方針は定まらなかった。ここで楢山佐渡は寝返った秋田藩の討伐を進言し、盛岡藩は抗戦の道に進む。楢山佐渡の率いる部隊は大館城を攻略するも、直後に藩主・南部利剛より降伏の意思決定を伝えられる。
関連項目
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