C62とは、旧国鉄が開発・製造した蒸気機関車のひとつである。通称シロクニ。
概要
日本最大最強の旅客用蒸機とも呼ばれる特急列車用の機関車。
第二次世界大戦終結により旅客需要が増え貨物需要が減少することの対策として、
戦時量産の貨物機関車D52のボイラー(またはボイラーの設計のみ)を流用して49両が製造された。
登場以来「つばめ」「あさかぜ」などの特急・急行・寝台列車の先頭に立ち東海道本線・山陽本線で活躍したあと、
電化が進むにしたがって東北(常磐線)・北海道(函館本線)・中国地方(呉線)などに転属し晩年を過ごしている。
現役ばりばりの頃に写真を撮っていた鉄オタからの証言によると、「製造できる限界ぎりぎりいっぱいまでボイラーの幅を広げてあるため見る側に与える圧迫感が強く」、迫ってくる本機を線路の脇で撮影するときは恐怖すら覚えさせたという。
言うまでもないだろうが、漫画「銀河鉄道999」に登場する宇宙列車999号の牽引機のモデルである。詳しくは後述。
こぼれ話
C62の車輪配置『2C2』[1]は別名「ハドソン」という。数々のゲームを送り出したメーカーの「ハドソン」の由来である(当時の社長は鉄道マニアでもあった)。そのためか同形式のエースナンバーであったC62-2号機をもじった「4622」という数字をパスワードにしているゲームも見受けられる。また、ハドソンが開発したPCエンジンのチップセットはその名も『Hu-C62』である。
ちなみにハドソンは3号機がニセコ号として復活運転していた当時、そのスポンサーともなっていた。
有名な個体
- 1号機:京都鉄道博物館にて2号機の部品取り用静態保存(動かない)。
- 2号機:通称“スワローエンゼル”。たぶん日本で一番有名な蒸気機関車。その通称の由来は除煙板に付けられたツバメをかたどったステンレス装飾板である。[2]京都鉄道博物館にて動態保存(動く)。梅小路機関車館時代の2010年頃に一度過熱管の水漏れトラブルで休車になったりしたが、2012年10月10日に復帰している。なお、銀河鉄道999の作画(アニメ・漫画両方とも)の際に参考にしたのはこの車両である。
- 3号機:通称“ニセコ”。退役後一度復活したが予算の関係で(涙)廃車。現在JR北海道・苗穂工場にて静態保存。
- 15号機:東京駅・動輪の広場に飾られているのはこの個体の動輪である。
- 17号機:1952年に東海道本線で時速129キロを計測、これは狭軌(国鉄・JR在来線の線路幅)での蒸気機関車最速記録である。[3]本機は長らく名古屋市内の公園で放置プレイ野ざらしで保存されていたのだが、JR東海がリニア・鉄道館を作った際引き取られ冷暖房付の建物の中で静態保存されることとなった。
- 23号機:1967年まで常磐線で特急「ゆうづる」を牽引し、これが正規運用としては最後の寝台特急牽引蒸気機関車になった。[4]実機は現存しない。
- 26号機:京都鉄道博物館にて静態保存されており、入り口を入ってすぐのところにあるプロムナードにて、80系や0系と共に展示されている。かつては大阪・交通科学博物館にて保存されていた。現在も存在する唯一の川崎重工製C62(ほかはすべて日立製)。
- 32号機:“エロゲに出演したC62”。エロゲ『Railway~ここにある夢~』にナンバープレートがはずされた状態で出演した。ナンバープレートがないのに特定されたのは舞台が北海道だったことと登場人物がこの車両を「昔は最好調機と呼ばれていた」と発言していたため。余談だが現実の32号機は廃車の際「ほかの調子悪いやつ潰してナンバープレートだけこれと取り替えようぜ」といわれたほど好調だったとか。
- 48号機:999号はこのナンバーを掲げている(漫画&劇場版)。その理由は松本零士御大がこの個体のナンバープレートを持っていたからである。一方、TVアニメ版においては実在しない車両番号(C62-50号機、現実は49両しか作られていない)になっている。『現物に敬意を表して』とのこと。
関連動画
関連コミュニティ
関連項目
外部リンク
脚注
- *CやDは機関車の動輪(=動力とつながっている車輪)の数を表し、Cが3個、Dが4個である。2C2なら『前に2組の従輪(=動力なし車輪)、次に3組の動輪、後ろに2組の従輪』という意味になる。
- *実はあまり調子のいい機でなく(蒸気の減りが異常に早かったりした)、東海道・山陽時代は「つばめ」などの特急の先頭に立つことは滅多になかった。北海道に送られた時にボイラー交換をするも、根本的には治らず、峠越えの補機として働くことが多かった。だが、これが皮肉にも峠の重連の先頭に立つ堂々たる姿を見せる結果となり、当時のSLファンの間でアイドル的扱いを受けることになった。この縁で、1号機を差し置いて動態保存機に選ばれることになったのである。
- *『橋に重い鉄道車両が通っても大丈夫か』という試験の際どさくさにまぎれて達成した。ちなみに当時の機関士は最初から狙っていたとか。そのときの試験添乗員は狭いキャブに収まりきらずにテンダの石炭の山の上にしがみついていた。彼らはそのことを述懐していわく「ちょー怖かった(意訳)」と語っている。ちなみに今まさに全力で木曽川橋梁に飛び込まんとするC62のテンダから振り落とされまいと、必死で這い蹲る3人の試験添乗員を後方のやや高い位置から撮影した写真が残っているのだが、このカメラマンはいったいテンダのどこで撮影したのであろうか?
- *本当の意味での最後の牽引機は、1973年に日豊線で代走をおこなったC57であった
- 5
- 0pt