「離婚、斬首、死亡、離婚、斬首、生存」。英王室史を学ぶ学生たちは、ヘンリー8世の6人の妻の運命をこのように覚えている。
歴史のなかで、キャサリン・パーはその6番目にして最後の妻としてしか記憶されていないかもしれないが、彼女の人生はイングランド王妃として始まったのでもなければ、そこで終わったわけでもない。優れた学者としての側面も持ったキャサリンは、有能な王妃として王国の未来を形作るのに重要な役割を果たした。(参考記事:「「好色」英国王ヘンリー8世と、6人の妻たちの物語」)
気の進まない結婚
1512年に誕生したキャサリン・パーは、幼い頃から知識と教養を身に着けることの大切さを学んだ。母親のモードは、ヘンリーの最初の妻キャサリン・オブ・アラゴンの侍女だったため、女の子にも学問は必要であると考え、娘にはラテン語、フランス語、宗教学、数学などの教育を施した。
ヘンリー8世と結婚するまでに、キャサリンは2度結婚し、どちらも夫に先立たれている。最初の夫のエドワード・ボロ卿は、結婚から4年後の1533年に死去し、2番目の夫で19歳年上だったジョン・ネビルは、1543年に死亡した。
1542年、キャサリンは母親の後を追って宮殿に入り、ヘンリー8世の娘メアリー王女の侍女になった。そこで、ある男性の姿が目に留まった。王の3番目の妻で1537年に亡くなったジェーン・シーモアの兄、トマス・シーモアだった。美男子でカリスマ性のあったシーモアにキャサリンは魅了され、やがて恋愛に発展する。
ところが、ヘンリー8世がキャサリンに興味を抱き始める。当時、ヘンリーは足の潰瘍と通風に悩まされ、若かりし頃の栄光は見る影もなかった。おまけに、5番目の妻で18歳だったキャサリン・ハワードを斬首台に送ったばかりで、再び独身になっていた。キャサリン・パーを6番目の妻に迎えようとしているのを見た周囲の者たちは、王は妻ではなく看護人を求めているのだろうと考えた。
キャサリンはヘンリーの求愛をうまくかわしていたが、やがて王と結婚することが神から与えられた使命なのではないかと考えるようになった。のちに彼女は、この使命によって「自分自身の意思を完全にあきらめることになった」と書いている。2人は、1543年7月12日に結婚した。
「シーモアではなく王と結婚することで、キャサリン・パーは自分の心を犠牲にして使命を全うすることを選んだ」と歴史家のジェーン・ダン氏は書いている。
キャサリン王妃として
キャサリンは、払った犠牲に見合うだけの成果を上げるため、王室メンバーとしての役割を進んで引き受けた。彼女が王妃として過ごした期間は、歴史家のサラ・グリストウッド氏の言う「子を産む機械という通常の王妃としての機能を超えた役割」を地で行くものだった。
1544年、ヘンリーが3カ月間のフランス遠征に出ていたとき、王国の鍵を任されたキャサリンは、摂政として書類を整理し、顧問官らと協力して国の行政を監督した。また、ヘンリーの2人の娘たちにも女王として国を統治する姿を示したことが、後に即位した2人の役に立っただろうと、古典学者のジャネル・ミューラー氏は指摘する。
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