末續慎吾とは、日本の陸上競技選手である。所属はスポーツ用品メーカーでお馴染みのミズノ。
男子200m・男子400mリレーの現日本記録保持者であり、同時に双方ともアジア記録でもある。
概要
小学校の頃から全国大会に出場するなど、幼少時から既にその片鱗を見せており、高校陸上界では九州の名門の九州学院高校に進学。
九州学院時代は、国体で2度の優勝を果たしたり、怪我をしつつも男子100mで8位入賞を果たす等、徐々に末續の名は全国区に知られるようになる。
高校卒業後は東海大学に進学。400m日本記録保持者の高野進氏の指導の下、在学中に100mで10"05、200mは20"26の学生記録を作り、着実に世界で戦える実力をつけていく。
北京オリンピック以降は無期限休養をとっており、2011年に地元である熊本の記録会に出場する等、競技選手としての活動再開した模様。今後の活躍が期待される。
2003 世界陸上パリ大会での快挙
世界陸上開催前に行われた日本選手権で、200mで20"03の現在の日本記録・アジア記録を樹立。
この時点で世界ランキング1位になり、世界陸上での上位入賞候補に挙がる。
しかし、アメリカを中心としたアフリカ系選手が席巻するこの種目で、アジア人がメダルを取るかもしれないと云う期待も比較的冷ややかなものだった。
そして同年パリで行われた世界陸上で、見事3位入賞・銅メダルを獲得するとゆう快挙を成し遂げた。
前述通り、アフリカ系選手以外でのメダル獲得は稀な事であり、更にアジア圏の選手でのメダル獲得の可能性は皆無とまで言われていた。
そんな中での末續のメダル獲得の快挙は世界的なニュースとなった。
リレー種目での末續
2000年以降、400mリレーで五輪やアジア大会、世界陸上と日本代表として出場している。
しかし、アジアではメダル獲得の常連である日本勢でも、世界の舞台では決勝に残りこそすれどメダルには中々届かずにいた。2007年の世界陸上では、アジア新記録(当時)となる記録を出しても5位入賞だった事から、この種目の壁の高さが伺える。
翌年に開催された北京五輪では2走を務め、徹底された日本チームのバトンパスに加え、強豪であるアメリカ等がバトンミス等で失格すると云う追い風もあり、見事日本初のリレー種目のメダル獲得に貢献した。
その他の逸話
小学校時代の逸話 走り幅跳びについて
女子走り幅跳び日本代表の井村久美子(旧姓:池田)選手とは同学年にあたり、小学校時代に共に全国大会に出場している。
この時、二人とも同じ走り幅跳びに出場していたが、記録上で末續は井村選手に記録上で負けたのを切っ掛けに、走り幅跳びをメインで大会に出場する事が無くなった。(九州学院高時代には走り幅跳びにも出場している)
余談だが、これは井村選手が後に中学1年で中学生の全国大会を優勝したり年齢別世界記録を樹立する様なレベルの選手であった為で、決して末續のレベルが低かった訳ではない。
九州学院高校時代の逸話 常に全力の人・末續
高校時代の末續は結構無茶をしている。
高校1年時の熊本県大会では、100m・200m・走り幅跳び・1600mリレーにエントリー。
個人種目を終えて残すは1600mリレーのみだったが、日程上ハードであった為、指導者が止めたにも関わらずアンカーとして強行出場。結果、見事に最後まで走りきった後ぶっ倒れると云う漫画の展開の様な逸話を残す。
高校3年時のインターハイでは、インターハイの2週間前にバスケットボールの最中にガラスに突っ込み10針以上を縫う怪我をしたにも関わらず、男子100mで8位入賞を果たす。同時に200mにもエントリーしていたが、100mでの無理が祟ったのかこちらは予選落ちしている。
東海大学時代の逸話 苦労人・末續
東海大学在学中、両親の離婚や父との死別などが重なった結果、経済的に陸上競技を続ける事が困難になる。
後にシドニー五輪日本代表、日本陸連の強化指定選手に選ばれ、引き続き陸上を続ける事が可能になる。
しかしその間、食事が玉ねぎ一個だけで済ませたり、深夜3時まで居酒屋の皿洗いのアルバイトをする等、苦境の中で絶え続け練習を重ね、100m及び200mの学生記録を樹立。日本代表・強化指定選手に選出される。
この苦境が、末續をアジアを代表するスプリンターに押し上げたのかもしれない。
関連動画
↓ 日本・アジア記録樹立の瞬間 | ↓ 世界陸上パリ大会での銅メダル獲得の瞬間 |
↓ オリンピックメダル獲得の瞬間 | |
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関連項目
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