被害者宅に何度も謝罪に訪れて追い返されたというような話は、業界内での苦労話の典型のように語られることがある。私は、この手の理屈には耳を塞ぎたくなる。「エリートの弁護士先生がここまで頭を下げているから誠意が通じるのだ」という自惚れや、「自分は悪くないのに他人のために献身している」という自己憐憫が強すぎると感じるからである。
実際のところ、自由業である弁護士が世知辛い社会の中で生き残っていくのに必要な資質とは、官僚的な才能に等しいのだと思う。それは、常に責任の所在を察知し、事なかれ主義の合理性を心底から理解し、先の先を読んで保身のための証拠を残し、あるいは残さないといった技能である。そして、この職業病にかかった者は、部外者の考えの甘さと拙さを軽蔑する。
弁護士が同時並行で100件以上の案件を手掛けているとき、それぞれの依頼者に対して演じるのは、定型的な立場と肩書きである。かくして、独身の弁護士は離婚の何たるかを知ったように語ることができる。多重債務者でない弁護士も、破産者になることの何たるかをわかったように語る。弁護士が加害者や被害者を捉える視線は、これらと同様である。
一般論として、刑事事件は民事事件よりも定型的で簡単であるという印象を弁護士仲間からよく聞く。これは、抽象名詞の切り回しの技術が求められる場面、すなわちいわゆる弁護士としての実力が試される場面の差によるものである。犯罪と刑罰に関する哲学的な問題は、実務的には出番がない。その結果として、弁護士は安心感の中で刑事弁護の業務を遂行できることになる。
(フィクションです。続きます。)