足利忠綱
時代 | 平安時代末期 |
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生誕 | 長寛2年(1164年)? |
死没 | 建久5年5月6日(1194年5月27日)[1] |
改名 | 王法師(幼名)→忠綱 |
別名 | 又太郎、田原又太郎 |
戒名 | 東国院殿野州大守功山忠綱大禅定門[1] |
墓所 | 京都府宇治田原町、群馬県桐生市梅田町4-6914-1の皆沢八幡宮[1][2]、愛媛県西伊予市歯長寺 |
官位 | 下野守[1] |
氏族 | 藤姓足利氏 |
父母 | 父:足利俊綱 |
兄弟 | 忠綱、赤堀康綱、乙姫 |
子 | 成綱、田原忠広 |
足利 忠綱(あしかが ただつな)は、平安時代末期の武将。鎮守府将軍・藤原秀郷を祖とする藤姓足利氏5代当主。治承・寿永の乱において、平氏方について戦った。
生涯
[編集]足利俊綱の子として誕生[3]。『吾妻鏡』は、忠綱を形容して「末代無双の勇士なり。三事人に越えるなり。所謂一にその力百人に対すなり。二にその声十里に響くなり。三にその歯一寸なり」と記している。また、その体格があってか、先祖同様に相撲人であった。
藤姓足利氏は下野国足利荘[4]を本拠として「数千町」を領掌する郡内の棟梁で、同族である小山氏と勢力を争い「一国之両虎」と称されていた[5]。しかし藤姓足利氏は、忠綱が産まれた頃には新田義重や足利義康により所領を大きく失っており、また久寿2年(1155年)の大蔵合戦によって、同盟であった秩父重綱や源義賢が源義平・新田義重に滅ぼされ、藤原足利氏を取り巻く環境は過酷な時代にあった。
忠綱がいつ頃に家督を継いだのかははっきりしていないが、『吾妻鏡』によると治承4年(1180年)の以仁王の挙兵において、小山氏が以仁王の令旨を受けたのに対し、足利氏が受けなかったことを恥辱として平氏方に加わったという記録がある。忠綱は17歳であり初陣であったというが、一門を率いて上洛し、平氏の有力家人・伊藤忠清の軍勢に加わって以仁王と源頼政を追撃した。
同年10月、宇治川の戦いでは足利一族を率い先陣で渡河して味方を鼓舞し、敵軍を討ち破る大功を立てたという華々しい活躍が『平家物語』に描かれている。その一方で、先祖藤原秀郷より伝来し、祖父家綱や父俊綱より授かった大鎧、避来矢を戦場で見失い慌てふためいたという話も残っており、忠綱がいかに避来矢を大事にしていたか、初陣で緊張していたかが伝わってくる逸話が残っている。
宇治川の戦いの後、忠綱は勧賞として父・俊綱のかねてからの望みであった上野十六郡の大介任官と新田荘を屋敷所にすることを平清盛に願い出て、これが承諾された。しかし他の足利一門が「一族全員が川を渡ったのだから、勧賞を平等に配分すべき」と抗議を行い、撤回となってしまった。巳の刻(午前11時頃)から未の刻(午後1時)までの間の、午の刻のみ上野大介となったことから、「午介」とあだ名されて嘲笑されたと伝えられる[6]。忠綱は恩賞の不満からか東国に戻り、野木宮合戦に至るまでの間、平氏から離反し源頼朝に帰順した形跡が見受けられる[7]。この話の背景には、元々、新田郡含む上野国は藤姓足利氏の所領だったが、新田荘の地主職の新田義重が2代目藤姓足利氏の足利成綱の娘を母としており、足利成綱とその娘が急逝した結果、相続が曖昧となり、新田義重に領主権が渡った経緯がある。祖父家綱、父俊綱は、源義家の一族に新田郡を譲った覚えはないと、度々訴訟を起こしており、忠綱もそれを強く意識していたと思われる。また、新田荘を巡っては、藤姓足利氏は秩父氏の秩父重隆と同盟を結んで、度々新田義重と戦争も行っている。
以仁王の挙兵後、藤原足利氏を取り巻く環境はさらに大きく変化していく。敗走する平家に代わり、台頭してきたのは源義朝の子供源頼朝だった。治承4年(1180年)11月、源頼朝が常陸国の佐竹氏に対して、侵略を開始する。佐竹氏は藤原足利氏とは同盟の関係にあった。[8]佐竹義政は帰服を申し出ようとするが、源頼朝の使者上総広常の騙し討ちに遭い殺害されてしまう。結局、佐竹氏は頼朝への帰順を余儀なくされる。頼朝は敗走する平氏の追討以上に、関東の豪族達や同族の源氏を敵視していた。
さらに、治承5年/養和元年(1181年)になると藤原足利氏と競合しあっていた源姓足利義兼・新田義重が頼朝に帰順し、一門からは佐貫広綱が頼朝の御家人となり、関東圏内の頼朝の支配力が増していく。また、佐位七郎弘助・那和太郎は木曾義仲に従って横田河原の戦いに参戦するなど藤姓足利氏の結束が崩れていく。
寿永2年(1183年)2月、常陸国の志田義広が頼朝を討つべく、鎌倉に向けて兵を挙げる。義広は頼朝とは親戚の関係にあったが、親子同然のように仲が良かった兄・源義賢を源義平に殺害されており、源義平の弟である頼朝とは相いれない関係だった。そんな志田義広と利害が一致したのか、あるいは、大蔵合戦での出来事に思うところがあったのか、忠綱は真っ先に呼応する。次に、義広は忠綱と同族の小山氏を誘うが、小山朝政は味方すると返事をしつつも、騙し討ちを行い、下野国野木宮で合戦となる。(3月18日)。そこには忠綱の叔父戸矢子有綱や佐野基綱、親戚の小野寺道綱などの姿もあった。藤原足利氏の一族は宗家を見限ったのか、あるいは意見が別れたのか、真偽は定かではないが、これをもって藤原足利氏宗家は一族の中からほぼ孤立した状態となった。合戦は突如行われたため、俊綱・忠綱親子は戦いには間に合わず、志田義広は敗走し、忠綱もまた戦わずして敗北することとなった。[9]
敗北した忠綱は上野国山上郷龍奥に籠もった[10]が、その後は郎党・桐生六郎のすすめに従い、山陰道を経て西海へ赴いた(『吾妻鏡』養和元年閏2月25日条)。同年9月、頼朝は和田義茂に俊綱追討を命じ、義茂は三浦義連・葛西清重・宇佐美実政と共に下野国に下った[11]。しかし、俊綱は追討軍が到着する前に桐生六郎に裏切られて殺害されており、藤原足利氏はほぼ滅亡状態となった[12]。その後、頼朝は帰順を条件に忠綱に一部所領を返したとされる。また、忠綱の祖父家綱も許されたのか、大慈寺(栃木県下都賀郡岩舟町小野寺)に俊綱を供養を行ったという痕跡が残されている。
文治元年(1185年3月24日)壇ノ浦の戦いにて平家が滅亡すると、4月11日には頼朝の元にその知らせが届いた。しかし、4月15日に無断任官を行った者たちに頼朝が激怒したと吾妻鑑に記載されており、その中の兵衛尉忠綱という人物が「本領少々返し給うべきの処、任官して、今は相叶うべからず。鳴呼の人かな」と頼朝に侮辱されており、名前、境遇から足利忠綱と思われる。
その後の忠綱は、源姓足利氏の足利義兼を頼って家人となったのか、足利市鑁阿寺などに伝わっている伝承がある。建久7年(1196年)、鑁阿寺に屋敷を構える足利義兼が鎌倉へ滞在中、足利忠綱が鑁阿寺で留守を預かっていたが、足利義兼の妻・北条時子が妊娠したように腹部がふくれてしまった。北条時子の侍女の藤野が、足利忠綱が不義密通を行ったに違いないと足利義兼に伝え、足利忠綱に追手がかかってしまう。足利忠綱には身に覚えのない事だったが、藤野は足利忠綱に振られた腹いせに虚偽の報告を行ったという。(伝承には幾つか変種や相違がある。)その後、北条時子は身の潔白を証明するために自害し、藤野は牛裂きになったと伝えられている。
足利忠綱は鑁阿寺を抜け出す際、天満宮に無実が晴れるようにと祈願を行った後、鞍もついてない馬に乗り逃亡したといい、祈願の時に鞭代わりの藤の枝を地面に差したまま忘れていった。するとその藤の枝は芽吹き、立派な大木となったことから、今でもその天満宮は逆さ藤天神と呼ばれている。また、追手から逃げる際に足利忠綱が落馬したという馬打峠や、足利忠綱が追手に捕まり討たれたという上野国(群馬県桐生市)の皆沢八幡宮など、伝承は多岐に渡る。上皆沢八幡宮は忠綱を祭神としており[13]、皆沢に身を隠していた忠綱は、白犬が吠えたために見つかり討たれたという伝承が残る[14]。無実の罪を疑われ天満宮に祈願を行うというのは、奇しくも、祖父足利家綱が辿った境遇、行動共に全く同じであった。
また、愛媛県西予市宇和町には歯長城という城があり、治承年間(1177~1181)の間に足利又太郎忠綱が築城したと『宇和旧記』『愛媛面影』『予陽塵芥集』などに記述が残っているが、これらは江戸時代の書物であり、伝承の域は出ない。但し、『吾妻鏡』に野木宮合戦の後、西海へ赴いたと記述と合致しており、歯長城以外にも周囲には歯長寺、歯長峠、高智神社など、忠綱の伝承が伝わる史跡が数多く残されている。
その中でも歯長寺には、歯長城で亡くなった忠綱の遺体を埋葬したと伝わり墓が残されており、元応年間に開山の理玉和尚が忠綱の守り本尊である千手観音像を掘り当てたことや、明治二十年代、山門改築時に忠綱墓たる円墳を改めた際、大瓶の棺より頭骸、下顎、歯、大腿、下肢、骨出が現れ巨人の骨格だった。等の伝承が伝わっている。なお、この歯長寺および忠綱の墓は元々歯長城のそばにあったが、昭和35年焼失し昭和42年に移設されており、現在元々の歯長寺の場所には送迎庵見送り大師という名のお堂が建っている。
鑁阿寺に伝わる伝承の忠綱の討ち死は建久7年(1196年)の出来事で、歯長城で忠綱が亡くなったのであれば時系列には矛盾が生じているが、平氏滅亡後、鎌倉幕府に下り足利義兼の元へ身を寄せるが、不義密通の疑いにより逃亡、家人を身代わりとし落ち延び、再び愛媛県西予市宇和町の歯長城に戻ってきたとすれば辻褄は合うが、想像の域を出ない。
足利忠綱が大切にしていた避来矢は、経緯は不明だが佐野基綱(一時的に宗家滅亡後、足利氏を名乗っていた)の手に渡り、以降、代々佐野氏が管理していく。現在は佐野市の唐沢山神社に国宝として保管されている。
史跡
[編集]足利市緑町の福厳寺は忠綱が開基となって父母の供養のため寿永2年に創建されたとされる。また鑁阿寺の近くにある逆藤天満宮には、建久7年に忠綱が無実の罪が晴れるように祈願した際、逆さに指した藤の枝が後に大木となったと言う伝承がある。
脚注
[編集]- ^ a b c d 『田原族譜』第4版 山士家左伝
- ^ 桐生市 2020, 皆沢八幡宮本殿.
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 30頁。
- ^ 現栃木県足利市。
- ^ 『吾妻鏡』養和元年閏2月23日条、9月7日条
- ^ 『源平盛衰記』
- ^ 『玉葉』治承4年(1180年)9月11日条に「介の八郎広常、ならびに足利太郎〔故利綱の子と云々〕等も与力し」とあり、『源平盛衰記』では「足利又太郎」が大庭景親の子を斬首している。
- ^ 『源平闘諍録』。
- ^ “結城市史 第4巻 198P”. 結城市史編さん委員会 編『結城市史』第4巻 (古代中世通史編),結城市,1980.10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9642041 (参照 2024-12-19). 2024年12月19日閲覧。
- ^ 『吾妻鏡』養和元年閏2月25日条
- ^ 『吾妻鏡』養和元年9月7日条
- ^ なお俊綱の滅亡は志田義広の蜂起と同年に起こったとするのが一般的な解釈であるが、『玉葉』養和元年(1181年)8月12日条に俊綱謀反の記事があること、寿永元年(1182年)が『吾妻鏡』最終所見である和田義茂が、寿永2年(1183年)に追討軍を率いることは不自然であることから、義広蜂起と俊綱滅亡は別個の事件とする見解もある。ただし、野木宮合戦の年次自体も『吾妻鏡』では養和元年だったものがその後の研究で寿永2年説が有力になった経緯がある。
- ^ “皆沢八幡宮本殿|桐生市ホームページ”. 2022年8月12日閲覧。
- ^ “桐生市梅田町にあるという田原又太郎忠綱の社について知りたい。また、忠綱の晩年について桐生に伝承等が残...”. レファレンス協同データベース. 2022年8月12日閲覧。
出典
[編集]- 『国史大辞典』(吉川弘文館)「足利忠綱」(執筆:羽下徳彦)
- 須藤聡「下野藤姓足利一族と清和源氏」(所収:田中大喜編『シリーズ・中世関東武士の研究 第9巻 下野足利氏』(戎光祥出版、2013年))
- 山士家左伝 編『田原族譜』東明会、1883年9月。 NCID BA85281841 。
- “皆沢八幡宮本殿”. 桐生市ホームページ. 桐生市 教育委員会管理部 文化財保護課. 2020年1月18日閲覧。
関連項目
[編集]- 避来矢 - ゆかりのあった鎧。