hopscotch!

2009-12-30 13:20:49 | Weblog
 木の枝でメジロたちがはしゃぎ回っている。秋の終わりに比べて少し太ったように見えるのは冬に備えてのことだろうか。それとも僕の気の所為かもしれない。

 エジプトに帰ったAが京都に戻りたがっているという話を聞いた。自分の生まれて国へ戻って、教授だか準教授だかになった彼にどういう不満があるのか知らないけれど、「最近連絡してくるときはいつもイライラ不満ばかり言ってて、京都に戻りたいって言ってる」とスカイプの向こうでKは教えてくれた。Aは今レジデンスでウィーンにいるらしい。

 京都ではまだ雪は降らない、というと、Kはシュツッツガルドもこの頃は雨ばかりだと言った。
 どうしてAが京都に戻りたがっているのか、正直な話あまり理解できなかった。この狭く小さな街のどこにそんな魅力があるのだろう。エジプトの大学に職を得て、ウィーンで客員をするなんてその方がよっぽど素敵な生活に見える。

 戻りたいというのは多分地理的にだけではなく、時間的なものも含めての話なのだろう。僕達はそんなに沢山一緒にいたわけでもないし、ギクシャクしたところも多少あったけれど、何かとても濃密なものを共有したような気がする。僕はまだ京都にいて、相変わらず沢山の外国人に囲まれて生活しているけれど、前の世代に感じた謎の連帯感は今なくて、時間はあの頃で止まっているかもしれない。

 新年を祝う為ヘルシンキからニューヨークへ飛んでいるP達のことや、シンガポールでズバズバ言いたいことを言っているCのことや、パリで異常な明るさを発しているであろうMやA、ウィーンで飲んだくれているだろうA、ドイツで卒業制作に励むK。
 それからOはトルコでの短いポスドクを終えて、春からワシントンへ行くという。
 それぞれにそれぞれの標準時で2009年の終わりはやって来て、そして2010年なんて未来的年代はやって来る。僕はさる高名な占い師に勝手に占われていて、その人の予言通りこれから爆発的な進展を見せるだろう。2009年で準備は整った。そんなの実は最初から整っていたって話だ。

deep and high.

2009-12-29 14:55:40 | Weblog
 野田恵の弾くピアノから真珠のような物が空間一杯に広がって行く。

 映画「アバター」を見に行くとほぼ満席だったので、代わりに「のだめカンタービレ」を見た。最近映画館なんていつもガラガラだったので、別に大して人もいないだろうと思っていたのは甘すぎたみたいだ。「のだめ」はとても空いていたので、2人で4個の席を占領していたら、その席のチケットを持った人が後でやってきて、でもまあそのまま僕達に席を譲ってくれた。

 のだめカンタービレはとてもチープに演出されたドラマの延長だから、この映画も軽々しいCGで装飾されていて、それらはどちらかというと映画を損ねているような気もする。
 ただ、冒頭に書いたシーンで僕は鳥肌を立ててしまった。それは相変わらず安っぽいCGで描かれたシーンだった。のだめがコンセルヴァトワールの進級試験でピアノを弾いてみせると興が乗った頃にピアノから真珠が噴出す。審査する教官たちもその音に喜ぶ。

 このチープな演出で製作者達が描こうとしたものを、多分僕は欲しいのだ。

 ピアノから流れる音楽を「只の音だ」と割り切ることはとても簡単だし、良く訓練された繊細な耳を持たない人間が、そんな些細な音の違いを追及してどうするのか、とケチを付けることも簡単だ。簡単だし、別にそれだって間違いではない。そういうスタンスだって当然ありだろう。

 でも、たとえばそれらがあまりにも高度で一般人には理解できないとしても、そういった次元で何かを突き詰めるのはやっぱり一つの価値を持つ。のだめの弾くピアノの本当の美しさが、超音楽エリートである審査員にしか分からなくても、それがその審査会場だけで完結していたとしても。

 ただの音楽かもしれないけれど、ただ鍵盤を押さえるという動作に過ぎないかもしれないけれど、僕達はそういった行為を通じてもっと深く遠いところへ行くことができるのだ。

 すべての物事において同じことが言える。

 映画「グッドウィルハンティング」の中で、マッド・デイモン演じる数学の天才青年と、有名な数学教授が2人で黒板の前に座っているシーンがある。二人は黒板を眺めていて、ある瞬間にマッド・デイモンが問題の解法を思い付き、立ち上がって式を黒板に書き始める。その書き始められた式を見た瞬間に教授も解法が分かって、彼も黒板の前へやって来てチョークを持つ。そして二人で一つの式を変形して行って答えを導く。分母と分子にxがあってそれを約分するとしたら分子のxをマッド・デイモンが消し、それとほぼ同時に分子のxを教授が消すというように、ものすごいスピードで二人がチョークを動かし、そして解が得られるとハイタッチを交わす。
 この映画自体はそんなに好きでもないけれど、このシーンはベスト5に入る好きな場面だ。マッドデイモンと教授の2人にしか分からない、ものすごい気持ち良さがあるに違いない。僕も似たようなことは何度か体験している。

 そう、僕はこういうものが欲しい。
 高度に訓練された人間の間でしか共有されない深い喜び。それはきっと真理と呼ばれるものに到る方向なんじゃないだろうか。
 僕には沢山したいことがある。ダイレクトに人々の生活に影響を与える製品を作ったり社会活動をしたりして、世界を変えたいとか、認められたいとかそういうことだって思う。告白するとここしばらくはこういったことの心に占める割合が多きかった。深い世界を見ようとするのは止めにしてもいいんじゃないかと思っていた。だけどやっぱりそういう訳にも行かない。僕はとても深い部分での、この世界の成り立ちを知りたい。

Klaus Haapaniemi!

2009-12-16 15:49:37 | Weblog
 ちょっと久しぶりに書いています。ここ数日はtwitterすら触ってなかった。

 日曜日、京都駅までルカイン展を見に行った。伊勢丹の入口を入ると、クリスマスの飾り付けがしてあって、それがとても面白い作品だったので、僕は買ったばかりのiphoneで誰の作品なのか調べてみた。出て来た名前はクラウス ハーパニエミというフィンランドのデザイナーだった。彼の作品をいくつかネットで見て、それから予定通りにルカイン展を見て、またハーパニエミのディスプレイを見に戻った。ルカインは元々とても好きだったという訳ではなく、単にさくらももこがルカインのことを書いた「憧れのまほうつかい」という本を読んだ直後に展覧会情報が飛び込んで来たので、なんとなく覗いてみただけというのに近かった。だから、ハーパニエミの作品を見ると僕はルカインのことをすっかり忘れて、ハーパニエミのクリスマスオーナメントに心を奪われてしまった。

 そしてインフォメーションカウンターへ行って、「クリスマスが終わったらこの飾り付けを下さい」と言ってみた。答えは案の定NOで、「著作権の関係でそれは絶対にできません。こちらで責任を持って廃棄します」とのこと。

 そこで僕はまたiphoneでハーパニエミを検索して、彼のサイトを見付け、書かれていたアドレス宛てに「僕は京都に住んでいるのだが伊勢丹のクリスマスディスプレイがとても素晴らしかった。伊勢丹にキャンペーンの後で下さいと言うと、著作権の関係だとかで断られたのだが、こんなに素晴らしいものが単に廃棄されるなんて信じられない。僕は転売も何もしないから良ければ伊勢丹に何か一言言ってみてもらえないだろうか」という趣旨のメールを送った。

 次の日返事が返って来た。彼は僕のメールを喜んでくれて、僕にとってもとても嬉しい内容が書かれていた。

 さらにハーパニエミは僕のフィンランド人の友達PとMと出身大学が同じだったので、気を良くした僕はPとMにメールを書いた。Pからは、ハーパニエミ情報へのリンクいくつかに加えて、今日のヘルシンキはマイナス15度でとても寒い、もうすぐクリスマスだが、クリスマスは街を離れて過ごすつもりだ、新年は彼女とニューヨークで過ごす、との返事が、M(彼女は今京都にいる)からは「明日フィンランドから来る弟を迎えにちょうど京都駅へ行くから見てくる、それ。ありがとう」という返事が来た。
 手の平に収まる小さな機械でこれらのやり取りを交わし、世界はどんどん狭く嬉しくなるのだなと思った。

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Klaus Haapaniemi
(クラウス・ハーパニエミ)

1970年、フィンランド生まれ。イラストレーター。
ラハティ(Lahti)大学デザイン学部でグラフィックデザインを専攻。 卒業後、フリーランスで活動、Drop Coffee(フィンランドのコーヒーショップチェーン店)のキャラクター作りを手伝う。その後フィンランドの広告代理店勤務時代にディーゼルの企画に携わり、そのプリントデザインで一躍有名になりました。

現在ロンドンを拠点として活動、リーバイス、マリメッコ、ドルチェ&ガッバーナなど有名ブランドにプリントデザインを提供。また、イタリア在住中の数年間にはファッションハウス バンタン(Bantam)のクリエイティブディレクターも経験。さらにフランスのファッションブランド キャシャレル2006年春夏コレクションでは、衣装のプリントデザインとともに舞台セット用のプリントもデザインするなど、これらの幅広い活動から、今やその評価は『フィンランドで最も豪奢で才能溢れるイラストレーター』とまで称されています。

近年はセルフリッジズ(Selfridges)デパートのクリスマスウィンドウのディスプレイデザインや、セルフリッジズがTeenage Cancer Trustのチャリティー活動の一環として、有名著作人に書かせたクリスマスストーリーという絵本の挿絵も担当。

また、キャラクターやデザインを作り上げ、そのイラストのイメージからロサ・リクソム(Rosa Liksom・フィンランドの有名な女流作家)が物語を書き上げた『Giants』という絵本も出版。 単にイラストレーターという職業にとらわれない彼の仕事に対する考え方が彼のイラストの魅力であり、『英国ファッション・イラストレーターの第一人者』と呼ばれる所以とされています。
彼の非凡な才能に触れられる オフィシャルサイト http://www.klaush.com/ は必見。

制服と定形性。

2009-12-07 20:41:33 | 革命家になろう!
 数日前に書いてアップするのを忘れていました。
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 前回の投稿で、『制服反対!』ということを声高に書いたところですが、昨日の内田樹ブログにタイムリーなことが書かれていて考え込んでしまいました。

 引用します。
『身体運用の同調はおそらく幼児がもっとも早い時期に興味をもち、かつ訓練されることである。
幼児教育が「おゆうぎと歌」を中心に編成されているのはゆえなきことではない。
同一動作の鏡像的反復は脳内のミラー・ニューロンを活性化させる。
ミラー・ニューロンは「鏡像」との同一化能力を強化し、それはそのまま子どもたちを「主体の基礎づけ」に導く。
初等教育でも、同一動作の反復はあらゆる場面で繰り返される。
これを「心身の権力的統制」とか「馴致」とか口走る人は「主体」の存立を不当前提している。
主体が出てくるのは、ずいぶん後の話である。
まず主体を作り上げなければ話にならない。
とにかくミラー・ニューロンが活性化して、鏡像をおのれと「誤認」するという経験を経由しないと主体は始まらないのである。
中等教育でもだから「標準的な身体運用」が強制される。
他者の身体との同調、共感、感情移入、「鏡像とおのれの混同」を経由してはじめて主体性を司る脳機能が基礎づけられるからである。
個性を消すためではなく、個性が育つ基盤を作るために、「他人と同じ動作」をすることが強制されるのである。
「型にはまった」制服や校則を忌避する少年少女たちが、その一方で、彼ら同士の間では、まったく同じような「着崩し」方をし、まったく同じような髪型をし、まったく同じようなメイクを共有し、まったく同じような口調で、まったく同じような内容の話をするのはなぜか。
それは「個性の追求」ではなく、「型にはめられること」を彼ら自身が希求しているからなのである。
それは必要なことなのである。
だが、定型性は定型性として外部から「強制」されるべきだと私は思う。
「外から強制された定型性」はいつか、子どもたちが成熟し、社会的な力がつけば振りはらうことができる。
だが定型的なふるまいを、それを現になしている主体が外部からの強制ではなく、「自分の意思で選んだもの」であると思い込んでいたら、そこからは出ることができない。
押し付けられた定型からは逃れられるが、自分で選びとった定型からは逃れ難い。
他人にかけられた呪いよりも、自分で自分にかけた呪いのほうが解除しにくい。
学校の機能は子どもたちを成熟に導くことであり、それに尽くされる。
標準的な身体運用を強いること、あるいは外見が同一的であるために自他の識別がむずかしくなるような仕掛けを凝らすのは学校という制度が成熟のための装置である以上、当然のことなのである。 (引用終わり)』

 ここでは主体立ち上げの為の道具の一つに制服がカウントされている。そして主体ができたあとはそこから勝手に出て行けば良い。「押し付けられた定型からは逃れられるが、自分で選びとった定型からは逃れ難い」というのはキーに見える。
 うっかり説得されそうになるような上手な話だ。

貴船(もみじトンネル)。

2009-12-05 12:21:31 | Weblog
 そういえばしばらく前に、寮の友達と貴船の紅葉を見に行きました。
 youtubeにだけアップしてすっかり忘れていた。
 叡電が結構頑張っていて、もみじトンネルと称するところを通過するさい消灯します。
 もうほとんど観光客しか乗っていないとはいえ、到ってノーマルな私鉄がいきなり電気を消して真っ暗にするので、それなりに非日常を楽しめます。
 街中の電車でも夜にすると面白いと思うけれど、痴漢だとかなんだかとか詰まらないことで駄目になるのだろうな。






制服反対!

2009-12-03 22:21:28 | 革命家になろう!
 今から多少無責任なことを書こうと思う。
 僕は一切責任をとることができない。
 どれくらいのリスクがあるのかもはっきりは分からない。たぶん大したことはないと思う。実際に大抵のことは大したことじゃない。もしもあなたが試してみたいなら、やってみるだけの価値は十分にあるだろう。

 僕が子供の頃したくて、でも怖くてできなかったことだ。
 
 『明日から学校に制服を着ていかない』、というのはどうだろう?

 そう、好きなジャケットやパーカで登校するというのは。

 僕は中学生のとき、みんなが選択の余地無く制服を着ていることがとても嫌だった。そして、別に考えなくても分かるくらいに明らかなことだと思うけれど、別に中学生が制服を着なくてはいけない理由なんて何もない。
 ただ、そう決められていて、みんなそういうものだと思っているだけのことだ。
 こういうのって実に原始的だ。
 吐きそうなくらい。

 正直に書くと、最初は僕も制服が少しは嬉しかった。いかにも中学に上がるのだという感じがしたから。それから、服としても別に嫌いではなかった。
 ただ、だからといってみんながみんな強制的に同じ服を着なくちゃならない、なんてことが正当化されたりはしない。着たい人は着ればいいし、着たくない人は着なくていい。はっきり言って議論の余地なんてないと思う。

 僕は子供の頃とても臆病で、内申書とか教師とかコンサバな同級生のマジョリティーとか目立つと襲い掛かってくる不良達が怖くて私服で登校することができなかった。そんな面倒を乗り越えてまで自分の意見を通すより、別に3年間制服くらい着ればいいと自分に言い聞かせた。面白みのない腐った話だ。
 だけど、やっぱり12、3歳の子供にとって、中学校というのは強大な社会だった。それに僕はまだ無知で高校に行けなくなると人生は随分暗いものになるのだと信じていた。変なことをして悪い内申書を書かれてドロップアウトしてしまうことが本当に怖いと思っていた。やりたい放題やれば良かったとわかったのは大学生になってからのことだ。
 
 もちろん、僕だってそんな制服の恨み辛みを意識しながら生きているわけじゃないから、それを思い出すことなんてほとんどなかった。遠い子供の頃の記憶でしかなくなって、心の奥に沈んでいた。
 ここ数年思い出す回数が増えたのは「制服」に似た物でこの社会の結構な部分が占められているのをありありと見るようになったからだ。みんな嫌でみんな変だと思っているのにみんながそうしているからノーと言えないことが沢山ある。

 短絡的に制服が原因だなんてことは思わない。僕だってそれほど馬鹿じゃない。
 でも、制服は原因ではなくても、逆に変革のトリガーとして活用することができたのではないかと思う。
 もしも、12歳だか13歳だかの僕が、あのとき必死に政治力を働かせて踏ん張って、綿密な根回しである日突然全校生徒の半数以上が私服で登校してくるようなことを起こせていたら、大袈裟だけど世界は変えられたかもしれない。
 半分以上の生徒が「制服なんて馬鹿みたいだから着ません」と言ったら、それを説得する術なんて学校のどこにもなかっただろう。どこかの誰かがいつか決めた「制服を着ること」なんて決まりはあっさりなくなるに違いない。
 ニュースが報道するかどうかは分からないけれど、情報は流れ、これはけして1つの中学で治まらなかったと思う。日本中の中学生が制服を着るのをやめたかもしれない。
 そして、これが一番重要なことだけど、そういうことを体験した世代が、自分達の声で何かを実際に変えた世代が、大人になると世界は違ったはずだ。

不規則な言葉の羅列。

2009-12-02 13:12:58 | Weblog
 その人を待つ間、僕はカフェに入って抹茶オレを飲んでいた。カバンの中にはテキストと論文とノートと本が入っていて、しばらくは本を読むことにする。僕が今読んでいるのはDanny Wallaceの"YES MAN"、少し前に映画にもなっていた、友達のブログにお勧めだと書いてあったのと、それから全てのことに「イエス」と答えるシチュエーションコメディーは絶対に面白いと思ったのでアマゾンで買った。

 YES MANを読んでいると、自分の席の左から中国語が聞こえてきて、前の席からは英語が聞こえてきた。目をやると、左では中国語の個人レッスンが、前方では英語の個人レッスンが行われていた。中国語は中年の中国人女性が中年の日本人女性に教えていて、英語は日本人の僕と同い年くらいの女性が年齢の良く分からない女の人を教えていた。じゃあ関係代名詞に入ろうというような話をしていたので、多分生徒は高校生か何かだったのだと思う。

 「英語では、予約は”取る”じゃなくて”作る”makeって発想なの」

 という一言が耳入ってから、なんとなく僕はその英語のレッスンが気になって本を読みながら時々耳に入るままにしていた。そして思ったのは、やっぱりいちいち全ての文章に解析的な教師の助言が入るのは良くないんじゃないかということだった。そのレッスンは英語の学習じゃなくて、英語の学習ごっこに見えた。

 どういうことかというと、そもそもmakeは’作る’という日本語とは別ものだからだ、予約は取るものじゃなくて作るものだからmakeを使うというのは本末転倒している。makeというのは予約のときにも料理のときにも使う何かそういう感じの動詞なのであって、けして’作る’ではない。僕は英語が堪能じゃないけれど絶対そう思う。日本語で変な発想をワンクッション挟んで、それに見合った英単語を引っ張ってくるというのはなんか変だ。別に彼らは「予約を作ろう」なんて思っているわけではなくて、単に「make a reservation」と思っているだけだ。それ以上でも以下でもない。
 だから、make a reservationというのが出てきたら、それはmake a reservationでしかなく、本来何も説明することはない。予約を取ったことをイメージしてそれで終わりだと思う。そのイメージができないときにだけ、教師が補助的にイメージを与えればよい。でも人はそれでは納得できない。これはこう、と言われただけでは分かった気にならないし指導してもらった気にならない。これはこうだからこう、と説明らしきものを求める。教える方も「これはこう」だけでは教えた気にならないから余計なことをいちいち言ってしまう。

 文法をある言語から抽出した言語学者達のことを偉大だと思う。それはとても重要な作業だと思う。でも、文法が言語体系から抽出された以上、それは常に言語そのものより一歩遅れた存在だ。だから一定レベルのことを超えては文法では説明できないし、言語体系とは文法体系のことではない。言葉は常にルールの外側を持っていて、そこには説明の入る隙間はない。

 いつも不思議に思うことがあるのだけど、文法を無視した単語の羅列が通じたり通じなかったりするのはどうしてだろう。
 もしもAさんがBさんに対して「このペンが欲しい」と言いたいとき、Aさんが日本語の文法を(暗黙知としても)知らなくて「欲しいこれペン」と言っても、Bさんはそれを理解できる。このとき一番重要なのはAさん自身が「欲しいこれペン」を理解できるということだ。Aさんは「このペンが欲しい」と伝えようと思って「欲しいこれペン」と口に出しているので、Aさんが意味を理解できるのは当然なわけだけど、このときAさんが使用した規則は一体なんだろう。根拠のない謎の規則で持ってしてAさんが「欲しいこれペン」という文章を作り、かつAさんがそれを理解できるなら、Bさんも根拠のない規則を持ってしてそれを理解できるのは当然のことにも思える。もちろん「意思⊃発言」だから完全に可逆ではないけれど、結構いいところまで僕達は理解することができて、その能力が何に担保されているのかを考えると正式な文法の力を過大評価しなくて済むように思う。