その多大な功績により「大尾形」と称された、日本競馬を代表する調教師。
概要
尾形藤吉 おがた とうきち |
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
性別 | 男性 |
出身地 | 北海道有珠郡伊達町 (現・北海道伊達市) |
生年月日 | 1892年3月2日 |
没年月日 | 1981年9月23日 |
調教師情報 | |
所属団体 | 日本競馬会 (1936-1948) 国営競馬 (1948-1954) 日本中央競馬会(JRA) (1954-1981) |
所属厩舎 | 調騎兼業・東京 (1911-1936) →東京競馬場 (1936-1978) →美浦T.C. (1978-1981) |
初免許年 | 1911年 |
引退日 | 1981年9月23日(死亡) |
重賞勝利 | 189勝(1932年以降) |
GI級勝利 | 39勝 |
通算成績 | 14,103戦2,776勝 (1937年以降) |
表彰・記録 | |
調教師テンプレート |
1892年(明治25年)、北海道有珠郡伊達町の開拓農家の次男として生まれる。父・大河原栄次郎、母・尾形キク[1]。初名は大河原藤吉を名乗った。
1907年、地元の大火事を見舞いに来た大叔父・阿部哲三のつてにより新冠御料牧場へ向かい、そこで馬術見習い生になった。翌年には馬市参加のために北海道を訪れていた菅野小次郎(園田実徳お抱えの騎手兼調教師)に見いだされ、菅野に誘われる形で上京。目黒競馬場で菅野厩舎に弟子入りすることになった[2]。
1911年、宮内省主馬寮勤務の多賀一に専属騎手として雇われ菅野厩舎から移籍。多賀との出会いにより宮内省運営の下総御料牧場との繋がりができた。
1916年、多賀が多忙となったことにより厩舎の一つを譲り受け、騎手兼調教師として独立した。
1923年にはようやく馬券発売が解禁され、同時期の尾形もチヱリーダッチェス、アストラル、フロラーカツプ、クヰンフロラー、アスベルなどで当時の大競走である帝室御賞典や優勝内国産馬連合競走を勝利している。
1932年に日本ダービーが創設されると尾形も自厩舎の馬に跨り出走。第4回目までに2着2回という成績を残した。第3回には大久保亀治騎手に任せたフレーモアが勝利。調教師としての日本ダービー制覇を成し遂げている。
1936年、競馬倶楽部の統合により日本競馬会が誕生。日本競馬会が調騎分離の方針を打ち出したことにより尾形は騎手を弟子達に任せることに決め、以降調教師専業になった。騎手としては日本ダービーに勝利することは出来なかったものの、帝室御賞典は最多記録となる11勝を挙げた。
調教師専業になってからは第1回菊花賞をテツモンで勝利したのを皮切りにアステリモアで第1回優駿牝馬、タイレイで第2回桜花賞を勝利するなど多くの大競走に勝利。戦中にはクリフジで変則クラシック三冠を達成した。
戦後の1952年には残っていた皐月賞をクリノハナで勝利し、五大クラシックを完全制覇した。
1957年にはハクチカラで第2回有馬記念を勝利。八大競走完全制覇を成し遂げている。その後ハクチカラはアメリカへ遠征し、弟子の保田隆芳が日本へモンキー乗りを普及させるきっかけにもなっている。
1960年以降はさすがに戦前・戦後直後の勢いとまではいかなかったものの、61年のハクシヨウによる日本ダービー勝利。そして63年のメイズイ、グレートヨルカ2頭での牡馬クラシック三冠独占を達成。66年にはコレヒデが天皇賞(秋)、有馬記念を連勝して年度代表馬に輝いている。
1969年にはワイルドモアで皐月賞を、シャダイターキンで優駿牝馬を勝利。12度目の年間最多勝を受賞した。国営競馬からJRAに移行してから69年まで尾形は1度も関東の最多勝を譲らず、レース数が現在よりも少ない中で5度の三桁勝利を成し遂げていた。
1970年代以降、戦後から尾形厩舎に馬を預けていた有力馬主の死や引退、弟子たちの独立、自身の腰の怪我などにより、尾形は徐々に成績を落としていった。1977年にラッキールーラで東京優駿を勝利したのが70年代唯一の、そして最後の八大競走勝利になった。
1981年9月27日に89歳で死去。当日のセントライト記念ではメジロティターンが勝利し、これが最後の重賞勝利になった。
人物・エピソード
- 当初は大河原藤吉と父方の姓を名乗っていた。しかし母方の相続人が早世したため、1909年8月に母方の家名を継いて尾形藤吉と改姓した。
- 1911年5月、目黒競馬場での新呼馬戦で落馬転倒して16日間も意識不明となる大怪我をした。そのため厄払いとして改名し、1911~1946年は尾形景造と名乗っている。
- 戦前の競馬は現在のようなスポーツというよりは「師匠と弟子」からなる徒弟制度が色濃い世界だった。そんな中でも尾形は非常に厳しいことで全国にまで知られていて、当時日本一を争うような成績を収めていた弟子たちでさえステッキで殴られ、他の調教師も挨拶するにも怖かったと言われていた。その反面自分にも同じだけ厳しく、師匠としての威厳もあって人望は非常に厚かったという。
- 馬を選ぶ際には血統を最重要視し、栗林友二、西博など、大馬主の力もあって良血馬を多く手掛けた。しかし本人は安馬で好成績を挙げる事も「馬を買うことで一番の妙味」と同じくらい喜んだという。
- 長男の尾形盛次、孫の尾形充弘は、当初は競馬とは異なる職に就いていたが、1970年代に藤吉の腰が悪化したため調教助手として呼び戻された。2人とも後に調教師として独立し、盛次はメジロティターンで天皇賞を、充弘はグラスワンダーで有馬記念などに勝利した。
ニコニコ大百科に記事のある主な管理馬
- テツモン - 京都農林省賞典四歳呼馬(1938年)、帝室御賞典(秋)(1939年)、軽半血種。
- タイレイ - 中山四歳牝馬特別(1940年)。
- クリフジ -東京優駿競走(1943年)、阪神優駿牝馬(1943年)、京都農商省賞典四歳呼馬(1943年)、JRA顕彰馬、11戦11勝無敗。
- イツセイ - 安田賞(1951年)、トキノミノルの2着5回。
- スウヰイスー - 安田賞(1953年)、松山吉三郎厩舎からの転厩。
- ハクチカラ - 東京優駿(1956年)、天皇賞・秋(1957年)、有馬記念(1957年)、ワシントンバースデーH(1959年)、JRA顕彰馬。
- メイズイ - 皐月賞(1963年)、東京優駿(1963年)。
- コレヒデ - 天皇賞(秋)(1966年)、有馬記念(1966年)
- メジロアサマ - 後の天皇賞馬(1970年)、種牡馬。
- メジロティターン - セントライト記念(1981年)、後の天皇賞馬(1982年)、種牡馬。
関連動画
関連コミュニティ
関連リンク
関連項目
JRA調教師・騎手顕彰者 | |
騎手 | 野平祐二 | 保田隆芳 | 福永洋一 | 岡部幸雄 | 河内洋 | 郷原洋行 | 柴田政人 |
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調教師 | 尾形藤吉 | 松山吉三郎 | 藤本冨良 | 武田文吾 | 稲葉幸夫 | 二本柳俊夫 | 久保田金造 | 伊藤雄二 | 松山康久 | 橋口弘次郎 | 藤沢和雄 |
騎手・調教師テンプレート |
中央競馬の三冠達成調教師 | ||
クラシック三冠 | 牡馬三冠 | ★田中和一郎 | 尾形藤吉 | 藤本冨良 | ★武田文吾 | ★松山康久 | ★野平祐二 | 布施正 | ★大久保正陽 | ★池江泰郎 | 角居勝彦 | 長浜博之 | ★池江泰寿 | 友道康夫 | ★矢作芳人 | |
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牝馬三冠 | 尾形藤吉 | |
変則三冠 | 尾形藤吉 | |
中央競馬牝馬三冠 | 稲葉幸夫 | ★奥平真治 | 松田由太郎 | 鶴留明雄 | 松田博資 | 伊藤雄二 | ★松本省一 | 西浦勝一 | 松田国英 | ★★国枝栄 | ★石坂正 | ★杉山晴紀 | ★中内田充正 |
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古馬三冠 | 春古馬 | 達成者無し |
秋古馬 | 岩元市三 | 藤沢和雄 | |
★は同一馬による達成者。変則三冠、古馬三冠は同一年達成者のみ。 | ||
調教師テンプレート |
脚注
- *1898年(明治31年)までは妻が「所生ノ氏」(実家の氏)を用いる夫婦別姓が義務づけられていた。
- *当時の日本競馬は全国に乱立する競馬倶楽部により各々の競馬場が独自に競走を開催していた。また、馬券の発売は禁止されていた。
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