キングスポイントとは、1977年生まれの日本の元競走馬である。
偉大な兄の幻影に縛られ、その幻影を振り切り、己の道を見つけた先に兄と同じ天命が待っていた悲しき名馬。
主な勝ち鞍
1981年:阪神障害ステークス(春)、阪神障害ステークス(秋)
1982年:中山大障害(春)、中山大障害(秋)、阪神障害ステークス(春)
父コントライト、母ワカクモという、あのテンポイントの全弟である。彼が2歳(旧馬齢表記)になるころには兄は天に召されてしまったため
彼にかかる期待は非常に大きなものであった。…そういうのって、だいたい不発だし当の本人は辛いだけなんだが。
兄と同じ厩舎、厩務員、そして主戦騎手と三拍子揃って3歳の11月にデビュー。マスコミも大々的にテンポイントの弟デビュー!兄の遺志を継ぐ者!と大々的に報道。
逐一情勢が報道される中の一戦とあってダントツの一番人気に支持されたが…3着に敗れる。そしてその後もジワジワ来るけど突き抜けられない、兄とは大違いな感じの煮え切らない競馬を続け
6戦目で何とか勝ち上がったがもう3月であり皐月賞出走は絶望的となっていた。 そしてその後もジワジワ来るが突き抜けられず
秋になり条件戦も古馬との混合になると掲示板すら確保できない有様となり、世間からは「とんだ愚弟だったな」とレッテルを張られ忘れ去られた。
まあひどい話だけど、世間様なんてそんなものである。キングスについてきたのは兄のファンが大概だから重賞に出てこない馬なんて価値はないとされても仕方はない。
ここで陣営は、障害へと矛先を変えることを決定する。大した実績もなく、障害転向の時小うるさくなんか言う連中はみんな彼なんぞ見ていなかったので
スムーズに転向するための準備が為されていった。新たなパートナーは「気性が難しいこの子でも彼なら大丈夫」と平地時代の主戦鹿戸明からの推薦で
当時障害騎手として売り出し中だった小島貞博が主戦となり、飛越訓練が始まった…のだが、わざと斜めに飛ぶわ、試験では障害を逃避するわ、飛越拒否するわ気性の難しさを丸出しにして暴れ
転向もおぼつかないんじゃないか?と思われたが、辛抱強く訓練を積まれどうにか障害デビューにこぎつけた。
そして年末に迎えた障害未勝利戦、まだヘッタクソな飛越ではあったが卓越した実力の片鱗を見せ半馬身差振り切り勝利を収める。
続く障害条件戦では大差勝ちを決めて度肝を抜く。そう、キングスポイントは平地ではなく障害向きの天賦の才が与えられていたのである。
その後、転向後4連勝で阪神障害ステークス(春)を勝ち重賞タイトルを獲得。ついでにレコード勝ちのおまけまでついてきた。
5戦目のオープンもレコード勝ちを収めるが、骨瘤の影響で休養。復帰後はもとより飛越は下手なこともあって2戦連続2着に甘んじた。
しかし阪神障害ステークス(秋)を制覇するとまた連勝街道まっしぐら、そして日本の障害レース最高峰レースである中山大障害(春)へと向かうのであった。
そして迎えた中山大障害(春)、勢いがあったことや内容も圧巻の一語であったことから一番人気に推された。この頃になると
すわ障害の貴公子だのなんだのみたいにまた兄との比較が頭をもたげつつあった。そんな中レースは始まったが
8頭立てで3頭落馬というサバイバルレースを無人の野を往くかのように駆け抜け大差勝ち。驚愕の勝ちっぷりでビッグタイトル獲得となった。
このレースの後は休養し、中山大障害春秋連覇を目標にすることとなった。
そして秋は斤量を課されるのを避け平地の京都大賞典と天皇賞(秋)を使ったがやっぱり振るわず。中山での障害オープンを圧勝し堂々と春秋連覇をかけ中山大障害(秋)に臨んだ。
今度は大差勝ちとは行かなかったがやはり8馬身ちぎって圧勝。着差は縮んだが走破タイムは縮めてみせたんだから大したものである。
ここまで障害戦は14戦12勝。 単純比較は出来ないが、グランドマーチスやバローネターフ、フジノオーら障害戦の伝説となっていた名馬とも比肩しうる実力を身に着け始めていたと言えよう。しかし…
春秋連覇の後はもちろん中山大障害三連覇を目指して行く予定だったのだが左膝を骨折し、中山大障害(春)は断念することになってしまった。
じっくり治して中山の障害オープン戦で復帰。ここはかつてのようにぶっちぎって圧勝するが本番中山大障害(秋)では伸びあぐねてしまい4着に敗れてしまう。
障害で連対を外したのはこれが初めてであった。悪いことは続くもので内臓疾患を発症しまたも休養を余儀なくされた。
今思えば、彼の歯車は確実に狂い始めていたのかもしれない。しかしそんなことは当時の関係者には知る由もないことである…
しかし翌年の中山大障害(春)戦線には間に合い復帰。中山の障害オープンを勝つが、65キロを背負っていたとはいえわずかにクビ差の辛勝と、不調なのは明らかであった。
それでもかつての王者として復活の舞台から逃げるわけにも行かず、中山大障害(春)へ。 一番人気に推され軽快に走っていたが、水濠障害を低く飛びすぎてしまい、板に右後脚を激しく叩きつけてしまい骨折を発症。
三本脚になりながらも走り続け次の飛越する闘志は見せたがそこで力尽き、もうどうにもならない重度の骨折であったため、兄と同じく予後不良、薬殺となった。
兄の幻影を振り切り、天才ハードラーとしての伝説を築き上げていたが、最期は兄と同じく競走中の骨折が原因で死亡というなんとも皮肉な結末となってしまった…。
障害戦成績は18戦14勝2着2回4着1回。競走中止を除けば掲示板を外したこともなく、勝つ時はぶっちぎっての圧勝劇が多かったまさに天才としか言いようのない障害馬であった。
主戦の小島貞博は「いつもは不器用なくせに勝負に行った時は凄い跳びを見せて…飛ぶたびにぶっちぎるんです」と語っており
平地ではズブい一方で決め手がなかった馬とは思えない決め手の持ち主であったことが伺える。緩急が連続する障害ではいろいろと上手くハマったのだろう。
斤量が重くなり始めた頃に骨折したため、バローネターフやグランドマーチス、フジノオーのようにキツイ斤量でも力を発揮できたかは未知数だし、
あの事故がなくとも何時か斤量や飛越失敗で脚は砕けていたかもしれない。しかし18戦して14勝し、掲示板も外さない強さと安定感のハイバランスっぷりは、伝説の障害馬として前者三頭と並べても恥ずかしくはないものである。
余談だが彼が逝った同日、阪神では桜花賞が行われたのだが、そこで勝利したのは姪っ子にあたるダイアナソロンであった。
クモワカという牝馬に端を発する血統の劇的性質がよく現れた、明暗が別れた一日であった。
*コントライト Contrite 1968 鹿毛 |
Never Say Die 1951 栗毛 |
Nasrullah | Nearco |
Mumtaz Begum | |||
Singing Grass | War Admiral | ||
Boreale | |||
Penitence 1961 黒鹿毛 |
Petition | Fair Trial | |
Art Paper | |||
Bootless | The Cobbler | ||
Careless Nora | |||
ワカクモ 1963 鹿毛 FNo.3 |
*カバーラップ二世 1952 黒鹿毛 |
Cover Up | Alibhai |
Bei Amour | |||
Batty Martin | Hollyrood | ||
Rhoda F. | |||
丘高 1948 鹿毛 |
*セフト | Tetratema | |
Voleuse | |||
月丘 | Sir Gallahad III | ||
*星若 | |||
競走馬の4代血統表 |
掲示板
3 ななしのよっしん
2019/01/16(水) 01:25:06 ID: 30qDUXKMO0
オグリキャップみたいに図太い神経してるやつはともかく
馬だって期待は感じるよ、ストレスとして 流石に新聞やテレビは見ないからあくまで自分の周りにいる人間の自分に向いてる態度ありきだが
4 ななしのよっしん
2019/09/19(木) 16:37:52 ID: NH2Cmezbbs
そのオグリですらパパラッチじみた取材で食欲無くすレベルだったんですが…
5 ななしのよっしん
2022/12/04(日) 21:34:27 ID: CkZfs14rOi
>>1
クモワカ11勝、ワカクモ11勝、テンポイント11勝、キングスポイントはそれを越えたが...というね
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最終更新:2025/01/05(日) 08:00
最終更新:2025/01/05(日) 08:00
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