「インターステラー」が、良かった。
「2001年宇宙の旅」との比較とか、「物理学者が入ってて物理学的な描写が正確」とか、そんなのはどうでもいいと思う。ちなみに物理学的考証がどうだかしらないが、話は「使い古されたSF話法ゴッタ煮滅茶苦茶のご都合主義」だ。地球から打ち上げる時は今のNASA程度のテクノロジーだったのに、惑星探査のときはスター・ウォーズばりの宇宙船になってるし、1時間いたら地球では7年経ってるような強い重力の星なのに「みんなフツーに動いてる!!!」し、それでもとても面白い映画だった。
「良かった」「面白かった」の半分は「悔しかった」で、どうして悔しいのかというと、僕が日頃イライラしながら眺めていて、どうにか小説に書けないものかと思っていたことの半分がここで言われてしまったからだ。見事としか言い様がない。僕が高々小説という小さな形を探っている間に、クリストファー・ノーランは制作費1億6500万ドルの大作映画を作った。
そのメッセージのようなものは、映画の中に何度か繰り返して直接出てくる。
「人々はかつて空を見上げ、この向こうには何があるのだろうと思いを巡らしていた、だが今は地面を見つめて心配してばかりだ」
というようなセリフと、あと「俺は農業が嫌いだ」という主人公の言葉。
映画の舞台は近未来で、地球は砂嵐にまみれて植物も枯れてしまい、人類には絶滅の危機がゆっくり近づいていた。農作物が十分にできないので、大半の人達が農業に従事し畑を耕している。「学問なんて無駄だ、畑を耕せ」。学校では「アポロ計画の月面着陸はソ連を騙して無駄な宇宙開発に国力をつぎ込ませるための嘘だった」と教えていて、「本当に月に着陸した」と言い張る主人公の娘は問題児扱いされている。そういうことは不可能で誰も夢見さえしないことだと教育しなくてはならない。そういう時代の話だ(映画を既に見ている人はどうして「本棚の裏」が選ばれていたのか考えてみて欲しい)。
MRIも「そんなものなかった」ことになっていて、お陰で脳腫瘍の診断ができなかった主人公クーパーの妻は死んでしまった。
砂埃にまみれたキラメキのない時代、元宇宙飛行士で優秀なエンジニアである主人公クーパーは「俺は空を飛んでいるはずなのに、なんでこんなことしてるんだ」と言いながら畑を耕している。紆余曲折あり、彼は解体されたはずが秘密裏に存続していたNASAの宇宙船で人類を救う冒険に出る。異常気象で住めなくなってきた地球から人類が移住する星を探しに、ワームホールをくぐって別の銀河まで行くほとんど帰れる見込みの無いミッション。
主人公がNASAに行くより前のシーン、保護者面談で学校の先生と話している途中、「大学には税金は投入されていない」「それなら税金は一体何に使われているんだ」というやりとりがある。それより前にももう一箇所、税金に言及した場面があって、基本的にこの時代の人は「払った税金がどこに使われているのか分からない」という不満を抱えているのが見て取れる。
「消えた税金」は、もちろん国民が存在を知らされていないNASAで使われている。それが良いことか悪いことかと問われたら、たぶん悪い。百歩譲って「人類を滅亡から救うという使命があるのだから、国民に秘密でお金をつぎ込んでても仕方ない」というのであれば、この「使命」にも実は疑問符が付いている。詳細はネタバレがひどくなるので書けないけれど、NASAの存在は科学好きな特定の人達のエゴに因って保たれているだけだ。
だから、この映画は絵的に「2001年宇宙の旅」かもしれないけれど、テーマは「風立ちぬ」に似ている。大地による脅威に脅かされながら細々生きる民衆と、それらを無視するようにエゴで空の高みを目指す一握りの天才。
「風立ちぬ」では、大地が関東大震災として襲いかかり人々は苦しむ。それでも莫大な資金を使って堀越二郎という天才がゼロ戦を開発する。
「インターステラー」では、大地が砂嵐として襲いかかり人々は苦しんでいる。それでも税金を投入してラザロ計画関係者が他の惑星を目指す。
堀越二郎とクーパーが空を憧憬し見上げる視線は同じだ。その視線に伴う残酷な程の美しさ。
冒頭シーンで、クーパーとその娘、息子の乗った車がパンクする。それを修理していると旧インド軍の無人偵察機が彼らの上を通過。見るやいなやクーパーは「修理はいい、行くぞ、乗れ!」という感じでパンクしたままの車でトウモロコシ畑を突っ切って偵察機を追い始める。挙句の果てに親子3人車ごと崖から落ちそうになって、なんとか無人偵察機を捕獲。危険な偵察機だったかと言えばそうではなくて、人畜無害な偵察機を単に追いかけたかっただけだ。娘に「かわいそうだから空に返してあげたら」と言われるほど。この冒頭シーンで、鑑賞者はクーパーの狂気に近い空への憧れを印象付けられる。空飛ぶドローン追いかけて、自分も育てているトウモロコシをクソ食らえとガンガン薙ぎ倒し、食糧難の時代の畑を何でもないかのよう縦横自在に。
僕達にとって、トウモロコシとはなんだろうか。パンクしたままの車とはなんだろうか。そして空飛ぶ無人飛行機とはなんだろう。
トウモロコシは、誰にとってもその存在意義が自明なものだ。人は食べ物がないと生きていけない。だから誰も彼もが安心して盲目的に「これが大事だ」と叫ぶ。現代なら「エコ!」とか「コミュニティ!」とかかもしれない。グリーンでクリーンなイメージで田舎暮らしが新しいとか、すっかりメディアに踊らされてそういうものが「正しい」と思い込んでいることかもしれない。「空気」かもしれない。
パンクしたままの車は、パンクしたままのガソリン車は、エコでなくて「正しくない」ような気のする前世紀的なプロダクトは、やぶれかぶれでも僕達を憧れの場所へ連れて行ってくれる何かだ。挫折したり諦めたりして「キズ物」になったかもしれないけれど、エンジンかけてやればガタガタしながらでも憧れのあそこまで乗せて行ってくれる誰かの人生かもしれない。
視界を横切った、空飛ぶドローンは何だろうか。
よく見えなくても、タイヤはパンクしてても、古い車であっても、飛び乗って追いかけてみるのはどうだろうか。
トウモロコシが邪魔だと思うが、そんなものは何本踏み潰してもいい。
「俺は農業が嫌いだ」
「2001年宇宙の旅」との比較とか、「物理学者が入ってて物理学的な描写が正確」とか、そんなのはどうでもいいと思う。ちなみに物理学的考証がどうだかしらないが、話は「使い古されたSF話法ゴッタ煮滅茶苦茶のご都合主義」だ。地球から打ち上げる時は今のNASA程度のテクノロジーだったのに、惑星探査のときはスター・ウォーズばりの宇宙船になってるし、1時間いたら地球では7年経ってるような強い重力の星なのに「みんなフツーに動いてる!!!」し、それでもとても面白い映画だった。
「良かった」「面白かった」の半分は「悔しかった」で、どうして悔しいのかというと、僕が日頃イライラしながら眺めていて、どうにか小説に書けないものかと思っていたことの半分がここで言われてしまったからだ。見事としか言い様がない。僕が高々小説という小さな形を探っている間に、クリストファー・ノーランは制作費1億6500万ドルの大作映画を作った。
そのメッセージのようなものは、映画の中に何度か繰り返して直接出てくる。
「人々はかつて空を見上げ、この向こうには何があるのだろうと思いを巡らしていた、だが今は地面を見つめて心配してばかりだ」
というようなセリフと、あと「俺は農業が嫌いだ」という主人公の言葉。
映画の舞台は近未来で、地球は砂嵐にまみれて植物も枯れてしまい、人類には絶滅の危機がゆっくり近づいていた。農作物が十分にできないので、大半の人達が農業に従事し畑を耕している。「学問なんて無駄だ、畑を耕せ」。学校では「アポロ計画の月面着陸はソ連を騙して無駄な宇宙開発に国力をつぎ込ませるための嘘だった」と教えていて、「本当に月に着陸した」と言い張る主人公の娘は問題児扱いされている。そういうことは不可能で誰も夢見さえしないことだと教育しなくてはならない。そういう時代の話だ(映画を既に見ている人はどうして「本棚の裏」が選ばれていたのか考えてみて欲しい)。
MRIも「そんなものなかった」ことになっていて、お陰で脳腫瘍の診断ができなかった主人公クーパーの妻は死んでしまった。
砂埃にまみれたキラメキのない時代、元宇宙飛行士で優秀なエンジニアである主人公クーパーは「俺は空を飛んでいるはずなのに、なんでこんなことしてるんだ」と言いながら畑を耕している。紆余曲折あり、彼は解体されたはずが秘密裏に存続していたNASAの宇宙船で人類を救う冒険に出る。異常気象で住めなくなってきた地球から人類が移住する星を探しに、ワームホールをくぐって別の銀河まで行くほとんど帰れる見込みの無いミッション。
主人公がNASAに行くより前のシーン、保護者面談で学校の先生と話している途中、「大学には税金は投入されていない」「それなら税金は一体何に使われているんだ」というやりとりがある。それより前にももう一箇所、税金に言及した場面があって、基本的にこの時代の人は「払った税金がどこに使われているのか分からない」という不満を抱えているのが見て取れる。
「消えた税金」は、もちろん国民が存在を知らされていないNASAで使われている。それが良いことか悪いことかと問われたら、たぶん悪い。百歩譲って「人類を滅亡から救うという使命があるのだから、国民に秘密でお金をつぎ込んでても仕方ない」というのであれば、この「使命」にも実は疑問符が付いている。詳細はネタバレがひどくなるので書けないけれど、NASAの存在は科学好きな特定の人達のエゴに因って保たれているだけだ。
だから、この映画は絵的に「2001年宇宙の旅」かもしれないけれど、テーマは「風立ちぬ」に似ている。大地による脅威に脅かされながら細々生きる民衆と、それらを無視するようにエゴで空の高みを目指す一握りの天才。
「風立ちぬ」では、大地が関東大震災として襲いかかり人々は苦しむ。それでも莫大な資金を使って堀越二郎という天才がゼロ戦を開発する。
「インターステラー」では、大地が砂嵐として襲いかかり人々は苦しんでいる。それでも税金を投入してラザロ計画関係者が他の惑星を目指す。
堀越二郎とクーパーが空を憧憬し見上げる視線は同じだ。その視線に伴う残酷な程の美しさ。
冒頭シーンで、クーパーとその娘、息子の乗った車がパンクする。それを修理していると旧インド軍の無人偵察機が彼らの上を通過。見るやいなやクーパーは「修理はいい、行くぞ、乗れ!」という感じでパンクしたままの車でトウモロコシ畑を突っ切って偵察機を追い始める。挙句の果てに親子3人車ごと崖から落ちそうになって、なんとか無人偵察機を捕獲。危険な偵察機だったかと言えばそうではなくて、人畜無害な偵察機を単に追いかけたかっただけだ。娘に「かわいそうだから空に返してあげたら」と言われるほど。この冒頭シーンで、鑑賞者はクーパーの狂気に近い空への憧れを印象付けられる。空飛ぶドローン追いかけて、自分も育てているトウモロコシをクソ食らえとガンガン薙ぎ倒し、食糧難の時代の畑を何でもないかのよう縦横自在に。
僕達にとって、トウモロコシとはなんだろうか。パンクしたままの車とはなんだろうか。そして空飛ぶ無人飛行機とはなんだろう。
トウモロコシは、誰にとってもその存在意義が自明なものだ。人は食べ物がないと生きていけない。だから誰も彼もが安心して盲目的に「これが大事だ」と叫ぶ。現代なら「エコ!」とか「コミュニティ!」とかかもしれない。グリーンでクリーンなイメージで田舎暮らしが新しいとか、すっかりメディアに踊らされてそういうものが「正しい」と思い込んでいることかもしれない。「空気」かもしれない。
パンクしたままの車は、パンクしたままのガソリン車は、エコでなくて「正しくない」ような気のする前世紀的なプロダクトは、やぶれかぶれでも僕達を憧れの場所へ連れて行ってくれる何かだ。挫折したり諦めたりして「キズ物」になったかもしれないけれど、エンジンかけてやればガタガタしながらでも憧れのあそこまで乗せて行ってくれる誰かの人生かもしれない。
視界を横切った、空飛ぶドローンは何だろうか。
よく見えなくても、タイヤはパンクしてても、古い車であっても、飛び乗って追いかけてみるのはどうだろうか。
トウモロコシが邪魔だと思うが、そんなものは何本踏み潰してもいい。
「俺は農業が嫌いだ」