- プロ野球選手一覧 > 長谷川良平
長谷川良平(1930年3月25日~2006年7月29日)とは、広島カープに所属していた元プロ野球選手である。
選手としては167センチ56キロと非常に小柄ではあったが、戦力どころか金銭面もろくに整っていなかった創設期の広島カープを支え、「小さな大投手」の異名で呼ばれた。
概要
OB | |
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長谷川良平 | |
基本情報 | |
出身地 | 愛知県半田市 |
生年月日 | 1967年3月25日 |
身長 体重 |
167cm 56kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1950年 |
引退 | 1963年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
1943年に半田商業に入学するが、時は第二次世界大戦真っただ中のため野球どころではなく、終戦で野球部が復活したのは1946年。当然ながら部員も少なく自ら仲間を集めて甲子園を目指すが、終戦直後とあってかボールやユニフォームが不足しており、思うように練習が出来なかったようで、47年の県大会では3試合連続完封勝利を達成しているものの、準々決勝で岐阜商に敗れて甲子園出場は果たせなかった。
半田商業卒業後は様々なノンプロチームを転々とした後、1950年の広島カープ創設に伴いカープに移籍した内藤幸三という選手の紹介もあって広島カープのテストを受けることになる。ちなみにこの時ドラゴンズのテストも受けていたようだが、167センチという体が余りにも頼りなく見えたのか投球すらさせて貰えなかったという。
テストでは広島カープの監督であった石本秀一も当初は長谷川の体を見てあまり期待はしていなかった様子だったが、長谷川の投球を見るや顔色が一変し、すぐさま獲得を決断。契約金30万円、月給2万5千円という破格の契約で入団が決まった。(参考までに当時の公務員の初任給が1500円、長谷川と共にテスト入団した長谷部稔は契約金無し、月給5千円という待遇であったことからその優遇振りが窺える)
プロでは開幕5戦目となった3月16日の中日戦にてプロ初登板を果たすが、対戦投手が中日のエース・杉下茂だったこともあり2-5で敗戦投手となり、さらにここから5連敗を喫する。
その後4月27日の西日本パイレーツ戦において9回4失点完投で初勝利を挙げたが、この後も創設したばかりで戦力が整っていないという事情もあって連勝と連敗を繰り返し、最終成績は348と1/3回を投げ15勝27敗、防御率3.87という成績に終わっているが、チーム内で二桁勝利を挙げたのは長谷川と内藤幸三(11勝19敗)のみで、この年はチーム全体でも41勝しか記録していないため、長谷川一人でチームの勝利数の約1/3を稼いでいたことになる。(しかも後述するがチーム内でベテランからわざとエラーまがいの嫌がらせを受けていてこの成績であるから尚更数字以上に評価されるべきである)
背番号を32から18に変更した翌51年は17勝14敗で勝ち越し、名実共にカープのエースとなるが、この年のオフにドラゴンズとの間で長谷川を巡って大事件が起こる。
簡潔に記すと、選手との契約の意思を球団が示すためにはこの年から導入された「統一契約書」というものを定められた期限までに選手に送らなければいけないのだが、これが印刷の遅れで長谷川の元に届かなかった為、長谷川は自分が自由選手としてドラゴンズに移籍すると公に主張を始める。
チームとすればこの年の勝利数の半分(51年のカープ全体の勝利数は32、長谷川はチーム勝利数の半分以上を一人で稼いだことになる)を記録したエースを引き抜かれたらえらいことになるのは目に見えているので、コミッショナーに解決を依頼、結局翌年の3月10日に鈴木竜二が下した「選手の引き抜き合戦を防ぐのが統一契約書の目的、その条項を盾にとって提訴するのは制定の趣旨に反する」というプロ野球史上最初のコミッショナー裁定によって長谷川はカープに残留することが決まった。長谷川は開幕前日の3月20日に広島に戻るが、この時駅前には長谷川の残留を喜ぶファンが殺到、長谷川は「もう絶対にカープを離れない」と心に誓った。
ただ52年のシーズンは上記の騒動による調整不足や、まだまだ続いていたベテラン選手の嫌がらせもあって11勝24敗と大幅に負け越した。ただこの年は「勝率3割を達成できなかったチームは解散」という特別ルールがあったため、最終的に37勝80敗に終わったチームにとって長谷川の11勝はその数字以上に大きな意味を持っていた。
53年はカープファンならご存知の樽募金によって小鶴誠や金山次郎といった大物打者を獲得したことで援護が増え、初の20勝を達成。54年は自己最多となる387と1/3回を投げ、18勝の他リーグ最多となる28完投を記録し、55年にはリーグ最多となる30勝を挙げ自身としてもチームとしても初タイトルとなる最多勝を獲得した。ちなみにこの30勝の内13勝が大洋から挙げたもの。
57年には新たに完成した広島市民球場のこけら落としとなった7月24日の阪神戦に先発するが3回で降板、チームも1-15で大敗し、この試合を含め広島市民球場の「開場シリーズ」と呼ばれた8試合では長谷川はいずれも勝利を挙げることが出来なかった。
58年、初の広島市民球場でのオールスターゲームに登板するが、このオールスターの前に肩を壊していたようで、試合では葛城隆雄・野村克也・榎本喜八に連打を浴びてわずか9球で降板となり、この年は9勝11敗でプロ入りから続いていた2桁勝利が途切れている。
その後は59年・60年は再び二桁勝利を挙げたが、61年から63年の3年間は計10勝に終わり、63年限りで現役を引退した。
引退翌年の64年には投手コーチに就任、特に安仁屋宗八を公私に渡って可愛がり、翌65年途中には成績不振で休養した白石勝巳監督の後を受け代理監督となり、翌66年には正式な監督に就任するが、67年は最下位となり監督を退任した。
68年から70年は中日のコーチを務め、73年・74年の2年間には再びカープのコーチを務めている。
2001年に野球殿堂入り、この時長谷川は「いたずら電話かと思った」とコメントしている。
2006年7月29日、肺炎のため76歳で亡くなった。
人物・評価
まず特筆すべきは現役時代に挙げた197勝という数字である。これは14年間でチーム全体が記録した723勝の約27%を占める数であり、 さらに2桁勝利が続いていた57年までで数えると長谷川の勝利数154勝はチーム勝利数376勝の約41%を占めている。創設当時は援護も少なく、また守備もボロボロだった広島でこれだけの勝利を挙げたのは普通のチームでの200勝より価値のあるものと言える。
そしてこの勝利数も、ひょっとしたらもっと伸びていた可能性もあった。それを妨げた原因の一つは先輩選手の嫌がらせである。入団してすぐに2桁勝利を挙げてエースの座に収まり、日々チームの勝利のために闘志を燃やしていた長谷川を快く思っていなかった人間は少なからず存在し、長谷川と同期入団で長谷川と親しかった長谷部稔は以下のように供述している。
今はもう時効でしょうから。ベテラン選手は巧妙にやっとりましたよ。最初の一歩のスタートを遅らせて、エラーにせずにヒットにしてしまったりね。
何時頃からか、はっきり覚えておりませんが、村八分いうんですか、今でいうシカトですか、たしかに長谷川包囲網みたいなもんが出来とりましたよ。
それでですかな、私もやられましたよ、キャンプ中の投球練習で、まっすぐを投げていたのがいきなりひねりやがるんよのう。まだ寒い時期ですけえ、裂けますよ指が。それで血の付いたボールを返すと、それで因縁つけたりね。そりゃ情なかったですよ。
特に武智修という選手は長谷川を嫌悪していたようで、長谷川に対して「お前が今度投げる時、満塁でトンネルしちゃる」と吐き捨て、実際に52年に長谷川は2試合目の登板で完封勝利を挙げたものの、そこから9連敗を喫しており、この完封勝利を挙げた試合には武智は出場していなかったが、連敗を喫した試合には必ず武智が出場しているという記録が残っており、エラーしたかしてないかは別としても、長谷川に対してなんらかの嫌がらせを行っていたことがうかがえる。
最も長谷川はこれらの嫌がらせには屈さず、また監督の石本秀一には可愛がられていたこともあって、列車の座席やマッサージの順番、さらに宿舎の部屋も良い物を割り当ててもらうことが出来、投球練習も親しい仲の長谷部が捕手だったこともあって問題なく行うことが可能だった。
もう一つの原因は広島市民球場である。長谷川が57年に完成した球場のこけら落としの阪神戦に登板して惨敗したことは上述の通りだが、長谷川はこの球場を「ライト方向に風が吹き、左打者が有利になるんで僕には違和感があった」として苦手意識を持っており、この球場の完成が2,3年遅ければ200勝を達成できたのではないかと言われている。
プロ入り前から巨人の川上哲治のファンであり、55年に初めて内角ストレートで見逃し三振に打ちとった後、雑誌の対談で顔を合わせた際に「ハセ、やっとワシと互角になったなあ」と声を掛けられた。
また引退後は川上からかけられた「長谷川君の197勝は他球団での200勝、いや250勝以上の価値がある」という言葉にいたく感動していたという。
56年には阪神のミスタータイガースこと藤村富美男に藤村の生涯最後のホームランとなる代打逆転サヨナラ満塁本塁打を被弾している。
プレースタイル
プロ入り時はナチュラルの変化するシュートを最大の武器とし、これで多くの選手のバットをへし折った。
他球団の選手からは「七色の変化球を操る」と評されたが、実際は速いカーブ・遅いカーブを身に着けた以外は、シュートを指先の力加減で自在に変化をコントロールし、さらにはフォームも上から・横から・下からと変幻自在を極め、少ない球種を多く見せられるように工夫している。
ベテランになるにつれ、雰囲気で相手が何を狙っているか察知できるようになり、コースもリリース直前で相手の逆を突いたりするようになった。
通算成績
通算:14年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 | WHIP |
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NPB | 621 | 213 | 38 | 197 | 208 | -- | -- | .486 | 3376.1 | 1026 | 1564 | 1242 | 993 | 2.65 | 1.19 |
監督成績
通算:3年 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | |
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NPB | 350 | 135 | 199 | 16 | .404 | Bクラス3回 |
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関連項目
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