僕はかなり周りの目を気にする方だ。
誰に何と言われようがお互い匿名同士だ。
何の遠慮も要らない。
けれども自分の属する組織やコミュニティだとどうしても気を遣ってしまう。
なぜだろうか。
下手なことを言って嫌われたくないから?
間違ったことを言ってバカにされるのが怖いから?
僕の母親はとても厳しい人だったので何か間違ったことをするとそれはもうこっぴどく叱られた。
その厳しさとは裏腹に僕のことをとても愛してくれたのだがそれはひとまず置いておこう。
そんなわけで当時の僕にとって母親に反抗することはすなわち死を意味するくらいのタブーであった。
僕がここまで周りの目を恐れる理由はおそらくここにあるのではないかと自分なりに分析する。
しかしそんな僕も大学に入ってからの2年間、色々な経験や文章に触れることで多少はマシになった気がする。
大学1年の時はこの性格をかなり引きずっていたのでクラスでは友達が出来なかった。
ただでさえ推薦で入っているので周りの人は僕よりも確実に頭が良いはず。
自分が分からない問題を人に聞くのが怖い。こんな問題も分からないのか、と思われたくない。
だから1人で講義を受けると言う選択をするのは自然な流れだった。
サークルにも入っていたのだがそこでも中々自分を出せずにいた。
周りの人間は僕よりも教養があると思っていたから下手なことを言って恥をかきたくなかったのである。
そんな中で迎えた夏休み。
(ここで文章は途切れている。続きは明日。)
そうじゃねえよ。
分かってないな。
本来そういう目的の場所じゃないのに、そうなるのがいいんだよ。
例えば急病になった女性を検診するために、恥ずかしがるのを無理やり裸にむくのとか、想像するだけでヤバいじゃん。
それの逆やってみたいってことだよ。
風俗とかワンナイトとか短い付き合いしか知らない人は損してるなあと思う。
長年付き合っている彼女とは未だにラブラブなセックスをする仲だ。
というか、セックスの良さが二人を結び付けているのかなあとも思う。
喧嘩してもセックスすれば気持ち良すぎて仲直り。人にはあんまり言えんが。
エロい気分になってくると身体が熱くなって目が潤んでくると思う。
そうなったら開始。疲れてるときや時間ないときはハグだけで終わるときもある。
相手の唇を軽くくわえてみたり、舌を絡めたりする。
この時、感触やニオイが気持ち悪くならないよう
二人とも唇が乾燥しないように、とか口臭がしないように、とか割と気を遣っている。
忘れがちなのが髭のジョリジョリ。自分はひげが濃いからあんまり相手に当たらないよう気をつける。
この段階でも疲れたり嫌だったりしたらやめる。
服の上から好き勝手さわりあいっこする。女の子の身体はふわふわしてて気持ちいい。
痛くないように気をつけながら胸とかおしりとか、やわらかい好きなところをふわふわ触る。
相手は俺の体の硬いところが好きらしい。あそこだけじゃなくて筋肉とか肩とか。
このときみっともないように、普段から軽く肩まわりや腕、腹筋を鍛えておくのを忘れない。
相手が気持ちいいように、かつ自分も気分がいいように触ると自然とソフトタッチになる。
そのうちたくさんキスをしながらお互いで敏感なところを触りあう。
時間をかけて弱い力でさわる。どんどん濡れてくるのがわかる。
自分はこの時点でいきそうになるが勿体無いので我慢。
お互いこの段階で寝てしまうこともある。
そろそろいいかな、という段階になったら挿入。
片手が空いたら、必ずつなぐ。
お互いの気持ちが合ったらまた再開。
「それってスローセックスじゃね?ww老人かよ!!」と言われた。
一連の流れは最低でも2時間はかかる。
特別勉強したわけではなく、気持ちいいのを追求していたら自然とそういうものになっていたらしい。
風俗とかワンナイトとか、あんまり知らない人とセックスをするのが考えられない。
ちなみに言うと、自分達は処女童貞カップルではない。お互いに、前に数人としたことがある。
しかしお互い前の数人はマグロだったり、攻められすぎだったり、あんまり良くなかった。
何度も肌を重ねるうちに段々具合がよくなってきた。
誤解を招くような内容だが、会うとセックスばかりというわけではなく、
ちゃんと他のデートとかもしてます。でもセックスすごい楽しい。
http://anond.hatelabo.jp/20140123230445
婆さんが残り数週間で死ぬと聞かされてからそろそろ一週間経つ。もう嫌だなあ辛いなあと思いながらようやく言葉にできるくらいには頭の中が整理されてきたような気がする。
少し一週間前を思い出すと、小説のネタになるかなあとか一瞬考えてしまうのが嫌だったし、礼服を買ったりするのも死ぬのを受け入れてしまうみたいで嫌だった。色々と嫌な事ばかりで、どちらの方向に考えても嫌なことばかり立ち塞がっててもうわけがわからなくなってた。さすがに礼服は買ったけどさ。残り数週間なんて言われるとな。最初はふっと気が抜けたみたいになって、段々と気分が沈んでった。癌でやばいかもなんて前に聞いたときは「ああ、そうなの」なんて反応だったのに、死ぬのが確定すると悲しくなるなんてなんというか都合が良いなあ。
残り数週間でいつ死ぬのかわからない状況というのがほんと辛い。いっそ死んでしまってから知りたかったというのは、もやもや暗い感情が常に自分へつきまとってるような感覚があるからだな。それで、死ぬのがいつになるかによって予定を調整しなきゃいけないなあとか考えるのも婆さんに申し訳ないなあと思う。だから考えなきゃいけないのに、深く思考することはできないという。よくわからない。ついでに何事に対する気力も奪われていく。だけどそれでもどうにも小説は書く気になるというのは不純だなあ。
癌というのが辛いんだよ。割かし元気なほうだったし、それが病気で死ぬというのがわからない。真っ当に老衰で死ぬと思っていたから。病気で死ぬというのはやっぱ真っ当じゃないよな。真っ当じゃないよ。親族が死ぬという体験も俺にとってほとんど初めてなのに。癌ってさ。正直、余命幾日なんていう制度というか状況が現実で起こるなんて知らなかった。なんなんだろうね。なんでそんなことわかるんだろう。
しかしそう、悲しいってだけじゃなくて、辛いんだよな。俺が仕事したり漫画読んだり酒飲んだりしてる間も向こうは癌なわけでしょ。申し訳ないよな。痛いんだろうか苦しいんだろうかとか考えてしまう。ああもう本当にこんな感覚から早く解放されたいと思いはするけど、それは婆さんが死んだ時だし。地獄ってほど地獄じゃないけど、考えれば考えるほど深みにはまってく感じがあるから、結局はこのことについて考えないってのが一番の解決策なんだろうけど、やっぱそれも申し訳ない。大体、婆さんに電話とかしなくて良いんだろうか。いま会話しなけりゃ永遠に会話できないわけだし。でも向こうは俺に突然電話されてどう思うかとかさ。これまで全然連絡なんてしなかったくせに、もうすぐ死ぬからって電話するのは、それはどうなの。と思う。自分以外の人間がどう考えるかなんてよくわからないし。向こうはそんなに深くは考えないんでしょうか。正月には会いに行ったけど、それでよしとするというのは。そもそも「よしとする」という感覚自体がひどいんじゃないのかとも思う。もう、なんなんだこれは。どうすればいいんだよ。ずっと泣けなかったけど何かこれ書いててようやく泣けてきた。こんなこと相談する友人いないし。何もせずともそのうち勝手に終わる話ではあるんだけど。でもそれは嫌だなあ。なんなんだろうなあ。孝行しとくべきだったんだろうな。孝行しとくべきだったと思う。こういう事があるから駄目なんだろう。みんなこまめに親には会っとけって言うんだろうな。どうすりゃいいんだろう。
靖国に参拝する人はそこを戦争神社だと思って行っているのではなく、
単に「神社っぽい雰囲気を味わえる交通の便が良い場所」として使っているに過ぎない。
人がたくさん参拝していたって靖国が戦争神社であるという事実は変わらない。
高いっていうか都心に比べて驚くほどの安さはないよ
さすがに2万、3万ってのは探すのは難しい
え?部屋に籠もってるお前には話し会話相手なんていないじゃん
昨日今日に始まったことではありませんが、靖国神社のことがいろいろと問題になっています。
私は、日本の首相が靖国神社に参拝することは当然だと思っています。
ですが、それに反対する人もいることはもちろん知っていますし、そういう意見も少しは理解できます。
ただここで考えてみたいのは、首相が参拝することではなく、海外からの評価についてです。
靖国神社は海外でよく「戦争神社(war shrine)」「軍事神社(military shrine)」と言われます。
このような評価がまかり通っていることには、たとえ首相の参拝に反対する人でも抗議すべきだと思いますが、そういう抗議をほとんど耳にしたことがありません。
私にとって本当に不思議なことです。
何が不思議かというと、もし「靖国神社は戦争神社」ということになれば、日本人は年間のべ600万人が戦争神社に参拝していることになるからです。
もちろんこれは初詣でや夏祭り、七五三、結婚式、それにいろいろな祈願のための参拝者を含んだ数字です。
ですが、そんなことを外国人に説明しても、「のべ600万の日本人は戦争神社で新年を祝ったり結婚式を挙げたりしている」と思われるだけです。
最近では、靖国神社を「ヒトラーの墓」になぞらえる声も海外から聞こえてきます。
「初詣では日本の風習だから深い意味はない」と言っても、ドイツ人に「われわれはどんな理由があろうとヒトラーの墓参りなんてしない。日本人は間違っている」と言われればそれまででしょう。
確かに靖国神社は戦争や軍事と深い関係があるので、「戦争神社」「軍事神社」という評価が間違いとも言い切れないところはあります。
ですが、このような理解を聞き流していれば、日本人は「戦争神社」「軍事神社」が大好きな、つまり戦争や軍事を崇め讃えることが大好きな国民ということになってしまいます。
果たしてそれでよいのでしょうか。
以上のことから私は、たとえ首相の靖国神社参拝に反対の人でも(靖国神社を潰せとか誰も参拝させるなとかいう極端な意見の持ち主でなければ)、「靖国神社は戦争神社」という悪しざまな評価には反対すべきだろうと思っています。
ですが、何故かそういう意見はほとんど聞いたことがありません。
もしかして、私の考えがどこか間違っているのでしょうか。