永楽帝、名は朱棣(しゅてい)は中国の歴史上の人物。明朝第2代目3代目の皇帝で、太宗(後に世祖)とも称される。生没年1360年~1424年。在位期間1402年~1424年。智勇と気宇にすぐれ、明帝国を東ユーラシアの雄に推し上げ、中華帝国の一黄金期を築いた英雄天子である。
明の初代皇帝である洪武帝(朱元璋)の第4子として生まれる。母は馬皇后と史書に記されるが、諸説があり、実際のところは不明である。理由は後述。
朱元璋は貧農から身を興して、南方の群雄を討ち滅ぼし、続いて、まだ北方を支配していた東方モンゴル帝国である元朝を長城圏外まで掃討して、明帝国を打ち立てた偉大な英雄であった。しかし、猜疑心が強く、天下を統一すると建国の功臣達の粛清を行い、権力を皇帝へ集中させていく。詳細は「朱元璋」の項目を参照。
朱元璋は臣下を顧みぬ一方で、全国に自分の息子達を王に封じて、皇帝直系による帝国統治を目論んだ。モンゴル高原へ退いた元朝と直接対峙せねばならない北平(燕)の地には、幼少の頃から文武の素質を嘱望された朱棣が封ぜられる事となった。燕王となった朱棣は期待に応え、豊かな軍才を開花させて度々に元軍を打破り、朱元璋は「朕に北顧の憂い無し」と燕王の力量に満足する。
次の皇帝には先立った朱元璋の長男の朱標に代わり、息子である朱允炆が皇太孫として立てられる事となった。朱允炆は父同様、温厚な文系の人柄であり、幼い孫の将来を憂慮した朱元璋が、危険分子を無くすために過度な粛清を推進したという。一時は英明で功績も高い燕王を立てる事も考えていたという説もある。
朱元璋が崩御し、朱允炆は第2代皇帝、建文帝として即位する。新たな政策として、側近である斉泰と黄子澄が首謀する朝廷による削藩政策が実施された。独立した軍事力を持つ諸王の存在は、朱元璋と息子達という父子関係によりバランスが取れていただけであり、甥っ子である皇帝に、叔父である諸王が遠慮する根拠は乏しく、さっそくに5人の王が取り潰された。
燕王にも手が及んだが、流石に燕王は敏く、手管を駆使してかわしていた。が、ついに保身の為に武力を用いざるをえなくなった。燕王は賊軍の謗りを避けるべく、大義名分として、君側の奸を討つ意「君難を靖(やす)んじる」が掲げられ、燕王=北軍と、建文帝=南軍との戦争が勃発。後世「靖難の変」と呼称されることとなる。
当初、燕王の手勢は南軍の策略もあり、僅か800人を数えるのみであった。だが人材は厚く、張玉、朱能、丘福といった勇将や、軍師である怪僧、道衍和尚が控えていた。まず北軍は、周辺の拠点を攻め取り、威勢をもって数万の軍勢を集めた。やがて本腰を上げた南軍は30万の大軍を動員する。
南軍の大将軍には、洪武帝期の粛清でも生き残った宿将の耿炳文が選ばれた。しかし、燕王の巧みな指揮で、南軍は初戦において苦戦する。一時の敗北に建文帝は動揺し、耿炳文は更迭され、後任の大将軍には、建文帝のふたいとこにあたる李景隆が選ばれた(李景隆の祖母が朱元璋の姉)。さらに20万が動員されて南軍は50万の陣容となる。だが李景隆は気品ある美男子ではあったが、中身は残念であり、名将であった父の李文忠とは似ぬボンクラであった。彼が指揮をとると聞いた燕王は小躍った。
北軍は兵力差によって劣勢であったが、南軍大本営の無能と優柔不断により戦局を立て直していく。南軍には盛庸、瞿能、平安、徐輝祖、鉄鉉といった良将もおり、善戦して北軍を苦しめた。しかし、彼らを使いこなし大戦の采配ができる、燕王に対抗できるほどの名将を欠いていた。とはいえ、肥沃な華南地帯を抑えている南軍の補給能力は凄まじく、次々に戦力が投入され、60万もの大軍が編成されていき、「局地戦でいくら勝ってもは埓があかぬ」と燕王は帝都である南京を目指した。霊壁の戦いで南軍の主力を撃破し、激戦の末に南京に到達する。
すでに敗戦の為、南京の守将へ左遷されていた李景隆は、無抵抗で南京の城門を開いてしまう。北軍の入軍に混乱した城内では火災が発生して、建文帝は行方不明となった。脱出して僧となったという説も存在する。
南京に上洛した燕王は、戦後処理にあたり、旗幟を変えた者には罪を問わず許し、再登用する寛容を示した。しかし、節を曲げず、自分を非難している者達には苛烈な弾圧と迫害を加えた。戦犯である斉泰、黄子澄を初めとする奸臣達(と燕王は信じる)の関係者1万人余は次々と処刑され、妻女は苦界へと堕とされた。
その中でも最も有名なのが、建文帝の政治顧問の方孝孺に対する処断であった。代表的儒学者であり、知識人達から名声のある方孝孺への処遇をおもんばかった道衍和尚は、燕王に「方孝孺を殺してはならない」と忠告していた。燕王も忠告を容れて当初は方孝孺に対して礼を尽くしていたが、方孝孺の志操は固く、「燕賊簒位」と非難されるにおよんで、燕王はブチ切れる。かくして、方孝孺の弟子、友人、一族、家族800余人がかき集められ、処刑が執行された。方孝孺自身も口を裂かれ、全ての死に様を見せつけられた後に処刑、さらに著書も焚書された(後世の創作という説も存在する)。
九族鏖殺を超える「滅十族」という、累系者を殺し尽くす残酷さは、「永楽の瓜蔓抄(かまんしょう・つるまくり=芋づる式)」と呼ばれ、燕王の暗部のひとつして知られる。
建文帝には2人の男子がいたが、1人は南京失陥時に行方不明となり、もう1人は助命したものの、幼児の時から幽閉を行った(後に50年以上経ってから釈放される)。
建文帝がいなくなった後、燕王は皇帝として即位、年号を永楽とした。後世から永楽帝と呼ばれる事となる。永楽帝は、帝都を南京から本拠地の北平に遷して、北京と名付け(実質的に遷都したのは治世の晩年となる)彼一流の国家プロジェクトを次々と実行していく。
文化面では永楽大典(百科事典の化物)といった諸書を編纂する一方で、対外政策を盛んとし、南方では朱能を、その死後には張輔(張玉の息子)を司令官として派遣し、安南を征服させる。西南では侯顕を遣わしてチベットの活仏デシンを招き、その意見を傾聴し、比較的穏健に統治を委ねている。東北では亦失哈(イシハ)に出兵を命じて、シベリア、樺太にまで国境を拓いた。極東の日本からも朝貢をうけ、室町幕府の征夷大将軍である足利義満を「日本国国王」として冊封している。
海洋では後の大航海時代を大きく凌ぐ海軍力を造り上げた。鄭和に100m級の巨艦60余隻、随員2万人以上の大艦隊を率いさせて使節として各国に派遣。艦隊は南西へ進み、遂にアフリカ沿岸まで達する。都合6回の南海大遠征が行われ、朝貢国は最大で30余国にも達した(後の宣徳帝の代で1回行われ、計7回)。
西方ではモンゴル帝国再興を目指す、西方モンゴル帝国の盟主たるティムールが、20万の精兵を率いて、モンゴル帝国の旧領たる中国の奪還を計画。しかし途中でティムールが病没して出師は返され、東西の大帝国の決戦は回避される事となった。
有能な臣下達に仕事を任せつつ、永楽帝自身も軍を率いて、北方のモンゴルへと親征する。モンゴルでは、元朝が断絶し、四十モンゴル(ドチン・モンゴル)部と呼ばれる遊牧連合が割拠して、次第に猛威を吹き返しつつあった。
当初は宿将の丘福に任せていたが、丘福が永楽帝の指示に背いて大敗して戦死してしまい、永楽帝自身が出向く事情となった。万里の長城を越えてモンゴル高原に兵を進め、5度の遠征を行い。強兵であるモンゴル騎兵をモンゴルで打ち破る壮挙を為した。世にいう五出三犂(5たび出撃して3たび征す)である。ただし3~5回目の遠征は敵軍と遭遇できず、徒手に終わった感が強い。遠征は国威を高らかしめたが、モンゴル主力の健在を許した事が、後々に祟る事になる。
5回目のモンゴル遠征の帰還中に、永楽帝は病に倒れて崩御する。長男の朱高熾が皇帝に即位し、後の洪熙帝となる。
勇武に長じた当代随一の名将であり、青年時代は北方の対モンゴル戦線、壮年時代は帝国の内乱、老境ではモンゴル高原で武威をあらわした。自ら陣頭に赴く事も多く、矢石を恐れぬ勇者であった。
当時は皇帝独裁制であり、国策は永楽帝の辣腕と、オリジナルが強く反映されていると見られる。自身の不明を自覚し、諫言にも耳を傾ける度量を持ってはいたが、暴君的な面もあり、自身の意に染まぬ者に対しては厳罰をもって報いる傾向も強かった。
内政面では質素倹約に努め、災害時には迅速に民の救済を行い、人物を見る眼にも優れていた。しかし、長男の朱高熾を柔弱として真価を見抜けず、一時、廃嫡しようと考えていた。結局、朱高熾の息子の朱瞻基(後の宣徳帝)の出来が良かったので断念した。この2人は後世から明君と讃えられ、「仁宣の治」の善政を為している。
ティムール帝国の使者は、永楽帝の風貌を「背はやや低く、ひげは多くも少なくもないが、顎ひげの二、三房は腹まで伸びて、三つ四つの渦を巻いている」と記している。精力的に政務や軍務をこなす一方で病弱であり、てんかん持ちであったらしい。4人の男子と5人の女子をもうけたが、進まぬ治療で、皇帝として後宮の主となった20余年では子供は生まれず、宦官と密通して、死罪となった宮女から面と向かって、嘘か真か「役たたず」呼ばわりされたとも。
非合法な方法で登極した経緯から、譜代以外の家臣を信じきる事が出来ず、東廠(秘密警察)を設けて監視や統制を行い。洪武・建文帝期に抑えられていた宦官の権限を強化させ、自身の走狗とした。前述の鄭和、侯顕、亦失哈は宦官出身者である。彼等は誠実で有能な人物であったが、後の明の世では奸佞な宦官が跋扈することとなり、傾国の火種ともなった。
「君側の奸を討つ」と大義名分を掲げながら、結局皇帝として即位したことは生涯の汚点となった。それをぬぐうべく史書にも改竄を加え、建文帝期の記録を抹消し、明の第2代皇帝は建文帝ではなく、永楽帝だと記した。自身の出生にも手を加え、妾妃の生まれではなく、馬皇后から生まれた嫡子であると記録に上書きして、正当性を主張したともいう。
逆に必要以上に永楽帝を悪く書いた史料の方も存在する。
不正確な出生から、元朝最後のハーンであるトゴン・テムルの胤を宿した妃ゲレルタイが、洪武帝に奪われて生まれたのが永楽帝という伝説が生まれた。関連性は不明だが、永楽帝の麾下には帰順したモンゴル将兵も多く、軍は精強であった。また、為政者として、元朝を開いたクビライ・ハーンを範にしたという説もある。
簒奪者として、同時代から後世まで炎上しているが、永楽帝が最初から皇位への野望を抱いていたのかは不明である。叔父としては、むしろ甥を可愛がっていた節もあった。まだ燕王だった頃、偶然、皇太孫の建文帝に出会い「こんなところで会うとはなぁ」と、甥の背中を親しくたたいた。しかし、それを見ていた朱元璋は「王の分際で、次期皇帝に非礼な!」と激怒した。これに対して建文帝は「私を愛するが故の仕草です」と取りなしている。
永楽帝にも言い分はあったが、心優しく、善政を敷いていた建文帝を討ったことから、世間の風当たりは強かった。
掲示板
20 ななしのよっしん
2024/04/28(日) 05:27:26 ID: oODmZdYv+z
残虐な方法で殺されようがお構いなしに永楽帝の悪口言い続けた人たち反骨精神の権化って感じがして狂おしいほど好き。
21 ななしのよっしん
2024/05/13(月) 02:35:23 ID: BAMI79iObF
永楽帝は有能な皇帝だったとは思うが人間としては非情な面が強い人だったと思う
靖難の変の時に叔父である燕王時代の永楽帝を殺さないように指示した建文帝の方が君主としては詰めが甘くても人としては人情があったと言わざるを得ない
実際、方孝孺は最後まで永楽帝には従わず刑死したし、永楽帝の義弟である徐輝祖も建文帝への忠義を貫いて永楽帝に仕えようとはしなかった
22 ななしのよっしん
2024/12/28(土) 08:24:07 ID: wxP8bgFlJy
鄭和の大航海もモンゴル討伐も東北地方への出征ものちのち考えると…ってことが多すぎるよなぁ
チベット方面ぐらいかなそれが永楽帝の武を誇示するやり方じゃなくて柔よくってのが皮肉なものだ
急上昇ワード改
最終更新:2025/01/05(日) 01:00
最終更新:2025/01/05(日) 01:00
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