日本残侠伝
日本残俠伝 | |
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監督 | マキノ雅弘 |
脚本 | 永田俊夫、マキノ雅弘 |
原作 | マキノ雅弘 |
製作 | 高木雅行(企画) |
出演者 | 高橋英樹、長門裕之、津川雅彦、南田洋子、伴淳三郎 |
音楽 | 小杉太一郎 |
主題歌 | 木遣り仁義 |
撮影 | 横山実 |
編集 | 辻井正則 |
制作会社 | 日活 |
公開 | 1969年8月9日 |
上映時間 | 95分 |
『日本残侠伝』(にほんざんきょうでん)は、1969年8月9日に公開された日本の映画である。監督はマキノ雅弘。主演は高橋英樹。日活制作[1]。
概要
[編集]東映の「昭和残侠伝シリーズ」等を手がけていたマキノ雅弘が、日活で初めて手がけた任侠活劇である[2]。
女郎役として本作に出演した太田雅子は、日活入社五年目ながら、鳴かず飛ばずが続いたが[3]、本作で出会ったマキノ監督から芸名を梶芽衣子に改名するよう勧められ[3][4]、女優人生の大きな転機となった[2][3][5]。
大正半ばの浅草を舞台にデパートの利権をめぐって、昔気質の一家と新興の一家の対立を描く[1]。
キャスト
[編集]- 中山秀次郎:高橋英樹
- 黒髪の銀次:長門裕之
- 木曽の吾作:津川雅彦
- おせい:南田洋子
- おきみ:山本陽子
- 弘子:岩井友見
- 春代:梶芽衣子
- 銀流しの梅吉 : 川地民夫
- 岩田 : 深江章喜
- 喧嘩松: 郷鍈治
- おおくま : 田中春男
- 弁天徳 : 杉江廣太郎
- 十手亀 : 柳瀬志郎
- オンボロ安造 : 榎木兵衛
- 平公 : 青木富夫
- 村井 : 雪丘恵介
- 橋場の辰吉 : 久遠利三
- 龍神一家子分 : 黒田剛
- 署長 : 小泉郁之助
- おさき : 重盛輝江
- 女郎屋の女将 : 堺美紀子
- お滝 : 新井麗子
- 善公: 桂小かん
- 警官・龍神一家子分 : 荒井岩衛
- 人足 : 千代田弘
- : 小林亘
- 刑事: 伊豆見英輔
- 人足: 高橋明、水木京一、近江大介、瀬山孝司
- キズ竹:晴海勇三
- 人足: 光沢でんすけ、山岡正義
- 龍神一家子分: 北上忠行、榊功、佐藤了一
- おげん: 高山千草
- 長屋住人:深町真喜子
- 所作指導:笛田直一
- 刺青: 河野光揚
- 技斗:高瀬将敏
- 難波市: 葉山良二
- 大場蔵之助: 須賀不二男
- 角芳の旦那:三島雅夫
- 江戸常五郎: 水島道太郎
- 粂之助:伴淳三郎
※以下ノンクレジット
- 龍神一家子分:田畑善彦
- 百貨店専務:八代康二
- 地主: 土田義雄、伊丹慶治、河合英二郎、市原久、久松洪介、伊達満
- 女郎: 牧まさみ
- 江戸常組関係者: 宮沢尚子
- 長屋の住人 : 佐川明子、谷川玲子
- 龍神一家子分: 賀川修嗣、谷口芳昭、前田武彦
- 長屋の住人 : 上原一二三、中庸子
- 警官 : 白井鋭
- 龍神一家子分: 熱海弘到、岩手征四郎
- 刑事 : 山之辺潤一、澄川透
- 警官:池沢竜
- 刑事 : 露木譲
スタッフ
[編集]製作
[編集]赤字続きで、1969年始めに撮影所も売却し、いまにも潰れるのでないかとウワサされた日活は[6][7]、フリーの石井輝男を招聘したり[8]、東映東京撮影所の園田実彦プロデューサーを引き抜いたりした後[8]、この年の夏から製作担当・堀雅彦常務製作本部長が、日活お家芸の"青春路線"を中止させ[9]、「なんでもかんでも東映のマネをしろ」とプロデューサーに厳命し[7][9]、題名から内容まで徹底的に東映作品のマネをした映画製作を決定した[3][7][9][10][11]。マキノは前作『日本侠客伝 花と龍』撮影中に骨折し[12]、無理して撮影したため症状を悪化させ苦しんでいた[12]。このタイミングで日活の堀雅彦製作本部長から、東映の岡田茂企画製作本部長に東映任侠路線の立役者の一人であるマキノ監督[13]の貸し出し要請があり[12]、岡田はマキノが身動き出来ないことを承知で日活にマキノをレンタルした[12]。
キャスティング
[編集]女優が足りないのは、当時の五社共通の悩みであったが[14]、とりわけ深刻なのが日活だった[14]。浅丘ルリ子は他社出演を続け[14]、吉永小百合とは冷戦状態[14]。松原智恵子や和泉雅子といった比較的人気のある青春スターは、テレビドラマで忙しく、とても映画どころではない[14]。"第二東映"とカゲ口を叩かれながらも『儲かることはいいことだ』とばかり、ひたすら任侠路線を突っ走る日活に青春スターの割り込む余地はない[11]。日活としては松原智恵子に、藤純子や江波杏子の向うを張って女賭博師になって欲しかったが、松原に断固拒否された[14]。当時の日活は出演料がいつ貰えるのか分からない状況[14]。テレビはすぐに出演料が振り込まれ、さらに人気を得るにはテレビの方が手っ取り早かった[14]。外人部隊の隊長格だった扇ひろこを招集したのもこうした社内事情からで[14]、脱いで貰えるかを期待して招集した大門節子には「ハダカになりません」ときっぱりと断られた[14]。そんなこんなで仕方なく太田雅子、こと梶芽衣子をヤクザ女優に仕立てることに相成った[14]。また、本作に出演する津川雅彦がデヴィ・スカルノとの不倫騒動でマスメディアを賑わしていたため[14]、津川とデヴィとの共演を画策したが、これもデヴィに断られた[14]。
タイトル
[編集]日活は本作のタイトルに高倉健主演の東映二大任侠ヒットシリーズ「日本侠客伝」と「昭和残侠伝」をミックスさせて『日本残侠伝』というタイトルを付け、タイトルまでパクった[12]。東映の任侠映画のタイトルも岡田が全部付けていたから[15]、これを知った大川博東映社長から怒鳴られた岡田は、マキノに電話を掛けて「その題名で撮るのはやめてくれ」と抗議したが、マキノは「何を云ってんのや、日活に頼まれてわしを女郎みたいに売っというて、日活が作った題名を何でわしにやめろって云うんだ。わしの付けた題名やない。そんなこと、わしに文句付けんで、お前とこで日活に云え」と言い返し[12]、岡田が堀常務に抗議したが「題名を変えることはお断り致します」ときっぱりと言われた[12]。マキノは岡田を苦手にしていたため[16]、しばし溜飲を下げた[12]。マキノは1971年に岡田が東映の社長に就任すると、東映を退社した[12]。
興行成績
[編集]日活は"マネマネ路線"[7]"第二東映"[11]"第三東映"[17]などと陰口を叩かれながら、意外にこれが成功し一時軌道に乗った[3][7][17]。
同時上映
[編集]『姐御』
脚注
[編集]- ^ a b 日本残侠伝 | 映画 | 日活
- ^ a b 日本残侠伝 | WOWOW | オンライン
- ^ a b c d e “日活に女任侠三羽烏 清純派・松原までも 扇、梶に加え"殴り込み"”. 内外タイムス (内外タイムス社): p. 5. (1969年8月31日)
- ^ 「〈ニューズ オブ ニューズ〉 ポストお竜は緋桜のナミで」『週刊読売』1972年2月5日号、読売新聞社、32頁。
- ^ 『日本映画俳優全集・女優編』キネマ旬報社、1980年、188-189頁。
- ^ 土子猛編集「概説 業界動向 概観 日活千番に一番の賭け」『映画年鑑 1970年版』1970年1月1日発行、時事通信社、109–120頁。「映画界東西南北談議 日本映画界の沈滞を破る独立プロの活躍」『映画時報』1974年10月号、映画時報社、29–30頁。「撮影所を打って 映画は作る?日活 組合は反対で社内に不安」『週刊朝日』1969年3月21日号、朝日新聞社、129頁。高木教典「自壊の中の日本映画・その2『腐敗映画を生む経済機構―五社"転落"の過程』」『朝日ジャーナル』1969年3月30日号、朝日新聞社、17-21頁。初山有恒「自壊の中の日本映画・その3『エロとヤクザと観客 ―東映独走のかげに』」『朝日ジャーナル』1969年3月30日号、朝日新聞社、23-26頁。
- ^ a b c d e 「日活"マネマネ路線"に屈した本家東映」『週刊読売』1969年7月25日号、読売新聞社、31頁。
- ^ a b 「ウの目タカの目 王者東映も前途多難」『週刊文春』1969年7月21日号、文藝春秋、21頁。
- ^ a b c 「"貧すれば…"か、日活ヤクザ、ピンクに転向」『週刊朝日』1969年7月4日号、朝日新聞社、113頁。
- ^ “久々古巣でメガホン舛田監督 ヤクザにも"日活の味"”. 報知新聞 (報知新聞社): p. 14. (1969年8月11日)“外部スター依存の強くなった邦画各社 はて?どこの作品...”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社): p. 10. (1969年9月6日)
- ^ a b c 「清川虹子が助っ人 東映やくざ路線」『週刊文春』1969年8月11日号、文藝春秋、20頁。
- ^ a b c d e f g h i マキノ雅弘、山田宏一、山根貞男『マキノ雅弘自伝 映画渡世 地の巻』平凡社、1977年、430-448頁。
- ^ 東映任俠映画を生み出した名監督・名プロデューサーたち - 隔週刊 東映任侠映画傑作DVDコレクション - DeAGOSTINI
- ^ a b c d e f g h i j k l m 「【観客の目】 『女優不足をアノ手コノ手で』」『週刊文春』1969年8月25日号、文藝春秋、20頁。
- ^ 渡邊達人『私の東映30年』1991年、148-149頁。
- ^ マキノ雅弘・山田宏一・山根貞男『マキノ雅弘自伝 映画渡世 地の巻』平凡社、1977年、304頁。
- ^ a b 「ヤングパワーの経営戦略 蘇りを見せた日本映画界 各社の前途に好材料揃う」『映画時報』1969年9、10月号、映画時報社、18–20頁。