- プロ野球選手一覧 > 新美敏
概要
OB | |
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新美敏 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 熊本県宇土市 |
生年月日 | 1952年8月2日 |
身長 体重 |
172cm 79kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1972年 ドラフト1位 |
引退 | 1987年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
PL学園高等学校に進学。同期には新井宏昌がいた。3年時にはエース兼5番打者として夏の甲子園大会に出場し、チームを準優勝に導いた。その後の秋の国体では全国制覇を達成している。
卒業後、日本楽器に入社。池谷公二郎とともにダブルエースとして活躍し、1972年の都市対抗野球大会優勝に大きく貢献。橋戸賞を受賞し、社会人日本代表や社会人ベストナインにも選ばれた。
1972年ドラフト会議にて、日拓ホームフライヤーズ(指名時は東映フライヤーズ)から1位指名を受けて入団。なお、同僚の池谷も広島東洋カープから1位指名を受けているが、エースが二人同時に抜けるのは厳しいということで、池谷の方は入団を保留し、1973年も日本楽器でプレーした後、同年のドラフト会議直前に正式に広島に入団している。
入団初年度の1973年、開幕一軍入りを果たすと、先発ローテーションの一角として起用されながら、時にはリリーフとしても登板。54試合に登板して、12勝13敗、防御率3.65という成績を挙げて、新人王に選ばれた。
1974年、先発陣の軸として41試合に登板して、12勝14敗2セーブ、防御率3.83を記録し、同年のオールスターゲームにも出場。ただ、パ・リーグワーストの25被本塁打・失点99・自責点89と、打ち込まれる場面も見受けられた。
以降は低迷するシーズンが続き、1975年は4勝9敗、1976年は2勝7敗と精彩を欠いた。
移籍初年度の1977年、22試合に登板したが、3勝7敗、防御率6.12と活躍できず。その後は一軍登板数が一桁のシーズンが長く続き、1981年には一軍登板無しと、いつ戦力外通告を受けても不思議ではない立場に追い込まれていた。そんな中、新美は30歳を目前に、若手選手たちとともにアメリカの教育リーグに参加するなど必死にもがいていた。
この努力が実ったのか、1983年、中継ぎ投手として一軍に定着すると、29試合に登板して防御率1.57と抜群の安定感を発揮し復活。5年ぶりの勝利も挙げている。
1984年、登板数こそ16試合と少ないながら、防御率2.11と好成績を残し、セ・リーグ制覇・日本一に貢献。
引退後、古巣の広島や日本ハムで投手コーチを務め、広島でスランプに陥っていた金石昭人の獲得を進言し、復活へと導いた。
その後は社会人クラブチームのWIEN'94で監督を務め、現在はエスプライド鉄腕で監督を務めている。
人物・エピソード
プロ入り時、一部メデイアに新美の発言として「一番嫌いなチームに指名された」と書かれたが、実際には「一番(に)希望していたチームではなかった」というのが正しく、本人は「どこの球団でもOK」という姿勢であった。
通算成績
投手成績
通算:14年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
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NPB | 275 | 20 | 6 | 35 | 52 | 6 | --- | .402 | 868.0 | 296 | 429 | 441 | 405 | 4.20 |
獲得タイトル・表彰・記録
- 新人王(1973年)
関連項目
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