畠山国清単語

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畠山国清(??)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将である。

概要

畠山氏とは足利義兼の庶長子足利義純が、畠山重忠の乱後、婚姻関係を通して彼の権益を継承したことに始まるである。

嫡流筋であった畠山と同様元弘の乱から討幕まで足利尊氏に付き、建武政権下では足利直義に従い、足利義詮を支えて関東定に尽力した。そのまま1335年に尊氏が後醍醐天皇から離反するとこれに従い、新田義貞矢矧の戦いで破って上した。

室町幕府の成立によって紀伊の守護となり、1348年に細川顕氏山名時氏が南軍に敗れたことをきっかけとして起きた、四条畷の戦い後、彼は高師泰とともに残党討伐に尽力した。しかし一年たっても終えることができず、そうこうしているうちに観応の擾乱が起きたのである。そのため京都に帰らざるを得なかった師泰の代わりに、彼は楠木軍の抑えとして高屋拠点を構えたのである。

どちらかというと尊氏であったにもかかわらず、彼は足利直義に付き従い高師直討伐などに加わった。しかし同じく元直義だった細川顕氏の仲介で尊氏に帰順し、1351年のの戦いの勝利に貢献したのである。

1353年伊豆の守護に補任され、鎌倉足利基氏の補佐をする関東執事となって鎌倉に下向、1357年には武蔵の守護も兼任することとなる。そして彼の活躍によって1358年に関東軍の力であった新田義興の誅殺に成功したのであった。

そして1359年、彼は足利義詮の畿内の南討伐の計画に参加。これが彼の運命を決めるとはも知らなかった。1万をえる大軍を畿内に率いていった清は楠木一族の和田助氏らを撃破し、1360年には天野金剛寺に乱入、さらに四条俊を破る大活躍を見せた。しかし関東で南が盛り返したため帰せざるを得なくなり離脱、その結果軍の力が抜けた畿内の対南軍による活動は失敗に終わってしまったのである。さらに関東では足利基氏によって旧直義が復権を果たしており、彼の居場所は関東にも京都にもなくなってしまったのだ。

そして1361年、旧直義は徒党を組み、彼の罷免を要。これに基氏も賛同して清は執事の職を追われ、抵抗もむなしく出し基氏に降ることになったのであった。清のその後は定かではなく、年も不明である。

しかし彼のであった畠山義深が貞治の変での斯波高経討伐に参加したことから、高経の越前国守護職を与えられ、畠山氏は復権し、三職の一家となったのであった。

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