法正とは、後漢末期の参謀・政治家で、劉備の覇業に極めて大きな功績を残した人物である。字は孝直。諡は翼候。220年、僅か45歳で死去。劉備はその死を悼み、何日も涙を流したと言う。なお、彼は劉備から「直接諡を送られた唯一の人物」である。義兄弟だった関羽や張飛、益州攻略中に戦死した龐統も、劉備は追号していない。彼だけが特別扱いだった。
扶風郡郿出身。曾祖父が南郡の太守を務めており、家柄は悪くなかった。
196年、飢饉に遭い同郷の孟達と共に郷里を離れ、益州牧の劉璋に身を寄せる。劉璋の元では、県令や軍議校尉に任命されるなどした。通常ならそこそこの高待遇と言えるが、実際には名目だけであまり重用はされなかったようだ。劉璋自体、法正の忠誠心を刺激するような人物では無かった為、「彼では大業は成せない。」と考えていた。
同じように、智謀を持ちながら冷遇されていた張松と意気投合し、孟達を含めた三人で「いつか英傑を益州に迎え入れよう。」と誓い合い、裏で策を巡らせて行く。
そんな折、曹操が劉琮を降伏させて荊州を奪取する。そこで、劉璋は張松を戦勝祝いの使者として曹操の元に送った。法正らは曹操を益州に迎えようと考える。張松は曹操に謁見し言葉を交わすが、曹操は風采が上がらない張松を軽んじ冷たくあしらう。この態度に張松は「見た目で人を判断するとは、噂程の大器ではない。」と判断、劉璋に「曹操とは手を切って劉備殿と結ぶべきです。」と進言し、その使者に法正を推薦した。劉璋はこれを許可し法正を使者とした。法正は劉備の人となりをじっくりと観察したらしく、張松に
「劉備殿は考えている事が大きい。とても感心した。あの方なら益州を任せられる。」
と語った。張松も異論はない。二人は劉備を迎えるよう、算段を進めて行くのである。
転機は存外に早く来た。曹操が益州北部の大都市で五斗米道・張魯の本拠地である漢中を攻撃したのである。漢中は益州の入り口に位置しているため、ここを抑えられては身動きが取れない。法正らは
「張魯ですら持て余しているのに、軍事大国である魏が漢中を手にすれば次の目標は間違いなくこの益州だ。そうなれば劉璋では曹操に対抗出来ない。」
と考えた。
「先手を打って漢中を奪取しましょう。ここは劉備殿を呼び寄せ、先鋒として戦って貰うのです。そうすれば曹操の脅威も無くなります。」
劉璋はこの策を採用し、もう一度法正を使者として向かわせた。表向きは漢中攻撃と曹操迎撃の依頼であるが、腹の中は全く違う。法正は劉備に益州首都・成都の攻撃を勧めるのである。
「劉備殿の英才を持ってすれば劉璋を倒す事など造作もありません。万事手は打ってございます。まず、漢中攻撃と称して成都の近くまで軍を進め、一息に攻撃してしまうのです。我が友の張松が内応の手筈を整えております。内外から攻めれば、簡単に成都を落として益州を手に入れられるでしょう。豊かな益州と天然の要害があれば大業を成すことも不可能ではありませんぞ。」
劉備としても、益州は喉から手が出る程の物である。まさに渡りに船といった申し出だった。劉備は兵を纏めると漢中に向かって出発する。しかし、本当の目的は漢中でなく成都の奪取である。自分を頼って迎え入れてくれた劉璋を攻撃するのはいかにも面子が立たない。劉備は悩みに悩み、漢中と成都の中間に位置する葭萌関で一年も待機してしまうのである。この間に、法正と張松の内応が露呈し、張松は斬首された。法正はいち早く劉備の元に身を寄せていたため難を逃れた。
劉備は参軍の龐統の進言によりようやく成都攻撃を決意する。しかし、劉璋配下の善戦により予想外の苦戦を強いられる。元々は劉備一軍で落とす予定だったが、北の漢中方面から進軍したため様々な関や城に阻まれ、成都の喉元・雒城に到達するまでにさらに一年掛かってしまった。さらに、龐統が流れ矢で命を落とすという不幸も重なる。止む無く荊州から呼び寄せた諸葛亮や張飛、趙雲らの援軍で成都を包囲する形を取り、苦心の末劉璋を降伏させるのである。そんな状態で、内情を知り尽くした法正の存在が極めて大きかった事は想像に難くない。
益州奪取後、法正は揚武将軍に任命され、国政の中心を担って行くのである。
劉備に仕えた将で、最も軍略に優れた人物が法正だろう。さらに、彼は劉備に欠けていた物を完璧に補えたのである。
劉備は決して戦下手ではない。特に戦況の読みや撤退の見切りは当時屈指の物で、各地で傭兵的な活動をしていた事から戦場経験も豊富だった。反面、攻勢に出る決断が極めて遅く、勝機を逸する事が多かった。特に、戦況が膠着状態になるとそれを打開する手を打つのが遅く、夷陵の戦いでは陸遜にここを徹底的に突かれて大敗北を喫している。葭萌関で、龐統から提示された上・中・下策の三策では、急襲の上策でなく、少し時間の掛かる中策を採用している。仮に法正から話が有った時点で、遅くとも葭萌関に到着した時点で成都攻撃を行っていれば、張松の内応も有ってもっと楽に勝てたであろう。龐統の死も無かったかもしれない。
そんな彼を補佐するという意味で、目的の為に手段を選ばない果断さと相手の性格から行動を読む洞察力を持った法正は、まさにうってつけだった。徹底したリアリストで、戦況の読みが深い所は劉備と共通しており、馬があったのも大きい。
「劉備軍が攻めて来たとて兵は一万程度、さらに遠征軍で兵の士気は低く、補給部隊も連れていません。そうなれば、物資や兵糧は道中で徴収するしか無いでしょう。ならば、領民を全て他の土地に移し、穀倉を焼いて補給できなくすれば良いのです。さらに、土塁や塹壕を築いて固く守って相手にしない。そうすれば直に根を上げて撤退するでしょう。そこを追撃すれば、我が方は労せずして勝利出来ます。」
(横山光輝三国志では、さらに飲み水に毒を流す事が付け加えられている。)
いわゆる「焦土作戦」、「清野作戦」である。まさに劉備軍の急所を突いた妙手であった。この事を聞いた劉備は法正に対策を相談するが「劉璋にそんな大胆な作戦を実行出来るわけがない。」と断じている。事実、劉璋はこの策を取り上げなかった。
そして、彼が最も手腕を発揮した時、それが「漢中攻防戦」である。
劉備が成都攻略に手間取っている間に、曹操軍は漢中を手に入れてしまっていた。上記したように、漢中は益州の北の入口である。ここを抑えられるということは喉元に刃物が有る様な物で、劉備軍はいつ攻めて来るかと気が気で無かった。しかし、益州を制圧して二年程経が経ち、基盤が安定してきても曹操軍は動かない。そこで法正は漢中攻略を進言する。
「一昨年、曹操は漢中を手にしました。その勢いを駆って攻めて来るかと心配しましたが、夏侯淵と張郃に守備を任せて自身は北に帰っていきました。曹操は勢いを重んじる人物、敢えて攻めなかったのは何か内に問題を抱えたのでしょう。守将の夏侯淵と張郃両名と我が軍の将帥を比べれば十分に勝機は有ると存じます。ここは漢中に出兵し奪還しましょう。漢中は非常に豊かな土地です。農業や産業を振興して生産に努めればその利益は計り知れません。さらに、ここを足場に北へ進出する事も可能ですし、最悪の場合でも要害として敵を防ぐ盾に出来ます。今、天が我らに漢中を与えて下さっているのです。この機を逃す手はありませんぞ。」
劉備としても異存はない。兵を纏めると自ら漢中に向かって出兵した。
初戦においては、曹操軍気鋭の若手・曹休の前に呉蘭、雷銅が討ち取られるなど苦戦をするが劉備本隊が到着すると法正の軍略が冴え渡る。まず、劉備は東に陣取った張郃を攻撃する。張郃は良く守ったが次第に劣勢となった。総大将の夏侯淵は自身の兵の半分を援軍として派遣する。法正はこれを好機と見て行動を起こす。まず、張郃の軍を釘付けにした上で、夏侯淵本陣から十五里程離れた所に設置された逆茂木(防御用の柵)を焼き払う。そして、黄忠に策を授け、大きく山を迂回して山頂に伏兵として配置した。守備に支障を来すと思ったのだろうか、夏侯淵は軽率にも四百騎程の寡兵で逆茂木の修復に出陣するのである。本陣から十分に離れた所で山頂から怒涛のように黄忠軍が殺到。なす術なく夏侯淵は討死した。鮮やかすぎる程の勝利である。法正は、夏侯淵が速攻・急襲を得意とし、突出しやすい性格を読みきっていた。
この報告を受けた曹操は、作戦の立案者が法正であることを知って、
「そんな事だろうな。劉備にこの様な策は思いつかん。誰かの入れ知恵だと思っていた。」
と負け惜しみを言っている。また、
「私は天下の俊傑を手に入れたと思っていたが、彼だけは手に入れられなかったのか。」
とも語っている。
急襲を得意とする夏侯淵を討ち取ったことで、劉備陣営は挟撃を恐れる必要が無くなった。定軍山に堅固な陣を築いて曹操本隊を迎え撃ち、固く守れば遠征軍である曹操軍は疲弊し撤退せざるを得なくなる。そう考え、事実そう動いた。曹操は「鶏肋」の故事を残して撤退、漢中を手中に納めることに成功したのである。
軍事に関して、劉備は法正に絶大な信頼を置いていた。不思議と法正の言葉は素直に聞き入れるのである。定軍山で曹操と対峙している時、戦況が不利となり劉備の元に矢が飛んでくるようになった。曹操との直接対決で気が立っていたのか、とても撤退を聞き入れる雰囲気では無かった。そこで法正は劉備を庇うように矢面に立った。「何をしている。矢を避けよ。」と言う劉備に、
「殿が危険に晒されているのです。私がつまらぬ男ならここで死にましょう。」
と語った。ようやく冷静になった劉備は「わかった。一緒に引き上げよう。」と語り撤退した。
法正の死後に勃発した夷陵の戦いにおいて、諸葛亮が「ああ、もし法正殿が生きていれば殿を止められただろう。仮に止られなくてもここまでの敗北は無かっただろう。」と語っている。
軍事だけでなく政治においても功績を残している。諸葛亮や劉巴、伊籍、李厳らと共に蜀の法律である「蜀科」を起草している。これは、三国時代における初めての本格的な法律であり、その内容は厳格でありながら公平だったと言われている。
成都を攻略した時、劉璋に仕えていた将は概ね寛大な態度で遇した。しかし、人物批評の大家として天下に名を知られていた許靖は劉備に嫌われ軽んじられていた。これは、許靖が劉璋不利と判断し彼を見捨てて逃げ出そうとした為である。劉璋は彼を咎めなかったが、そんな経緯から劉備は彼を遠ざけたのである。この事に法正は「許靖を重用すべき。」と進言した。しかし、劉備は「旧主を裏切るような男だ。」と言う事で渋った。
「世の中には名だけで実が伴わぬ者がおります。まさに許靖のことでしょう。今、殿は益州の統治に着手されましたが、そのお考えを一人一人に説明することは出来ません。益州の人間に取って、殿は余所者でしか無いのです。その余所者が高名な許靖殿を軽んじている、と知れば天下の民は賢人を重んじないと思うでしょう。民の目をくらます為にも、彼を重用してください。」
法正は許靖の「名声」を最大限利用し、宣伝しようとしたのである。劉備は彼に官職を与えて厚遇した。なお、その後許靖は内政面で功を挙げ、劉備の漢中王即位時に劉禅の補佐役となっている。また、劉備の皇帝即位を勧める群臣にも名を連ね、最終的には司徒の位にまで上り詰めている。法正は許靖の能力は見抜けなかったが彼の持つ「利用価値」は見抜いていたと言える。
諸葛亮が劉璋時代よりも法を厳しくした時、群臣や民衆から不満が出てきた為、
「未だ成立して間もない政権なのにあなたは民に恩寵を施そうとしない。あなた達は他所から入ってきたのだからなおさら腰を低くする必要がありましょう。どうか、法を緩めて民の期待に応えてください。」
と語ると、諸葛亮は「あなたは一を知っているが二を知りませんね。」と答えた。
「劉璋殿の時代、法は有って無い様な物。君臣の道は無くなり民はやりたい放題。だからこそ、私は法を厳しくしたのです。そうやって厳しさが身に染みれば恩寵の本当のありがたさが分かるのです。政治の要はここであると私は考えています。」
このように、両者の意見は合わない事が多かったがお互いの事は十分認めていたと言うことだろう。
最悪である。
ここまで質の悪い人物も少ない。とにかく執念深く、恨みを絶対に忘れなかったと言う。劉備が益州を奪取すると、その功を傘に過去に恨みの有った人物や、自分を冷遇した上司を次々に処刑している。もちろん、法律にも何にも依らない完全な私刑、復讐である。
この行為に怒りを覚えた人物が、法正を除くべきだと諸葛亮に談判するが「法正殿の功績、才覚、そして殿の信頼を考えればそれは出来ない。」と語っている。信賞必罰で法に厳格だった諸葛亮ですらこれである。劉備陣営での彼の大きさが現れている。
ただ、善悪の判断無く、冷酷に判断が下せると言うのは、彼の軍略の冴えの一端を担っていたとも言える。
自身を悪党と呼び、「恩でも恨みでも忘れず報いる」を徹底している。劉備をお人よしと呆れつつも天下を収められる唯一の大器として劉璋を見限り仕える。
「倍返しだ!」が口癖であり半沢直樹を連想する人も多いだろうが、開発者の話によると全くの偶然だそうな。報恩報復の為ならどんなえげつない策でも用いるあたり、曲がったことを嫌う半沢直樹とは性格も異なる。
掲示板
174 ななしのよっしん
2023/01/27(金) 07:39:44 ID: Om1tTrKuJx
従えてるなら独立部隊を率いられる
法正はそんなもん率いてないというか、キャラ的にまずできるわけがないので劉備にくっついて回るのが仕事
その場合は法正は方策を献じるのが仕事で、命令は劉備がするので問題はない
175 ななしのよっしん
2023/10/21(土) 10:55:41 ID: 01BcDhPXdU
176 ななしのよっしん
2024/03/20(水) 21:04:16 ID: 9ZZoxsr42z
ある意味じゃ三國無双の解釈が正しくてそれを劉備と諸葛亮が正しく捉えていたことで重用し、
それがまた法正の忠誠心…というかその才能を生かせる状況を与えられた喜びで全開だったかもね
急上昇ワード改
最終更新:2025/01/17(金) 20:00
最終更新:2025/01/17(金) 20:00
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