ヨハン・シュトラウス2世単語

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ヨハン・シュトラウス2世1825~1899)とは、19世紀に活躍した作曲である。通称「ワルツ王」。
なお、世界的にもよりも彼のほうが圧倒的に有名なため、単なるヨハンシュトラウスといえば彼をさすことが多い。

概要

ワルツヨハン・シュトラウス1世本妻アンナの間に生まれる。は彼の音楽教育に反対した結果アンナと疎遠になり、愛人エミーリエと同棲を始める。しかし、息子のヨハン・シュトラウス2世は結局音楽家としてのを歩み、19歳でデビューをする。その演奏会では父親の『ローレライラインの歌』を敢えて取り上げた。

こうしてウィーンでは対決が繰り広げられたのだが、父親ヨハン・シュトラウス1世はメッテルニヒの失脚に盛大に巻き込まれた挙句、翌年にあえなく病死。以後、ヨハン・シュトラウス2世のみが頂点に君臨することとなった。なお、同じくアンナの子である・ヨーゼフ・シュトラウスとエドゥアルド・シュトラウス揮者兼作曲として活動し、を支えていった。

ヨハン・シュトラウス2世は多忙な身ではあったものの、1862年にトデスコ男爵の内妻で、もともと歌姫であったヘンリエッテ結婚する。以後ヘンリエッテはその財産とかつての経験から夫を私共に支えていく。こうして諸々が一段落すると、揮者の仕事に任せて作曲に集中。『美しききドナウ』といった1860年代の傑作が生まれていく。しかし、1870年にアンナよりも才があるとまで言わしめた・ヨーゼフ・シュトラウスが亡くなる。

ヨハン・シュトラウス2世はこの状況にに陥るも、妻・ヘンリエッテの勧めで、当時ジャック・オッフェンバックが名を博していたオペレッタへのを開く。こうして『インディゴ』を皮切りに、『こうもり』、『ジプシー男爵』などに続いていき、ウィーンフランツ・フォン・スッペ人気を分かち合うほど、オペレッタは彼の新しい柱になったのであった。

しかし、そんなヘンリエッテ1878年に死去。ショックを受けたヨハン・シュトラウス2世は若い女優であるアンゲリーカと再婚するも、すぐに不倫をされ、結局離婚してしまう。しかし、この離婚の結果ヨハン・シュトラウス2世は再度音楽に邁進し、1883年にフランツ・リストと意気投合して『』を生み出すなど、脂がのっていく。さらに3人の妻であるアデーレに支えられていき、1899年についに炎によって、幸せなままで73歳の生涯を終えた。しかし、結局彼に子供はおらず、現在シュトラウス一族は・エドゥアルド・シュトラウスの系統が続いている。

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ヨハン・シュトラウス2世

1 ななしのよっしん
2021/01/17(日) 16:00:07 ID: tRJ2xQlYq8
クラシックというより軽音楽に属するのかもしれないけど、大好きな作曲
「南バラ」「皇帝円舞曲」「もろびと手をとり」「入江ワルツ」なんかが好き
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