ボニーとクライド(Bonnie and Clyde)とは、1930年代前半のアメリカの犯罪者である。
当時の世情もあって英雄視する者もおり、そのドラマティックな生涯から後世の創作にも影響を及ぼしている。
ボニー・パーカーは1910年10月1日、テキサス州にて5人兄妹の末っ子として生を享けた。4歳の時に父が死に、祖母の家に一家は身を寄せる事となるが、そこは治安の悪い地域として有名だった。
家族を大事にし、貧しい人にも心を配る優しい性格である一方、一度キレると手のつけられない激しさも併せ持っていた。女の子だてらに、文房具を盗んだ同級生を呼び出して暴力を振るったという話が残っている。
16歳で結婚するが、その3年後に夫が銀行強盗の容疑で逮捕、刑務所に送られてしまう。意外な話だがこの時彼女は離婚せず、生涯を通じてこの婚姻は有効だった。
そして1930年、ボニーは友人の家に姿を見せた男に「危険な香り」を感じて一目ぼれし、彼と行動を共にするようになる。それこそが、後にパートナーとなるクライド・バロウであった。
クライド・バロウは1909年3月24日、テキサス州にて8人兄弟の6番目として生を享けた。家は貧しい農家で、生まれの順や家庭環境から両親からはさほど顧みられずに育つ。
子供の頃から粗暴な性格をしており、動物をいじめて遊んでいる姿を目撃されている。学校を嫌ってさぼり、17歳で兄と一緒にギャングに入るなど、着実に犯罪者としての道を歩む事となる。
クリスマスの七面鳥を盗んだ事に始まり、1926年には自動車の窃盗で逮捕。ところが家族はこれを非難するどころか、擁護する姿勢を示した。ダメじゃん。
友人の家でボニーと出会った直後に逮捕、2年ほど刑務所に収監されるが、更生するどころか出所後も性懲りもなく犯罪に手を染め続けた。いつしかクライドの周りには仲間が集まり、彼は「バロウ・ギャング」のリーダーとなる。メンバーにはクライドの兄バック、その妻ブランシェのほか、何度か入れ替わりながらも強盗と殺人を繰り返す事となった。
「バロウ・ギャング」の手口は常に決まっていた。クライドが宝石商や銀行などに押し入って金品を強奪、抵抗すればピストルをお見舞いする。車で待機していたボニーと合流して事前に計画した逃走経路を爆走し、州の境を越えるというものだった。
当時の警察には「犯罪者を追跡できるのは管轄の州の内部のみ」という権限しかなく、州を越えられると手出しが出来なかった。この頃既に連邦捜査局は存在したが、現在のように強力な権限を持っておらず、お手上げだった。
2人の使う自動車はフォード社の「フォードV8」で、当時最高の速度を誇った。彼らはこれを盗んで調達しては犯行に用い、警察であろうとも容易に追いつけるものではなかった。後にフォードの社長に対して「貴社で製造しているV8は素晴らしい。我々の仕事にもおおいに役立っている事、感謝しております」と皮肉たっぷりの手紙をボニーとクライドが送った……という逸話があるが、これについての真偽は不明である。
さて、1930年代のアメリカはいわゆる「狂乱の時代(ジャズ・エイジ)」の後、禁酒法と世界恐慌によってどん底の状態だった。株価は大暴落、失業率は25%にも及び、先の見えない貧困から来る社会への不信感は有り余っていた。
そうした暗い世相にあって「金持ちのみを狙い、貧乏人には銃を向けない」というバロウ・ギャングの姿勢を「義賊」として英雄視する大衆は少なくなく、そうした見方は報道機関の一部にも及んでいた。事実ギャングを密かに支援し、彼らをかくまっていた者もおり、最終的に起訴されただけでも協力者は23名にも及んでいる。彼らの支持もあってか、ボニーとクライドはたびたび家族の元に戻って共に過ごしており、一緒に撮影した写真が多数現存している。
勿論、すべてのアメリカ国民が彼らを支持していた訳ではない。とりわけ2人を危険視していたのが、当時の連邦調査局長官、ジョン・エドガー・フーヴァーだった。彼をして「アメリカの狂犬」と呼ばしめたボニーとクライドには、その華々しい活躍とは裏腹に、犯罪者に相応しい末路が訪れる事となる。
「バロウ・ギャング」の悪名が高まるにつれ、警察は躍起になって彼らを追跡し続けた。日に日に包囲が狭まり、メンバーにも逮捕者が出るようになる。
逃走中の自動車事故によってボニーは火傷を負い、病院にも行けずに苦しむ日々が続いた。警察との銃撃戦によってクライドとバックも負傷し、ブランシェも潜伏先を突き止められて逮捕される。
仲間を失って2人きりとなったボニーとクライドは、それでも尚逃げ続けていたが、1934年5月23日、ついにその足が止まる時が来る。
ルイジアナ州の道路をフォードV8で走行していた所を、情報をつかんで待機していたテキサスレンジャーとルイジアナ州警察に挟撃され、150発以上もの弾丸を浴びせられる事となった。
車体を貫通した弾丸は80発以上にも及び、遂にボニーとクライドは絶命。穴あきチーズ状態になった車内からは軍の兵器庫から盗み出した多数の銃器類が見つかり、調査した関係者を震撼させた。
その後ボニーとクライドの遺体は家族の手に戻され、それぞれ別の場所に埋葬される事となった。
一説にはボニーの母がクライドを「娘を騙して犯罪に引き込んだロクデナシ」と敵視し、共に埋葬する事を頑なに拒んだと伝えられている。
自分たちの末路をどこかで察していたのか、新聞社に対してボニーは「The Trail's End」(道の終わり)と題した長い詩を送った。その最後はこう締めくくられている。
Some day they'll go down together
they'll bury them side by side.
To few it'll be grief,
to the law a relief
but it's death for Bonnie and Clyde.いつの日か彼らは一緒に死ぬでしょう
それから並んで埋葬されて
わずかな人が悲しんで
法は安堵を覚える
それがボニーとクライドの死なのです
映画をはじめとしたさまざまなジャンルにおいて、題材となる事が多い。
その多くは美化されており、犯罪よりもボニーとクライドのロマンスに重きを置いている。
最も有名なのは1967年の映画『俺たちに明日はない』。フェイ・ダナウェイ演じるボニーと、ウォーレン・ベイティ演じるクライドの出会いから最期までが描かれている。
当時としては革新的かつ過激な性的表現のほか、クライマックス、一斉射撃を受けた二人の『死のバレエ』はとみに有名。またダナウェイが着用したベレー帽は、当時女性の間で大流行している。
宝塚歌劇団によっても、たびたびボニーとクライドを題材とした舞台が上演されている。『凍てついた明日~~ボニー&クライド~』『Musical BONNIE&CLYDE』など。
ほかにも洋楽・邦楽でもタイトルや歌詞に二人の名前が使われる機会は非常に多い。
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最終更新:2024/12/23(月) 14:00
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