2025年3月3日(月)

絵画のヒストリア

2025年2月9日

 太宰治は、その日の会合への出席をいつまでもためらっていた。

 1939年(昭和14年)9月20日、午後5時半。会場は日比谷公園内のレストラン、松本楼。

 東奥日報東京支社が故郷青森出身の作家や詩人、画家、評論家らに呼び掛けた「在京芸術家懇談会」である。案内をもらいながら出席を迷ったのは、もちろん理由がある。

 芥川賞の落選と薬物中毒による入院、小山初代との心中未遂と離婚。ようやくこの年初めに恩師、井伏鱒二の媒酌で石原美智子と再婚して三鷹に住まいを定めたばかりである。

 貴族院議員を父に持つ津軽の旧家、津島家の末子とあれば、ここはひとつ名誉を挽回して「衣錦還郷」の手がかりとする格好の機会ではないか。否、のこのことそんな場所へ出かければ、郷土の恥という罵言と嘲笑を蘇らせるだけではないか――。

 逡巡のあげくに、妻に命じてとっておきの仙台平の袴を行李(こうり)の奥から出させて、紺絣の着物で家を出た。折からの大雨のなかである。

 おくれて到着した太宰が会場の末席に近い椅子に座ると、出席者の自己紹介がはじまっていた。座長格の秋田雨雀に続いて、あいさつに立ったのが版画家の棟方志功である。

 「青森市大町1番地一号、棟方志功であります。版画をやっております」

棟方志功(1903-1975)See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons

 小柄だが精悍そうで、津軽訛りの声は会場によく響いた。縮れた髪の禿げ上がった顔には分厚いレンズのロイド眼鏡があり、その奥から両の眼が爛々とした光を放っている。

 あいさつの順番が近づくにつれて緊張が高まるから、太宰は卓上に並んだ酒を勝手に飲んで、それを振りほどこうとしたが、すでに酔いが回っている。のちに小説『善蔵を思う』のなかに、太宰はこの場面を描いている。

〈「K町の、辻馬‥‥」というには言った積りなのであるが、声が喉にひっからまり、殆ど誰にも聞き取れなかったに違いない。
 「もう、いっぺん!」というだみ声が、上席のほうから発せられて、私は自分の行きどころの無い思いを一時にその上席のだみ声に向けて爆発させた。
 「うるせえ、だまっとれ!」と、確かに小声で言った筈なのだが、坐ってから、あたりを見廻すと、ひどく座が白けている。もう駄目なのである〉(『善蔵を思う』)

 一方「だみ声」の主の棟方も、同じ場面を『板極道』で回想している。

 〈自己紹介の時、余り声がひくかったので、わたくしに聞こえませんでしたから、「今の方、もう一度、高く言ってください」といいましたが、その、もう一度はいわなかったようでした。その、もの思う節を思わせるようなニヤニヤ感のつよい、青っぽい風貌が、なんとなくわたくしの肌合とあわなかったからでもあったようでした。太宰氏もやはり、私を好かない人間と思ったことでしょう〉

太宰治(1909-1946)(林忠彦撮影, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)

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