ラモン・フォルカダとは、MotoGPの車両整備員である。
長年ポンス・レーシングに所属し、伝説的技術者のアントニオ・コバスとともに働いてきた。
2008年からヤマハワークスに在籍し、ホルヘ・ロレンソのチャンピオン獲得に貢献した。
2019年はペトロナス・ヤマハに所属し、フランコ・モルビデリのクルーチーフを務めている。
1957年5月24日、スペインカタルーニャ州バルセロナの市街地から北に50km離れたモヤという田舎町で生まれた。
MotoGPの現場に参加しはじめたのは1989年のことで、アントニオ・コバスが作ったJJコバス(ホタホタコバス、と読む)の125ccマシンのエンジン整備担当者として、アレックス・クリヴィーレのチームに加わった。アレックスは、この年に125ccクラスチャンピオンに輝いている。
1990年には、どこかのチームのクルーチーフになった。
1993年から1995年までは、ショーワの一員となって働いた。同社は埼玉県行田市に本社があるサスペンション・メーカーで、ホンダと関係が深い。ショーワに所属しつつ、MotoGPなどのレース現場に出張し、チームの一員になりきるのである。
ラモン・フォルカダについてホルヘ・ロレンソは「サスペンションについての達人である」と評価しているが(記事1、記事2)、サスペンションメーカーに所属していたので、そういう評価になるのも納得と言えるだろう。
1996年からはMotoGP最大排気量クラスに参戦するポンス・レーシングに加入するようになった。ポンス・レーシングにはアントニオ・コバスが在籍していたので、コバスに誘われて在籍するようになった。
1996~1997年はアルベルト・プーチやカルロス・チェカを担当している。1998年にはジョン・コシンスキーを担当した。
1999~2002年はアレックス・バロスと組んだ。2003年は宇川徹を担当した。
2004年は誰も担当せず、チーム全体の技術監督の地位についていたようである。
2005年はアレックス・バロスを担当。
2005年限りでポンス・レーシングはMotoGPから一時撤退することになった。このページを見ても、2006~2008年はMotoGPに参戦していないことが分かる。なぜ撤退したかというと、タバコ広告への風当たりがいよいよ強くなり、メインスポンサーのCAMEL(タバコの銘柄)が離れてしまったからである。このため、ラモン・フォルカダも他のチームに移籍することになった。
2006年はルーチョ・チェッキネロ率いるチームLCRに就職し、ケーシー・ストーナーのクルーチーフになった。
長年担当してきたアレックス・バロスはMotoGPを離れてスーパーバイク世界選手権のクラフィ・ホンダ(Klaffi Honda)というチームと契約していた。アレックスはラモン・フォルカダに「僕のクルーチーフになってくれ」と頼んできたので、ラモンもそれを断れず、スーパーバイク世界選手権と兼業することにした。MotoGPが開催されない週はスーパーバイク世界選手権に出張してそちらで仕事するのであるが、まさしく、超人的な仕事っぷりといえるだろう。
MotoGPのチームLCRでは、ケーシー・ストーナーが転倒を繰り返してマシンを次々と破壊しており、チームLCRを財政難のどん底に叩き落としていた。スタッフへの給料を満足に払えない事態になったらしい。
2007年は引き続きチームLCRに在籍して、今度はカルロス・チェカの担当になった。カルロスとは約10年振りに組んだことになる。
2007年はスーパーバイク世界選手権との兼業をせず、MotoGPのチームLCR一本で仕事をした。アレックス・バロスはスーパーバイク世界選手権を辞めてMotoGP最大排気量クラスに舞い戻っていたので、スーパーバイク世界選手権と兼業する理由がなくなっていたのである。
2008年からはヤマハワークスに在籍することになった。この年からMotoGP最大排気量クラスにやってきたホルヘ・ロレンソを担当することになった。
ホルヘ・ロレンソとの相性はぴったりで、2010年、2012年、2015年の3回チャンピオンを獲得している。
2016年限りでホルヘ・ロレンソはヤマハワークスを離れてドゥカティワークスに移籍することになった。この記事によると、ホルヘはラモン・フォルカダに対して「自分と一緒にドゥカティへ移籍しないか」と誘ったようである。ところがラモン・フォルカダはその勧誘を断っている。
もともと、ラモン・フォルカダは、ライダーがスタッフを連れて移籍するという昨今の風潮を嫌っていた。この記事では「現在のライダーの権力は強すぎる。ライダーがスタッフを引き連れて移籍して、移籍先のスタッフが大勢解雇されるのが最近の風景だ。昔はそんなことなかった。ライダーは単なる労働者で、チームの作業を手伝うことも多く、移籍するにあたってスタッフを引き連れるのはせいぜい1人だけで、移籍先にスタッフの欠員がなければそれも諦める状況だった」という趣旨のことを語っている。
「自分がホルヘ・ロレンソに付いていくと、ドゥカティワークスは誰かを解雇する必要が出てくる。それでは、ドゥカティワークスに対して申し訳ない」という心理があったのだろう、それでホルヘ・ロレンソの勧誘を断ったと思われる。
2017年からヤマハワークスにはマーヴェリック・ヴィニャーレスが加入した。
マーヴェリックに対してラモン・フォルカダは「ヤマハのマシンというのは、ホルヘ・ロレンソのようなスムーズな走りをするために作られている。だからホルヘ・ロレンソのライディングスタイルを真似て、それに近づくのが良い」と進言した。(記事1、記事2)
当初はラモン・フォルカダの進言を受け入れてホルヘ・ロレンソのスムーズなライディングスタイルを真似ていたマーヴェリックだったが、次第にそのことに対して不満を抱くようになった。マーヴェリックのライディングスタイルは深くて強いブレーキングを特徴としており、ホルヘ・ロレンソのライディングスタイルとはかなり異なるものだったからである。
2018年10月の記事でもマーヴェリックは「2017年にライディングスタイルを変えようとしたが、それで調子が悪くなった。もう自分のライディングスタイルを変えたくない。そうすると、自分の真髄を失ってしまう。僕はこのライディングスタイルでここまでステップアップしてきたんだ」と語っており、ラモン・フォルカダの忠告に対して否定的な考えを持っていることが分かる。
このためマーヴェリックはラモン・フォルカダの解任を画策し、2018年8月にはラモン・フォルカダの解任を発表している。
マーヴェリックとラモン・フォルカダは両方とも結構怒りっぽい性格をしているので、2018年中盤頃は「ヤマハワークスに緊迫の雰囲気」と各メディアが報じていた。この記事では、両者が互いにそっぽを向いている写真をわざわざ使用している。この記事では「最高レベルの緊張」と見出しに書いてある。
マーヴェリックがラモン・フォルカダを解任するとき、マーヴェリックからラモン・フォルカダへの解任申し渡しの言葉がなく、ヤマハワークス上層部から解任を告げられただけだった。このことについてラモン・フォルカダは不快感を感じており、この記事では「マーヴェリックからは一言もなかった」と語っており、さらにはスペインのテレビ局の取材に対して「マーヴェリックは腰抜けだ」と怒り任せに発言している(ライディングスポーツ2018年10月号78ページ)。
マーヴェリックの意向によりヤマハワークスを離れたラモン・フォルカダは、2019年に新しく設立されたペトロナスヤマハというヤマハ系サテライトチームに移籍することになった。
ペトロナスヤマハのチーム監督はウィルコ・ズィーレンベルグで、2010年から2018年までヤマハワークスで一緒に働いてきた人物である。
ペトロナスヤマハでは、フランコ・モルビデリのクルーチーフを務めている。
この道30年の大ベテランで、レースの読みが鋭い敏腕メカニックとして名高く、パドックでみんなに一目置かれる。
どういう性格かというと、2008年ポルトガルGPの直前にホルヘ・ロレンソに向けて放たれたラモン・フォルカダの言葉を読むとすぐ分かるだろう。
2007年までホルヘ・ロレンソは125ccクラスや250ccクラスに所属していたが、エストリルサーキットで行われるポルトガルGPで優勝したことがなかった。2004年や2007年の3位が最高成績で、ホルヘはエストリルサーキットに対して苦手意識を抱いていた。
そこでラモン・フォルカダは、次のように言った。(次のやりとりは、この商品に収録されている)
「私はアレックス・バロスと一緒にエストリルサーキットを2勝している」
「君は未勝利だが、私が勝てるマシンを用意しよう」
「いいかい、私はここが得意だし、我々は力を合わせられる」
・・・こういう格好いい言葉は、なかなか言えるものではない。
この言葉に勇気づけられたのか、ホルヘは2008年から2010年までポルトガルGPを三連覇し、2011年と2012年も2位表彰台を確保するという好成績を残すようになった。
ラモン・フォルカダはちょっぴり短気な人であるらしく、軽くスルーすればいいようなイタリアのテレビ局の失礼な質問に怒っていたことが多々あった。
マーヴェリック・ヴィニャーレスも短気な性格なので、ラモン・フォルカダとは相性が悪かったものと思われる。マーヴェリックは数週間単位で怒りが持続するタイプなので、ラモン・フォルカダとはいかにも相性が悪そうである。
ホルヘ・ロレンソも短気な部類に属するが、「ホルヘ・ロレンソは10分間怒るが、10分怒ったら平静になる」と言われているように、マーヴェリックよりは怒りの持続力が少ない。だからラモン・フォルカダと合ったのであろう。
ラモン・フォルカダが作り上げたチームは、2010年と2012年と2015年のホルヘ・ロレンソチャンピオン獲得に多大なる貢献をした。
2010年に初めてチャンピオンを獲得したとき、チームの中で世界チャンピオンを獲得した経験があったのは、ハヴィエル・ウリャーテただ1人だけだった。その時点では、いわゆる新興のチームという感じだった。
以下のスタッフたちは、この商品に次々と出演してくる。
また、MotoGP公式サイトのページでもメンバーの名前を確認できる。2011年、2012年、2013年、2014年、2015年は構成スタッフが載っていた。
2010年10月10日のマレーシアGPでホルヘはチャンピオンを決めたのだが、その晩にチームのほぼ全員が丸刈りにされた。この写真で、丸刈りになっているスタッフが妙に多いのはそのため。
サンティ・エルナンデスの記事の最後尾に詳細がある。
電子制御担当で、2008~2009年の2年間を過ごした。2009年末にレプソルホンダへ引き抜かれていった。
電子制御担当で、2010年からヤマハワークスに加入した。2019年現在もマーヴェリック・ヴィニャーレスのチームに在籍している。
1974年4月15日生まれ、イタリアのヴァレーゼ出身。
兄がいて、レースに関わっていた。その兄に影響されてレース業界で働きたいと思い、学校を卒業したらすぐにバイクレース業界に飛び込んでどこかのチームの一員になった。最初は125ccクラスのチームで、段々と出世して最大排気量クラスのワークスチームにまで昇格した。
2004年から2006年まではドゥカティワークスに在籍していた。
2007~2009年はスズキワークスでクリス・バーミューレンの電子制御を担当していた。
ロッシとロレンソの間がギクシャクしていたときもマッテオ・フラミーニ(ロッシのテレメトリースタッフ)と裏で交流していた。
いつも心配そうな表情をしている。
(※この項の資料・・・記事1、記事2、記事3)
ヤマハから派遣されてきた日本人スタッフで、電子制御担当。
2010年のチャンピオン獲得時のスタッフ。2013年にはヤマハワークスに在籍しておらず、国内に転勤していったものと思われる。
1968年3月10日生まれ、静岡県出身。1991年にヤマハに就職した。
ちょっと髪が伸びていた人なので、当時を知る人なら「ああ、あの人か」と思い出すことができるだろう。ところが、この写真ではチャンピオン獲得の祝勝として丸刈りにされてしまっている。
ホルヘ・ロレンソのチームの中でカートのレースをしたらあまりにも遅かった。そのためチーム内で「セーフティー・カー」というあだ名を与えられることになった。
ヤマハから派遣されてきた日本人スタッフで、テレメトリー(走行情報解析)担当。
背が高い。ロレンソ・チームの中ではなぜか「モヒカン」と呼ばれていた。
1973年9月17日生まれ、東京都出身。2007年に玉田誠が在籍するTech3(ヤマハサテライト)に派遣され、2008年からホルヘ・ロレンソのチームに加入した。2013年の動画にも映っている。2019年現在はヤマハワークスに在籍していない。
(※この項の資料・・・記事1)
メカニックで、車体を整備する。ピットでマシンが発着するときに姿が見られる。(画像1、画像2)
1967年6月6日生まれ、スペイン・カタルーニャ州バルセロナのサバデル出身。
もともとはトライアル(障害物をバイクで乗り越える。こういう感じの競技)の選手だった。
1999年はレプソルホンダに所属してアレックス・クリヴィーレのチャンピオン獲得に貢献した。この写真の一番右側に映っている。
その後はロリス・カピロッシ(ホンダサテライトのポンス・レーシング)のメカニックを務めて、それからヤマハワークスに移籍した。マルコ・メランドリ、カルロス・チェカ、コリン・エドワーズのメカニックを務め、2008年からはホルヘ・ロレンソのメカニックとなった。
2019年現在もヤマハワークスに在籍し、マーヴェリック・ヴィニャーレスのメカニックを務めている。
2018年中盤にラモン・フォルカダとマーヴェリック・ヴィニャーレスの確執が表面化したとき、ハヴィエル・ウリャーテもヤマハワークスを退団すると噂された。ところがマーヴェリックはハヴィエルに対して残留を求めたので、結局ハヴィエルはヤマハワークスに残留することになった。
(この項の資料・・・記事1、記事2、記事3)
スキンヘッドのメカニック。2008年には既に在籍しており、2013年限りで退団した。
チームの中ではBibboとかBibbetzと呼ばれていた。
1970年8月18日生まれ、イタリア・ボローニャ出身。ボローニャに本社があるドゥカティに就職し、テストチームのメカニックを務めていた。2005年にヤマハ入りし、2007年までコリン・エドワーズのメカニックを務める。2008年からホルヘ・ロレンソのメカニックになっている。(この記事が資料)
スキンヘッドのメカニック。2008年には既に在籍しており、2013年限りで退団した。
ネグリとクリッパの2人ともスキンヘッドで、しばしば国際映像に映っていた。(画像1、画像2、画像3)
ネグリとクリッパは、MotoGPに帯同して転戦する生活に疲れを感じたらしく、2013年を限りに同時に引退していった。
1966年9月29日生まれ、イタリア・ベザーナ出身。カートのレーサー出身で、1989年から1997年まではF-Renault、F3、F-3000の整備士だった。1997年にヤマハサテライトのチームに参加し、ルカ・カダローラのメカニックになった。2007年までコリン・エドワーズのメカニックで、2008年からホルヘ・ロレンソのメカニックになっている。(この記事が資料)
ホルヘ・ロレンソの記事にも出てくるメカニック。
1961年5月12日生まれ、スペイン・カタルーニャ州バルセロナ出身で、その後にパルマ・デ・マヨルカ島に移り住んだ。
パルマ・デ・マヨルカ島出身のホルヘ・ロレンソとは長い付き合いで、ホルヘが15歳で125ccクラスにデビューした2002年からずっとメカニックを務めている。2008年以降も当然のようにヤマハワークス入りした。
ホルヘがドゥカティワークスへ移籍したときにたった1人だけ連れて行ったのが彼であり、2019年以降もホルヘとともにレプソルホンダへ移籍した。ヤマハ時代もドゥカティ時代もホンダ時代も、ピットウォールでサインボードを出している。
ちなみにファン・リャンサはとても愛想のいい人で、カメラを向けられるといつも笑顔で振り返る。MotoGPファンに2ショット写真を頼まれると喜んで映ってくれるようである。(画像1、画像2)
ロレンソ・チームの中では「Hollister」とか「Il Nono(イタリア語で『9番目の男』という意味)」と呼ばれていた。(この記事が出典)
スロベニア出身でイタリアに帰化した。スロベニアとイタリアは隣同士なので、人の往来が活発なのだろう。
1974年頃生まれ。もともとはカヤック(こういうボートを漕ぐ競技)の選手で、小さい頃から23歳頃まで続けていた。スロベニアの代表選手になり、1996年にはヨーロッパ選手権で銀メダルを獲得している。
1999年からオートバイレースの世界に身を投ずるようになった。
2010年から2012年まではベン・スピーズのメカニックだった。2014年シーズンからホルヘ・ロレンソのチームに加入した。
2019年の全員集合写真には映っていないので、2019年には既にヤマハワークスを離れたのかもしれない。
(この項の資料・・・記事1)
イギリス・北アイルランドのベルファスト出身。
2011年からヤマハワークス入りして、2年間ベン・スピーズのメカニックとして働いた。2014年シーズンからホルヘ・ロレンソのチームに加入した。
2019年現在もマーヴェリック・ヴィニャーレスのメカニックを務めている。この写真の前列一番右にいる。
Twitterのアカウントがある。ゴルフ好きなのか、ゴルフ関連の画像が出てくる。
2015年11月のバレンシアGPまでは眼鏡を掛けていた。2016年3月のカタールGPからは眼鏡がなくなった。レーシック手術でもしたのか、コンタクトに変えたのか、どちらかだろう。
2018年中盤にヴァレンティーノ・ロッシから「クルーチーフにならないか」というオファーを受けていたと報道されている。(記事1、記事2、ライディングスポーツ2018年9月号63ページ)
ラモン・フォルカダはTwitterのアカウントを持っているのだが、そこではしばしば魚介類の画像が出てくる。(画像1、画像2、画像3、画像4、画像5、画像6、画像7)
FCバルセロナのファンである。(画像1、画像2、画像3、画像4)
カタルーニャ州独立派が掲げるアスタラーダという旗をしばしばTwitterに上げている。(画像1、画像2)
掲示板
1 ひでちゃん
2022/02/18(金) 17:03:31 ID: 61+KY4+1Ck
フランキーの単独記事もよろしく
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最終更新:2025/01/15(水) 13:00
最終更新:2025/01/15(水) 12:00
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