橋姫とは、
橋姫とは、日本の伝承に登場する女性、女神、鬼女である。その名のとおり橋に関係する。
概要
橋姫にまつわる古典や伝承には様々なものが伝えられており、大きくは「橋を守る女神」「嫉妬に狂った女性」「愛する人を待つ女性」という三つの側面を持つ。いずれもその名のとおり橋に関連した女性であるという点が共通しており、またそれぞれの間で影響も見られる。
橋の守り神としての「橋姫」
古来日本では水辺やそこにかかる橋には心霊が宿るとされ、女性神が守る場所とされてきた。特に橋は「外界・向こう側との境界」であり、避けては通れぬ場所、外から来る侵入者や病を防ぐ場所として非常に重要視されていた。
民俗学者・柳田國男によると、橋姫は大昔に街道にかかる橋のたもとに祀られていた美しい女神であり、地方によってはその信仰が早くに衰えてさまざまな昔話が生まれたという。
橋姫神社
宇治川と宇治橋 |
京都府宇治市の橋姫神社には、宇治橋の守り神として橋姫が祀られている。
宇治川に宇治橋が架けられた大化2年(646年)、橋の守護神として、上流の櫻谷に祀られていた瀬織津比咩(せおりつひめ、人の罪や穢れを流し去る女神とされる)を宇治橋中ほどにある現在「三之間」と呼ばれる場所(右写真中央の張り出した部分)に祀ったのが始まりとされる。これにより瀬織津比咩は「橋姫の神」とも呼ばれるようになった。
時代が下り、嫉妬する女性としての橋姫の物語(後述)が語られるようになると、その影響を受けて橋姫神社は「悪縁切り」のご利益があるとされるようになった。また、嫁入り前には神社の前を通らぬようにしたり、夫婦の縁結びの際には橋の下を船で渡るようにする(橋を渡ると橋姫に妬まれるとされたため)などの風習も生まれた。
このほか後に、「一緒に祀られている住吉明神の妻」「宇治神社の神が毎夜橋姫の元に通っている」などという話もみられるようになる(顕昭『袖中抄』)。
橋姫神社は三之間から宇治橋の西詰に移された後、明治3年に洪水で流失。明治39年に現在の場所(参考:Googleマップ)に移転された。現在社務所では橋姫キャラクター缶バッジ(300円)・缶マグネット(400円)のほか、縁切りバサミ(3000円)が販売されている。
愛する人を待つ女性としての「橋姫」
『古今和歌集』巻一四に、詠み人知らずとして次のような歌がある。
さむしろに 衣かたしき 今宵もや われを待つらむ 宇治の橋姫
(筵の上に自分の衣だけを敷いてひとり寝ながら、今夜も私を待っているのだろうか宇治の橋姫は)
ここには何らかの事情で女性のもとを訪れられないのであろう詠み手の男性のことを、一人寂しく待つ女性が描写されている。なおこれが「宇治の橋姫」の名が見えるもっとも古い文献である。和歌の世界では源氏物語の「宇治十帖」の一帖「橋姫」のイメージもあいまって、「いとしい人を待つ女性」としての橋姫の描写が多く用いられた。
『御伽草子』の「橋姫物語」などに、先ほどの歌を交えて次のような話が伝えられている。
むかしむかし、難波に住む中将がいた。中将には二人の妻がいて、本妻のほうを「宇治の橋姫」といった。橋姫はつわりに苦しんでいて、中将に七色の若布(七尋とする場合も)をとってきてほしいと頼んだ。中将は海に探しに行ったが、そのまま三年経っても帰ってこなかった。
帰ってこない中将を探しに出た橋姫が海辺をさまよっていると、一軒の家があり、中には老婆がひとりいた。その老婆が言うには、中将は龍神に捕らえられて婿になっているという。さらに老婆は、自分は龍神から薬草を預かっている者で、中将を連れてくるからここで待っていろ、但し鍋の中だけは決して覗くなと言って部屋を出て行った。橋姫が言われたとおりに待っていると、隣の部屋から宴をする声が聞こえてきた。そこに老婆が出てきて橋姫に部屋の中を見せると、妖怪たちの中に中将がいて、盃も取らずに憔悴した様子で「さむしろに~」の歌を何度も何度も詠んでいた。しばらくして妖怪たちが去ったあと、橋姫と中将は再会を喜び合うが、中将は長くは会っていられないと嘆き、またの再会を約束して去った。
喜んだ橋姫は、このことをもう一人の妻に話した。もう一人の妻は早速浜辺に出向いて老婆に会うが、見てはいけないと言われた鍋の中をこっそり覗いてしまう。同じように中将に対面したもう一人の妻は、「さむしろに~」の歌を詠み続ける中将を見て、自分のことは想ってくれないのかと嫉妬して家の外に飛び出してしまった。すると家も中将も瞬く間に消え失せ、あとには板屋貝がひとつ残るばかりであった。
中将は二度と戻ることはなく、橋姫はもう一人の妻に話したことを後悔したという。
似たような話が平安期の歌人・藤原清輔の歌学書『奥義抄』や、『山城国風土記』などにも見られるが、「鍋の中を見てはいけない」というくだりがなかったり、もう一人の妻の存在がなかったりなど、細部に違いがある。
嫉妬の化身としての「橋姫」
橋姫にまつわる伝承の中でもっとも有名なのが、この嫉妬に狂った女としてのものである。
『平家物語(屋代本)』『源平盛衰記』の「劔巻」、『太平記』などにみられる類のもので、橋姫神社に悪縁切りのご利益があるとされるようになったのもこの話の影響と考えられる。なお『平家物語(屋代本)』『源平盛衰記』はいずれも平家物語の異本とされるもので、通常読まれている平家物語にはこの話は収録されていない。
嵯峨天皇の時代のこと。とある公卿の娘が深い嫉妬にとらわれていた。娘は貴船神社に七日間篭り「帰命頂礼貴船大明神、妬ましいあの女を取り殺したいので、願わくば生きながら鬼神にしてください」と祈った。これを聞いた貴船明神は、娘に「鬼になりたければ姿を変えて、宇治川に21日間身を浸けよ」と告げた。
これを聞いて喜んだ娘は都へ帰り、人のいない場所に篭ると、長い髪を5つに分けて角を作り、顔に朱を、体には丹を塗り、頭に鉄輪を乗せ、その鉄輪の三つの足に松をつけて火を灯し、更には両端に火をつけた松明を口にくわえるというおぞましい姿になって、夜が更けてから都の大路を南へと駆けていった。その姿は既に鬼のごとき形相で、これを見た人はみなショックで死んでしまった。そして娘はその姿でお告げ通りに21日宇治川に身を浸し、生きながら鬼となったのである。これを「宇治の橋姫」といった。
橋姫は妬んでいた女性とその縁者、橋姫を嫌った男性の親類、更には老若男女誰彼かまわず、思うがままに憑り殺していった。男を殺すときは女に、女を殺すときは男に化けて憑り殺した。その恐怖に、京中の者が貴族も庶民も夕刻を過ぎると家の門を閉め、誰かを家に招き入れることも、外出もしなくなった。
「劔巻」ではこの後、頼光四天王のひとり源綱が一条戻橋で鬼と出会い腕を切り落とす話(一条戻橋の記事を参照)に続くが、この後の展開を含めてこの話にはさまざまなバリエーションがある。
この話をもとに作られた謡曲『鉄輪(かなわ)』では、橋姫は夫に捨てられ、元夫とその新しい妻を妬む女性となっている。謎の悪夢に悩まされた元夫は稀代の陰陽師・安倍晴明に相談し、橋姫は晴明が召還した三十番神によって退散させられ、時期を待つと言い残して消える。なお謡曲『鉄輪』には、橋姫が「鉄輪の井戸」にたどり着き息絶えるというものもあり、京都市下京区にそれとされる井戸が今もある。
室町~江戸期に成立した絵入り物語『御伽草子』の「鉄輪」では、橋姫は晴明によって退けられたのちに見境なく人を襲ったがために、頼光四天王の源綱・坂田公時両名に打ち倒される。そして最期には「もう人は襲わないから弔ってほしい、これからは都を守る神となる」と言い残して宇治川に身を投げ、あとに安倍晴明が祠を設けて橋姫神社として祀った、という結末になっている。
丑の刻参りとの関連
以上に挙げた一連の話のうち、特に謡曲『鉄輪』における橋姫の姿は、「丑の刻参り」の元となったとされる。
貴船神社は丑の刻参りの発祥地といわれることが多いが、もともと貴船神社には、貴船山に神が降りた丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻に参れば願いが叶いやすくなるという信仰があったとされ、謡曲『鉄輪』が広く演じられ浸透した際に言い伝えが混じり、人形祈祷の要素も加わって現在の「丑の刻参り」のイメージが形作られたという。
創作作品における橋姫
- ゲーム「東方地霊殿」の登場キャラクター「水橋パルスィ」の種族が橋姫である。
- 18禁ゲーム「とっぱら~ざしきわらしのはなし~」に登場するキャラクター「瀬織」は橋姫とされる。ただし名前からも判るとおり瀬織津比売(せおりつひめ)としての橋姫であり、「宇治の橋姫」ではないとのこと。
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